足音が十分に遠ざかったのを確かめると、ゼルネアスは木々の向こうに留まっている者に視線を向けた。
『姿を見せてください。
根元の落ち葉が動いた。
緑と黒の小さな身体が、その間から這い出してくる。
『周辺に人間の反応なし。定時報告を開始する』
『身体は、どこまで戻りましたか』
『セル修復率、九十五パーセント。再集結に向けた準備を継続中』
『……ほかのコアは?』
『消失したコアは、すべて修復済み。全コアとの同調を確認。連携に異常なし』
ゼルネアスは、その小さな姿を見つめた。
『あの戦いで、あれほど多くを失って……よくここまで戻りましたね』
『肯定。ただし、修復完了時刻は未確定。私の復帰を前提とした作戦の延期は推奨しない』
『ええ。皆にも、貴方を待つようには伝えていません。機会が訪れれば、そのときに』
ゼルネアスは、小さなジガルデへ改めて目を向けた。
次の問いまでに、僅かな間があった。
『すべてが集った、その先へは。至れそうですか』
ジガルデの視線が上がった。
『現時点では、到達を保証できない。修復の完了のみで満たされる条件ではない』
『……彼との間に、可能性はありますか』
木々の向こうへ、一度だけ目が向いた。
すぐに戻る。
『否定する根拠はない』
ゼルネアスは、その返答を受け止めた。
『そうですか。まだ、望みはあるのですね』
『肯定。作戦の成立条件には含めないことを要請する』
『分かっています。その力を当てにして、皆を送り出すことはしません』
ジガルデの視線が、角に宿る光へ移った。
『分断空間への生命供給に、変化は』
『今も、命は繋いでいます。少しずつ力は削られていますが、私たちの世界はまだ生きられます』
『確認。引き続き監視する』
『私についても、ですね』
『肯定。貴方も監視対象であることに変更はない』
『それが貴方の務めであることは、分かっています』
風が通った。
少し離れた木の根元で、黒いアブソルが眠っている。
『追加確認。人間、日廻への協力要請について』
『聞いていたのでしょう』
『肯定。対象の戦闘経験は不足。道具の使用には生命への重大な危険が伴う。救援の到着も未確定』
『どれも、彼に隠したまま頼めることではありませんでした』
ジガルデは答えなかった。
『あの願いを、取り下げるべきだと思いますか』
『……代替案は、提示できない』
声の調子は変わらなかった。
それでも、次の言葉までに間があった。
『復帰後の行動計画に、日廻および同行個体の保護を追加する』
『彼は、貴方が何者かを知りません』
『認識している』
『貴方に戦う力があることも』
『認識している。対象は、能力の開示以前から保護を継続。対価の要求は確認されていない』
そこで、ジガルデの視線が木々の向こうへ動いた。
朝になると、戸が開く。
日廻は足元を見回し、小さな身体を探す。
――おはよう、ゼット。
『……あの人間は、毎朝、私を探す』
ゼルネアスが、僅かに目を見開いた。
木々を見つめる小さな顔が、ほんの少し和らいでいた。
呼ばれたときのことを思い出しているように見えた、その間だけ。
『貴方が、そんな顔をするとは』
ジガルデが振り向いた。
『……何を指している』
『私の知らない表情です』
沈黙があった。
『機能に異常はない』
『そのようですね』
ジガルデは身体を返した。
『報告を終了する。帰還の遅延は、日廻による捜索を誘発する可能性がある』
『戻ってあげてください。彼には、まだ休んでいてもらわなければ』
『肯定。不要な負担は回避する』
小さな影が、落ち葉の間へ消えた。
日廻たちの足音が去った、その方角へ。
その進む速度は、ここへ現れたときよりも、少しだけ速かった。
◇◆◇
帰宅してからのことは、ところどころ曖昧だった。
出迎えた小さな身体に囲まれ、無事を確かめ合い、食事を済ませる。その間にも瞼は重くなり、日廻は何度かロトムに名前を呼ばれたが何と答えか思い出せない。
寝床も変わった。
フライゴンが休めるよう、作業部屋の床に置いていた荷物を寄せ、敷物を広げた。そこで寝ていた皆は、母屋へ招き入れた。足を拭き、空いている部屋へ寝具を運ぶ頃には、日廻は場所を指し示すのが精いっぱいだった。
