深々とフードを被った影は、一切微動だにせず洞窟の前に立ち塞がっていた。風でローブの裾がわずかに揺れたが、その内側の顔は濃い影に覆われ、窺い知ることはできない。
しかし、その人物が静かに杖を持ち上げた瞬間、周囲の空気が重く沈み込んだ。
「……フェルン、正面に防御魔法。全力で展開して」
フリーレンの表情から、先ほどまでの呑気な観察眼が一瞬で消え去った。翡翠の瞳が鋭く細められ、赤い杖の先端にピリついた魔力が集束していく。
「え……!?」
フリーレンの尋常ではない警戒を込めた声に、フェルンは理由を問う間もなく反射的に木製の杖を突き出した。
三人の前方に幾重にも重なる六角形の魔力障壁が展開される。ほぼ同時に、フードの奥から低く、どこか無機質で抑揚のない声が漏れ聞こえた。
「――『
ドッ、と大気が鳴動した。
次の瞬間、黒いローブの人物の杖先から解き放たれたのは、現代の炎魔法などとは一線を画す、禍々しい漆黒を帯びた紅蓮の業炎だった。
「なっ……何だこの炎! 熱気が尋常じゃねえ……っ!」
シュタルクが腕で顔を覆い、思わず後ずさる。波のように押し寄せる超高熱の暴風が、周囲の岩肌を一瞬で赤く灼け焦がし、足元の枯れ草を灰すら残さず蒸発させていく。
「くっ……!」
フェルンの展開した多重の防御障壁が、激突した炎の濁流によって猛烈な不協和音を上げてギシギシと軋んだ。表面の網目状の魔力回路が、熱量に耐えきれず次々と焼き切れ、弾けていく。
「……フェルン、シュタルク。下がって」
フリーレンが短く命じ、二人の前に一歩踏み出した。自身の赤い杖を前に掲げ、強力な魔力障壁をフェルンの防御魔法に上書きするように重ね合わせる。激しい炎の奔流が二人の防御魔法に阻まれ、左右へと大きく弾け飛んで霧散した。
弾けた炎が崖の岩肌を溶かし、ドロドロとしたマグマのように滴り落ちる。
「フリーレン様……! 今の魔法は……」
「『
フリーレンの白いツインテールが、熱風にあおられて激しくなびく。彼女の視線は、炎の煙の向こうに佇む黒いローブの人物から片時も離れない。
「……現代の魔法使いが扱うような代物じゃない。術式の組み立て方も、魔力の練り込み方も、千年前の『あの頃』のやり方そのものだ」
フェルンは息を呑み、シュタルクはゴクリと唾を飲み込んだ。
単に強い魔法使いというだけではない。目の前にいるのは、失われたはずの時代、その太古の威容をそのまま現代に吐き出す、あまりにも危険で異質な存在だった。
フリーレンは静かに杖を構え直し、静寂のなかで相手の魔力波形を冷徹に読み解こうと瞳を凝らした。
その魔力はフリーレンよりは小さく見えるが、『僅かに揺らいでいる』ように見えた。
「あれは、制限された魔力の揺らぎだ。村長は人間の魔法使いだと言っていたけれど……エルフかもしれない。……私が相手をする」
その人物の魔力の質と規模は、現代の魔法使いの域を遥かに踏み越えていた。手加減や様子見は、即座に死を意味する。相手が本気で自分たちを排除しに来ている以上、こちらも相応の力を叩きつけるほかない。
フリーレンの翡翠の瞳から一切の情が消え、底知れぬ静寂が宿った。彼女の身から立ち上る魔力が跳ね上がり、周囲の空気を重く沈下させる。
ほぼ同時に、黒いローブの影の杖先にも、破壊の極致たる魔力が凝縮されていく。
「「
二つの声が重なった。
直後、世界が真っ黒に染まった。天空から落ちる雷とは根本から異なる、空間そのものを切り裂くような漆黒と紫電の濁流が解き放たれ、正面から激しく衝突する。
鼓膜を破るほどの爆砕音が断崖に轟いた。衝撃波が幾重にも広がって津波のように押し寄せ、崖の岩肌がみるみるうちに削り取られ、重い巨岩が紙くずのように吹き飛ぶ。大気が軋み、激突した雷光が周囲の空間を歪めて紫色の火花を散らした。
「くっ……! シュタルク様、離れないでください!」
後方へ退避していたフェルンは、木製の杖を地面に突き立て、即座にドーム状の強固な防御魔法を展開していた。半球体の障壁に凄まじい衝撃波と砕けた岩石が叩きつけられ、激しい火花が散る。
「おいおいおい! なんだよ今の!? 地鳴りどころじゃねえぞ! 崖が崩れるって!」
シュタルクは大斧を抱えるように構え、フェルンの背後で爆風に耐えながら絶叫した。
「黙って耐えてください……!」
フェルンは歯を食いしばりながら、ドーム状の防御障壁越しに広がる暗い雷光を、目を見開いて見つめていた。その頬を、冷や汗がすっと伝い落ちる。
(……あの魔法は……)
フェルンの脳裏に、かつての一級魔法使い試験――零落の王墓における死闘が鮮明に蘇っていた。
目の前の謎の人物は、それを何の前触れもなく放ち、そして――フリーレンが放った同等の魔法と、完璧に拮抗して相殺してみせたのだ。
(そんな……あり得ません。フリーレン様と……『あの領域』で互角に渡り合っている……?)
