『コジョ!』
黒い災いを前にしても、最初に動いたのはコジョンドだった。
消えた黒い影を追って身体を捻り、踏み込む。飛び膝蹴り。
先ほどまで何度も黒いアブソルを捉えてきた一撃。
間違いなく直撃した。そう見えた。
なのに、コジョンドの脚が黒い身体をすり抜けた。
「――は?」
日廻の頭が、一瞬だけ止まった。
突き出した膝は、何も捉えなかった。コジョンドの身体が勢いのまま宙を流れる。着地するより早く、その横腹へ黒い尾が振り抜かれた。
『コジョッ!』
コジョンドの身体が宙へ浮き、木の根元まで吹き飛ばされる。
「コジョンド!」
木の根に片手をつき、コジョンドが顔を上げた。日廻へ向けて、短く首を振る。
来るな。そう受け取って、踏み出した足を止めた。
『かくとう技が効かないロト!』
「何で!」
『ゴーストには通らないロト! あいつ、あくとゴーストになってるロト!』
さっき、確かに聞いた。
ゴーストタイプが混ざっていると。
その意味を理解する前に、コジョンドが吹き飛ばされた。
「……くそ」
知識として聞いたことと、目の前で起きることが繋がらない。
今の蹴りなら当たると思った。前と同じように、押し返せると思っていた。
知らないまま次を促していたら。
日廻は唇を噛み、起き上がるコジョンドを見た。
『コジョ……!』
「無理に攻撃するな! 距離を取れ!」
コジョンドが頷く。
低く構え直したが、今度は踏み込まなかった。
黒いメガアブソルは、もう別の方を見ていた。
チラーミィ。
虚ろな目が、小さな灰色の身体を捉える。
完全に静止したかと思えば、次の瞬間には跳んでいた。
地面を蹴ったと認識したときには、二匹の間の距離が消えている。
『チラッ!』
淡い壁が生まれた。
黒い爪が叩きつけられる。
一撃。光が軋む。
二撃。壁に亀裂のような筋が走る。
そのたびに、傷ついた肩が大きく動いた。傷を負っているはずなのに、振り下ろす勢いは少しも緩まない。
三撃目。壁が砕け散った。
だが、チラーミィは既に横へ走っていた。
黒い牙が空を噛み、そのまま土を抉る。チラーミィが太い幹の裏へ回ると、黒い個体もすぐに顔を上げた。
「木を挟め! 真っ直ぐ逃げるな!」
開けた場所では追いつかれる。
せめて、相手にも曲がらせる。
チラーミィが隣の木へ移る。コジョンドも別の側から回り込み、二匹が互いの姿を見失わない距離を保った。
黒い影が幹の間を抜けるたび、爪が樹皮を削った。
コジョンドが掌を上げかけ、止める。
反撃できる間合いにいても、手を出せない。
その一瞬を詰められ、後ろへ跳んだ腕から白い毛が散った。
深くはない。
けれど、退くたびに足場が悪くなる。二匹は相手を引き離せていない。
「アブソル……!」
日廻は隣に立ち尽くしているアブソルを見つめた。
黒いメガアブソルを見たまま、動いていない。
耳が伏せていた。いつものように鋭く立った姿ではない。
動いてほしい、本音ではそう思った。
力を貸してほしい、あの二匹だけではいつまで保つか分からない。
嘆願することもできなかった。目の前の相手を見る横顔に、ただの恐怖ではないものがあった。
『……フオオゥ』
白いアブソルが、声を上げた。
日廻へ向けたものではなかった。
黒い個体が木々の間から出てくる。
その進む先へ、アブソルが一歩踏み出す。
『フオ……オオゥ……』
もう一度、呼んだ。
黒いメガアブソルは何も返さない。
白いアブソルは、荒い呼吸の合間に短く鳴いた。
いつもの澄ました声とは違った。何かを確かめるように、少しずつ距離を縮めていく。
その呼びかけに応えることなく、黒い爪が振るわれた。
『フオオッ!』
白いアブソルが飛び退く。
完全には避けきれなかった。頬を掠め、白い毛が散る。
それでも反撃しない。
『フオッ……フオオオッ!』
もう一度、必死に呼ぶ。
黒いメガアブソルの目は、再び木々の間を動く灰色の姿へ向いていた。
