目が合った。
白い獣と、細身の影。
どちらも動かない。
どちらも、退かない。
日常から遠くかけ離れた場所で、二匹の獣が爪牙を剥き出しにして向かい合っている。
震える息を吐き、一歩を踏み出した。
視界の先で、白い毛並みがわずかに揺れる。
――行くぞ。
返事はなかった。
だが、それでよかった。
◇◆◇
その日も、いつもと同じ時間に目を覚ました。
アラームが鳴るより少し早く、習慣で目が開く。
天井を見上げ、今日の予定を思い浮かべながら重い体を起こした。顔を洗い、コーヒーを淹れ、簡単な朝食を済ませる。
作業着に着替えて外へ出ると、朝の空気が肌を撫でた。
目的地の畑は、家のすぐ裏手にある。
誰かから借りているわけではない。もともとは古民家と一緒に放置され、雑草に覆われていた土地を、少しずつ耕したものだった。
朝の日差しを浴びながら、畑に植えた野菜へ水をやる。
それがいつの間にか、一日の始まりを告げる習慣になっていた。
朝露の残る畑には、まだ夏の熱気が降りてきていない。
山から流れてくる風がトマトの葉をかすかに揺らし、近くの用水路からは絶え間なく水の音が聞こえている。
遠くでは、草刈り機の低い唸りが続いていた。
雲は少ない。
今日も暑くなりそうだった。
――兄が死んでから、生活はひどく簡単になった。
人と会わなくなった。仕事も辞めた。
必要な連絡には短い文章だけを返し、電話にはほとんど出なくなった。
その一方で、金だけは増えた。
兄の死後、どうにでもなれという気持ちで、資産整理のついでに買った仮想通貨が信じられないほど値上がりした。
何度か売買を繰り返した末、日廻は一生働かなくても困らないほどの資産を手に入れていた。
嬉しくはなかった。
銀行口座の数字が何桁増えても、朝起きたときに最初に感じる空白は消えなかった。
金を得た途端、顔も知らない自称親戚たちが次々と現れた。
口では今にも死にそうな声で助けを求めながら、その目に浮かんでいるのは、隠しようのない欲望だった。
彼らから逃げるように、山と畑に囲まれたこの土地を買った。
古びた家を直し、人目を避けるように暮らし始めたのは、ある意味では必然だったのかもしれない。
だが、何もしない生活が心を休ませてくれるわけでもなかった。
金はあっても、使い道がない。
時間はあっても、したいことがない。
畑仕事は、その両方を一時的に忘れさせてくれた。
日廻はホースを手に、ぼんやりとラジオを聞いていた。
普段はただ流しているだけだ。
だが、その日の放送では、朝から同じような言葉が何度も繰り返されていた。
『各地で相次いでいる未確認生物の目撃情報について、政府は――』
異常事態。
未確認生物。
各地での目撃情報。
巨大な穴と言われる場所。
ホースを持ったまま、日廻は聞き流していた。
信じられないわけではない。
ただ、実感がなかった。
テレビやインターネットの向こうで、何かがおかしくなっている。
その程度の認識だった。
そのとき、妙な音がした。
ざくり、と。
柔らかいものへ、小さな歯が食い込む音。
トマトだ、と日廻は思った。
熟れたトマトを、何かが齧っている。
視線を向けると、畑の端に小さな生き物がいた。
灰白色の体。
丸い頭に、大きな耳。
頭の上には長い毛が房のように伸び、耳の内側は淡い桃色をしている。
黒く丸い瞳が、真っ赤なトマトの向こうから日廻を見つめていた。
「……猫か?」
日廻は目を瞬いた。
猫ではなかった。
大きさは小型の猫ほどだろうか。
前足は小さく、体つきも華奢だった。
背後では、体と同じくらい長い尻尾がゆっくりと揺れている。
「……なんだ、おまえ」
灰色がかった白い毛。
耳の先の、くるんとした毛並み。
見たことのない生き物と、しばらく視線が交差する。
外来種、という言葉が頭をよぎった。
だが、こんな生き物がいるだろうか。
作り物のように整った顔をしている。
山で生きてきた獣の警戒心や険しさは感じられず、ぬいぐるみがそのまま動き出したようだった。
日廻が立ち尽くしていると、生き物は食べかけのトマトから手を離した。
それから近くにあった別のトマトを器用に抱え上げ、日廻へ差し出す。
