『それだけじゃないロト、コジョンドは強いロト。昨日も、あの状況でみんなを庇ってたロト!』
母屋の窓から聞こえた大きな声に、コジョンドは手を止めた。
台所に近い軒下で、昨夜運び出した荷物を整理していた。
積み重ねられた箱の一つ、指の上で僅かに傾く。持ち直して台へ置くと、中の部品が小さく立てた。
強い。
その言葉だけが、妙にはっきり耳へ残った。
顔を上げるまでに、少し時間がかかった。
窓の向こうでは、日廻が朝食を作っていた。湯気の向こうで包丁を動かし、窓からロトムがそれを記録しているようだった。
『コジョ』
昨日、蹴りは当たらなかった。
黒い身体をすり抜けた脚。脇腹に走った衝撃。
止められなかった相手を、アブソルが止めた。そのために、日廻は倒れた。
視線を感じ振り向くと、こちらを見ていた日廻と、窓の向こう側から目が合った。
「そこ、痛むのか?」
ロトムほど大きくはないが、こちらへ届かせるために張られた声だった。
コジョンドは、そこで初めて自分の手が脇腹へ添えられていることに気づいた。
知らず脇腹へ寄せていた手を下ろし、首を振る。
もう動ける。棚の上にも届くし、重いものも運べる。
昨夜、コジョンドに支えられて帰宅した日廻は、家へ入るなり、きずぐすりと包帯を探し始めた。
出迎えたピカチュウたちに囲まれて、そのまま座り込んでしまったため、手当てはコジョンド自身で済ませた。
元より大した怪我でもない。
次に下ろす箱へ手を伸ばすと、日廻が先に声をかけた。
「それは後でいい。助かった!」
窓の向こうから声が飛んできた。
伸ばした腕が止まる。
日廻はもうこちらを見ていなかった。鍋へ何かを移し、また次の作業へ手を伸ばしている。
まだ、できることはあった。
けれど、コジョンドは腕を戻した。
◇◆◇
朝食が始まっても、部屋は静かにはならなかった。
誰かが食べ終わり、誰かがまだ欲しそうに隣を見ている。
フライゴンの前だけは皿では足りなかったらしく、大きな鍋がそのまま置かれていた。
コジョンドも、自分の前に置かれた食事を口へ運ぶ。
少し離れたところで、日廻が立ち上がった。
自分の食事はもう終えたらしい。
使った食器を片づけると、片手で棚から布を取り出し、空いた手で腰のホルダーへ手を伸ばす。
白いものが外された。
コジョンドの耳が動いた。
モンスターボール。
今の日廻が持っているのを見たことがあるのは、あれ一つだけだった。
日廻は席へ戻ると、白い表面を布で拭き始めた。
指先で少しずつ回し、汚れが残っていないか確かめている。
アブソルのものだ。
自分から近づいていったアブソルの姿が浮かぶ。日廻へ目を向け、その手にあるボールを選んだときの、静かな顔。
迷いがなかったのかどうかは、分からない。
ただ、あのときアブソルは、日廻が差し出すのを待つばかりではなかった。
羨ましかった。
そう思ったことを、誰にも伝えていない。
コジョンドは残っていた食事へ目を落とした。
一口。もう一口。温かな味がした。
それでも、気づくとまた日廻の手の中にあるボールを見つめている。
『コジョ』
食事を終え。小さく鳴いて立ち上がると、日廻が顔を上げた。
「もういいのか?」
頷き、コジョンドはそのまま部屋を出た。
軒先の陰に腰を下ろすと、畑から葉の擦れる音が聞こえた。土と、日に温まった木の匂いがする。ここへ来てから、朝ごとに覚えていった匂いだった。
両手を膝へ置く。
長く垂れた毛の下で、指先を握り込んだ。
強くなった。
前よりも、ずっと。
それなのに、まだ足りない。
戸口で足音が止まった。
振り向くと、日廻が立っていた。立ち上がろうとしたコジョンドへ掌を向け、そのままでいいと示す。
「隣、いいか」
少し横へずれた。
日廻はゆっくり腰を下ろした。膝へ手をつく動きが、昨日までより慎重だった。
作業部屋の中では、ロトムが部品を動かしている。ここから二人の姿は見えないらしく、呼びかけてはこなかった。
日廻の掌に、白いボールがあった。
拭き残しを確かめるように指で転がし、やがて、その手を止める。
「お前、前に誰かと暮らしてたのか」
耳が動いた。
「戦い方もそうだけど。俺が何か指す前に、言ったことが分かるだろ。ほかの奴らより、人の言葉に慣れてる気がして」
そういう言葉なら、よく知っていた。
待て。下がれ。もう一度。
息が上がっていても、遠くから聞こえても、聞き逃さないようにしてきた。