すぐ目の前にいる白いアブソルを、もう見てさえいない。
白いアブソルが俯いた。尾が下がり、一歩、後ろへ退く
「アブソル?」
日廻は、その顔を初めて見た。
怖がっているのではない。
怒っているのでもない。
目の前にいる相手を見ながら、何かを終わったことにしようとしている。
もう、自分の知っている相手ではない。
そう言い聞かせようとしているように見えた。
黒いメガアブソルが地面を蹴る。
木々の向こうで、チラーミィの声がした。盛り上がった土を飛び越え、黒い影がその後を追う。
「――諦めるな!」
考えるより先に出た言葉が森に響いた。
思わず、アブソルが日廻に振り向く。
日廻自身も、そこで言葉に詰まった。
自分は何も知らない。
あの黒いアブソルが誰なのか。二匹に何があったのか。どれだけ大事なのか。
何一つ知らない。
それでも、あんな顔をして諦めることだけは。
どうしても。
「……諦め、ないでくれ」
声が落ちた。
最初の叫びとは違った。
「お前にとって、あいつは大事な奴なんだろ。だったら……まだ終わらせるな」
アブソルの赤い目が揺れる。
枝の折れる音がした。
コジョンドが倒木を越え、チラーミィがその下を抜ける。黒い個体は足を止めず、回り込んで追った。
時間がない。
分かっているのに、喉が痛んだ。
胸の奥。触れたくなかったものが、勝手に浮かび上がる。
突然、鳴った電話。
画面に表示された名前。ただ一人、家族と言える人。
そのとき自分が何をしていたのかさえ、今では曖昧なのに。
言った言葉だけは、妙にはっきり覚えている。
忙しいから、あとにしてくれ。
それだけだった。
それが最後の会話になるなんて、知らなかった。
「もし、あいつが死んだら」
必死に声を絞り出し、掠れる。
「感謝も、後悔も、願いも……言いたかった、伝えたかったこと全部、何一つ届けられなくなるんだ」
アブソルが日廻を見る。
自分が何を言っているのか途中から分からなくなっていた。
目の前のアブソルへ言っているのか。
昔の自分へ言っているのか。
「だから」
暴れ狂っている黒い個体を見る。
生きている。
壊れているように見える。
それでも、まだ生きている。
「まだ生きてるなら、勝手に終わらせるな」
アブソルは動かなかった。
向こうで土が跳ねた。
黒いメガアブソルが着地し、傷ついた脚を僅かに沈ませる。その姿へ、アブソルはゆっくりと顔を戻した。
下がっていた尾が上がる。
前脚が土を掴んだ。
震えている。
怖いのだろう。傷つけたくないのだろう。
それでも、もう下がらなかった。
日廻は相手の足元を見る。
踏み込むたびに前脚が沈み、その遅れを取り戻すように、後ろ脚が強く地面を蹴っていた。
姿が変わっても同じだった。
傷が治ったわけでも、身体が傷つかなくなったわけでもない。増した力で、傷ついた身体をさらに酷使している。
「ロトム。あいつ、自分じゃ止まれないんじゃないか」
『……傷が増えても、動きを変えないロト』
ロトムの声が硬い。
『限界が来ても、そのまま動こうとするかもしれないロト』
アブソルが二人を見た。
その視線が、傷ついた黒い体へ落ちる。
「少しずつ弱らせるんじゃ駄目だ。このままじゃ、死ぬまで向かってくる」
言葉にした途端、胃の奥が冷えた。
止まるまで攻撃する。
それでは、止まったときに生きているとは限らない。
「強烈な一撃か一瞬の連撃で気絶させる。傷を増やし続ける前に、意識を落とすしかない」
『……簡単じゃないロト』
「分かってる」
強く殴れば助けられるなどと、日廻に言えるはずもなかった。
加減を誤れば、それこそ取り返しがつかない。
それでも、傷だらけの身体が動かなくなるまで攻撃を重ねることだけは、選べなかった。
アブソルが日廻を見る。
先ほどとは違う目だった。
傷つけずには止められない。
それを分かったうえで、なお取り戻そうとする目。