無垢な瞳が、まっすぐこちらを見ていた。
まるで、食べるかと尋ねているようだった。
「……ああ。ありがとう」
理解が追いつかないまま、日廻はトマトを受け取った。
意識だけが、宇宙の彼方へ漂っているような気分だった。
生き物は満足そうに耳を動かすと、三つ目のトマトへ手を伸ばした。
「待て」
日廻は我に返り、その小さな前足を止める。
「悪いが、このトマトは売り物なんだ。これ以上食べるのはやめてくれないか」
『チラ?』
生き物が首を傾げる。
「もしかして、おまえがラジオで言っている未確認生物か?」
問いに答えはない。
ラジオではここ数日、街中や山間部に突然現れた巨大な穴について繰り返し報道されていた。
穴は地面や壁、山肌などに、何の前触れもなく発生したという。
その先には、本来存在するはずのない空間が広がっていた。
森、山、川、海。
地下へ続いているはずなのに、内部には空があり、太陽や月まで見えるという。
さらに、穴の出現と前後するように、未知の生物も目撃されるようになっていた。
犬に似たもの。
巨大な鳥。
火を吐く獣。
既存の生態系や突然変異という言葉では説明できない生き物たち。
偽の映像も大量に出回っており、日廻はまともに信じていなかった。
だが、今、目の前にいるものは偽物ではない。
小さな胸が呼吸に合わせて上下している。
風が吹けば細い毛が揺れる。
丸い瞳の中には、畑に立つ日廻の姿が映っていた。
『チラッ』
生き物は食べ終えたトマトを置き、赤く濡れた前足を舐め始めた。
次に口の周りを拭い、長い尻尾を両手で持つと、それを布のように使って頬についた果汁まできれいにしていく。
妙に几帳面な動作だった。
「きれい好きなのか、おまえ」
日廻は思わず笑いそうになった。
笑うという行為が、自分の中にまだ残っていたことに少し驚く。
身づくろいを終えた生き物は、日廻の手の中にあるトマトへ視線を移した。
「これは売り物だぞ」
食べないのなら返してくれないか。
そう言いたげに、生き物が首を傾ける。
大きな瞳が潤み、耳が力なく伏せられた。
口元まで、わずかに震えている。
「いや、そんな顔をしても――」
日廻の体から、ふっと力が抜けた。
その瞬間だった。
生き物が勢いよく飛びつき、日廻の手にあったトマトを口にくわえた。
「あっ」
『チラッ!』
楽しそうな声を残し、四本足で走り去っていく。
「おい!」
別に、トマト一つを惜しんでいるわけではない。
売ったところで、大した額にはならない。
それでも、堂々と盗まれて黙っているのは何か違う気がした。
生き物は畑の脇のあぜ道を駆けていく。
短い足を懸命に動かし、時折振り返って日廻の様子を確認していた。
逃げ切るつもりなら、振り返らなければいい。
どこか、追いかけっこを楽しんでいるようにも見える。
「こら!」
日廻が速度を上げる。
生き物はあぜ道を走り抜け、古い農道へ出た。
その先には、薄暗い杉林が続いている。
木々の間へ消える寸前、生き物が最後にこちらを振り返った。
『チラッ』
「そっちは――」
生き物の姿が消えた。
目の前の場所に日廻は足を止める。
杉林の奥には、今、世界中を騒がせているものと同じ巨大な穴があった。
まだ正式な名称さえ決まっていない、正体不明の空間。
杉林の斜面をくり抜くように現れた、歪な穴。
その先には、この土地の地形とはどう考えてもつながらない景色が広がっていた。
日廻の足が、穴の前で止まる。
たかがトマト一つだ。
取り返したところで、謎の生き物が口にしたものを売り物にはできない。
だが、そこに食料があると覚えられれば、次は一匹ではなく、群れでやって来るかもしれない。
常識的に考えれば、ここで家へ帰るべきだった。
役場か警察へ連絡し、この場所に穴があることと、未知の生き物を見たことを伝える。
そうして、いつもの日常へ戻ればいい。
きっと、それが正しい。
「兄貴なら……」
日廻の口から、無意識に言葉が漏れた。
兄が生きていたなら、どうしただろう。
きっと、放っておかなかった。
困っているものを見捨てなかったはずだ。
そんな考えが浮かんだときには、日廻の足は穴へ向かっていた。
