黒い。
森の影に紛れているから、そう見えるのではない。
日廻の隣にいるアブソルと、輪郭そのものはよく似ていた。
頭から伸びる鎌のような角。四足の身体。首元を覆う長い毛。
なのに、目の前の個体は明らかに違う。
本来なら白いはずの毛は、光そのものを吸い込んだような黒に染まっていた。赤い瞳だけが、舞い上がった土煙の向こうで異様なほど鮮明だった。
だが、その目もおかしい。
こちらを見ている。
確かに見ているはずなのに、何も映していないように見えた。
焦点の定まらない、虚ろな赤。
口元は僅かに開き、覗いた牙の隙間から細い唾液が垂れている。呼吸のたびに、喉の奥から低い音が漏れた。
怒っているとも、威嚇しているとも違う。
ただ身体だけが、操られる人形のように動いている。
『アブ……』
隣から漏れた声に、日廻は視線を向けた。
アブソルが固まっている。
前脚は地面についている。けれど、いつでも飛び出せる構えではない。
「アブソル?」
思わず、その名が口から零れた。
黒い個体がこちらを見ているが、声に反応したわけではない。
いや、日廻ではない。
その虚ろな視線は、真っ直ぐ前へ出ていたチラーミィへ向けられていた。
『チラ……』
チラーミィが身を低くする。
普段の無邪気さが消え、青い瞳が黒いアブソルを見据えた。
「……狙いはチラーミィか」
『たぶんそうロト。さっきから視線がずっとチラーミィに向いてるロト!』
黒いアブソルの頭が、僅かに傾いた。
その動きに不穏な感覚を覚えた。
考えているようには見えない。首だけが遅れて動いたような、不自然なぎこちなさ。
次の瞬間、黒い身体が沈んだ。
「コジョンド!」
『コジョ!』
呼ぶより早く、コジョンドが前へ出た。
黒いアブソルが地面を蹴る。
「――っ」
日廻の身体が強張った。
速い。
そう思ったときには、もう距離が消えていた。黒い角がコジョンドへ迫る。
映像で見たものとは違う。ロトムに見せてもらったポケモン同士の戦い。
技。タイプ。相性。
画面越しなら、それを知識として眺めていられた。
しかし、今、目の前には、映像では伝わらない生の闘争があった。
『コジョ!』
コジョンドは退かなかった。
片足を斜め前へ滑らせ、身体を薄くする。
黒い角が胸のすぐ脇を抜けた。腕から垂れた長い毛が、その風圧に煽られて跳ね上がる。
近すぎる。日廻が息を止める間にも、コジョンドは動いていた。
突進する相手の肩へ片手を添え、その勢いに合わせて腰を捻る。もう一方の掌が、がら空きになった横腹へ突き込まれた。
空気が破裂したような鈍い音がした。
黒いアブソルの身体が横へ弾かれる。踏みとどまろうとした爪が土を削り、落ち葉が扇状に飛び散った。
コジョンドの足は、もう次の場所にあった。
掌を引き戻す動きで肩を回し、相手の正面から外れる。黒いアブソルが角を振ったときには、その先端は長い尾を掠めるだけだった。
避けた先で、膝が持ち上がる。
脇腹への蹴りが黒い身体が浮き、地面へ転がった。
「……!」
日廻は、ようやく息を吐いた。
コジョンドが何をしたのか、全部は分からなかった。
角が迫った。避けた。掌が当たった。
そこまでは見えた。
けれど、それぞれが別の動きに見えない。避け終わる前に次の一撃が始まり、打ち終わる頃には、もう相手の攻撃が届かない場所へ移っている。
腕の毛が、遅れてふわりと落ちた。
黒いアブソルが四肢を立てる。
痛みを堪える仕草がない。脇腹を打たれたはずなのに、そこを気にする様子さえなかった。
「いける……」
思わず漏れた言葉に、自分で違和感を覚えた。
何が、いける。
今、目の前で生き物同士が本気で殴り合っているのに。
黒いアブソルが頭を低くした。
コジョンドも膝を緩める。片手を前へ、もう片方を胸元へ引き、相手の動きを待った。
赤い目は、コジョンドの肩越しにチラーミィを捉えていた。
黒い身体が走る。
今度は正面からではなかった。コジョンドの脇を抜け、小さな灰色の身体へ一直線に向かう。
コジョンドが横へ跳んだ。行く手を塞ぐように片足を着き、その足を軸に身体を回す。もう片方の脚が低い弧を描き、踏み出された黒い前脚を払った。