「……やれるか」
『フオゥ』
短い。
けれど、迷いのない声だった。
その瞬間、日廻の頭へ一つの物が浮かんだ。
「ロトム。ゼンブイリングは」
画面が固まった。
『何する気ロト!?』
「あいつがやったの、メガシンカなんだろ! なら、アブソルもできるのか!」
一瞬、ロトムが答えなかった。
『……ケースに、アブソルナイトも入ってるロト』
「それがあれば?」
『できる可能性はあるロト。でも!』
声が鋭くなる。
『ゼンブイリングは未完成ロト! 人間側への負荷も分からない! メガシンカ用の制御だって――』
日廻は最後まで聞くことなく、地面に置かされていた黒いケースを拾い上げた。
「使い方を教えてくれ」
『日廻!』
ロトムにとって、あれが何なのかも知っている。
どんな思いで捨てたのかも、全部ではなくても聞いた。
日廻は一度、息を噛み殺した。
「……俺が使う。こいつに、無理やりやらせるんじゃない」
アブソルを見る。
「アブソルだけじゃない、俺がそうしたいんだ」
アブソルは日廻の隣へ並んで同じ目でロトムを見上げた。
逃げない。
黒い個体からも。日廻からも。
自分が選んだ戦いからも。
『……アブソル』
『フオウ』
短い返事。ロトムの画面の中で、目が伏せられた。
『……分かったロト』
日廻はケースの留具へ指をかけた。
木々の向こうで、土が崩れる音がした。
『チラッ!』
チラーミィが、こちらへ走ってきていた。
背後で持ち上げられた土の壁が崩れている。その上を黒い影が越え、着地と同時にまた跳んだ。
コジョンドは反対側にいた。倒木を回り込もうとしている。
チラーミィが振り返った。
前脚を上げる。
淡い光が灯ったが、広がりきらない。
赤黒い爪が、振り上がったその時、日廻は動いていた。
手の中にあるものを、その間へ差し込んだ。
盾になるかどうかなど、考えなかった。
黒いケースの表面へ、爪が食い込む。
凄まじい音がした。腕ごと押し返される。斜めに傾いたケースを赤黒い爪が裂き、砕けた蓋が目の前を横切った。足が地面から離れた。
「――ぐっ!」
背中が土へ叩きつけられる。
息が潰れた。
肩から転がり、落ち葉を掴む。吸おうとしても、喉がひきつるだけだった。
『日廻!?』
ロトムの声。
黒い影が視界の端を過ぎる。
逸れた一撃が土を抉り、チラーミィはその横を転がり抜けていた。起き上がると同時に前脚を振る。剥がれた土と落ち葉が渦を巻き、黒い個体の顔の視界を覆った。
日廻は震える体で必死に顔を持ち上げる。すぐ前に、白い輪が落ちていた。
ゼンブイリング。
ケースは、もう形を残していなかった。
砕けた外殻と内張りが散らばり、外れた金具がまだ小さく揺れている。
その向こうに、白い脚が見えた。
アブソルだった。
細い帯の付いた台座に、丸い石が収まっていた。
透き通った水色の奥へ、青と白の流れを閉じ込めたような丸い石だった。
アブソルが僅かに顔を傾ける。
その影が石を横切り、艶やかな表面の下で、模様の濃淡が変わった。
『それロト! アブソルナイト!』
アブソルが顔を上げる。
日廻と、目が合った。
さっきの返事は、変わっていなかった。
アブソルは台座に繋がる帯を咥え、こちらへ歩いてきた。
日廻も、目の前の輪へ手を伸ばす。
「……悪い。落とした」
ようやく出た声は、情けないほど掠れていた。
アブソルが石を手元へ置き、鼻先で日廻の腕に触れる。
分かってる。
まだ、終わっていない。
日廻は片膝を立てた。
石の台座には、留具付きの細い帯が通されていた。
指先で長さを緩め、差し出されたアブソルの首へ回す。
毛を挟まないように留めると、胸元に石が収まった。
今度は、自分の腕へゼンブイリングを嵌める。
思ったより重い。
金属とも樹脂ともつかない感触。
留具が閉じた瞬間、腕の奥を針のような刺激が走った。
「っ……!」
『日廻!?』
