あっちも白、こっちも白。
白、白、白、白、白、白、どこもかしも白。
少女の漆黒の瞳に映る、果てしなく続く白。
音もなく、色もなく、意味もなく。
ぽつんと佇む黒髪の少女が、白い空間でただ、ぼんやりと正面を見つめている。
純白の百合のドレスも相まって、肩口で切り揃えた彼女の黒い髪だけが唯一のコントラストとなっていた。
しかし――パキッ、と小気味いい音にその静寂は破られた。
白い壁に亀裂が走り、濃い青の夜空が真っ白なキャンバスに滲んでいく。
「ただいまーっ!」
ベージュのトレンチコートにマフラーを巻いた金髪の少女が亀裂の穴を押し上げて、にゅっと侵入してきた。旅人のような格好の下には、黒いセーラー服にデニムのホットパンツが覗いていた。
「なぁんて、言ってみただけ……」
あてもなく紡いだ挨拶は、思いがけず、黒髪の少女へと届いていた。
お互いに顔をじーっと見合わせ、わずかな沈黙が訪れる。
「えっ……!? 誰っ!?」
金と銀、二色の眼を見開いたまま、声を張り上げて驚く彼女。
それが、白だけの場所で、最初に見た色だった。
「……?」
「び、びっくりしたぁ。ごめんね、誰もいないと思ってたから……」
左の銀眼をきゅっとつむり、困ったように笑った。
黒髪の少女は、相変わらず無言のままだった。
「わたしはリセ。あなたは?」
「……?」
少女は小さく首を傾げたまま、なおも押し黙る。
リセはしばらく反応を伺っていたが、やがて痺れを切らし「ねぇねぇ聞いてる?」と徐々に距離を詰めていった。
「名前、だよ?」
「名前……?」
「そ、名前。あっ、ないんだったら、わたしが付けてあげよっか? ネーミングセンス抜群だから任せといて!」
得意げに語るリセに対して、何かを思い出したのかのようにゆっくりと顔を向ける黒髪の少女。
やがて静かに、そして無機質な声で呟いた。
「滅びの芽……それが私の権能の名」
「ふーん、滅びの芽かぁ……」
リセは腕を組み、中指をせわしなく動かしながら、ほんのわずかに思案する。
間髪入れずに「あっ」と小さく呟いてから、少女の眼前に迫る。
「……じゃあ、メっちゃん!」
「……?」
「メっちゃんって呼んでいい?」
少女がゆっくりと頷く。
自身に対する呼称がどうであろうと、気にしてはいないようだった。
「ほんと? ありがとう! よろしくね、メっちゃん!」
お互いの素性もわからないまま、名前を持たない少女は「メっちゃん」という愛称を得た。
滅びの芽――その言葉が何を意味しているのかを、誰も知らぬまま。
「ところで、お腹空いてない? これからお菓子の家があった世界に行くんだけど、メっちゃんも来る?」
「……ここから出られるのなら」
「じゃあ決まりだね!」
相も変わらず、機械仕掛けの人形のように無表情で佇む芽。
対して、リセは屈託のない笑顔を浮かべていた。
人間味がなさすぎる少女と、人間味がありすぎる少女――二人の旅路は、不格好に引き割かれた裂け目の先へと続いていた。
◇◇◇
青。
見上げた空は雲一つなく、どこまでも、青色が広がっている。
視線を戻せば、一面の緑と茶色。
穏やかな風が木々を揺らす森の中。
それが、白しか知らなかった芽の初めて見た世界だった。
「あっ、ラッキー!」
道の真ん中には、小さなパンくずが等間隔で落ちていた。
誰かが意図的に残したのか、それとも偶然なのか。
「これ絶対、お菓子の家までの道しるべでしょ?」
芽には判断できなかったが、呑気なことを言っているリセの言葉にもまた、一理あった。
二人は地面に落ちているパンくずを頼りに、ゆっくりと歩いていく。
「……なんか、いい匂いがしてきた。メっちゃんもそう思わない?」
その言葉の通り、森全体が甘い香りに包まれていた。
「よくわからない」
はじめて嗅ぐ甘い香り。
芽にとって、それがいい匂いであるかは判断できない。
ただ、胸の奥が少しだけ温かくなるような、不思議な香りだった。
「ふふ、そのうちわかるようになるよ」
気をよくしたリセの足取りはどんどんと軽くなっていく。
上機嫌なリセに対して、芽の様子に変わりはない。
森の中で映えるリセの長い金髪を目印に、芽はひたすらに後を付いていく。
歩くたびに軽やかに跳ねる二束の髪を、芽は興味深そうに眺めていた。
「ところでメっちゃんはさ、ずっとあの場所にいたの?」
「……気が付いたら、あの場所だった」
「へえ、じゃあわたしとお揃いだ!」
「……お揃い?」