体勢が崩れても、角は止まらなかった。
落ちてくる黒い刃の下へ、コジョンドが自分から潜り込む。地面すれすれまで身を屈めた頭上を、角が唸りを上げて通り過ぎた。
短く畳んだ肘が、相手の肩口へ入る。
黒いアブソルが傾いた。その横をすり抜けながら、コジョンドが振り返る。
振り返りざま、片膝を引き上げた。
伸ばした脚を、胴を押し返すように蹴り込む。
黒い身体が数歩分、後ろへ滑った。
『コジョ!』
着地したコジョンドが、すぐに追う。
軽い足音に続いて、鋭い蹴りが頭の横を薙いだ。
黒いアブソルが身を捻る。一撃目は外れた。
日廻には、コジョンドまで体勢を崩したように見えた。
蹴った脚が大きく流れ、背中が相手へ向く。
危ない。声にするより早く、コジョンドが地面へ片手をついた。
腕が身体を支える。長い尾が逆側へ振れ、浮いた腰の下から、もう片方の脚が跳ね上がった。
追いかけてきた黒いアブソルの脇腹を、踵が捉える。
重い音とともに、黒い身体が地面を滑った。
コジョンドは手を離し、跳ねるように立ち上がった。乱れた毛を払うこともなく、再び片手を前へ出す。
その位置は、さっきとほとんど変わらない。
チラーミィと、黒いアブソルの間だった。
『相性はこっちが有利ロト! アブソルはあくタイプ! かくとう技なら抜群ロト!』
「コジョンド、そのまま……いや、無理に詰めるな!」
『コジョ!』
口から出た指示に、遅れて怖さが追いついてくる。
もし間違っていたら。
今の一言で、コジョンドが踏み込みすぎたら。避け損ねたら。
その結果、傷を負うのは自分ではない。
乾いた喉に本能が水を求める。
怖いと思った。
逃げたい、とすら思った。
本気で傷つけ合う生き物を目の前にして、平然としていられるほど日廻は慣れていない。
それでも目を逸らせなかった。
自分がここにいて、何ができる。
二匹の動きに、目さえ追いついていない。
それでも、相手が誰を狙っているかは分かる。
黒いアブソルは速い。だが、狙いはほとんど変わらない。
チラーミィ。
そこへ至る最短距離を選んでいる。
「チラーミィ、コジョンドの後ろから離れるな!」
『チラ!』
チラーミィが頷く。
黒いアブソルはまだ健在のようだった。
赤い目だけがチラーミィを向く。
次の瞬間には。
「右!」
日廻が反射的に叫んだ。
黒い姿が掻き消える。
コジョンドの右側。爪が振り抜かれた。
『コジョッ!』
素早く上体を反らす。
黒い爪が胸元を舐めるように掠め、毛が散った。
その一瞬に舞うコジョンドの毛を目にして日廻の背筋が冷える。
今、ほんの少し深ければ、どうなっていたのか。
黒いアブソルは止まらなかった。着地した前脚で土を掻き、反らされた胸元へ角を薙ぎ払う。
合わせてコジョンドが後ろへ足を引いた。
一歩。もう一歩。
それでも黒い角が空を切るたび、腕の毛が裂けて舞った。
押されている。そう思った日廻の目に、コジョンドのすぐ背後に迫る太い幹が映った。
これ以上、下がればぶつかる。
黒いアブソルが踏み込む。
コジョンドの身体がぶれる。
小さく弧を描くように左右に体を揺らして、一瞬で横へ身体を滑らせた。
片手が地面を掠め、頭上を抜けた角が背後の樹を切り裂く。
木片が飛び、コジョンドはもう相手の横にいた。
掌が顎の脇を押し、こちらへ向きかけた頭を逸らす。続けて踏み込んだ足が、黒い前脚の外へ入った。
肩がぶつかるほどの距離。
そこで、腰が回った。
短い肘打ちが横腹へ沈む。
黒いアブソルの四肢が踏ん張った。その身体がこちらへ向き直るより早く、コジョンドは身を離していた。
追って振られた角の先を、長い毛がひらりと逃れる。
空振りで流れた黒い斬撃。
その向こうへ、コジョンドの視線が先に回った。
軸足が返る。
尾がしなり、全身の回転に引かれた脚が大きく弧を描いた。
蹴りが胴を捉えた瞬間、低い音が腹の底へ響いた。
黒い身体が横へ吹き飛ぶ。
木の幹へぶつかり、枝から落ち葉が降ってきた。
重い音が森へ響いた。
「……っ」
勝っている。
たぶん。
なのに、少しも安心できない。
『コジョ!』
コジョンドは構えを崩さない。
以前とは違った。