境目を越えた瞬間、空気が変わった。
気温がわずかに下がる。
こちら側の山に満ちた湿った土の匂いではない。
甘い花と、濃密な草木の香りが入り混じっている。
後ろを振り返れば、薄暗い杉林がある。
一歩戻れば、自分たちの世界だ。
だが、正面には見知らぬ世界が広がっていた。
見たことのない植物。
見たことのない生き物。
空は青い。
太陽もある。
風が吹き抜け、木々の葉を揺らしている。
遠くから水音が響き、鳥に似た鳴き声が重なる。
未知の生態系。
別の惑星。
いくつもの言葉が頭に浮かんだ。
だが、どれも目の前の光景を言い表すには足りなかった。
『チラッ』
聞き覚えのある声がした。
少し先の草むらから、灰白色の顔が覗いている。
「おまえな」
日廻が近づくと、生き物は再び走り出した。
今度は逃げるというより、ついてこいと促しているようだった。
「待て」
日廻は周囲を警戒しながら、そのあとを追う。
草むらを抜けると、細い獣道が森の奥へ続いていた。
途中、日廻は何度も足を止めた。
枝の上には、緑色の虫がぶら下がっていた。
頭には赤い触角のようなものがあり、丸い目で日廻を見下ろしている。
木の根元では、茶色い体と赤い目を持つ生き物が、木の実を両腕に抱えていた。
灰色の鳥が頭上を横切り、日廻の目の前で急に方向を変える。
どれも既存の動物に似ていた。
虫。
鼠。
鳥。
だが、どれも日廻の知る生き物ではなかった。
こちらに気づくと逃げるものもいれば、好奇心を見せて近づいてくるものもいる。
日廻は恐怖を感じていた。
同時に、目を離すことができなかった。
世界には、まだこんな場所が残っていた。
そんな子どもじみた感動が、胸の奥に生まれていた。
やがて獣道は、緩やかな下り坂になった。
水音が近づいてくる。
森が開け、浅い川が現れた。
透明な水が白い石の間を流れ、その岸辺には背の低い草地が広がっている。
灰白色の生き物は、そこで足を止めた。
先ほどまで弾むように動いていた耳が、ゆっくりと伏せられる。
「どうした」
日廻は、生き物の視線を追った。
草地には、何匹もの生き物がいた。
最初は、休んでいるのだと思った。
だが、違った。
横たわっている。
体を丸め、震えているもの。
目を閉じたまま、ほとんど動かないもの。
互いに寄り添い、怯えた目で周囲を警戒しているもの。
十匹以上いる。
そのすべてが傷ついていた。
「……なんだ、これは」
灰白色の生き物も、ここまでひどい状態だとは思っていなかったのだろう。
口にくわえていたトマトを落とし、仲間たちの方へ走っていった。
横たわる生き物のそばにしゃがみ込み、必死に声をかける。
『チラ、チラッ』
呼びかけられた生き物が、かすかに目を開いた。
灰白色の生き物は落としたトマトを拾い、相手の前へ運ぶ。
鼻先で押し、食べるよう促している。
日廻はゆっくり近づいた。
傷ついた生き物たちが、一斉に体をこわばらせる。
「大丈夫だ」
日廻は立ち止まり、両手を見える位置まで上げた。
「何もしない」
人間の言葉が伝わるとは限らない。
それでも、声の調子で敵意がないことくらいは伝わるかもしれない。
日廻は距離を置いたまましゃがみ込み、傷の状態を確認する。
鋭い爪や牙で裂かれたような傷もあった。
だが、それだけではない。
擦り傷や打撲。
長い距離を逃げ続けたように、足の裏を傷めているものもいる。
一匹の獣に襲われたというより、何か大きな異変に巻き込まれ、ここまで逃げてきたように見えた。
灰白色の生き物が、仲間へトマトを食べさせようとしている。
だが、相手には口を開く力も残っていないらしい。
日廻は首にかけていたタオルを外し、近くの川で濡らした。
傷を拭いてやろうと一歩近づいた瞬間、草地の奥から低い音がした。
唸り声。
傷ついた生き物たちが一斉に反応し、身を縮める。
灰白色の生き物も振り返った。
森の陰から、淡雪のような白い獣が姿を現した。
四本の足で立った背丈は、日廻の胸元に届くほどだった。
全身は白い毛に覆われ、顔の周囲と尾は濃い藍色をしている。
頭の右側からは、鎌のように湾曲した黒い角が伸びていた。
