頬に、柔らかなものが触れていた。
離れて、また触れる。
繰り返されるその感触に、日廻は眉を動かした。
まるで徹夜したように重い。
それでも開こうとすると、遠いところから身体を引き戻しているような気がした。
『……フオ』
聞き慣れた透き通るような声だった。
鉛のように重い瞼が開く。
白い毛の向こうに、赤い瞳があった。
アブソルが、鼻先の触れそうな距離から顔を覗き込んでいる。
『フオッ……!』
視線が合い、直ぐにその顔が離れた。
代わりに、画面が勢いよく視界へ飛び込んできた。
『日廻!』
今にも飛びついてきそうな声。
名前を呼ぼうとして、喉が引っかかった。
煙のように霧散していた記憶が一つずつ蘇ってくる。
土煙の中で倒れた、呪われたような黒い身体。
そこへ駆け寄っていく、祝福をうけたような白い背中。
最後に見た光景が鮮明に戻ってきた。
「あのアブソルは、大丈夫か?」
画面が止まった。
ほんの一瞬。
『バカ!!!!!』
ロトムの大声が、頭の芯に響いた。
思わず日廻は目を細めた。それでも、目の前から視線を外せなかった。
『目ぇ覚まして、最初がそれロト!? 自分がどうなったか、分かってるロト!?』
「……いや」
『急に倒れて! 何回呼んでも、全然――』
声が突然、途切れた。
浮かんでいる身体が、惨状でも見たように小さく揺れる。
『……全然、返事しなかったロト』
日廻は口を閉じた。
頬へ、もう一度鼻先が触れた。
アブソルは今度、すぐには離れなかった。重い手甲でも着けられたような腕を動かし、その手が白い毛に触れると、嬉しそうに目が細くなる。
少し離れたところで、コジョンドが大きく安心したように息を吐いた。膝に置いていた手を下ろし、木の幹へ背を預ける。足元にいるチラーミィは、俯いていた。
それらを見て、日廻はあの状況で倒れたことを最後に思い出して、疲労混じりの声が出た。
「……心配、かけたな」
『かけたロト』
即答だった。
『ものすごく、かけたロト』
「ごめんって」
返事はすぐになかった。
ロトムは日廻のすぐ傍へ降り、そのまま浮かんでいた。
見上げた先に、遥かな梢が重なっていた。
幾人で腕を回せば届くのかも分からない巨木が、辺りを囲んでいる。
枝葉の隙間から差す光が、薄い靄の中に幾筋もの柱を作っている。
戦っていた森とは、違う場所だった。
太い根が地表をうねり、その間を柔らかな草と小さな花が埋めている。葉先には露が宿り、風が通るたび、遠くまで淡い輝きが連なった。木漏れ日の届かない根元にさえ、青や緑の小さな光が灯っている。
太古から続く神秘の生命が宿るような光景に日廻は声を出すのもためらい、暫しこの世界に圧倒されていた。
「……こ、ここは」
やっと自身の呼吸を意識できたところで肘をつく。
肩から背中へ、鈍い痛みが走った。
「っ……」
『まだ動くなロト!』
コジョンドが身を起こした。
差し出された腕を借り、どうにか上体を起こす。
ゼンブイリングは外されていた。指を開き、閉じる。動くが、どこか頼りない。
『急いではいけません』
清めた鈴のような声がした。
その澄んだ響きが胸の奥へ届き、強張っていた身体から、少しずつ力が抜けていく。
顔を上げると、木漏れ日の向こうに大きな姿があった。
青と黒をまとい、静かに佇んでいる。頭上へ枝のように広がる角には、幾つもの色が灯っていた。葉が揺れ、差し込む光が途切れても、その輝きは翳らない。淡い色が重なり合い、足元の草へ、周囲の幹へ、柔らかく滲んでいた。
日廻は、その姿を見つめたまま動けなかった。
草の間に灯る小さな光も、遥かな梢を満たす緑も、その周りではひときわ深く、鮮やかに見えた。土の下で根が伸び、固く閉じた芽がほどけていく。目には映らないはずの営みまで、すぐ傍に感じられる。
――命が、形を持って立っている。
そんな考えが浮かんでも、不思議と大袈裟には思えなかった。
その瞳が、日廻へ向いた。
自分を包んでいた広大な気配が、今、一人の人間を見ている。
日廻は唇を開いた。呼びかけようにも、まだ、その名さえ知らなかった。
『私はゼルネアス。人は私をそう呼びます』
口元の動きは分からなかった。
それでも、言葉は鮮明に頭へ届いた。
『貴方の身体に、少し力を分けました。目が覚めたからといって、無理をしてよいわけではありません』
思わず日廻は、腕を見た。
内側を焼いていた熱はない。代わりに、身体の奥へ重さが残っている。
「……助けて、くれたんですね」
『ここへ運んできた者たちがいました。貴方を呼び続けていた者も。私だけではありません』
草を踏む、大きな足音がした。
コジョンドの向こうから、淡い黄緑色の顔が覗いた。
目元を覆う赤いゴーグルのようなものが、木漏れ日を受けて光る。大きな翼を畳んだまま、こちらを気遣うように首を伸ばしてきた。
『ファイ?』
「……お前は?」
『アブソルが呼んでくれたフライゴンというポケモンロト。ここまで運ぶの、手伝ってくれたロト』