人間の魔法使いの到達できる領域を遥かに超えている。どれほどの年月と研鑽を重ねれば、フリーレンと同じ魔法の高みに立つことなどできるのか。フェルンの胸に、言葉にしがたい戦慄が走った。
やがて、衝突した古代魔法の相互消滅に伴い、狂乱した暴風が吹き荒ぶ。
旋風が二人の間を吹き抜け、黒いローブのフードを強く掠め、一気にその外套を巻き上げた。
バリッと不穏な音を立てて黒い布地が破れ飛び、潮風の中に宙を舞う。
暴風が収まり、巻き上がった砂煙がゆっくりと薄れていく。その向こうから現れた素顔に、フリーレンの視線が吸い寄せられた。
そこに立っていたのは――
しっかりと束ねて結い上げられた豊かな茶髪。
古代の様式を残した、白いドレスを身に纏った女性。
どこかサバサバとしていながら、凛とした力強さを宿した目元。
「……っ!?」
フリーレンの息が止まった。
持ち上げたままの赤い杖が、かすかに震える。薄い翡翠の瞳が、信じられないものを見たかのように大きく見開かれ、驚愕に揺れていた。
いまやこの世界で、その顔を正しく記憶している者など、自分とゼーリエの二人しか存在しない。村の広場にあった厳めしいおじさんの石像などではなく、千年の時の彼方に去った、あの愛おしくも懐かしい面影。
大魔法使い、フランメ。
「……
フリーレンの唇から、消え入りそうな掠れた声がこぼれ落ちた。
「え……? フリーレン様……今、なんと……?」
後ろで防御魔法を維持するフェルンには、その女性が誰なのか全く分からない。シュタルクもまた、急に動きを止めたフリーレンの背中に困惑の表情を浮かべている。
しかし、打ち捨てられたゴーレムの墓場に立つその女性は、フリーレンの呼びかけに一切の反応を示さなかった。その瞳には感情の光など一切なく、ただ冷徹に、侵入者を排除するための魔力を再び練り上げ始めていた。
「
感情の失せた無機質な声とともに、再び禍々しい黒紅の炎が解き放たれる。先ほどよりもさらに凝縮された熱量が、前方の空間全てを焼き尽くさんと襲い掛かった。
だが、フリーレンは動じない。翡翠の瞳は驚愕に揺れながらも、魔法使いとしての冷静さを取り戻していた。彼女は赤い杖を前方へ突き出し、瞬時に多重の防御障壁を展開する。
凄まじい衝撃と熱風が障壁に叩きつけられ、ギチギチと音を立てる。フリーレンはその炎の濁流を真正面から受け止め、弾き飛ばしながら、一歩、また一歩と、炎の源たる「彼女」へと距離を詰めた。
(ありえない……)
防御魔法越しに伝わるその魔力。それは、幻影でもなければ、かつて戦った水鏡の悪魔による複製体でもない。術式の癖、魔力の波長、練り上げられた密度の高さ。その全てが、フリーレンの記憶に深く刻まれた、師匠フランメそのものだった。
千年以上前に死んだはずの人間。その魔力が、今、目の前で失われた古代魔法を紡いでいる。この矛盾。
炎の奔流を杖の一振りで霧散させ、フリーレンはついに至近距離で「彼女」と対峙した。
巻き上がる煤煙が晴れ、あらわになったその姿。
結い上げられた茶髪、古代風の白いドレス。間違いなくフランメだ。しかし、フリーレンが知る、自分と出会った最初の頃の彼女よりも、ほんのわずかに、数年から十年ほど若く見える。
そして何より――。
至近距離で跳ね返ったはずの「地獄の業火」の熱を、その肌は微塵も感じさせていなかった。焼けることも、赤くなることもなく、陶器のように滑らかで、あまりにも血の通わない白さ。
その瞳には、かつてフリーレンに向けられた、サバサバとしていながらも温かみのある光は一切ない。ただ冷徹に、侵入者を排除するという命令だけを遂行する、虚無の深淵が広がっていた。
「……そっか。ゴーレム、だね」
フリーレンは、震える声を絞り出した。
