「条約の正式な調印を前に細かい調整が続いているこの時期に、皇帝陛下がフェザーンでもハイネセンでもなく、オーディンに長逗留しているのは、あまり好ましいことではありますまい」
そんな意見があるのをヒルダは知っていた。だが、今の皇帝ラインハルトになによりも必要なのは、シュワルツェンの館での何気ない日々であることも、彼女は知っていた。
ヒルダはラインハルトに同行してオーディンにきていたが、近年、発熱の頻度が高まるいっぽうだった金髪の青年の表情が生気に満ちたものになっていくのを目の当たりにしているのである。
シュワルツェンの館に皇帝の決済をもらいに来訪して玄関からはみ出る行列をつくる官僚たちや、りんごタルトをつくっていてバターをきらしてしまったアンネローゼのために気軽に買出しにでかける皇帝ラインハルトの警護に振り回される親衛隊長キスリング准将たちのことを思えば、それはそれで同情を禁じ得なくもないのだが。
キルヒアイスは現役復帰にむけてリハビリをはじめ、アンネローゼは快活に館の中を動き回って家事をこなした。
リップシュタット戦役の終盤において発生した、ラインハルトとキルヒアイスのあいだの亀裂について、キルヒアイスの意識回復以来どんなやり取りがあったのかはわからない。明確な謝罪、あるいはそれに準ずるものがあったかも不明である。
しかし、二人のあいだには、もはや、なんのわだかまりも存在していないのだけは明らかだった。
そんな日々のなか、リョーツナッハがラインハルトのもとにおとずれ、自分の結婚を報告した。
「そうか、それはめでたい」
ラインハルトは単純によろこんだが、後日、不穏な噂を耳にした。
「リョーツナッハの花嫁は二十歳になったばかりの、少女といってもいいような娘らしい」
「リョーツナッハは身寄りのない娘を引き取って、自身の求愛を拒めないように追い詰めたらしい」
「リョーツナッハの花嫁は、すでに身ごもっているらしい」
本当だとすれば、とても看過できるはなしではない。
「しかし、あのリョーツナッハが、まさか、そんな……」
美しい眉をひそめるラインハルトに、ヒルダは申し出た。
「陛下、わたくしがリョーツナッハと結婚したという少女に直接、事情を訊いてみたいと思うのですが」
ヒルダはリョーツナッハの住所となっている官舎に赴き、そして帰ってきた。
「陛下、報告申しあげます。リョーツナッハ中将の奥方、マトイーゼ・リョーツナッハは、リョーツナッハ中将を酔い潰し、その、押し倒した結果、身もごったようです」
そう告げられたラインハルトは、悲痛ですらある表情になった。
「……そうか。リョーツナッハが、そのマトイーゼという少女に狼藉を……………………うん?」
「……陛下。リョーツナッハ夫人がリョーツナッハ中将を押し倒したのです」
「うむ。つまり、そのマトイーゼという少女がリョーツナッハに狼藉をはたらいたということ……………………………………うん?」
「陛下。押し倒したのがリョーツナッハ夫人で、押し倒されたのがリョーツナッハ中将で間違いありません」
「それはつまり、リョーツナッハがマトイーゼという少女に酔い潰されたということ………………………………………………うん?」
「いっこうに手をだしてこないリョーツナッハ中将に業を煮やしたリョーツナッハ夫人が、リョーツナッハ中将を酔い潰して、その、ことにおよんだのです」
「フロイライン……フロイライン! つまり、どういうことだ!」
「マトイーゼさんに、それはもう、たっぷりとのろけられた結果、得られた結論です。こうなっては、当人同士の問題かと」
「嘘だといってはくれないのか、フロイライン!」
「嘘でこんなことは申しあげられません」
たしかに、その通りであった。こんな馬鹿げたこと、事実でなければラインハルトに言えまい。
「……もう、なるようになーれ……」
若く美しい皇帝の口から、ちからなくもれでてきたその言葉を、ヒルダは聞かなかったことにするのだった。
リョーツナッハの件が原因でもあるまいが、ラインハルトは発熱し、病臥した。
十何年振りかでアンネローゼの看病をうけたラインハルトは穏やかな寝顔で熟睡したが、次に目をさますと、病床でも執務を続行した。
「ラインハルト、あまり無理しないで。今度はあなたが眠り続けるようになったら、わたしはどうしたら……」