「平気」
『まだ起動もしてないロト!』
背中の痛みとは、明らかに違った。
腕の内側から、何かに触れられている。
日廻は歯を食いしばり、立ち上がった。
手に力を込め、拳を握る。
まだ、動かせる。
今は、それを確かめるだけでよかった。
「……説明、頼む」
『外側を回すロト! メガシンカの紋様を、金色の指標に合わせるロト!』
日廻は白い外周部へ指をかけた。
汗で滑る。
掴み直し、腕に固定された内輪を残して捻った。
回転式拳銃のシリンダーを送るように、外周部が回る。
かち、かち、と硬い感触が指の腹へ返ってきた。
刻まれた紋様が順に流れていく。
ロトムの指示に従い、メガシンカを示す紋様が金色の指標へ重なったところで、指を止めた。
かちり。
ひときわ明瞭な音とともに外周部が固定された。
内側を走る青白い光が、脈を打つ。
『そこから、アブソルと意識を合わせるロト! ゼンブイリングは繋ぐだけ! 無理やり引っ張るなロト!』
「もっと具体的に!」
『無理ロト!』
「はぁ!?」
『研究者みたいに数字だけ合わせたら、昔と同じになるロト!』
ロトムの声が震えていた。
『アブソルを見るロト!』
言われて、日廻はアブソルを見る。
赤い瞳。
向こうも、こちらを見ていた。
今まで一緒にいた時間なんて、まだほんの数日だ。
全部を分かっているなんて言えない。
けれど、今、こいつが何をしたいのかだけは分かった。
救いたい。
生きたまま、取り戻したい。
「……同じか」
日廻も、同じだった。
回転を止めた外周部へ、もう一度手を添える。
熱が増した。
腕に触れている部分だけではない。
皮膚の下へ潜り込んだ熱が、肘を越え、肩へ届く。指先が痺れ、押さえているはずの輪の感触が曖昧になった。
『出力上昇! 日廻、無理に――』
ロトムの声が遠くなる。
アブソルが一歩、近づいた。
顔を上げ、日廻を見ている。
胸元のアブソルナイトが光っていた。
淡い水色の奥で、青と白の曲線が鮮やかに浮かび上がる。日廻の腕を締めつける熱に合わせて、その輝きが強く、弱く、揺れた。
五感では説明が出来ない未知の感覚。
繋ぎ止めようとして、日廻は外周部を強く握った。
途端に、腕の奥へ鋭い痛みが走る。
石の光が乱れ、アブソルの瞳が揺れた。
日廻は息を詰めた。強く握りすぎていた指を緩め、アブソルの目を見る。
アブソルは急かすこともなく、こちらを見ていた。
全部を分かっているわけではない。
あの黒い個体と、どんな時間を過ごしてきたのかさえ知らない。
それでも、呼びかけたときの声は聞いた。応えてもらえなかったときの顔も見た。
そして今、こいつは自分で石を拾い、ここにいる。
あいつを、生きたまま取り戻す。
それだけを、胸の中で確かめた。
アブソルが低く息を吐いた。
踏み直された前脚が、日廻の足元に並ぶ。
リングの光が、ひときわ強く脈打った。
胸元の石が、それに応える。
今度は乱れなかった。
腕の痛みは消えない。
怖さも、消えていない。
目の前で繰り返された攻防が、頭に残っている。
すり抜けた蹴り。吹き飛ばされた身体。何度倒れても起き上がる黒い影。
この先、自分の判断が間に合う保証などない。
この道具が何をもたらすのかも、分からない。
それでも、隣に立つアブソルはもう前を向いていた。
日廻は足を開き、土を踏みしめた。
崩れそうになる膝へ力を込める。
ここまで来て、俯いたまま背中を押せるものか。
息を吸った。
胸の痛みごと、深く。
見据えた白い背中へ、届くように。
声を上げた。
「
『フオオオオゥゥゥッッ――ッ!!』
裂帛の咆哮が、森を震わせた。
聞いたことのない声だった。
細く漏れていた呼び声とは違う。胸の底から絞り出された響きが、長く、真っ直ぐに空気を貫いた。
ゼンブイリングから光が迸る。
アブソルナイトも眩く輝き、二つの光が繋がった。
その身体へ、幾筋もの光が集まっていく。