怯えて暴れているのではない。呼吸は荒い。それでも相手を捉え続けている。
チラーミィの位置。日廻の位置。逃げ道。
全部を確かめながら戦っている。
「よし……すごいぞコジョンド!」
声を掛けると、コジョンドがこちらを見ないまま、相槌を打つように頷く。
黒いアブソルが立ち上がる。
日廻から見れば、立てるのかと疑いたくなるほど強く打ちつけたように見えた。
実際、その前脚は一度、体重を支え損ねた。
肩が沈む。顎が地面につきかける。
だが、黒い個体は足の置き方を変えなかった。同じ脚で土を押し、傾いた身体を強引に持ち上げる。
赤い目は、もう一度チラーミィを見据える。
『チラ!』
チラーミィが前脚を振る。
黒いアブソルが踏み出す寸前、その足元の土が不自然に盛り上がった。落ち葉ごと地面を押し上げられ、黒い身体が横へ流れる。
『サイコキネシスまで使うロト!?』
「驚くの後!」
『それはそうロト!』
コジョンドが距離を詰める。
黒いアブソルが崩れた足場を蹴った。
土が砕け、身体が跳ねる。低く突き出された角が、踏み込んだコジョンドの胸へ向かっていた。
コジョンドは、その手前で足を止めた。
腕を大きく振る。
長い毛が鞭のようにしなり、黒いアブソルの顔の前を横切った。赤い目が一瞬、白い毛の向こうへ隠れる。
その間に、身体が入れ替わった。
コジョンドが斜めへ踏み出し、空中の黒い身体を脇へ通す。振った腕を引きつけた勢いで、反対の掌が胴へ打ち込まれた。
黒いアブソルの身体が捻れる。
着地しようとした前脚が、地面を捉え損ねた。
コジョンドは追いついていた。
一歩目で腰を落とす。
二歩目で、地面を踏みしめる。
短く吐いた息とともに、伸ばした脚が黒い胴を斜め下へ蹴り抜いた。
黒いアブソルが土へ叩きつけられ、そのまま何度か転がる。
舞い上がった落ち葉の中で、コジョンドが片足を下ろした。
追撃はしない。
構えを保ったまま、肩越しにチラーミィを見る。
小さな頷きが返った。
示し合わせた言葉などなかった。
それでも、チラーミィが崩した体勢を、コジョンドは逃さなかった。日廻が何を指示するか考えている間に、二匹はもう互いの動きを繋いでいた。
今なら。
そう思った瞬間、すぐ隣で土を掻く音がした。
「……アブソル」
まだ動いていなかった。
黒い個体から、一度も目を離していない。
最初は、怖いのだと思った。
けれど違う。怯えているなら、もっと後ろへ下がる。
しかし、アブソルは、むしろ前へ出ようとしていた。
前脚に力が入っている。牙を見せている。
それでも、一歩目だけが出ない。
傷つけたくない。
その言葉が、唐突に頭へ浮かんだ。
日廻には、黒い個体が誰なのか分からない。
それでも、ただの敵を見る目ではなかった。
「……知ってるのか?」
『フォッ……』
か細い。これまで聞いたことのない声だった。
問いを重ねる前に、黒いアブソルがまた起き上がった。
赤い目が、ほんの一瞬だけ白いアブソルへ向く。
『……フ、ォ…』
喉の奥で音が鳴る。
声とも呼べない。
けれど、アブソルの耳が大きく震えた。
『アブソル……?』
黒い個体の瞳が揺れた。
ほんの僅か、そこに何かが戻りかけたように、日廻には見えた。
だが、赤い瞳の奥を、黒い靄のようなものが走った。
焦点が外れ、瞳の光が消える。
口が開き、唾液が糸を引く。
次の瞬間には、もうチラーミィだけを見ていた。
『チラ!』
黒い身体が走る。
コジョンドが割り込む。
衝突。
弾かれる。
また立つ。また襲う。
今度はコジョンドの掌が、黒い角を横へ逸らした。
がら空きになった胴へ、再び蹴りを入れて距離を取る。
着地した黒いアブソルの前脚が折れ曲がった。
傷ついた肩が地面を擦る。
それでも、そのまま身体を捻り、角を振った。
「何なんだよ……こいつ」
痛みを感じていないのか。
それとも、感じることすら許されていないのか。
立ち上がるたびに脚が震え、身体を持ち上げるまでの間が長くなっている。それでも、同じ脚へ体重をかけ、無理に踏み込んでくる。
効いていないわけではなかった。
身体は、確かに傷ついている。
なのに、その身体を守ろうとする仕草だけが、どこにもない。
『日廻……あいつ、傷ついた脚も腹も全然かばわないロト』