獣はゆっくりと歩いてくる。
赤い瞳。
険しい顔つき。
白い毛のあちこちには、赤黒い汚れが付着している。
「こいつがやったのか」
白い獣の赤い目が、日廻へ向いた。
低い唸り声が喉の奥から響く。
日廻は足元に落ちていた太めの枯れ枝を拾った。
その動作を見た白い獣の力を込めて姿勢が低くなる。
「来るなら来い」
日廻は喧嘩などしたことがない。
野犬に襲われた経験さえなかった
それでも、背後にいる傷ついた生き物たちへ背を向け、逃げ出すという判断は思い浮かばなかった。
白い獣が一歩を踏み出した。
日廻は枝を構える。
その間へ、灰白色の生き物が飛び込んだ。
「危ない!」
小さな生き物は両腕を広げ、白い獣を背にして日廻を見上げている。
「そいつが、仲間を襲ったんだろ」
日廻の言葉に、生き物は激しく首を横へ振った。
『チラッ! チラ、チラッ!』
何度も声を上げる。
白い獣を振り返り、また日廻を見る。
敵ではない、そう訴えているようだった。
「でも、その血は」
日廻は言いかけて、白い獣をよく見た。
血は、毛に付着しているだけではない。
前足や肩には深い傷があり、そこから今も血が流れていた。
白い獣自身が、ひどく傷ついている。
そして、傷ついた生き物たちは白い獣を恐れているのではなかった。
その背後へ隠れようとしていた。
突然現れた人間から身を守るため、白い獣の近くへ集まっている。
白い獣は日廻を見据えたまま、彼らの前に立っていた。
「守ってたのか」
日廻の手から、枯れ枝が下がる。
ただ、赤い目で日廻を見つめている。
警戒は解いていない。
当然だった。
日廻も、血に濡れた姿を見ただけで、この獣を襲った側だと決めつけていた。
「悪かった」
日廻は枝を地面へ置いた。
「俺は敵じゃない。そいつらを傷つけるつもりもない」
一歩下がり、距離を取る。
白い獣の姿勢が、ほんの少しだけ緩んだ。
灰白色の生き物が、ほっとしたように尻尾を揺らす。
日廻は再びしゃがみ込み、濡らしたタオルを見せた。
「傷を洗いたい。分かるか?」
白い獣は動かなかった。
だが、止めもしなかった。
日廻は最も近くにいた、丸い青い生き物の前までゆっくり近づく。
指が近づくと、青い生き物の体がこわばった。
「痛いよな」
低い声で話しかける。
「触るぞ」
濡れたタオルを傷口に当てると、青い生き物が短く鳴いた。
「悪い」
できるだけ優しく、血と泥を拭う。
傷は深くない。
だが、放置すれば悪化するかもしれなかった。
日廻が手当てを続けている間も、白い獣は少し離れた場所からこちらを見ていた。
ふと、その足元が揺れた。
白い獣の体が大きく傾く。
すぐに踏みとどまったものの、前足の傷から新しい血が落ちた。
「おまえも座れ」
日廻が言う。
「無理するな。立っているのもつらいんだろ」
白い獣は動かない。
赤い瞳が、わずかに細められた。
「頑固だな」
日廻は小さく息を吐く。
誰かに似ていると思った。
兄ではない。
自分だった。
大丈夫ではないのに、大丈夫なふりをする。
誰にも近づかれないよう、先に牙を見せる。
守るものなど何も残っていないくせに、傷ついていない顔をする。
違うのは、この白い獣には、本当に守ろうとしているものがあることだった。
そのときだった。
遠くの森で、何かが折れる音がした。
乾いた枝ではない。
太い幹が、力任せにへし折られるような音。
白い獣が振り返る。
傷ついた生き物たちが騒ぎ始めた。
「何だ」
草を薙ぎ払い、木の枝を折りながら、何かがこちらへ近づいてくる。
白い獣が草地の前へ出た。
日廻と傷ついた生き物たちをかばうように立つ。
森の中から、細長い影が飛び出した。
二本の足で立つ生き物だった。
白と薄紫の体毛。
腕は異様に長く、先端の毛が袖のように垂れている。
しなやかで流麗な体つきは、人間にも獣にも見えた。
だが、その目には理性がなかった。
全身に細かな傷があり、片方の肩から血を流している。
何かを探すように周囲を見回し、傷ついた生き物たちを見つけると、甲高い声を上げた。
仲間を見つけて喜んでいるのか。
日廻は一瞬、そう思った。
しかし、長い腕が地面へ振り下ろされた。