食欲はなかったが、姉の悲しそうな顔を見れば、少しでも食事をとろうとする気力がわいてきた。ましてや、目の前にあるのはアンネローゼの手料理なのだ。
「ケルシーケーキを焼いてくださるようグリューネワルト大公妃殿下にお願いしてみてはいかがでしょう」
看病の手伝いに来た近侍のエミール少年が、本気か冗談か判断のつかないことを言い出して、ラインハルトは苦笑した。
「しかし、さすがにこのままオーディンに留まり続けるわけにもゆかぬな……」
さみしげなつぶやきを、若き皇帝はもらした。
夕刻には熱も下がり、三人は夕食の卓を囲んだ。リハビリの甲斐あって、キルヒアイスは電動車椅子に乗れるくらいにまで回復している。
そこで、ラインハルトはキルヒアイスとアンネローゼにうちあけた。
「実は、首都をフェザーンに移そうかと思っているんだ」
まるで、もう少し広いところに引っ越そうかと思っているんだ、といってるかのような口ぶりだった。それで……、と言葉をつごうとしているラインハルトよりも早くキルヒアイスが宣言した。
「わかりました、ラインハルトさま。わたしも、身体が回復次第、フェザーンに向かいます」
「あら。じゃあ、それまでにお引越しの準備をしておかなくっちゃ」
アンネローゼは白磁のような手のひらを打ち合わせた。
ふたりとも、フェザーンについてきてくれるだろうか。その問いを口にするよりも前に、望んだ答えを贈られたラインハルトは輝くようにわらった。
「住居はこちらで手配しておきます。ご希望があれば、なんでもおっしゃってください。広い温室だって、眺めの良いバルコニーだって、なんだってかなえて見せます」
「あまり無理をしなくていいのよ。わたしはあなたたちといられれば、それで幸せなのだから……」
アンネローゼの言葉をきいて、赤毛の友が、穏やかな笑顔で幸せをかみしめていた……。
「なに! フェザーンへの遷都令が出るだと!」
角刈りの大声がカメアリーン艦橋に轟いた三日後、リョーツナッハは自宅になっている官舎に帰宅した。
「……と、いうわけでな。ワシらもフェザーンに引っ越さなきゃならん」
「えーっ! せっかくレモーネやミカンヌにもあたらしい友達ができたところのに。なんとかならないのかよ、カンキッヒ」
「しょうがないだろう。ワシだってこれからは帝国領も新領土もあちこち回らなきゃならなくなる。オーディンだとなかなか帰ってこれなくなるんだ」
「でも、わたしはすぐにはフェザーンにいけないよ。この子に何かあったら大変だからね」
マトイーゼはふくらみ始めたおなかをいとおし気になでた。
「わかってるよ。本腰入れた引っ越しは、その子がワープに耐えられるようになってからだ」
マトイーゼとは、同居するなりあっという間に遠慮なくものを言い合える間柄になってしまっていた。前妻のカトリーヌといい、そういう女性との相性がいいのかも知れない。
「……まったく。花嫁姿のお前たちに『幸せにおなり』って言うのが夢だったんだがな」
「わたしはお前と幸せになりたいんだよ。そこになにも違いはないだろう! なのに、カンキッヒは歳の差がどうとかグダグダと!」
「いや、言わない言わない! もう言わんよ! ……しかし、どうしてああいうことになったんだかな。どうしても思い出せん。たしか、あの日はマトイーゼが『いつもお仕事ごくろうさま』ってご馳走つくって待ってくれて……」
「も、もういいじゃないか! そんな細かいことは!」
「えーっと、レモーネがおもしろがってワインの栓を何本も抜いちゃって……どれもいいワインだったから、すぐに全部飲み干さなきゃもったいない、てことになって……」
「そうだ、ビール! ビールを冷やしておいたんだ! 外は暑かっただろ! カンキッヒはキンキンに冷やしたビールが大好きなんだよな! ジョッキも冷凍庫で冷やしておいたぞ!」
「それから……だめだ、思い出せん。マトイーゼに何か言われたような気はするんだが……。なあ、いい加減おしえてくれないか。あの夜なにがあったのか」
「バ、バカ! こっちは初めてだったんだぞ! あの夜のことを説明なんてできるか! このスケベ!」
「わかった、わかった! こら! 中身の入った瓶ビールを投げるな! あいた!」