コジョンドは、小さく頷いた。
「そっか」
日廻は少し考えていた。
手の中のボールへ目を落とし、それから尋ねる。
「その人のところへ、帰りたいか」
胸の奥が、冷えた。
白いボールが見えた。
ここに入れば、運べる。
遠くへでも。自分が歩かなくても。
『コジョッ』
気づいたときには、日廻の手へ触れていた。
押し戻した拍子に、ボールが掌の中で揺れる。日廻が握り直したのを見て、今度はその指にしがみついた。
違う。
帰りたいのではない。
まだ、ここでできることがある。
声が続かなかった。何度首を振っても足りない気がした。
ここを離れたくないと伝えたいのに、腕へ力を込めるほど、日廻の顔が強張っていく。
痛くした。
慌てて手を離した。
行き場のなくなった指を胸元へ引き寄せる。叱られる前に何かしなければと思ったが、何をすればいいのか分からなかった。
「……悪い。帰れって言ったんじゃない」
日廻はボールをホルダーへ戻した。
空になった掌を、コジョンドにも見えるよう膝へ置く。
「会いたい相手がいるなら、聞いておきたかった。それだけだ。勝手に連れていかない」
そこで、日廻の声が途切れた。
思い出すような視線が、手元へ落ちる。
「……むしろ、どうすればいいんだろうな」
コジョンドは、その手を見ていた。
何も持っていないことを、何度も確かめた。
「ここにいたいなら、いてくれ」
すぐには顔を上げられなかった。
日廻は続きを急がず、畑の方へ一度目を向けた。風が通り、軒先まで葉の匂いを運んでくる。
「昨日も、俺が起き上がろうとしたら、手を貸してくれただろ」
戻ってきた視線は、コジョンドの手元にあった。
「自分だって、あんなに吹っ飛ばされた後だったのに」
日廻が、僅かに口元を緩めた。
「お前は、優しくて強いよ」
強い。
その言葉を、前にも聞いた。
まだ、この手も、この脚も、今ほど長くなかった頃に。
◇◆◇
何度やっても、踏み込む足が遅れた。
声を聞いてから動くと、もう間に合わない。急げば足元が乱れ、蹴りを放つ前に身体が流れた。
砂のついた掌を払い、コジョフーは立ち上がった。
向こうで、あの人がしゃがんでいた。
自分と同じ高さから、地面の足跡を指している。
「こっちへ出るから遅れるんだ。ほら、ここから」
指が土へ線を引いた。
言われた位置に足を置くと、あの人も立ち上がって同じ動きをした。上手くはなかった。足がもつれ、片手を地面についた。
顔を見合わせると、あの人が先に笑った。
「難しいな、これ」
コジョフーも鳴いた。
その日は、同じところに何本も線を引いた。
次の練習で、初めて間に合った。
声に合わせて足を置き、身体を返す。差し出された練習用の的へ、蹴りが真っ直ぐ届いた。
音が響くより先に、あの人の顔が明るくなった。
「そう、それだ!」
駆け寄ってきた手が、頭へ触れた。
「強くなったな」
嬉しかった。
蹴りが当たったことも、できなかった動きができたことも。
けれど、一番よく覚えているのは、同じ音を聞いて、同じように喜んでいたあの顔だった。
また見たかった。
だから、何度も練習した。
勝てる相手が増えた。
旅の先で出会う相手も、強くなった。
以前なら届いたはずの足が届かず、見えていた動きに追いつけなくなる。そのたびに立ち上がった。もう一度と声がかかる前に、構えた。
あの人は、少しずつ笑わなくなった。
試合の後、ボールから出ても、顔を見てくれない日があった。ほかの仲間が練習を始めても、自分の名前は呼ばれなかった。
端で同じ動きを繰り返していると、休んでいろと言われた。
休めば、もっと遅れる。
暗くなってからも、土へ足を置いた。
あの人が引いてくれた線を思い出し、自分の爪先でなぞった。
進化すれば、届くはずだった。
この短い腕も脚も伸びる。力も増す。
また隣へ立って、あの声に応えられる。
けれど、その日は間に合わなかった。
町外れの道で、ボールから出された。
人の通る道から少し入った、木陰だった。あの人は立ったまま、しばらくこちらを見下ろしていた。
「もう、一緒には行けない」
意味が分からなかった。
歩き出した背中を追うと、あの人は足を止めた。
「ついてくるな」
待てと言われたときと、同じように止まった。
あの人は、そのまま歩いていった。
腰に並んだボールの中に、自分のものを探した。どれがそうだったのか、遠ざかるにつれて分からなくなった。