アブソルは、僅かに顔を背けた
フライゴンはその肩を鼻先で軽く押してから、また日廻を見た。
「そうか。……ありがとう」
フライゴンの目は優しい光が宿っているようだった。
黄緑色の鼻先が、今度は日廻の肩へ触れた。
少し身体が傾く。
『まだ駄目ロト!』
『ファイ……』
フライゴンがすぐに首を引っ込めた。
日廻の口元が僅かに緩む。けれど、そのまま周囲へ目を向けた。
探している姿は、すぐに見つかった。
少し離れた木の根元に、黒いアブソルが横たわっている。
『眠っています。今は、休ませてあげてください』
黒い胸が、ゆっくりと上がった。
下がる。
目を離さずにいると、もう一度、同じように動いた。
「……よかった」
達成感が胸の重みを少し軽くなり。
吐いた息が、思ったより長くなった。
隣のアブソルも、その姿を見つめていた。
「お前も、大丈夫か」
『フオゥ』
短い返事だった。
日廻が手を動かしても、身体を寄せたまま。
首元の毛の間に、静かな水色の石があった。
「……あいつに、何があったんですか」
石へ触れる手を止め、日廻は尋ねた。
「明らかに正気じゃなかった、脚が動かなくなりかけても、やめなかった。ずっと、チラーミィを狙って……」
記憶を辿りながら視線を移すと、青い瞳と目が合った。
チラーミィは、コジョンドの傍から動いていなかった。
「チラーミィ?」
小さな顔が、ゼルネアスを見上げた。
ゼルネアスも静かに視線を下ろし、その青い瞳を見つめ返す。
命そのものが形を得たような存在と、いつも日廻の傍を歩いていた小さな一匹。並べば、その姿も、まとっている気配も、あまりに違っていた。
それなのに、二匹がそうして向き合う光景は、不思議なほど自然だった。
チラーミィは臆することなく見上げ、ゼルネアスもまた、その眼差しに応えている。言葉のないまま、何かを確かめ合っているように見えた。
やがて、チラーミィが前へ出た。
日廻の膝の前で立ち止まる。
『チラ……』
手を伸ばすと、小さな前脚が指先に触れた。
僅かに力がこもり、離れる。
灰色の身体へ、淡い光が重なった。
「……え?」
大きな耳も、ふさふさした尾も、淡い輝きに包まれた。
光の中で輪郭がほどけ、小さく、滑らかな姿へ変わっていく。
草に触れていた足が、ふわりと浮いた。
輝きが薄れるにつれ、淡い桃色の身体が現れた。小さな手足を胸元へ寄せ、宙に身を預けている。細く長い尾がゆっくり弧を描き、その先だけが、日廻の方へ揺れた。
生まれたばかりの生き物を、そっと覗き込んだような気持ちになった。
声をかけるにも、触れるにも、少しためらうほど無垢な姿だった。
けれど、こちらを見つめる純粋な青い瞳は落ち着いていた。
幼く見える顔の中で、その眼差しだけは、長い時間を静かに湛えているように見えた。
『……ミュウ』
小さな首が、僅かに傾く。
見慣れた仕草だった。
畑でも、家でも、日廻が声をかけると、いつもそうしてこちらを見ていた。
「……チラーミィ、なのか?」
小さな首が縦に動いた。
日廻は伸ばしたままの手を見て、ゆっくりと掌を上へ向けた。
桃色の身体が近づく。
指に触れた手は、さっきと同じように温かかった。
『ミュウ……!? お前、ミュウだったロト!?』
ロトムの声が跳ね上がった。
その名前を聞いても、日廻には何がそれほど驚くことなのか分からない。
分かるのは、この小さな身体を、黒いアブソルが追い続けていたことだった。
「狙われていたのは、その姿と関係があるんですか」
『ミュウが持つものと、関係があります』
ゼルネアスが答えた。
『貴方たちの言葉で言うなら、カギです。手に取れるものではありません。生命の樹――その在り処を隠すためのもの』
日廻は、自分の指に添えられた手を見た。
何かを握っているわけではなかった。
「あいつは、それを探していた……?」
『彼を差し向けたものが、求めているのです』
隣で、アブソルが顔を上げた。
眠る黒い身体へ一度だけ目を向け、それからゼルネアスを見据える。日廻の手の下で、首元が硬くなっていた。
「誰なんです」
ゼルネアスは、すぐには答えなかった。
その瞳が僅かに細まり、日廻を見つめたまま動かなくなる。
やがて、静かな声が落ちた。
『……
一音ずつ、確かめるような響きだった。
初めに聞いた鈴のような澄んだ声が、今は低い。言い終えた後も、ゼルネアスはしばらく口を閉ざしていた。
知らない名前だった。
けれど、それを口にするために、何か深いものを押し留めたことだけは、日廻にも分かった。
「……それも、ポケモンなんですか」
『ネクロズマは、ポケモンです。けれど、ダークマターは違います。ポケモンでも、生き物でさえもありません』
その言葉の意味に日廻は眉を寄せた。
『怒り、憎しみ、悲しみ。そうした負の感情が積み重なり、一つの存在となったものです。とある組織が世界を観測する装置を動かしたことで、異世界からネクロズマが渡ってきた。その到来が、眠っていたダークマターを動かしました』
