その少年に対する初対面の印象は『黒十字の団員らしい冷たい瞳をした人』というものだった。
『0721番か……教官を務めて長いが、あれほどイカれた子供は見たことがない。追加の鍛錬だけならまだしも、他人に成り代わってまで二重に薬物投与を受けるなど気が狂っているとしか思えん』
人の心がない黒十字の教官でさえ恐れる怪物。
故郷を滅ぼされ、無理矢理この地獄に連れ出されたサクナとセツカには理解できない存在。
それがラゴウという兄弟子への所感だった。
──ただラゴウの同期から話を聞く限りでは、また少し違った印象を受けたのだが。
「サクナ……っ」
「大丈夫。わたしたち二人なら、どんな試練でも乗り越えられます」
セツカはサクナに頼ることで、サクナはセツカの面倒を見ることで死の恐怖から必死に目を逸らす。
そうやって二人は地獄の只中を生き抜いてきた。
だから今度もきっと大丈夫。
どれだけ痛めつけられようと、どれだけ辱められようと、二人なら生きていける。
そうして彼女たちは恐るべき兄弟子との日々を迎えた、のだが。
「サクナ、セツカ。まだここに埃が残っているぞ」
「この魚の塩焼きは出来損ないだ。食べられないよ」
「鍛錬の時間だ、まずはウサギ跳びでグラウンド百周。……え? この運動に何の意味があるのかって? 特に意味はない」
死者が出ない週があれば奇跡だった基礎修練ですら、黒十字が課す試練としては生温い。
正式な団員になれば比較的命の保証はされるようになるが、修練の強度はより増す。
その道のりは果てしなく険しいものになるという覚悟を抱いていた、のに。
「なにこれ」
「想像していた日々とは大きく違いますね……」
死をも覚悟していたはずが、兄弟子の日常の雑事をこなすことになるだなんて普通は思わない。
セツカが家事に慣れていないこともあって失敗は続いたものの、大した罰も受けなかった。
もちろん雑用をこなすだけではなかった。
魔物討伐に出かけることもあった。
しかし、そこでも想像とはかけ離れていた。
「『影分身』」
ラゴウが普段倒しているのは黒十字の正式な団員ですら手間取るランクの魔物がほとんどだった。
「ゲギャアッ!?」
『そら、どれが本体か当てられるかな?』
基礎修練を乗り越えた団員のみが住むことを許される黒十字保有の数ある基地の一つ。
そこから程近く、廃れた鉱山を中心として鬱蒼と木々が生い茂る森が主な狩場だった。
相手は鉱山に残った宝石等の資源を求めてやってきたのだろう
メタルドラゴンに比べれば小物だが、基礎修練で出てくる魔物に比べれば十分に上等な強敵だった。
しかしラゴウは数体の分身で竜を幻惑すると、その隙に本体がレッサードラゴンの影を縫い留めた。
「『影縫』――サクナ、セツカ。トドメは譲ってやる、やれ」
影を通じて体の自由を奪われたレッサードラゴンは格好の餌食だ。
サクナとセツカは堅牢な鱗を持つドラゴンの中で唯一防御の薄い部分――即ち逆鱗を目視。
二人同時に弱点目掛けて斬撃を叩き込んだ。
「これでドラゴン系の討伐数も通算二十体ほど。レベルが目視できないのは痛いが、ゲーム基準だとレベル20半ばは固いな。そろそろあの憎たらしい爺さんに『潮月』を抜かせてやれる頃合いか……?」
「その、ラゴウさまが時々仰られるれべるや経験値というのは一体……?」
「気にするな。では行くぞ」
よく意味の分からない独り言を呟くラゴウだったが、詳しい説明をすることはなかった。
人死にも珍しくなかった基礎修練での魔物討伐とは訳が違う。
そこに危険はなく、どこまでも安全な魔物討伐があるだけだった。
不意に、基礎修練での日々を思い出す。
『もういやぁ!! お家にかえしてぇ!! お母さんお父さんのところにかえしてよぉ!!』
『しにたくないしにたくないしにたくないしにたくないしにたくないしにたくないしにたくない……』
『やだぁ!! いたいのやめて!! お薬うたないでェ!! ──あ、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!???!?!?』
地獄とはきっと、この世界の過酷さを知らない暇人が考えだした妄想に過ぎないのだろう。
齢二桁にも満たない子供が、そんな歪んだ悟りを得てしまうような阿鼻叫喚の苦界。
そんな『地獄』を超えた更なる『地獄』が待ち受けていると聞かされて、どうしようもない恐怖に心を震わせていたというのに。
「とても判断に困るところではありますが」
夜。
基礎修練で暮らした牢獄の房で味わった硬い床の感触や薄い毛布の肌寒さ。