人間に酷似した外観を持ち、あろうことか大魔法使いの魔力を完全に再現し、高度な古代魔法までも操るゴーレム。魔法の歴史上、聞いたこともない。だが、目の前の存在は、それ以外に説明がつかなかった。
誰が、何のために、師匠の姿と魔力を模した、これほどまでの怪物を造り出したのか。
フリーレンの脳裏に、この崖沿いに打ち捨てられていた、異様なほど精緻で「命を模倣しようとしていた」ゴーレムたちの残骸がよぎった。
潮風が吹き荒ぶ断崖の洞窟前。巻き上がった砂煙の向こうに立つフランメの姿をしたゴーレムと対峙し、フリーレンは静かに赤い杖の先を下ろした。
翡翠の瞳には、動揺と冷徹な分析が同時に宿っている。フリーレンは呼吸を整え、薄い唇を開いた。
「ゴーレム。私の質問に答えて」
無機質な瞳でこちらを凝視し続ける人造体に対し、フリーレンの平坦な声が響く。
「誰がお前を作った? そして、お前の任務は何?」
フランメの精巧な容姿をしたゴーレムは、一瞬だけ沈黙した。まるで内部の膨大な魔法回路を検索し、回答の出力処理を行っているかのような間。
やがて、その口が開いた。
発せられたのは、紛れもなくかつてフリーレンの耳に馴染んでいた、あの懐かしい師匠の声だった。しかし、そこには感情の機微も、人間らしい温もりも一切混ざっていない。録音された音声を再生するかのような、透き通るほどに無機質な響き。
「認識……問いに対する回答を出力」
ゴーレムの胸元に目立たぬように配された、淡い水色の宝石のような魔力核が怪しく青白く明滅する。
「本機の製作者は、大魔法使い・フロイライン様です。当施設は、フロイライン様の居室兼アトリエです。本機の第一任務は、フロイライン様の休眠の保護。フロイライン様は現在、深い眠りについておられます」
「……フロイライン……?」
フリーレンが小さく呟いた瞬間、ゴーレムの瞳の奥で禍々しい赤い光が爆ぜた。
「任務要項に基づき――フロイライン様の眠りを妨げる侵入者を排除します」
「……っ!?」
詠唱も、予備動作すらもなかった。
ゴーレムの体表から、不可視の衝撃波を伴う極大の魔力放出が解き放たれた。至近距離での不意打ち。フリーレンは咄嗟に防御障壁を展開したものの、殺到する質量の暴風を殺しきれず、小さな体が後ろへと激しく弾き飛ばされた。
「フリーレン様……!!」
「フリーレン!!」
岩肌を滑るように後方へ吹き飛ばされるフリーレンの背後に、影が飛び込んだ。
「――おっと!」
シュタルクが地を蹴り、驚異的な反応速度で背後の空間へ躍り出ると、両腕を広げてフリーレンの体をしっかりと受け止めた。ズザザッと靴底が土煙を上げ、数メートル滑って衝撃を吸収する。
「大丈夫か、フリーレン!?」
「うん……ありがとう、シュタルク。助かったよ」
シュタルクの腕の中からひょいと地面に着地したフリーレンは、乱れた白いツインテールを直し、頭頂部のアホ毛を揺らしながら衣服の埃をパッパと払った。
その前方に、フェルンが割り込むように躍り出ている。木製の杖で二重の防御魔法を展開し、ゴーレムの追撃に備えて全神経を研ぎ澄ませていた。
「フリーレン様、下がってください!」
フェルンは前方を警戒したまま、冷や汗の流れる頬を硬くして問いかけた。
「……先ほど、あの者を見て『師匠』とおっしゃいましたね。村の広場にあった石像とはまるで違いますが……あの女性が、大魔法使いフランメなのですか?」
「ああ、俺も聞こえたぞ!」
シュタルクが背中の大斧を引き抜き、腰を落として低く構えながら口を開く。
「それにさっきの言葉……『フロイライン』って誰なんだよ!? あのおっかない古代魔法を使うヤツの上官みたいなのが、まだ奥で寝てやがるってことか!?」
矢継ぎ早に飛んでくる二人の問いに、フリーレンは遠くを見つめるような瞳のまま、淡々と答えた。