最後に戸締まりを確かめて横になると、廊下を行き来する足音が聞こえた。
それを聞いていたところまでは、覚えている。
翌朝、目を開けると、外は明るかった。
起き上がる途中で腕が引きつり、日廻は動きを止めた。全身が石になったかと思うほどだった昨日に比べれば、遥かに良くなっているが、それでも全身の筋肉が痛んだような重さと怠さが残っている。
それでも、やるべきことは変わらない。昨日は外出したときの格好のまま寝床へ倒れ込んでいたので、着替えてから朝食の準備を進める。
「今日から増えた奴の分も作らねぇといけないから倍以上だ。買い物行かないと」
あくびを零しながら、支度をしていると昨夜まで頭にかかっていた霞は薄れていた。
傍に置かれた水を飲み、一息つく。
そこで、不意に思い出した。
――お兄さんのことは、ゼルネアスにお願いするって。
そう言った。
あのとき、あいつは確かにそう言った。
『おはようロト! 具合はどうロト?』
開いた襖から、見慣れた画面が顔を出す。
日廻は水の容器を置き、痛む側を庇いながら、ゆっくり腕を組んだ。
「ロトム」
『何ロト?』
「お前、ポケモンの言葉を翻訳できたんだな?」
浮かんでいた身体が、ぴたりと止まった。
画面の目が日廻を見て、それから窓の外へ向いた。
『あ、あー。今日もいい天気ロト!』
「お ま え 正 座 し ろ」
『足がないロト!?』
「じゃあ、そこに座れ」
日廻がテーブルを指すと、ロトムはゆっくり高度を下げた。
いつもより随分低い位置から、画面の目がこちらを窺っていた。
「何で言わなかった」
『最初は、ボクが間に入った方がいいと思ってたロト。でも、日廻とみんなが先に通じちゃったロト』
ロトムは画面を僅かに傾け、言葉を探した。
『籠をどこに置くかも、何を手伝ってほしいかも、声と手の動きで伝わってたロト。みんなが何かしてほしいときも、日廻が気づいてたロト。だから、日廻が分からなそうなときとか、大事なことだけ訳せばいいと思ってたロト』
「それで、言いそびれたままになったと」
『……そうロト』
思い当たることはあった。
こちらを見る顔。引かれる袖。何度も同じ場所を指す手。畑仕事なら、周りを見れば用事の見当もついた。
ただ、それで何もかも分かっていたわけではない。
「俺が見当違いなことを言ってたことも、あっただろ」
『でも、その後でみんなが違うってして。日廻も、失敗したってすぐに理解して、改善も早かったロト』
「……そこは教えてくれてよかったんだぞ」
腕を解くと、ロトムの目が伏せられた。
『ごめんロト』
その声に、日廻も息を吐いた。
自分には伝わらない言葉が、こいつには初めから分かっていた。その違いを、互いに確かめる機会がなかったのだろう。
「次からは頼む。俺だって、聞きたいことはあるんだから」
『分かったロト。ちゃんと訳すロト!』
ロトムが勢いよく浮き上がった。
ちょうどそのとき、廊下からピカチュウが顔を覗かせた。
『ピカ!』
『おはようって言ってるロト!』
「おはよう。……それは分かる」
ピカチュウが首を傾げた。
『何してるの、だってロト!』
「ちょっと話をな」
『ピカ、ピカチュ』
『起きられたんだね、よかったって――』
「待て、ロトム」
日廻は片手を上げた。
ロトムが口を閉じる。ピカチュウまで足を止めたので、日廻はそちらへ手を振った。
「怒ってるんじゃない。来てくれ」
近づいてきたピカチュウの頭へ、そっと手を置く。
耳が指に触れた。見上げる目を見ていると、昨夜も心配をかけたのだと、ようやく実感が湧いた。
「ありがとな。昨日よりは、楽になった」
小さな声が返ってくる。
今度はロトムも、すぐには訳さなかった。
「全部、お前に任せたいわけじゃないんだ」
日廻はピカチュウから手を離し、ロトムへ顔を向けた。
「俺が取り違えたときとか、どうしても分からないときに、教えてくれ。何か大事なことを言ってるなら、そのときも」
『全部分かった方が、楽じゃないロト?』