それらとは比較にならないほど柔らかく温かな寝床で身を休めながら、二人はこれまでの生活の感想を呟いた。
「基礎修練に比べれば、ずっとマシ……」
「……ですね」
それが、このおかしな生活を一か月ほど過ごして出した結論だった。
「ラゴウさま。失礼いたします、サクナです」
ある日、サクナはラゴウの自室の扉を開けた。
しかし用事でもあったのか、部屋にいなかった。
「いない……なら今のうちにお掃除をしてしまいましょう」
ラゴウは別に綺麗好きというわけでもない癖に、家事に対してはやたらと厳しく口を出してきた。
最近はセツカもすっかり慣れてきた掃除のミスを探すために無駄に時間を費やすほどだ。
二人は「単に文句つけたいだけだよねあれ」と推測していた。
「よいしょ、と……おや?」
掃除を始めようとして、サクナは机の上に一冊の本が置かれていることに気が付いた。
一体何だろうと首をかしげて、ラゴウがよくニヤつきながら妙な書き物をしていることを思い出す。
「これは、ラゴウさまの日記か何かでしょうか」
黒十字の団員に課せられる任務には各地での工作活動も含まれている。
そのため団員には教養としてある程度の勉学知識が叩き込まれるのだが、お陰でサクナは異国であるこの国の文字を読むことができた。
良識に従うなら放っておくべき場面。
しかし奇妙な兄弟子の生態を見てきたサクナは、一体彼が何を思って普段生活しているのかが凄く気になった。
それはもうとてつもなく気になった。
なので周りに気配がないことを確認してから、恐る恐る中の文章に目を通した。
「……読めません」
しかし、書かれてあった文字はサクナの既知外のもので読み解けなかった。
強いて言えば一部に故郷の文字とどこか似た雰囲気があるが、それだけだ。
諦めて本を閉じようとして、ふと気づく。
「これは、ラゴウさまの『
一枚のページにラゴウが所持する魔剣、妖刀『永闇』のイラストと妙な数値が描かれていた。
他にも、彼女にとって馴染みの深い涙刀『
魔剣とはあくまで総称であり、剣に限らず多種多様な武器が存在しているのだ。
「魔剣に関する資料かしら……」
しかしサクナは少し引っかかった。
文字こそ読めないが、書かれている情報にはある程度の推測が立つ。
各魔剣の性能と術式を比較し、使える能力を羅列したものだろう。
であれば。
未だスイゲツに魔剣を抜かせることが敵わないとぼやいていたラゴウは。
何故、『潮月』の詳細な外見と性能を描くことができる――?
「――見たな」
気づいた時には遅かった。
サクナは飛びのこうとしたが、それよりも背後の者による制圧の方が早かった。
「まさか鼠が忍び込むとはな。人様の私物を勝手に盗み見てはいけないと親から教わらなかったか?」
「っ……ラゴウ、さま……?」
「他に誰がいるというんだ」
血のように紅い瞳が爛々と輝きながら、冷たくサクナを見下ろしていた。
「こういった事態を想定して『目指せ! 理想のライバルキャラルート構想日記』の中身を前世の言語で書いておいて助かった。魔剣戦記が作中言語もちゃんと一から創作するディテールの細かい作品でなければ即死だったな」
「らいばるきゃら……?」
「細かいことは気にするな。それで、誰の差し金でやってきた? 黒十字はもう俺に疑いを向けているというのか?」
「いえ、あの」
「頭の中にしかない翻意すら見抜くか。いや、腐っても相手は歴戦の悪の組織だ。細かな態度や仕草から疑われても不思議はない……或いは『アナンガ』で知らぬ間に情報を抜き取られていたか? それにしてはやり方が迂遠すぎるが」
「その」
「所詮は本編開始前と思って油断したか。……で、いい加減答える気になったか?」
どうやら考え事は全て口に出るタイプのようで、聞いてもいないことをベラベラと語りだした。
サクナにとってほとんど意味不明な内容だったが、組織への反抗心を抱いているのは理解できた。
「いえ、ただお部屋のお掃除をしようとしたら、机の上に本が置かれていたので気になってしまい……無礼を働いたこと、誠に申し訳ございません。ですからわたしは、誰かの差し金で来たというわけではありません」
「嘘をつくな。俺は普段あの本を誰にも見つからないよう隠している。机の上に置くなどそんな初歩的なミスをするわけが」
「置かれておりましたが……?」
「…………」
「…………」
「……ほんと?」
「ほんとにございます」
「そっかぁ……」
ラゴウの拘束が解かれる。
少年は顔に手を当てて深いため息をこぼすと、諦めたような表情で言った。
「今のやりとり、忘れてくれないか?」
「さすがに無理があるかと……」
「だよなぁ」