白い毛も、鋭い角も、足元を掴む爪も、瞬く間に輝きへ呑まれた。
光がアブソルを覆い、眩い球へと変わる。
中の姿は見えない。
けれど、日廻は目を逸らさなかった。
腕から肩へ、重い負荷が押し寄せる。
歯を食いしばると、呼応するように光の球が脈打った。
一度。
さらに、強く。
足元の落ち葉が震え、球の周りを滑り始めた。
押し広げられる空気に服がはためく。日廻は力の限り、踏みとどまった。
光の表面に、亀裂が走る。
内側から溢れた輝きが、裂け目を一気に押し広げた。
次の瞬間、光の殻が、砕け散った。
解き放たれた力が、森を駆け抜ける。
舞い上がった落ち葉も、土煙も、その奔流に押し流された。
日廻は眩しさの中で目を細めた。
砕けた光が、視界いっぱいに降り注ぐ。
その中心に、アブソルが立っていた。
白い毛が顔の片側へ流れ、背には翼を思わせる大きな毛の房が広がっている。
残った光を受け、柔らかな白の縁が眩しく輝いていた。
先ほどまでとは、違う姿。
アブソルが振り返る。
赤い瞳が、真っ直ぐこちらを捉えた。
その目には、揺るぎない意思があった。
何をするために、この力を得たのか。
誰を取り戻すために、前へ出るのか。
確かめるまでもなかった。
次の瞬間、白いメガアブソルが地面を蹴った。
土煙を裂き、黒い個体へ走る。
踏み込みの速さに、日廻の目が一瞬遅れた。
白い角と、黒い角が交わった。
甲高い音が響き、黒いメガアブソルが足を止めた。
『……できたロト。これがメガ、アブソル』
ロトムが小さく呟いた。
黒と白が、同時に走った。
二匹が互いを押し返し、距離を取った。
着地と同時に、黒と白が再び走る。
「っ……!」
日廻の身体が反射的に竦む。
爪。角。牙。
白と黒が交差するたび、硬いものがぶつかる音が響く。
毛が散る。土が抉れる。
これは本当に、生きたまま止められるのか。
爪が数センチずれれば。角の角度が少し違えば。
致命傷にならないのか。
分からない。
それでも、見失うわけにはいかなかった。
白いアブソルが身体を沈める。
黒い爪が頭上を通過した。
その懐へ入り込み、肩からぶつかる。
黒いメガアブソルが後退する。
一瞬の交差。
『フオゥゥ!!』
追いかけた白い脚が、土を深く掻いた。
踏み込みが大きすぎる。
黒い個体が身を低くし、その勢いをやり過ごした。
反転。
爪。
「アブソル!」
白い身体が転がる。
すぐに立ったが、足元が一瞬ふらついた。
初めての力。
扱いきれていない。
狙った位置を越えて進み、止まりたい場所で止まれない。
それでも、目は死んでいなかった。
黒いメガアブソルが追う。
傷ついた前脚が沈んだ。
ほんの僅かな乱れ。
そこへ角を振れば、届く。
日廻にも分かった。白いアブソルなら、なおさら分かったはずだった。
けれど、アブソルは角を振らなかった。
相手の攻撃だけを弾き、横へ抜ける。
黒い個体は、その動きを追って無理に身体を捻った。
「ロトム。あくとゴーストなら、フェアリーは!?」
『効くロト!』
短い返事。
日廻は白いアブソルを見た。
今の力で、確実に届く距離まで入れれば。
何度も傷を重ねずに済む、一度きりの機会を作れれば。
ゼンブイリングが腕を締めつけた。
熱い。
手の先が痺れている。
日廻は指を握り込み、二匹を見失わないようにした。
「コジョンド!!チラーミィ!!頼む!―――あいつに、道を作ってくれ!!」
その切なる叫びにコジョンドとチラーミィが目を合わせた。
短く頷き、同時に動いた。
チラーミィが、木々の間から足場の開けた方へ走った。
黒い個体の目が、その姿を追う。
白いメガアブソルと交差した直後、黒いメガアブソルが身を翻した。
その脇を抜け、灰色の背へ向かう。
コジョンドは、追わなかった。
進路の横に転がる倒木へ駆け寄り、踏み込む。
『コジョッ!』
腰の回転を乗せた蹴りが、幹を打った。
