転生したら結城丈二(♀)だったのでプルトンロケットを回避したい! 作:青葱小口切り
目が覚めてから、俺は何度も右手を握った。
頭の中では、五本の指がきちんと掌へ食い込む。爪が当たる位置まで分かる。人差し指の第二関節が一番先に曲がって、小指だけがわずかに遅れる。ペンを持ちすぎた手の癖だ。
視界の中の金属は、一ミリも動かない。
包帯の先には、失った右腕と同じ寸法の義肢が横たわっていた。
形だけは俺のものなのに、まだ俺の動きを知らない。
握った感覚だけが、行き場をなくして肩のあたりに溜まっていた。
「結城さん」
片桐が監視装置の数値を書き取りながら言った。
「動かそうとされていますね」
「……分かるのか」
「左肩が毎回、同じ角度に上がります」
見られてたのかよ。
「作動系はまだ切ってあります。神経信号は届いていますが、通電はしていません」
「信号が届いているなら、指一本くらいは」
「動くかどうかと、今動かしていいかどうかは別です」
片桐が手順書の頁をめくる音がした。自分で書いた二十七ページに、自分で書いた条件で止められている。
「移動はできる」
「移動していい数値ではありません」
「体感では問題ない」
「体感は項目にありません」
血圧、出血量、接続部の温度。片桐は三つを順番に読み上げて、それで却下の理由を全部済ませてしまった。反論の材料が、俺の体から一つも出てこない。
逃走計画の最終決裁者が、俺の血圧になっている。
あと何時間だ、と聞きかけて、やめた。聞いたところで、『六時間』のうちどこにいるかは片桐の手元の記録が知っている。俺の主観は、この件について発言権を持っていない。
天井の照明を見ながら、指を握る。何度も。何度握っても、金属は静かなままだ。
六時間が終わったとき、片桐が確認したのは四点だった。出血が基準内。接続部の発熱が安定。神経信号が届いている。電源系統に異常なし。
「移動できます」
「作動試験は」
「移動先で行います。ここでやる項目ではありません」
正しい。ぐうの音も出ないほど正しい。俺が書いたからだ。
***
書類の上では、まだ正規の試験時間内だった。
だから俺たちは、普通に手術室を出た。台車に機材を積んで、通路を歩いて、認証を通す。すれ違った警備員が敬礼をする。
書類の上で正規なら、右腕を失った主任研究員が機材一式と外へ出ても、誰も止めないらしい。
おかげで俺は右腕を持ち逃げできるわけだが、そんな穴だらけの組織が描く人類の未来を信じていた結城丈二のことを思うと、なかなか複雑な気分になる。
搬出口に、片桐が用意したワゴン車が停めてあった。
荷物は多くない。ヘルメット、強化服を収めた制御ベルト。ロープアーム一基、調整器材と監視機器。それに手順書と私物が少し。
どれも結城丈二が義肢の試験用に作っていたものだ。戦闘用として完成した装備ではない。
それがいま、逃亡用の荷物に収まっている。設計者が見たら何と言うだろうか。……いや、その設計者俺なんだよな。
後部座席に横になると、天井の内張りが揺れた。片桐が生体監視機器の位置を直して、運転席へ回る。
基地の照明が窓の外を流れて、途切れた。
しばらく走ってから、片桐が前を向いたまま言った。
「移動先をお伝えします」
「ああ」
「妹の家です。幸江と言って、看護婦をしています」
知っている。
画面の中で見た。これから何が起きるかも、断片的にだが知っている。
それでも俺は、天井の内張りを見たまま「そうか」とだけ答えた。今まで抱えてきた嘘の続きだ。知らないことにしておくのが、今のところ一番安全な嘘だった。
***
夜明け前の住宅街に、その家はあった。
玄関の灯りが点いていて、扉が開く前から人が待っていたのが分かった。
「兄さん」
出てきたのは上着を羽織った女性だった。よく見ると片桐と目元が似ている。
片桐が口を開いた。電話では伝え切れなかったことを説明するつもりだったのだろう。右腕を切断したこと。試作機を接続したこと。その執刀を自分が担当したこと。妹に伝えるべき順番を、あの生真面目な男は道中ずっと組み立てていたはずだ。
幸江さんは、その口上を最後まで聞かなかった。
