東方風聞録 作:一般通過人里民
幻想郷。人の世が発達し、居場所をなくした妖怪変化の行きつくところ。作られた箱庭の楽園。
そんな箱庭の中の、更に小さな人里という箱庭に一人の少年が暮らしていた。
兄弟もなく、父母も物心つく前に死んでいた天涯孤独の身。幸い体は丈夫だったので人里の仕事を引き受けながら、日々細々と暮らしていた。
さて、そんなある日のこと。
いつものように山で山菜を取っていた少年はいつの間にやら「入ってはいけない」と言われていたはずの区画に入り込んでしまい──。
それはそれは綺麗な鴉天狗に出会うことになるのであった。
◇
「え」
「あ」
第一声はどちらも大層間の抜けたものだった。
鴉天狗の目の前にいたのは山菜籠を背負った人間の少年だった。短い黒髪に、日に焼けた肌。着ているものも人里でよく見る普通の仕事着で、武器らしいものは腰の小刀くらいしかない。どう見ても天狗の縄張りへ挑みに来た人間ではなかった。
一方、少年が見上げていたのは腰まで伸びた茶色の髪と黒い翼を持つ少女だった。赤い格子柄の衣服は山の緑の中でひどく目立ち、顔立ちは思わず見惚れそうなほど整っている。もっとも、その背に広がる翼を見れば呑気に見惚れている場合でないことくらいはすぐに分かった。
少年にとって幸いだったのは、遭遇した相手が穏健──怠けともいう──な鴉天狗である姫海棠はたてだったということだろうか。
これが職務に忠実な白狼天狗や、人を見下している
しかし二人にとってそんなことは関係なく、今お互いの頭を支配していたのは「まずい」という一言だけであった。
「……」
「……」
お互いが一言も発しないままに時間だけが過ぎていく。がさがさと山の木々が擦れる音だけが二人の間に響いている。
そのまま無限に時間が過ぎるかと思われたが、どうにか先に我に返った少年が落ち着かない様子で口を開いた。
「ええと、申し訳ない。天狗の縄張りとは知らなかったんだ。取ったものは全て差し上げるから、見逃してもらえるとありがたい」
「……え! ああ、うん。そうね、そうよ。ここは妖怪の山、私たち天狗の領域よ。麓で山菜を取るくらいなら許しているけれど、ここまで入り込むのは協定違反よね」
「本当に、申し訳ない。命だけは助けてほしい」
平身低頭、といった言葉のお手本のように、山菜の入った籠を差し出しながら頭を下げる少年。対するはたてはと言えば「めんどーねえ」とどこか他人事のようであった。彼女からしたら人間は別に好んで食べようとは思わないし、今いるここだって実は本当に協定違反かも怪しい位置だったのだ。
とはいえ、このまま何もせずに帰したとあっては天狗の沽券に関わる。領域を犯しても許してもらえる、天狗は怖くない、などと里で吹聴されてはたまったものではない。だが殺すのは面倒だ。さてどうしたものか──。
そんなことを考えているはたてとは裏腹に、少年の心中は穏やかではなかった。それもそのはずで、人里の中だったり妖怪の賢者が定めたルールの範囲内であれば安全は保障されているが、そこから一歩でも踏み出せば命の保障はなかった。今少年が生きているのは目の前の鴉天狗の気まぐれであり、どんなに綺麗だとしても指先一つで己を殺せる存在と対峙するというのは酷く疲れるものであった。
そんなふうに対照的なことを考えている二人だったが、やがて何かを思いついたらしいはたてがポンと手を打ち口を開く。
「そうだわ。あんた、文字は読めるの?」
「え……。ああ、はい。一応、寺子屋で習いました。一通りは、読めるかと」
「え、読めるの。……じゃなくて、なら丁度いいわね! これを購読することで、今回の件は不問にしてあげるわ」
そう言って腰に下げた袋から何やら折り畳まれた紙を取り出し、少年へ押し付けるはたて。どうにかこうにか受け取った少年がその表面へ目をやると。
「ええと、はな……かし……ねんほう?」
「
「はあ、それで、その。これは?」
ひらひらと手に持った紙を揺らしながら少年が尋ねる。紙面には「妖精の湖で吸血鬼バカンス?」だとか「妖怪の山にロープウェイは必要なのか」だとか、果ては「恐れ知らず! 博麗神社倒壊!」といった文字が踊っていた。
「見ればわかるでしょ。新聞よ」
「いえ、はい。そうですね。そうですが……」
「なによ、はっきりしないわね」
少しばかり苛立ちを込めて放たれた言葉に対し、少年は悩んだ。果たして言っていいのか。しかし、ここで黙って受け取ったとしても後が怖いため、結局尋ねる以外に道はない。そう悟った少年は、おずおずといった様子で言葉を続ける。
