岐阜県岐阜市、清流長良川から僅かに北に行った場所に六階建てのマンションがある。
時間は午後七時五十分、夜の帳が落ち、秋の涼しげな風が堤防添いに緩やかに流れていた。
そのマンションの五階、ワンフロアに六部屋ある内の丁度真ん中あたり、五階では唯一明りが灯る部屋のベランダに一人の男がいた。
年は二十を少し過ぎたほど。
髪は短くはないが、よく手入れされ清潔感があり、やや切れ長の目は、どこか知的さを醸し出している。
職業はフリーの物書き、主に手掛けるのは民俗学や歴史に紐づけた地域振興物、という事だ。
部屋からの明かりが漏れ、まぶしくない程度には明るいそのベランダに、蛍の光が灯る。
いや、蛍ではない、最近は肩身が著しく狭くなったタバコの明かりであった。
男は、口から紫煙をゆっくりと吐き出すと、優しげな、それと同時に寂し気な視線を南へと向ける。
男の視線の先には、後十分ほどでライトアップが終わる岐阜城の荘厳な姿があった。
男はトントンと持っていた携帯灰皿に灰を落とすと、ゆっくりと、それでいてからかう様に口を開いた。
「なあ、あんたはそこから何を思ってこの街を見ていたんだい?」
男は自然に、まるで誰かが隣にいるかのように言葉を紡ぐ。
だが、この場には誰も居ない。
それどころか、このマンションの五階には男一人しかいない。
男の言葉は織田信長、約460年程前にこの地から日本全土に手を伸ばした者へと送られていた。
当然答えなど帰っては来ない。
そんな当たり前な事は解っている。
解っているはずであった。
「そんなに聞きたければ、本人に聞いてみたらどうじゃ?」
男の隣、乱暴な言い方をすれば背後から女の声が言葉を返してきた。
それも、すこぶる楽し気に。
それと同時にからかう様に。
男の心臓は一瞬その鼓動を止めるかのように大きく跳ねた。
ここはマンションの五階。それもベランダ。簡単に侵入出来る場所ではない。
隣に住んでいる住人は、両部屋とも夜勤の男性。ついでに言うならば、まるっきり女っ気は無い。
ならば、女の声の正体は幽霊や物の怪の類である事が推測された。
ついでにこの男、いつもはクールな雰囲気をまとっているが、実際の所その内面は非常に意地っ張りなのである。
だからこそ、謎の女の声に冷静に言葉を返した。
幽霊や物の怪の類に対して、決して驚いてなどやるものかと言う負けん気のみで。
「なるほど……それはいい案だな。出来ればお願いしたい。そうすれば、俺も一端の物書きを名乗れると言う物だ」
男は言葉を紡ぎながら、声の主へと視線を向けた。
とびっきりの悪党の笑みを浮かべながら。
だが、その視界に女の姿を留めた瞬間、男の心臓は再び大きく跳ねる。
それほどの美貌がそこにいた。
キラキラと輝く金色の髪。
それと同色の、どこか人懐っこさを醸し出す瞳。
いたずらっぽく、それでいて妖艶な笑みを創るその唇。
嘘や冗談ではなく、世の美と言う物を形創ればこうなると言う見本の様な美女がそこに居た。
ただ、人との違いを述べるなら、その頭頂部から延びる一対の耳。細長く伸びた獣、狐の耳と、その豊かな臀部から生えるふさふさの稲穂の様な尻尾。
「狐……か?」
男は何とか言葉を絞り出す。
目の前の女は先程よりも楽し気に微笑むと
「正解じゃ。よう解ったのう。ほめてつかわすぞ」
茶化す様に、そう言葉を返し。言葉と同時にけらけらと笑う。
こんな態度を取られては、普通であるならば不快に感じるのだろうが、それすらもチャームポイントに見えてしまう不思議な女であった。
たった数言の言葉のやり取りだが、男の中からは恐怖や不安などと言った怪異に対しての警戒感は一切無くなっていた。
それがこの狐の怪異の能力なのか、それともこの娘と言ってもいい程の容姿をした女の本質なのかは判らないが。
「で? 俺は信長公に会えるのか?」
男は改めて議論の最初へと問いを戻す。
狐の怪異は、「そうじゃった」と邪気の無い笑みを浮かべた。
「まあ、わらわの力を持ってすれば、会うことはできる。しかし、しかしじゃ、会話をするのは、ちと難しいかもしれんのう」
そう言いながら、いたずらっ子の様な笑みを浮かべ、狐の怪異は男へと体を寄せる。
まるで、その位置に自分がいるのが当たり前であるように。
「なかなかの謎掛けの様だな。見えてはいるのに声をかけれんとは。まるで…………ぬらりひょんの様だ」
男は強がりながらそう言った。
ぬらりひょんの怪異とは、少し解釈違うが、まあいいだろうと言う思いを込めながら。
男の言葉を聞いた瞬間、狐も怪異の耳がぴくんと跳ねた。
いと楽し気に、それと同時に懐かしさを映す様な表情で笑いだした。
「ぬ、ぬらりひょん、とな? けっさくじゃ! ここでそれを聞くとは思わなんだ」
けらけらと笑う狐の怪異。
その様子を見、男も笑みを浮かべる。
「で? どうするのじゃ? 会うのかや? 会わんのかや?」
狐の怪異が話題を戻す。
男は僅かに逡巡し
「いいだろう。会ってみよう、信長公に」
そう答えを出した。
「そうかや。お主ならば、そう言ってくれると解っておったぞ」
狐の怪異は、そうほっとしたように言葉をつづる。
そんな表情をしたのも一瞬
「では、いくぞ」
言葉と共に、狐の怪異は男の胸をトンと押した。
瞬間、本来ならば柵があるはずのベランダから、男の体は真っ逆さまに落ちていった。
「あとは、これじゃな」
そう言って狐の怪異は、まるで知っていたかの様にリュックを手に取ると、ポイと虚空へと放り投げた。
「行ったか…………むこうで小さいわらわに優しくしてくりゃれ…………お前様」
そう言った狐の怪異の表情は、少し寂し気であった。