ロトムの声から、先ほどまでの勢いが消えていた。
コジョンドが相手の足元へ目を落とす。次の踏み込みを避けたあと、追いかけずにこちらとの間へ戻った。
アブソルの喉から、細い声が漏れた。
あの傷が見えているのだ。
呼びかけにも戻らず、傷を増やしながら向かってくる姿を、ずっと見ている。
ぞっとした。
その身体は生きている。
けれど、この相手は、どこで戦いをやめるのだろう。
痛くても退かない。
脚が支え損ねても、また走る。
このまま攻撃を重ねれば、いずれ動かなくなるのかもしれない。
それは、本当にただ気を失って倒れるだけで済むのか。
「……このまま傷つけて、大丈夫なのか」
問いというより、口からこぼれた不安だった。
ロトムは、すぐには答えなかった。
黒いアブソルが、再び身を沈める。
前脚が小刻みに震えていた。
それでも、体重を逃がそうとはしない。赤い目はチラーミィだけを捉えている。
自分では止まれないのではないか。
身体が動く限り、何度倒されても起き上がる。
それこそ、死ぬまで。
そこまで考えて、日廻は息を呑んだ。
黒い角が迫り、コジョンドの蹴りが、迎え撃つようにもう一度入った。
黒いアブソルが地面へ倒れる。
今度はすぐには起き上がらない。
『……コジョ』
コジョンドも息を荒げている。
構えたまま、横たわる相手を見つめていた。そこへ踏み込もうとはしない。
「もういい、無理に――」
言い終わらなかった。
空気が変わった。
『……ロト?』
黒いアブソルの身体が痙攣した。
一度。二度。三度。
四肢が地面を掻く。
ゆっくりと顔を上げ、虚ろな赤い目には、もう何も残っていなかった。
口元が開き、涎が落ちる。
そして、その身体から、黒い光が溢れ出した。
「……何だ?」
『これは――』
ロトムの声が強張る。
『―――暴走、メガシンカ、ロト』
黒いアブソルの身体から、光が噴き出した。
傷ついた四肢も、土を掻く爪も、瞬く間にその輝きへ呑まれていく。最後まで見えていた赤い瞳が消え、光は丸く閉じた。
そこに、黒い光の球が浮かんでいた。
内側は見えない。
ただ、その表面を走る明滅に合わせて、周囲の落ち葉が震えていた。土煙が押し退けられ、日廻の頬を熱を帯びた風が撫でる。
光の球が、内側から何かが押し広げているように脈打った。
そう思った瞬間、表面に亀裂が走った。
裂け目から、凄まじい光が迸る。
「――っ!」
光の殻が力の奔流によって砕け散った。
解き放たれた力が森を駆け抜ける。落ち葉が一斉に舞い上がり、日廻はあまりの光に腕で顔を庇った。
踏みとどまり、目を開く。
砕けた光の向こうに、黒い影が立っていた。
先ほどまでとは、違う姿で。
濃い藍色を帯びた黒い体毛。顔の片側を覆う長い前髪。露わになった側からは、稲妻のように折れた角が鋭く天を指している。
首元から胸を覆う毛は幾重にも重なり、背後には長い房が広がっていた。その先端だけが、不穏な赤に染まり、まるで赤黒い悪魔の爪のように見えた。
その変化自体は、美しいとさえ言えた。
だからこそ、余計に気味が悪かった。
あれほど傷ついていた身体が、まだ立っている。
神秘的な光の中で姿が変わっても、赤い瞳には意思を感じられない。
動けるようになった身体を、すぐに前へ向ける。
白い牙の間から、粘ついた唾液が糸を引いて落ちた。喉の奥では、荒い呼吸が断続的に鳴っている。
気高い姿を残して、その中身から理性だけを削り取られてしまったようだった。
『メガアブソル……?いや、違うロト』
ロトムの声が震える。
そして。
「何が」
『反応が違う。ゴーストタイプが混ざってるロト……!』
コジョンドが深く息を吐き腰を落とした。
チラーミィがその背後で身構える。
隣のアブソルは、食い入るように変わり果てた姿を見つめていた。
倒しても何度も起き上がる。
傷ついても止まらない。
その相手が、さらに力を増してしまった。
黒いメガアブソルが、ゆっくり顔を上げる。
首が不自然な角度で止まった。
虚ろな赤い瞳が、チラーミィを捉える。
次の瞬間。
黒い影が、消えた。
感想、評価、よろしくお願いします。
後編は……頑張ります。