「見た目も、漂わせている魔力の質も、間違いなく私の師匠……フランメのものだ。でも、本物のフランメは千年以上前に死んでいる。あれはフランメの姿と能力を模して作られた……異常なほど高精度なゴーレムだよ」
「……ゴーレム、ですか」
フェルンが眉をひそめる。
「人間の姿と、あのような規格外の古代魔法まで扱うゴーレムなど、現代の魔法理論では絶対に不可能です。一体誰が……」
「『フロイライン』だよ」
フリーレンは静かにその名を口にした。
「フロイライン……? フリーレン様の知り合いなのですか?」
「ううん。直接会ったことはない。私も名前しか知らないんだ」
フリーレンは旅の記憶、そしてずっと昔にフランメから聞かされた古い昔話の断片を手繰り寄せるように言葉を紡ぐ。
「フランメの手記や、話の端々に出てきた名前だよ。私よりもずっと前……神話の時代から存在していたエルフの魔法使いだ。かつてゼーリエやフランメと共に過ごしていた時期があるらしい。もしかすると、ゼーリエの弟子だったのかもしれない」
「エルフ……」
シュタルクがゴクリと唾を飲み込んだ。
「じゃあ、フリーレンと同じで、めちゃくちゃ長生きな奴があの中にいるってことか……?」
「そうだね。フロイラインは『生命の創造』という禁忌に傾倒していた、かなり偏執的な天才だったと聞いている。……あそこに転がっていた大量のゴーレムの残骸も、あのフランメ型ゴーレムも、全部彼女が造った作品なんだと思う」
洞窟の入口では、フードを失ったフランメの姿のゴーレムが、再び無機質に杖を持ち上げ、周囲の空気を歪ませるほどの魔力を練り上げ始めていた。その瞳には一切の情も思考もなく、ただ「侵入者の排除」という無情な命題だけが駆動している。
「……フリーレン様。どうしますか?」
フェルンが静かな、しかし緊張の走る声で尋ねた。
「あの規模の古代魔法を連発する相手と、この足場の悪い断崖絶壁で真っ向から撃ち合うのは危険すぎます」
「ああ、俺もそう思う」
シュタルクが冷や汗を拭いながら同意する。
「あいつの攻撃、かすっただけで岩が溶けてんだぞ。足場が崩れて海に落ちたら、たまったもんじゃねえ」
フリーレンは一度目を閉じ、深く息を吐き出した。
「……そうだね。一度撤退しよう」
「えっ、いいのですか?」
フェルンが少し意外そうにフリーレンを振り返る。フリーレンが収集心や好奇心を示した対象から、こうもあっさりと引き下がるのは珍しかったからだ。
「相手の性能と行動パターンはだいたい分かった。何の対策もなしに、師匠と同じ実力の相手と戦うのは危険すぎる」
フリーレンはアホ毛をゆらりと揺らし、二人に視線を向けた。
「一度村まで戻って、あのゴーレムを攻略する準備を整えよう。……それに、千年前の『天才』が住んでいる研究室だ。無理に突っ込んで壊してしまうのは、魔法使いとしてちょっと勿体ないからね」
「……結局、魔法への興味ですか」
フェルンは少しだけ頬を膨らませたが、すぐに表情を引き締めると、手に持った杖からゾルトラークを地面に放ち、目くらましの砂塵を巻き上げた。
「シュタルク様、フリーレン様を連れて下がってください!」
「おうっ! 任せろ!」
シュタルクはフリーレンの襟元をひょいと掴み上げると、脱兎のような素早さで地を蹴り、崩れかけた崖道を一気に駆け下り始めた。フェルンもすぐさまそれに続き、後ろへ跳躍する。
背後で、視界を奪われたフランメ型ゴーレムが放った漆黒の雷撃『ジュドラジルム』が空を切り、虚無の空間を爆砕させる音が響き渡った。
砂塵の中で稲妻が暴れ散らし、荒れ狂う雷雲のように暗い土色の煙が立ち込めている。
三人の影は潮風の吹く道を抜け、ひとまず安全なルード村へと向かって一直線に離脱していくのだった。