重い音とともに、倒木が動く。
折れた枝が土を掻き、木々の隙間へ斜めに滑り込んだ。
黒いメガアブソルが足を切り返す。
塞がれた側を避け、反対へ抜けようとした。
『チラ!』
チラーミィが振り返り、前脚を振り上げた。
見えない力によって地面が盛り上がる。
絡み合った木の根が土ごと持ち上がり、行く手を遮った。
片側には倒木。
もう片側には、せり上がった土と根。
黒い個体の進路が、その間へ絞られる。
チラーミィは、道の先にいた。
虚ろな赤い目が、その姿を捉え直す。
黒いメガアブソルが地面を蹴った。
コジョンドが倒木から飛び退く。
その脇から、白いメガアブソルが道へ躍り込んだ。
身を翻し、迫る黒い個体へ向き直る。
チラーミィの前に、白い背が重なった。
「そこだ!」
白いメガアブソルが踏み込む。
黒いメガアブソルも、迫る白い姿へ角を突き出した。
角と角。
甲高い音が、狭められた道に響く。
衝撃で、両脇の土が崩れた。
それでも、二匹は離れない。
白いアブソルが腰を落とす。
黒い個体も四肢を踏ん張り、押し込んでくる。
その背で、赤黒い房が持ち上がった。
悪魔の爪を思わせる先端が、ゆっくりと禍々しい力が込められていく。
角を押し合わせたまま、白い身体の両脇へ回り込んでいく。
日廻の目が見開かれた。
「コジョンド!」
コジョンドは、既に踏み込んでいた。
振り下ろされる爪の外側へ、身体を滑り込ませる。
腕から伸びた長い毛に、暗い光が走った。
『コジョッ!』
地面を踏みしめ、腰を捻る。
肩から腕へ伝わった勢いが、掌と長い毛を鋭く振り抜いた。
――はたきおとす。
横殴りの一撃が、赤黒い房を捉えた。
今度は、すり抜けなかった。
鈍い音。
振り下ろされかけた爪が外へ弾かれ、白い身体の脇を通り過ぎる。
「アブソル!」
『フオオオッッ……!』
踏ん張る。
黒い個体が、自身の身体の重みに耐えかねたように震えた。
それでも押す力は緩まない。
傷ついた側へさらに体重を乗せ、白い身体を押し潰そうとする。
もう、長引かせられない。
コジョンドが逸らした爪は、まだ白い身体の外にあった。
その僅かな間に、白いアブソルの目が変わった。
目の前、鼻先が触れそうな距離にいる黒い相手を見る。
敵を見る目ではなかった。
日廻には、二匹の過去なんて分からない。
何をしていたのかも。どんな時間を過ごしていたのかも。
ただ、その表情だけで、今アブソルが思い出しているものが戦いではないことだけは分かった。
そして。
この距離なら、逃げる相手を追う必要も、何度も斬りつける必要もない。
言葉より先に意思が通じた。
「――じゃれつく!」
白い身体が弾けた。
真正面から。
逃げずに、黒いメガアブソルの懐へ飛び込む。
爪でもない。角でもない。
身体ごと抱え込むように相手を捉え、その一撃へ力を集めた。
白い光が二匹を包む。
『フオオオッッッ――ッ!!』
黒い身体が浮いた。
地面へ叩きつけられる。
轟音と土煙。
白いアブソルも着地した。
脚が崩れかける。
それでも倒れず、相手を見据えた。
追撃には出ない。
日廻は息をすることさえ忘れていた。
土煙が薄れていく。
黒いメガアブソルは、動かなかった。
「……止まった?」
『待つロト』
ロトムの声にも余裕がない。
一秒。二秒。
これまでなら、もう爪が土を掻いていた。
顔が上がり、虚ろな目がチラーミィを探していた。
今は、それがない。
横たわる黒い身体が、淡い光に覆われた。
輪郭がぼやけ、赤黒い房も角も見えなくなる。
光がほどけたとき、そこに倒れていたのは、最初に現れた黒いアブソルだった。
『フオオオ……!!』
白いアブソルにも、光が重なった。
一瞬、その姿が輝きに隠れる。
光が引くと、見慣れた白い身体が立っていた。胸元の石も、静かな色に戻っている。
同時に、日廻の腕から熱が引いた。
不自然なほど、急に。