「おんなじってこと! わたしもね、あの場所で生まれたんだって! しかも裸だったんだよ? 笑っちゃうよね!」
「裸……」
「わたしもメっちゃんみたいなお花のドレスを着たまま目覚めたかったなぁ……。なぁんて、裸だったおかげで大事なお下がりもらったから別にいいんだけどね。……メっちゃん?」
芽は胸元の花びらへ手を掛けながら、振り向くリセに問いかけた。
「これでお揃い?」
「ちょっ、メっちゃん!?」
肩紐がするりと外れ、花びらで編まれたドレスがわずかにずり落ちる。
「メっちゃん、ここで脱いじゃだめ〜! 確かにお揃いになったけど!」
脱ぎかけのドレスが今にもずり落ちそうな芽に、リセは慌てて駆け寄った。
ドレスを整えてもらってもなお、芽は何がいけなかったのかわからないまま首を傾げていた。
「もー、女の子が人前で簡単に脱いじゃだめだよ」
「どうして?」
「『どうぞ襲ってください』って言ってるようなものだから!」
「それは困る」
「でしょー?」
リセは胸をなでおろし、再びパンくずの道を歩き出した。
一方の芽は、自身の軽率な行動を省みて、周囲を警戒するように木々の間へ視線を巡らせる。
幸い、襲撃してきそうな者の気配は、どこにもなかった。
やがて、地面に落ちていたパンくずの跡が途切れ、辿り着いたのは拓けた空地。
「メっちゃん見て見て! あれがお菓子の家!」
「お菓子……」
森の中にぽつんと建つ、小さな木造のログハウス。
外壁は香ばしいウエハースで覆われ、屋根にはたっぷりのショートケーキのクリームが雪のように積もっている。正面へ続く階段は板チョコレート、その先にはブラウニーを思わせる深い茶色の扉。窓枠にはぷるぷると揺れるゼリーがはめ込まれ、その向こうには色とりどりのお菓子が所狭しと並んでいた。
森に漂っていた甘い香りはすべて、この家から流れてきていた。
芽はしばらく黙ったまま、その家を見つめていた。
自身の内側より湧き出る高揚感の正体を掴めず、ただ、じっと。
「なんかわくわくするよね、さっそく入ってみようよ!」
「わくわく……」
ブラウニーのような扉を開けると、数えきれないほどのお菓子の山が出迎えた。クッキー模様のレンガの壁からはバターの香りが漂い、マシュマロのような白いソファーは、今にも体が沈み込みそうなほど柔らかそうだった。
そんな夢のような空間の中で、ある一画だけ、お菓子が不自然なほど積み上げられていた。
何かを隠すような意志と、まるで見つけてくださいと言わんばかりの違和感が同居していた。
「メっちゃん、これ美味しいよ」
リセはクッキーを頬張りながら、もう一枚をつまんで芽へ差し出した。
手元のクッキーをどうすればよいのか一瞬迷った芽だったが、リセの動きを真似して口の中に放り込む。サクッと軽快な音とともに、今まで知らなかった心地よさが芽の中へ広がっていく。
クッキーを食べ終えた瞬間、芽は奇妙な感覚に襲われた。
先ほどまで確かに存在していたものが、もう二度と戻らない。
それなのに、不快ではない。
むしろ、もう一度味わいたいと思っている。
失ったはずなのに、満たされている。
満たされたはずなのに、また欲しくなる。
この矛盾した感情はなんだろう、という疑問が芽の思考を支配する。
「こっちも食べてみる?」
「食べる」
しかし、リセが差し出したチョコチップクッキーの前では、そんな疑問も些細なことであった。
失い、満たされ、また失うのエンドレス。
クッキーアソートの山をあらかた食べ尽くした芽は、次のお菓子を求めていく。
この家でもっともお菓子が集まっている場所へ目を向けた時、芽は例えようのない違和感を抱いた。
「……なんか、変」
「メっちゃん? どうしたの?」
あれほど欲していたお菓子には目もくれず、芽は山積みのお菓子をかき分けていく。
リセも芽の行動に興味をそそられ、「なになに? 面白そう!」と一緒になってお菓子の袋をどけていく。
お菓子の山の下に隠されていたのは、地下へと続く通路。
その入口付近には一枚のメッセージカードが残されていた。
「『お菓子のダンジョンへようこそ。見事、最後までクリアできた方には幻のお菓子をプレゼントします』……だって!」
「……幻のお菓子」
「なんだか楽しそうだね。行ってみようよ、メっちゃん!」
「行く」
二人は躊躇なく、お菓子のダンジョンが待っている地下の階段を下りていった。
その様子が、何者かに撮影されているとも知らずに。