世界を観測する装置。
日廻の脳裏に、黒いケースが浮かんだ。砕けた蓋と、その中から転がり出た輪。それを作らされていたというロトムの話が、今の言葉と結びつく。
傍へ目を向けると、ロトムは既にこちらを見ていた。
視線が合う。画面の中の表情は強張っていたが、日廻の疑いを受け止めると、小さく、はっきりと頷いた。
『今、私たちが向き合っているものは、ネクロズマを取り込み、その力を振るうダークマターです』
「何が目的なんですか」
『その望みのすべてを、私が知っているわけではありません。ただ、生命の樹を求めていることは分かっています。ミュウは、そのために狙われています』
日廻は口を閉じた。
黒いアブソルの呼吸が、ここからでも僅かに聞こえた。
「その樹は、まだ無事なんですか」
『今は、守られています。ですが、樹だけでは保てないものがあります』
ゼルネアスが顔を上げた。
日廻も、その視線につられて木々を見る。
『あれによる石化も、迎え撃つ者たちの力も、そのままでは周囲を巻き込んでしまいます。被害を少しでも食い止めるため、私たちは戦場をほかの土地から空間ごと切り離しました。その隔たりを保ちながら、命を繋ぐために必要な道を残しているのが、空間を司るポケモンです。身体の半分を石にされた今も、その道を支え続けています』
日廻は、自分の腕に触れた。
指の下で皮膚が沈み、曲げれば筋が動く。
それが、半分。
その身体で、今も。
体が石になる、それがどんなものか想像もできない。
「……命綱になってるんですか」
『ただ、今は繋がりを保つだけで精一杯で、道の行き先までは制御できません。その一部が、貴方の世界にも開いてしまいました』
あの洞窟の向こうに、見知らぬ森が広がっていた。
そこから逃げてきた者たちが、今、家にいる。
『繋がりは不安定で、生命の循環までは保てなくなっています。今は私が、生命の樹の力を借り、それぞれの空間へ生命を補っています』
角に宿る色が、静かに揺れていた。
話している間にも、その輝きは消えない。
「ほかに、逃がせる場所は」
『避難先はあります。ですが、すべての者を受け入れることはできません。逃れた人とポケモンが救助隊を組織して、今も取り残された者を探し、同時に石化の広がりを遅らせるために奔走しています』
「止める方法は……見つかってるんですか」
『多くの犠牲を払って、核に当たる部分があることは突き止めました。そこを破壊できれば、ダークマターと、取り込まれたポケモンたちを分離できると予測されています』
淡々としたゼルネアスの声。
内容には、確かに希望を感じるものであったが、今の状況はただ悪化の道へ進んでいるようにしか聞こえなかった。
『ただし、取り込まれた者たちが皆、無事に戻るとまでは言えません。本体の居場所も、今は掴めていないのです』
僅かに浮いた気持ちが、行き場を失った。
『あれは既に、私に匹敵するようなポケモンたちを取り込み、その力まで振るっています。近づいて様子を探ることさえ、一部の者にしかできません』
森で出会った、黒い姿が浮かんだ。
あれを止めるだけで、全員が力を尽くした。
それでも、自分は倒れた。
あれは、差し向けられた一匹だった。
『空間を保つ道とは別に、あれは世界の壁を力ずくで破ろうとしています。今も、侵入を阻んでいる者たちがいますが、奪われた力が増すたびに、守りは押されています』
日廻の指先から、力が抜けた。
『あのアブソルが偶然この空間へ入り込んだことで、あれには探すべき場所がほぼ伝わってしまいました。生命の樹を隠す空間が、貴方たちの星へ繋がっていることも、既に知られています』
「……俺たちの、星?」
『樹へ辿り着く道は、今も隠されています。ですが、その入口を求めて、貴方の星へ侵入してくるおそれがあります。このままでは、遠からず大きな穴が開くでしょう』
家が浮かんだ。
畑で働いているはずの、小さな背中が。
いつものような日常のように感じ始めてきた風景が。
「どこに。いつ、開くんですか」
『貴方の洞窟と同じ場所とは限りません。正確な場所も時も、現れるものが本体なのかさえ、まだ分からないのです』
日廻は息を吸った。
続ける言葉が出てこなかった。
『穴が開けば、そこを中心に光が奪われていくでしょう。大地も、そこに生きるものも、石へ変わっていく。私たちの世界で起きていることが、貴方の星でも始まります』
朝、戸を開ける。
畑へ出て、名前を呼ぶ。
いつもなら振り返る背中が、動かない。
日廻は膝の上で拳を握った。
その手へ、白い毛が触れた。
アブソルだった。
指を開き、首元に触れる。温かい。
「……どこへ帰してやればいいんだよ」
誰に向けるでもなく、声が漏れた。
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