右袖のない白い衣装を見て、肩から先の包帯を見て、その内側から滲んだ赤を見た。それで終わりだった。
「兄さんの話はあとで聞きます。まず、その人を寝かせて」
片桐の説明は、一文字も使われないまま解散した。
俺は上体を起こしかけて、慌てて名乗った。曲がりなりにも初対面である。
「結城丈二です。ご迷惑を——」
「挨拶はあとで。熱を測らせてください」
この家では、話も挨拶も全部あとに回されるらしい。じゃあ今なにが先かというと、俺の体温である。
兄の事情より、俺の素性より、体温が先。
ただ順番が違うだけなのに、なんでこんなに落ち着かないんだ。
***
奥の部屋へ通されて、敷かれたばかりの布団に寝かされた。
片桐が二十七ページの手順書を差し出す。幸江さんが受け取って、最初の頁を開いた。
患者名、結城丈二。
設計責任者、結城丈二。
術後管理責任者、結城丈二。
その三行を、幸江さんはしばらく見ていた。
それから必要な頁だけを確認して、顔を上げた。
「今日の術後管理は私がします」
「私は自分の状態を——」
「患者名の欄と管理責任者の欄が同じ人です。片方は今日、休んでください」
助けを求めて片桐を見た。
「そのほうがいいと思います」
この裏切り者! いや、俺が先にデストロンを裏切ってるから、人のことは言えない。
幸江さんの手は、一つずつ声をかけてから動いた。
「右腕を少し持ち上げます。痛かったら言ってください」
金属の重さが、支えられて浮いた。
「接続部の温度は基準値内です」
「温度ではなくて、痛いかどうかです」
言葉に詰まった。
痛いかどうか。そんなものは項目にない。手順書には数値になるものしか書いていない。書いたのは俺だ。俺は自分の体の管理計画を二十七ページも書いておいて、痛いかどうかを一行も入れなかった。
「……少し、痛みます」
「はい」
幸江さんは、それを紙に書いた。数値の欄ではなく、余白のほうに。
***
処置が終わる頃には、片桐は完全に消耗していた。
執刀して、記録を取り、一晩中監視したあとそのまま運転してきたのだ。むしろ今まで立っていたのがおかしい。
「兄さん、座って」
「まだ記録を——」
「座って」
妹に押し切られた片桐は、椅子に座った十分後には眠っていた。
背筋を伸ばしたまま、顎だけが少し落ちている。膝の上の手がゆっくり滑って落ちかけた。幸江さんが毛布を掛け、その手を膝へ戻す。
俺はそれを、布団の中から見ていた。
この男は、俺を助けたせいで怪人に襲われて死ぬはずだった。
今は、妹の家の椅子で寝ている。
ゆっくりと呼吸をしている。それだけのことが、報告書にも数値にもならないまま、部屋の隅で起きている。
俺は何も言わなかった。言うことがなかったからだ。
***
昼近くになって、幸江さんが服を持ってきた。
白い衣装は右袖が肩から切り落とされて、血が乾いている。洗って戻ってくる類のものではないし、そもそもこの服には胸元に大きなサソリが付いている。絵に描いたような不審者の制服だ。
「これ、着られますか」
差し出されたのは、前開きのワンピースだった。落ち着いた色の、ゆったりした日常着。特別なものではない。街を歩く人が普通に着ている服だ。
……あ、まずい。
右腕を切った翌朝に、ワンピースが来るとは聞いてない。
いや、着られるかどうかの話じゃないんだ。着られる。物理的には着られる。問題は、これがこの体にとって何年ぶりかの支給品ではない服だということと、男としての俺の自意識だ。
「動かしますね」
考えている間に処置が始まった。
右肩には包帯と接続部がある。当然、普通に袖は通らない。幸江さんは右袖の脇の縫い目を少しほどいて、金属腕を支えながら布を肩へ通し、通したあとで仮留めした。
糸を切る、小さな音がした。
服のほうが俺の体に合わせて形を変えた。装備庫の奥で、指先を折り込んで縫い留めた古い手袋を思い出す。あれは働くための直し方だった。
これは、休むための直し方だ。
着替え終わって、俺は妙に姿勢を固くしていたらしい。
「動きにくいですか?」
「いえ……動きにくくは、ないんです」
自分でも情けない答え方だった。
服が嫌なわけではない。初めてのスカート姿には落ち着かなさがあるが、清潔で、柔らかくて、体を締めつけない。