握っていた指の感覚が遠のく。
日廻はリングへ手をかけた。留具を外す指がうまく動かない。
目の前では、アブソルが走り出していた。
「アブソル……」
呼んだ声は、掠れていた。
聞こえていない。
アブソルは黒い個体の傍へ駆け寄る。
動かない。
耳を近づけ、前脚でそっと身体へ触れる。
『フオオ……フオッ』
声が震えた。
黒いアブソルの胸は、すぐには動かなかった。
鼻先を寄せたまま、待つ。
もう一度、息を確かめる。
そして、黒い胸がほんの僅かに上下した。
『――フオッ!』
弾けるような声。
赤い目が大きく開く。
落ちていた尾が、大きく揺れた。
何度も鼻先を寄せる。
息を確かめる。
もう一度。また一度。
生きている。
額を寄せた。
その顔から、いつもの誇り高さが消えていた。
気難しさも、澄ました様子もない。
ただ、大事な存在が生きていた。
そのことだけを、隠しもしないで喜んでいる。
そして、その喜びを伝えようと、アブソルは振り返った。
『フォ――』
声が途中で止まる。
そこに、日廻は立っていなかった。
地面に、ゼンブイリングが落ちている。
開いた留具。
消えた光。
そのすぐ隣に、日廻が倒れていた。
『……フオッ?』
反応がない。
『日廻!?』
黒い個体の状態へ注意を見ていたロトムが、叫んだ。
『日廻! 日廻!!』
『チラッ!』
『コジョ!?』
チラーミィとコジョンドが慌てて駆け寄る。
アブソルだけが、一瞬、その場から動けなかった。
ほんの数秒前、失ったと思っていた相手が生きていると分かった。
その直後。
今度は、日廻が動かない。
『フオッ!』
状況を飲み込むと、すぐに駆ける。
日廻の横へ滑り込み、頬へ鼻先を押しつけた。
反応しない。
肩へ前脚を添える。
『フオッ! フオオオッ!』
呼ぶ。
返事はない。
『呼吸はあるロト!』
ロトムの声が震える。
『でも反応しないロト! なんで――出力? 違う、人間側の負荷データなんて……!』
『チラ! チラッ!』
チラーミィが日廻の胸元へ前脚を置く。
淡い光が滲む。けれど、日廻は目を開けない。
『コジョ……!』
コジョンドが周囲を見る。
森。道。
誰もいない。
ここから日廻を運ばなければならない。
倒れた黒いアブソルもいる。
アブソルは日廻を見る。
そして、もう一度日廻を見た。
赤い瞳が揺れた。
そのとき、耳の奥に少し前の声が蘇った。
――諦めるな。
アブソルが顔を上げる。
森を見る。
左右。もっと遠く。
何かを探す。
そして、大きく息を吸った。
『フオォォ――――ッ!!』
森を震わせるほどの声だった。
先ほど力を解き放った咆哮とは、響きが違う。
威嚇ではない。
戦いの声でもない。
呼んでいる。
助けを。誰かを。
遠く、もっと遠くまで届くように。
ロトムが日廻を呼び続けている。
チラーミィの光が揺れる。
コジョンドが森を見回す。
アブソルは、もう一度息を吸った。
『フオオォォォ――――ッ!!』
声が森の奥へ消えていく。
静寂。
一秒。二秒。
そして、風が吹いた。
それまでとは違う、強い風。
遠くの木々が大きく揺れる。
アブソルの耳がその音を拾った。
さらに遠く、森の向こうから。
『ファァァァイ――――ッ!!』
甲高い。
どこか歌うような声。
長く、真っ直ぐ。
アブソルの呼び声へ応えるように響いた。
『フォオッ……!』
赤い目が見開かれる。
こちらを目指してくる風が強くなる。
木々の向こう。まだ、姿は見えない。
けれど、アブソルはその声を知っていた。
昔からよく知る――友の声だった。
もし、アブソルと最後に新登場したポケモンとの組み合わせに、なにか思い出すものがあれば握手しましょう。因みにそれを見て自分は初めてCDというのを買いました。
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