土が大きく弾けると共に傷ついた生き物たちが悲鳴を上げた。
「落ち着け!」
二足の生き物は、見えない何かに追われているように周囲を見回している。
木の葉が揺れただけで腕を振るい、鞭のようにしなる体毛で近くの岩を砕いて見せた。
敵を探している。
だが、何が敵なのか、自分でも分かっていない。
恐怖と混乱で、目に映るものすべてに反応しているようだった。
白い獣が地面を蹴って、二足の生き物の正面へ飛び出す。
長い腕が振るわれ、白い獣は身を沈め、鋭い一撃をかわした。
続けざまに二撃、三撃。
空気を切り裂く音が鳴る。
白い獣は避け続けた。
反撃できる機会はあったはずだ。
黒い角を突き立てることも、喉元へ噛みつくこともできた。
だが、そうしなかった。
肩を押し、進む方向をずらす。
足元へ飛び込み、体勢を崩す。
攻撃を受け流し、傷ついた生き物たちから遠ざけようとしている。
「倒す気がないのか」
日廻は白い獣の動きを見つめた。
二足の生き物が、長い腕を勢いよく振り抜く。
空気が弾けた。
見えない衝撃が白い獣を捉え、鈍い音とともに白い体が地面を転がる。
「おい!」
白い獣はすぐに起き上がろうとした。
だが、傷ついた前足に力が入らない。
痛みをこらえるような、か細い声が喉から漏れた。
動けない白い獣へ、二足の生き物が迫る。
どうするべきか。
どうしたいのか。
自分に何ができるのか。
そんな思考より先に、日廻は走っていた。
「こっちだ!」
地面の枯れ枝を拾い、近くの木の幹へ強く叩きつける。
乾いた音が森に響いた。
二足の生き物が、ぐるりと姿勢を変えて日廻を見た。
目が合う。
その瞳にあるのは、怒りではなかった。
怯えだった。
「大丈夫だ」
日廻は枝を投げ捨てた。
「誰もおまえを襲わない」
二足の生き物の呼吸が、さらに荒くなる。
言葉は届いていない。
それどころか、日廻の声さえ新たな刺激になっている。
長い腕が持ち上がった。
「日廻、おまえは何をしてる」
自分で自分に問いかける。
こんな生き物の攻撃を受ければ、ただでは済まない。
後ろには、元の世界へ続く入り口がある。
逃げようと思えば逃げられる。
日廻が一歩下がると、二足の生き物が一歩近づいた。
その足が、わずかにふらつく。
疲れている。
傷も深い。
暴れているのではない。
止まれないのだ。
立ち止まった瞬間、恐怖に飲み込まれてしまう。
だから、腕を振り続けている。
何かに追われたまま、逃げ方を見失っている。
日廻は、その感覚を知っていた。
兄が死んだあと、誰かに責められているわけでもないのに、すべてから逃げた。
仕事を辞めた。
友人との連絡を絶った。
住んでいた町を離れた。
何かをしている間だけ、考えずに済んだ。
立ち止まれば、自分の中に空いた穴を見てしまう。
だから、意味もなく動き続けた。
目の前の生き物も、同じなのかもしれない。
「怖いんだな」
二足の生き物の腕が止まる。
ほんの一瞬だけ。
「仲間とはぐれたのか」
日廻は低く、静かに話し続ける。
意味ではなく、声だけでも届けるように。
「ここがどこかも分からないんだろ」
一歩、近づく。
二足の生き物が身構えた。
日廻は、それ以上近づかずに立ち止まる。
「俺にも分からない」
白い獣が、痛む足を引きずりながら立ち上がった。
「でも、そいつらはおまえを襲わない」
傷ついた生き物たちを示す。
「白いのも、おまえを倒したいわけじゃない」
二足の生き物と、白い獣の目が合う。
どちらも動かない。
どちらも、退かない。
日常から遠くかけ離れた場所で、二匹の獣が爪牙を剥き出しにして向かい合っている。
日廻は震える息を吐き、一歩を踏み出した。
視界の先で、白い毛並みがわずかに揺れる。
――行くぞ。
返事はなかった。
だが、それでよかった。
弾けた様に二足の生き物が、腕を振り抜いた。
岩さえ砕くほどの衝撃が、日廻へ迫る。
日廻は白い獣の動きを真似るように、反射的に身を沈めた。
見えない一撃が肩口をかすめ、作業着の布が鋭く裂ける。
続けざまに腕を振るおうとした二足の生き物へ、白い獣が側面から体をぶつけた。
傷つけるためではない、進路を変えるための一撃。
