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「…………うん」
ジージーと言う蝉の大合唱の中、男は目を覚ました。
右手で目を擦すろうと腕を上げた瞬間、男の背筋に冷たい物が流れた。
その理由とは、右手を上げた瞬間、ガサリと言う音と微妙に硬い感触によって。
その硬い物が体に触れた瞬間、音を脳が判断するかどうかと言う一瞬で男は体を起こし目を開ける。
「なんだ! な、ん、だ……」
最初の言葉は威勢が良く発せられたが、視界に移る世界を理解するに従い言葉が出なくなっていく。
自分は岐阜のマンションにいたはずだ。
それも夜。
そして、季節は秋だった。
しかし、目に映る光景は、森の中。それもあまり手入れがされていない様な森。
時間帯は太陽の加減から昼。そして季節は……夏。
今の状況を説明しようとすれば、何とか出来る。
場所が違うのは、あの狐の女の仲間に拉致されたと言う可能性。
次に時間の経過は、ただ単に男が意識を半日ほど失っていたから。
しかし一つだけ、そう一つだけ説明が出来ない事が残った。
そう季節である。
一年程意識を失っていたと言う可能性もあるにはあるのだが、体の具合を鑑みるに、それほど長く眠っていたとは考えづらい。
「
頭がこんがらがっているのだろう、
自分で言って恥ずかしくなったのか、男はピシャリと頬をたたいた。
「まあ、色々と推測は出来るが、あの怪異の言葉を信じるならば、ここは戦国の世、と言う事になるのか?」
そういった瞬間、一番疑問に思わなければならない事を思い出す。
「と言うか、ここ何処だよ」
頭を掻きながら言葉を口にする。
瞬間、嫌な怪異譚が頭をよぎった。
「まさか、広島って事はないよな……」
“古いお寺である男が寝こけていると、周りが騒がしくなったと言う。
薄目を開けて周りを見ると、鬼たちが酒瓶を片手に集まって来た。
その中の一人の鬼が、自分をのぞき込み
『わしの席に、真新しい御本尊が居る』
と妙に訛った言葉で誰ともなく話しかけると、その男を摘み寺からポイッと投げ捨てた。
夜が明け周りの気配がなくなったのを確認した男は驚愕した。
関東近辺に居たはずなのに、鬼に投げすてられた場所は今の広島のあたりであったと言う”
そんな怪異譚を思い出しながら、男はやれやれと周りを見渡した。
自分の頭の上、位置としては山の頂上の方角にそれはあった。
黒いナイロン素材で出来たリュックサックである。
諦めなのか、ため息を吐きつつリュックの中身を確認すると、なんともまあ呆れるほど良く用意された物であった。荷物の中には、以前海外に行った時に念の為に持って行った虫下しまであった。
「あの狐……用意万端じゃねえか」
そう言って本日何度目かの溜息を吐いた。
その呼吸と呼応するかの様に、左側の茂みがガサリと音を立てる。
瞬間、身体が硬直し冷汗が一筋流れる。
野生動物? ここがあの狐の言う通り戦国の世なら山賊の類も考えられる。
『あんの狐娘ェ』
最早男の中では、美の欠片もない程に狐娘の地位は下落していた。
そんな事を考えている時間、おそらく数十秒も無かっただろう。
逃げるか向かうか。
男は決意し向かう事を選択した。
理由は一つ。襲うならば、とっくに襲って来ているだろうと言う憶測からである。それが野党であろうと熊であろうと。
ゆっくりと、それでいて慎重に男は茂みへと手をかける。
カサカサと乾いた音を立てて、茂みは左右に分かれていった。
「みぃ」
目当ての物はそこにあった。
いや、居たと言った方が正しい。
茂みの脇に弱弱しく丸まった小さな生き物が……
「毛玉? いや、ポメラニアン、か?」
男は見たままをつぶやいた。
しかし、妙な違和感もあった。
もし、ここがあの狐娘の言う通り戦国の世ならば、ポメラニアンなどいるわけがないのだから。
男は静かに目の前の毛玉を観察する。
そして、嫌な思いと共に溜息を一つ吐いた。
溜息の理由は一つ。毛玉の正体が子狐であった事。