「楽だろうな」
昨日、アブソルの兄のことを教えてもらえたのは嬉しかった。
あの短い鳴き声から、自分だけでそこまで知ることはできなかった。
「でも、お前の翻訳ばかり待つようになったら、俺はあいつらの顔をちゃんと見れなくなる。まずは自分で見て、聞きたい。分からなかったら、そのときは助けてくれ」
ロトムは少し黙り、それから、日廻とピカチュウの間へ向けていた画面を横へ退けた。
『……分かったロト。困ったら呼ぶロト』
「頼むぞ」
ピカチュウの視線が、日廻から調理中の食材へ移った。
「あぁ、分かっている。ええと……早速だがロトム、今から全員分用意するのに、約一時間かかることを伝えてくれ」
日廻は壁に掛かった時計を指差した。
「時間が分からない場合は、あそこの時計の長い針が一回転したぐらいだな」
『……いつもより時間かかるロト?』
「フライゴンの分、あいつ一番大きいから」
『た、確かにロト』
ロトムが納得したように画面を上下させる。
昨日、森で出会った時は大きいとしか思わなかったが、食事を用意するとなれば話は別だった。
「皿じゃダメだな。鍋でも用意するか…」
戸棚を開け、普段は使わない大鍋を引っ張り出す。置き場所を作り、その横へ食材を並べ、必要な量を頭の中で数えていく。
「これじゃ足りないな。昼の分も考えたら……いや、先に米を――」
独り言を漏らしながら、日廻の手はもう次の作業へ移っていた。
包丁を出し、鍋へ水を張り、その間に別の食材へ手を伸ばす。
『ピカァ……』
待ちきれないのか、ピカチュウの耳が目に見えて垂れた。さっきまで輝いていた目も、並べられた食材を名残惜しそうに追っている。
『仕方ないロト。迷惑かけないようにボク達も待つロト』
ロトムに促され、ピカチュウが何度も振り返りながら廊下へ出ていく。その後をロトムも追い、襖の向こうへ消える寸前、もう一度こちらを覗いた。
『無理するなロト!手伝ってほしいことがあるなら
「じゃあ、皆に伝えたら、後で皿を運ぶのを手伝ってくれ」
返事をしながら、日廻は切った食材を鍋へ移した。
包丁がまな板を叩く。
一定の音を刻んでいるうちに、昨日の光景が頭へ浮かんだ。
黒いアブソル。
その前へ、真っ先に飛び出した白い身体。
角を紙一重で避け、懐へ潜り込む。掌を打ち込み、蹴りを返す頃には、もう次の攻撃が届かない場所へ移っていた。
日廻には、何をどうすればあんなふうに動けるのか分からない。
昨日は指示を出していたというより、ほとんどコジョンドの動きを追いかけていただけだった。
「……すごかったな」
初めて会った日のコジョンドも思い出した。
あのときは、近づいただけで怯えた。
声をかけても届かず、何かに追われるように暴れ続けていた。立っていることさえ辛そうなのに、それでも止まろうとしなかった。
昨日は違った。
攻めるときは攻め、危険なら退く。自分が戦えなくなってからも、できることを探していた。
怖くなかったはずはない。
それでも、誰かを守るために自分から前へ出ていた。
「昨日のコジョンド、頼りになったな」
『それだけじゃないロト、コジョンドは強いロト。昨日も、あの状況でみんなを庇ってたロト!』
不意に返事が来た。
「うおっ」
誰もいなくなったと思っていた日廻が振り向くと、いつの間に戻ったのか、ロトムがキッチンの窓から顔を覗かせていた。
「……聞いてたのか」
『聞こえたロト!』
日廻は苦笑し、もう一度包丁を動かした。
「まあ、でも本当にそうだな。なんていうか……武術の達人みたいだった」
昨日の動きを思い返す。
自分なら一撃運よく避けれても、流れるような二回目の攻撃で倒される未来が容易に想像できた。
「頼りになるよ、あいつは」
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チャッピー「ワカリマシタ。表を含めて1万9000文字、27ページになりました」
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