二足の生き物がよろめき、川岸へ一歩下がる。
日廻は一気に距離を詰めた。
長い腕が振られる。
白い獣が黒い角で受け流す。
金属を打ち合わせたような音が響いた。
「無茶をするな!」
二足の生き物が、さらに後退する。
後ろ足が水へ入った。
驚いたように振り返った瞬間、白い獣がもう一度体をぶつける。
二足の生き物は浅瀬へ倒れ込み、大きな水しぶきが上がった。
起き上がろうと暴れるが、濡れた石に足を取られている。
「今だ」
日廻は作業着の上着を脱ぎ、水の中へ入った。
二足の生き物が日廻に気づき、腕を振るう。
不安定な足場のせいで狙いが逸れ、鋭い一撃が日廻の頬をかすめた。
熱い痛みが走る。
それでも、日廻は止まらなかった。
「大丈夫だ!」
上着を広げ、二足の生き物の頭へかぶせる。
視界を塞がれたことで、生き物の動きが一瞬止まった。
だが、すぐにまた暴れ始める。
日廻は背後から、その細い体を抱えた。
人間より細く見えても、力は比べものにならない。
簡単に腕を振りほどかれ、日廻は水中へ膝をついた。
川岸から、灰白色の生き物が必死に声を上げる。
『チラッ! チラ、チラッ!』
仲間へ呼びかける声だった。
二足の生き物の動きが、一瞬だけ弱まる。
日廻はその隙に、もう一度体を抱きしめた。
「もういい」
耳元で言う。
「逃げなくていい」
長い腕が震えている。
「誰も追ってこない」
暴れる力が、少しずつ弱くなる。
「ここにいる」
日廻は濡れた上着ごと、生き物の頭を抱えた。
「仲間もいる」
白い獣が低く声を出す。
威嚇ではなかった。
深く、静かな声。
二足の生き物の体から、ゆっくりと力が抜けていき、長い腕が水面へ落ちた。
日廻は慌ててその体を支える。
「おい」
返事はない。
上着を急いで外す。
二足の生き物は目を閉じていた。
口元へ手を当てる。
確かに呼吸している。
気を失っただけらしい。
それを確認した瞬間、日廻はその場へ座り込んだ。
膝まで水に浸かっている。
全身から力が抜けた。
「死ぬかと思った」
頬から、血が流れている。
もし、あと少し攻撃が内側へ逸れていたら。
顔面をまともに打たれていたら。
そう考えると、遅れて全身へ寒気が走った。
日廻は何度も震える呼吸を繰り返した。
興奮で火照っていた体が少しずつ落ち着いてくる。
川の中で、白い獣が低く鳴いた。
日廻が顔を上げる。
白い獣は、日廻の腕の中で静かになった生き物を見つめていた。
「おまえも」
日廻は息を整えながら言う。
「傷つけないようにしてたんだな。最初から」
白い獣は何も言わない。
赤い瞳が、二足の生き物から離れない。
怒りも、憎しみもなかった。
ただ、無事を確かめているようだった。
日廻はゆっくりと立ち上がる。
二足の生き物を岸へ運ぼうとしたが、思ったよりも重かった。
水を吸った体毛と長い腕が邪魔になり、一人では持ち上げにくい。
すると、いつの間にか白い獣が隣に立っていた。
日廻が上半身を抱え、白い獣が肩で下から支える。
二人で、ゆっくりと浅瀬を進んだ。
川岸では、灰白色の生き物が待っていた。
二足の生き物を草の上へ寝かせると、すぐにそばへ駆け寄り、前足で頬を軽く叩く。
『チラ。チラッ』
白い獣も、その場へ座り込んだ。
もう立ち続ける力が残っていないらしい。
「やっと座ったか」
日廻は苦笑した。
白い獣は、少しだけ顔を背けた。
「悪かったよ。余計なこと言って」
日廻は周囲を見渡した。
傷ついた生き物たち。
疲れ果てた白い獣。
倒れた二足の生き物。
彼らをこのままにして、帰ることはできる。
日廻には関係がない。
この場所がなぜ現れたのかも知らない。
この生き物たちが何者なのかも知らない。
どんな病気を持っているかも分からない。
人を襲う危険もある。
行政へ連絡するべきなのだろう。
専門家に任せるべきなのだろう。
そう考える自分がいた。
一方で、あの巨大な穴について、専門家たちが何一つ理解できていないことも知っている。
調査隊が戻らないという噂。
見たことのない生き物が捕獲され、檻の中で暴れている映像。
人間は、未知のものを恐れる。
恐れたものを閉じ込める。