「なぜこれを?」
「う……それは、読者が、その……」
少年の言葉を受けたはたては先ほどまでの様子はどこへやら、バツが悪そうに視線を横へずらし言葉も尻すぼみになっていく。
「読者が」
「……ないのよ」
「はい?」
ぼそりと呟かれた言葉。しかしその声は小さく、聞き取れなかった少年は思わず聞き返してしまう。そして、それがいけなかった。
「少ないのよ! 読者が! 悪い!?」
半ばやけくそ気味に叫ばれた言葉。はたて自身もあまり認めたくないことのようで、よくよく見れば目じりに水滴のようなものが見えた。しかし少年はそんなことにはまるで気づかず、急な怒鳴り声に驚き背筋を伸ばして言葉を返す。
「いえ! 悪くないです! 何も!」
二人の叫びが山にこだまし、やがて静寂が満ちる。大声を上げたことによる荒い息だけが二人からこぼれていた。
◇
それから少しして。
「で、買うの? 買わないの?」
漸く落ち着きを取り戻した──まだ若干顔が赤い──はたては少年に二択を迫っていた。つまり、花果子念報を購読するか、しないで罰を受けるかである。
少年からしてもその二択に選択肢などあるはずもなく。
「よ、読みます! 読ませて下さい!」
「最初からそう言えばいいのよ。変にああだこうだ言ってくれちゃって……」
理不尽だ、と少年は思った。しかしそれを口に出したら今度は何が飛んでくるかわからなかったため口をつぐむ。
まあ、何とかなりそうだ。そんなことを考えながら、腰に下げた袋から次々に新聞──どうやら一枚だけではなかったらしい──を取り出しているはたてを見て、ふとあることに思い至る。
──買うって言っちゃったけど、お金なんて持ってないぞ。
つう、と冷や汗が少年のこめかみを流れる。読者が増えたことが嬉しいらしいはたては初対面の少年から見ても嬉しそうに新聞を取り出しては整えており、もしここで「やっぱり買えません」などと言おうものなら先ほどの怒鳴り声など可愛いくらいの目に遭うことは想像に難くなかった。
というか、こんなに喜んでいる様子に水を差すのは相手が妖怪とはいえ些か以上に心が痛む。しかしお金がないのはどうしようもない事実だ。どうしたものか──。
そんな答えの出ない悩みにぐるぐると囚われていた少年の心だったが、準備を終えたらしいはたての「はい!」という言葉で現実に戻された。
見れば、目の前には十数枚の新聞紙を差し出しているはたての姿。しかも心なしかにこにこと笑っている。
「ええと、その」
「うん? どうしたのよ、さっさと受け取りなさい」
きょとんとした表情のまま新聞をぐいぐいと差し出しているはたて。
「ええと、買うと言ったんですが、その……持ち合わせが」
決死の覚悟で口を開いた少年。しかし、それを聞いたはたてはあっけらかんとした口調で「持ち合わせ……? ああ、料金のこと? それなら、そうね。とりあえずこの山菜でいいわよ」と答え、足元に置かれていた籠をひょいと持ち上げる。
呆気にとられた少年が「そんなもので」とこぼしたが、はたては気にした様子もなく「まぁ初回サービスってところかしら」と返した。
「……いいんですか?」
「なにがよ」
「そんな程度のものでいいんですか?」
「私がいいって言ってるんだからいいのよ。細かいこと気にする奴ね」
そう言って残りの新聞を少年に押し付け、ふわふわと飛んでその場を去ろうとするはたて。だが何かに気づいたように引き返してくると、ずいとメモ帳を構えながら「名前は」と尋ねた。
「……えっ」
「だから、名前よ名前。あんた、なんて言うの」
「ええと、陸と言います」
「ふーん、なんかパッとしない名前ねえ」
失礼な、と少年は思った。
「ま、いいわ。貴重な読者だもの、一応覚えておいてあげる」
「それは、どうも」
「それじゃあ、ちゃんと読んでよね! あ、そうそう。読み終わったら人里で配ったりしてもいいわよ。そうすればきっと読者ももっと……!」
そんなことを言い残しながら上空へ飛び去ってゆくはたて。少年──陸は見る見るうちに遠ざかっていくそれを見ながら、何とか助かったと胸を撫で下ろす。
今度からはもっと注意して山菜を取ろう。そう決意し、里へ帰ろうとした時。とあることに気が付いた。
「あいつ……籠ごと持っていきやがった……」
今日の取り分だけを渡すつもりだったが、貴重な籠まで持っていかれてしまった、ということに。