ただ、好意には着方が分からなかった。
部屋の隅の鏡に、自分の姿が映っている。
借り物のワンピース。ほどかれて仮留めされた右袖。そこから出ている女性型の金属腕。血色の悪い顔。
鏡の中の人は、普通の服を着ていた。それだけだった。
***
幸江さんが白湯を持ってきて、盆を布団の脇に置いた。
湯呑みを右側へ置きかけて、金属腕を見て、左側へ置き直す。
一秒もかからない動作だった。
「……ありがとうございます」
それしか言えなかった。ほかに何を言えばいいのか、本当に分からなかったのだ。
昼過ぎ、片桐が目を覚ました。顔色はまだひどいが、数値を確認する手つきは戻っている。接続部の発熱は残っているものの、経過は基準内。
三人で初回動作試験の準備に入った。
やることは拍子抜けするほど小さい。作動系へ通電する。指を一本だけ動かす。開閉角度を確認する。神経反応と発熱を見る。異常がなければ、次の指へ進む。
物を持つ予定すらない。戦うなんて工程表のどこにも書いていない。
「通電します」
片桐が作動ロックを外した。視界の端に、小さな表示が一つ灯る。
その手が次の調整器へ移る前に、家の外で何かが軋んだ。次の瞬間、窓の外を異様に長い首が横切る。
あの首を。あの頭を、知っている。技術審査の予定表で、上から三番目にあった名前だ。俺だけが審査から外された一体。あの怪人が完成する頃、結城丈二は右腕を失う。そういう予定表だった。
カマクビガメ。
怪人カレンダーの最後の一枚が、向こうから片桐家まで来た。
深夜の試験は、終了報告が上がらなかった。研究員二名の所在も不明。そこまで揃えばデストロンもさすがに気づく。あとは片桐の人事記録を開くだけだ。出身地。実家。家族構成。妹。
俺が来たから、この家が見つかった。
「結城丈二。片桐二郎。裏切り者は出てこい」
嗄れた声が、庭から響いた。
「持ち出した試作装備をただちに返却しろ。組織の財産だ」
窓へ寄って外を見た。門の内側にも外にも、戦闘員が立っている。裏へ回った影もある。
「幸江さん、裏口から——」
幸江さんが台所の方を見て首を振った。裏の窓の向こうにも、黒い服が動いている。
塞がれている。
そう理解すると同時に、玄関の戸が蹴破られた。戦闘員が三人、土足で上がり込んでくる。
先頭の一人が、手前にいた幸江さんへ手を伸ばす。
考えるより先に、体が動いた。
頭の中で、俺の右手が伸びる。指を開いて、相手の腕を掴む。爪が掌の内側へ当たる、あの感覚のとおりに。
一瞬遅れて、視界の中の五本の金属指が閉じた。
握った。
ずっと肩に溜まっていた握った感覚が、ようやく行き先を見つけて金属の指まで届いた。頭の中の右手と、現実の右腕が、初めて同じ形をしている。
「その人から離れろ」
押し返した。出力調整も何もしていないから、動きはひどく雑だった。戦闘員が壁まで吹き飛んで、柱がまとめて鳴る。
肩の奥に焼けるような痛みが走る。包帯へ新しい赤が広がっていくのが、袖の隙間から見えた。
初回動作試験の項目に、戦闘員を掴むとは書いてない。
庭から長い首がぬっと入ってきた。カマクビガメがこちらを覗き込んでくる。
「その腕がデストロンの試作兵器だな。返してもらうぞ」
「返却するものはない」
「その腕はデストロンの物だ」
金属の指を、もう一度強く閉じた。
「違う。これは私の右腕だ」
自分の口が言った言葉に、内心の俺が一拍遅れて頷いていた。
正直に言えば、俺には奪われた恨みが正しく積み上がっていない。元の右腕は、硫酸で溶かされる前に俺が切ってもらった。復讐するには順番がずれている。
それでも腹の底が熱い。この体の人生も、新しい右腕も、そこで眠っていた男の命も、全部お前たちの資産として数えるな。
俺の腕を、勝手にお前たちの物にするな。
***
「幸江さん、車の準備を。医療鞄と、持てるだけの荷物を」
「あなたは?」
「あとで説明します。片桐、ロープアームを頼む」
片桐が装備ケースを開けた。
通常手型ユニットの接続を外し、ロープアームを差し込む。金属の噛み合う音がする。
この装備は、まだ二人いないと完成しない。
「接続、確認します」
片桐がロックを押し込み、実際に引いて固定を確かめた。