利用できると分かれば、利用する。
日廻自身も、白い獣の姿と血を見ただけで、襲った側だと決めつけた。
この生き物たちを人間の側へ連れていけば、安全に保護される。
そう言い切ることはできなかった。
灰白色の生き物が、日廻の足元へやって来た。
前足で、ズボンの裾を引く。
「なんだ」
生き物は、傷ついた仲間を指した。
それから、日廻を見上げる。
「俺にどうにかしろって?」
『チラッ』
「いや、無理だろ」
日廻は辺りを見回した。
「俺は医者じゃない」
灰白色の生き物は、もう一度裾を引いた。
「おまえな」
日廻はため息をつき、空を見上げる。
この世界にも太陽がある。
だが、その位置が正しいのか分からない。
こちらと同じように時間が流れている保証もない。
長居は危険だった。
傷ついた生き物たちを置いていくことも、同じくらい危険だった。
畑の近くには、古い作業小屋がある。
以前は農機具を置いていたが、今は半分以上空いている。
蛇口をひねれば水は出る。
出荷しない不揃いな野菜もある。
消毒液や包帯程度なら、家に置いてある。
獣医を呼ぶことは難しいかもしれない。
だが、ここへ置いていくよりはましだ。
「いや、待て」
日廻は自分の考えに首を振った。
「何匹いると思ってる」
傷ついた生き物たちが、こちらを見ている。
「餌だって分からない。何を食うんだ。肉食のやつもいるだろ」
誰も答えない。
「そもそも、おまえたちが俺を信用する理由がない」
灰白色の生き物は、日廻の足元へ座った。
長い尻尾を両手で持ち、それを使って日廻の靴やズボンについた泥を拭き始める。
まるで、お礼をしているようだった。
「勝手なやつだな」
日廻は白い獣を見た。
白い獣は静かだった。
警戒心は残っている。
それでも、最初に向けられた鋭さは薄れていた。
「……どうする」
日廻は尋ねた。
「ここに残るのか」
白い獣の視線が、傷ついた生き物たちへ向く。
自分の体も限界に近い。
それでも、彼らを置いていくつもりはないらしい。
「おまえ一人で守る気か」
白い獣は答えない。
「次にああいうのが来たら、今度は止められないぞ」
白い獣の顔が、わずかに伏せられる。
分かっている。分かっていて、それでも残るつもりなのだ。
日廻は、兄のことを思い出した。
最後に電話がかかってきた日。
日廻は仕事中だった。
忙しいからあとにしてくれ、と言った。
兄は笑っていた。
大した用事じゃない、と言った。
それが最後になった。
いつも仏頂面で愛想のない日廻に、兄は毎日のように話しかけてくれた。
生活費や学費のために働き、自分の時間も体も削ってくれた。
それなのに、日廻は何も返せなかった。
最後にそばにいることさえできなかった。
あの日からずっと、日廻は何かを選ぶことを避けてきた。
選べば、間違えるかもしれない。
近づけば、また失うかもしれない。
だから、人から離れた。
何も望まなければ、失わずに済むと思った。
だが今、傷ついた生き物たちを前にして、日廻は分かっていた。
ここで背を向ければ、何が起きても、知らなかったことにはできない。
日廻は目を閉じた。
間違いなく、面倒なことになる。
家は汚れるだろう。
畑も荒らされるかもしれない。
近所に見つかれば騒ぎになる。
行政も警察も来る。
説明を求められる。
自分の静かな生活は終わる。
そもそも、そんな生活を守りたかったのか。
日廻は自分に問いかけた。
―――答えは出なかった。
「おい」
足元にいた灰白色の生き物が、日廻のズボンへ尻尾をこすりつけていた。
別の場所についた泥まで、丁寧に拭き始める。
「人の服で掃除をするな」
『チラッ!』
「返事だけはいいな」
思わず日廻は笑った。声に出して笑ったのは、いつ以来だろう。
傷ついた生き物たちも、不思議そうに顔を上げた。
日廻は頭をかく。
「分かった、分かったよ」
その声が、静かな草地へ落ちる。
日廻は倒れている二足の生き物の前へ行った。
しゃがみ込み、背中を向けて、長い腕を自分の肩へ回した。
「よいしょ」
力を入れて立ち上がる。
重い。
足元がふらつく。
それでも、どうにか背負った。