狐の二連発。思わず飽き飽きと言う気分から溜息が漏れた。
そして、嫌な思いの理由。それは、子狐が罠に掛かっていた為である。
「こんな事をしなくても……」
そこまで言って男は気づいた。
自分はつくづく現代の都市部近郊の人間なのだと。
「そりゃまあ、畑を荒らす動物がいるんだ、罠ぐらい仕掛けるよな」
そうつぶやきながら、男は子狐を捉えた罠を解きにかかる。
罠は至って単純で、トラバサミの様な凶悪な代物ではなかったのが幸いであった。
絡まっていた紐を解き、子狐を開放する。
だが、歩き出した子狐は弱弱しく、左の前足を使おうとはしない。
男は子狐を抱き寄せると、左の前足を注視する。そこには、すれた様な傷があった。
「これが原因か」
男は子狐を抱き、空いた左手でリュックを探る。
傷薬はあった。ガーゼの様な物もある。
だが、それを固定するひも状の物は一切入っていなかった。まるで狙ったかの様に。
「仕方がないか」
そう言って男は自身の首に掛かったドッグタグを外す。
これは、田舎の家から独り立ちする時に、祖母が送ってくれた物である。何処で野垂れ死んでも身元が分かるようにと。
まったく物騒な思想であるが、祖父よりもまともと思える思想である。ちなみにだが、祖父の近所でのあだ名は“人切り弥平”。
まあそれは置いておいて、男はドッグタグの革紐を外し子狐の傷を手当していった。
「暴れるな」
そうぼやきながら男は手を動かす。
その間子狐は、男の名が刻まれたプレートで遊んでいた。
「よし終わった。そろそろそいつ(プレート)を返してくれないか?」
「みゃ」
優しく言った男に対し、子狐はそっぽを向く。
「返してくれないか?」
「みゃ」
「返せ」
「みゃ」
「か・え・せ」
「みゃーあ」
何度言ってもダメである。
男は一つ溜息を吐いた。
まあ、ドッグタグの変わりは、年齢の数だけあるので一つくらい無くなってもいいのだが。
しかし、なぜか男には、ここが人生の分かれ目に感じた。
しかしそれも一瞬の事、気の迷いだと忘却の彼方へとおいやった。
「わかった。そんなに気に入ったのならくれてやる。大事にしろよ」
「みゃ? みゃうみゃう」
男の言葉が分かったのか、子狐は何度もうなづいた。
それと同時に、コテンと男の胸に転がりこんで来る。
それを見つめた男は、野生の動物にしては珍しい事だと思いながら、気を紛らわす様に子狐を撫でまわす。
「ほーれ、ほれ」
「みゃうみゃう」
子狐はへそ天で寝ころび、ぽってりしたお腹を撫でられている。
しばらくそうやって遊んでいたが、男は喉の渇きを覚えた。
「さてと、いつまでも遊んでいられないなぁ。子狐、達者でな」
男はリュックを担ぐと、山を滑る様に下っていった。
しばらく山を下った時、背後から声が聞こえた。
「みゃみゃうー!」
聞き覚えのある鳴き声。男は足を止め振り返る。
瞬間、男の視界は生暖かい温度と共にブラックアウトした。
なんて事はない、子狐が張り付いたのだ。
「どうした?」
男は子狐を引き剝がしながら問いかける。
「みゃうみゃうみゃう!」
男の問いかけに、子狐は手足をバタつかせ抗議の意を表す。
そうは言っても、人間に狐語は解らない。
解らないが、判らないなりに意思疎通を図ってみる事にした。
「なんだ? ついてくるのか?」
「みゃ!」
男の問いかけに、子狐はサッツと右手を上げる。
どうやら、ついて行くと言う意思表示の様だ。
男は少し悩むが、心細いと言うのも本心であり、たかだか子狐であっても、そばにいてくれるのはありがたいことであった。
しかしこの男、なんと言うか底意地が悪いのである。
いらん言言いと言うか、時々一言多いのだ。
「おい子狐」
「みゃ?」
「お前みたいなヤツを何て言うか知っているか?」
「みゃーう?」
子狐は首を傾げる。
解らない、と言う意思表示の様だ。
男は子狐の行動を見ると、意地の悪い笑みを浮かべると
「押し掛け女房って言うんだぞ」
そう言ってほほ笑んだ。