「接続、完了しました」
「分かった」
この男は、俺を助けて死ぬために残ったんじゃない。装備を完成させる担当者として、隣に立っている。
ヘルメットを被ると、外の音が一段くぐもった。
制御ベルトの作動子を左手で押し込む。ベルトに収められていた強化服が腰から上下へ展開し、借り物のワンピースの上から全身を覆っていく。柔らかな布の感触だけが、装備の下に残った。
視界の端にロープアームの接続表示が灯る。
義肢を安全に評価するために作られた一式が、いま実戦へ出ていく。
初稼働、初換装、初実戦が同じ工程表に入っている。安全規格はどこへ行ったんだよ。
今はとりあえず、戦闘員もカマクビガメも倒す必要はない。片桐たちの車が角を曲がるまでここを塞げばいい。
ロープを門柱へ回して、庭を横切る形で張る。走り込んできた戦闘員の脚がまとめて掛かった。裏へ回った一人はロープを巻きつけて引き倒す。門扉を引き寄せて、勝手口へ向かう幸江さんの側面に立てかける。
右腕の出力は高い。問題は、その反動を受け止める俺の全身のほうだった。ロープを使うたびに、肩と脇腹へ返ってくる。歯を食いしばるたび、包帯の下が熱を持つ。
幸江さんが医療鞄を抱えて車へ走り、途中で足を止めた。
「その体で残るつもりですか?」
「追われているのは私です。二人が離れれば、奴は私を追う」
保証はどこにもない。今はそれしか言えなかった。
片桐が運転席に入り、幸江さんが助手席の扉を閉める。
その瞬間、カマクビガメが甲羅の縁から小さな亀を掴み出して、車へ投げた。
勢いよくロープを振るう。ロープの先が、子亀の甲羅を滑った。
——間に合わない。
腕を返してもう一度巻きつけ、今度こそ引っ掛ける。そのまま腕ごと振り抜いて、車から離れた植込みへ叩き落とした。
爆発が起こる。爆風が強化服を叩き、黄色い煙が庭を横切って壁を作った。
毒ガスが俺と車の間を遮っていく。
俺が確認したのは三つだった。片桐が運転席にいる。幸江さんが助手席にいる。車が角を曲がって、見えなくなる。
それで勝ちだ。
***
カマクビガメが、煙を突き破って首を伸ばしてきた。
ロープを首へ巻きつけ、道端の電柱へ固定する。引き剥がされるまで数十秒。その間にロープを伸ばして走る。塀を越え、路地を折れ、片桐たちが向かったのと反対の方角へ。
カマクビガメは姿勢を低くして追ってきた。速い。直線で競ったら十秒で捕まる。
街路樹へロープを掛けて、急角度で進路を変える。標識の柱を支点にして、体ごと横へ振る。追いつく寸前で軌道が折れるたび、あの長い首が空を切った。
最後に崖上の柵へロープを掛けて、斜面の雑木林へ飛び込んだ。
枝が強化服を叩き、体が転がって止まった。
背後で太い枝の折れる音がする。追跡を外せたのは、ほんの数十秒だろう。
接続部が発熱している。包帯の下で、また出血している。強化服の警告表示が視界の端で点滅している。呼吸がまったく整わない。
初変身には成功した。完成された戦士には、まるでなっていない。
***
斜面を這い上がって、舗装された道路へ出た。
遠くで爆発の音がして、黄色い煙が住宅街の方から昇っている。
人の気配に、思わず顔を上げた。
道の真ん中に、赤い仮面の男が立っている。
白と緑の体。たなびくマフラー。緑の複眼が、こちらを見ている。
息が勝手に抜けた。
ここまで、確かなことは何もなかった。原作知識が当てになる保証も、自分で右腕を切る判断が正しい保証も、片桐を巻き込んだ結果が正しい保証も、幸江さんを守り切れる保証も、何一つ。
でも、あの仮面だけは確かだと知っている。あの人が立っている限り、悪は必ず倒される。俺がずっと画面の向こうで信じてきた、正義の味方がそこにいる。
本物のヒーローが——仮面ライダーV3が、来てくれた。
全身から力が抜けて、俺は膝をつきそうになった。
……いや、待て。
まだ安心するな。職務質問される側だぞ、俺は。
向こうから見えているものを数える。デストロン製らしき装備。右腕だけが機械の改造人間。戦闘直後で、息が上がっていて、素性は不明。
全部、怪しい。
案の定V3は構えを解かずにいる。低い声が道路の上を渡ってきた。
「……誰だ、君は」
答えは、まだ出なかった。