二足の生き物の腕が、日廻の胸の前へ垂れる。
体は温かかった。
確かな生命の温もりと重さが、背中へ伝わってくる。
日廻は白い獣を見た。
次に、灰白色の生き物を見る。
傷ついた生き物たちを、一匹ずつ見渡した。
言葉が通じるかは分からない。
信用されるかも分からない。
それでも日廻は、彼ら全員に向かって言った。
「……
風が吹いた。
草が波のように揺れる。
白い獣の長い毛が風になびいた。
赤い瞳が、まっすぐ日廻を見ている。
「大したことはできない」
日廻は続けた。
「何を食うのかも知らないし、傷の治し方も分からない」
背中の生き物を支え直す。
「でも、水くらいはある」
灰白色の生き物が耳を立てた。
「食えるものも、多分ある。……お前はトマトを勝手に盗るなよ」
灰白色の生き物は、嬉しそうに跳ねた。
傷ついた仲間たちの間を走り回り、何度も声をかける。
「嫌なら残ればいい」
日廻は白い獣へ言った。
「無理に連れていくつもりはない」
白い獣は、ゆっくりと日廻へ近づいた。
まだ足を引きずっている。
赤い瞳が近づく。
襲われれば避けられない距離だった。
日廻は動かなかった、白い獣は顔を寄せ、匂いを確かめる。
それから、ほんの少しだけ頭を下げた。
服従ではない。
感謝とも違う。
ただ、一時的に道を預ける。
そんな仕草に見えた。
『チラッ!』
灰白色の生き物が、満面の笑みを浮かべて日廻の頭へ飛び乗った。
視界の端で、体と同じほど長い尻尾が揺れている。
日廻は鬱陶しそうに眉をひそめた。
「おまえは歩け」
『チラッ』
「疲れてないだろ」
生き物は器用に手足で日廻の頭をつかみ、逆さに覗き込むように潤んだ目を向けてくる。
「その手はもう通じない」
耳が伏せられた。
「通じないからな」
首元に尻尾が力なく垂れる。
日廻はしばらく黙った。
「……少しだけだぞ」
灰白色の生き物の耳が、勢いよく立ち上がる。
日廻はため息をついた。
「絶対、分かってやってるだろ」
小さな一団が、ゆっくりと動き始めた
先頭には、二足の生き物を背負った日廻。
その隣を、白い獣が歩く。
後ろには、互いを支え合う傷ついた生き物たち。
灰白色の生き物は日廻の頭の上から、ときどき仲間へ声をかけていた。
帰り道は遠く感じられた。
背中は重い。
頬の傷が痛む。
足元も安定しない。
それでも日廻は、来たときほど周囲を怖いとは思わなかった。
未知の森。
知らない空。
見たことのない生き物たち。
何一つ分かっていない。
だが、分からないことと、恐れることは同じではなかった。
森を抜け、巨大な穴の入り口へ戻る。
向こう側には、日本の杉林が見えた。
薄暗く、湿っていて、ありふれた山の景色。
日廻が境目の前で立ち止まると、白い獣も足を止めた。
穴の向こうを警戒している。
彼らにとっては、日廻たちの世界こそ未知なのだ。
「大丈夫だ、少なくとも、俺は何もしない。おまえたちを売ったり、閉じ込めたりもしない」
傷ついた生き物たちも、静かにこちらを見ている。
「嫌になったら、ここへ戻ってくればいい」
日廻は一歩、境目を越えた。
続いて、白い足が日本の湿った土を踏む。
振り返ると、ほかの生き物たちも恐る恐る足を踏み出していた。
日廻は最後に一度、穴の中を振り返る。
この巨大な穴の向こう側に、別の世界がつながっている事実をやっと飲み込めた気がした。
「……帰るぞ」
その日、一人の青年の静かな暮らしは終わった。
世界を救おうと思ったわけではない。
未知の生き物たちの未来を背負う覚悟があったわけでもない。
ただ、傷ついたものを見捨てることができなかった。
帰る場所のないものたちに、帰れとは言えなかった。
だから日廻は、ただ自分の家へ招いただけだった。
それが、人間と、後にポケモンと呼ばれる彼らが共に生きる世界の、ほんの小さな始まりになることを、このときはまだ誰も知らなかった。
ご一読ありがとうございます!!!!!!
因みに登場ポケモンは
白い獣=アブソル
チラ=チラーミィ
赤い触覚の緑虫=キャタピー
茶色の体と赤い目=ミネズミ
灰色の鳥=ムックル
丸い青い生き物=マリル
紫色の二足=コジョンド
となります。