日が傾いても、動けなかった。
追いつこうと思えば、まだ追いつける気がした。
けれど、ついてくるなと言われた。
これ以上、言うことの聞けない自分を見せたくなかった。
翌朝も、道を見ていた。
その後、どれだけ歩き、どれだけ練習したのかは、もう曖昧だった。
空腹で膝が折れる日も、脚を振り上げた。踏み込みが乱れれば戻り、初めからやり直した。
体に光が満ちた日、最初に思い浮かべたのは、あの人の顔だった。
脚が伸びていた。
振り抜いた腕の先で、長い毛が風を切った。
前には届かなかった枝へ、簡単に手が届く。
今度こそ。
旅の途中で何度か訪れた練習場を探した。
知らない顔ばかりの日もあった。それでも通い、声を聞き、歩いてくる人影を確かめた。
ある日、柵の向こうから、聞き覚えのある声がした。
「そのまま、詰めろ!」
コジョンドは駆け出した。
練習場の奥に、あの人がいた。片足を前へ出し、身を乗り出している。何度も見上げた横顔だった。
呼ぼうと息を吸った、そのとき。
青い影が、視界を横切った。
ルカリオだった。
相手の腕が振り抜かれるより早く、身体を沈めて懐へ入る。踏み込んだ足が土を噛み、腰の回転とともに拳が伸びた。
受け止めた相手が、後ろへ下がる。
速い。
コジョンドの足が止まった。
今の踏み込みなら、自分にもできる。けれど、拳を受けられた後には、一度足を置き直さなければならない。
あのポケモンは、その一歩をもう済ませていた。
相手が体勢を戻すところへ回り込み、逃げる先を塞ぐ。次の指示が飛んだときには、既に打ち込める位置にいた。
声と動きの間に、何も挟まらなかった。
勝負が決まった。
コジョンドは柵の外に立ったまま、自分の足元を見た。爪先が、あの動きを追うようにずれていた。
どこで受け、どこへ下がればいいのか。
考え直しても、二度目の攻撃までに追いつけなかった。
進化した今の自分よりも、強い。
それが分かってしまった。
「よくやった!」
あの人が走っていった。
ルカリオの前で足を止め、肩へ手を置く。弾んだ声で何かを話し、相手も短く鳴いて応えた。
「最後、言う前に動いてたな。分かったのか?」
あの人が笑った。
知っている顔だった。
初めて蹴りが届いた日、こちらへ駆け寄ってきたときと同じだった。嬉しくて、言葉が追いつかなくて、それでも何か言いたくて。
あの顔を、もう一度見たかった。
見られた。
柵の、こちら側から。
コジョンドは口を開いた。
進化したのだと、伝えるつもりだった。
今ならもっと速く動ける。前には届かなかったところへ、手も、脚も届くようになった。
長く伸びた毛が、風に揺れた。
それを見せたら、何と言ってもらえるのだろう。
新しいポケモンが、あの人の傍に立っていた。
次の相手を待ちながら、顔を上げている。あの人はその視線に気づき、何かを指で示した。ルカリオの耳が動き、二人はまた練習場の中央を見た。
自分たちも、ああしていた。
言葉と仕草を何度も確かめて、少しずつ分かるようになった。
あの時間があったから、強くなれば、また隣へ戻れると思っていた。
柵へ伸ばしかけた手を下ろした。
怒っている声なら、まだ覚悟していた。
もう一度やってみろと言われたら、できるまで繰り返すつもりだった。
けれど、あの人は今、満足そうに笑っている。
自分のいない場所で、次の練習を始めようとしていた。
呼ばなければ、気づいてもらえない。
分かっていた。
それでも、喉から声が出なかった。
「もう一回、合わせるぞ」
コジョンドは、踏み出しかけた足を引いた。
柵から離れ、来た道へ戻った。
もう、自分が応える声ではなかった。
◇◆◇
もっと、できることがあったのかもしれない。
練習が足りなかったのか。
言葉を聞き違えたのか。
あの人が何を望んでいたのか、もっと分かろうとしていれば。
アブソルがボールを選んだ姿を思い出すたび、そう思った。
あんなふうに相手を見て、自分から近づけるまでに、自分たちは何を確かめ合えばよかったのだろう。
膝の上で、指が動いた。
長い毛を握り込んでいたことに気づき、少しずつ離す。
隣に、日廻がいた。
どのくらい黙っていたのか、分からない。
何も答えられずにいる自分を、そのまま待っていたらしい。目が合うと、日廻は僅かに首を傾けた。
「……うまく分かってやれなくて、悪いな」
コジョンドは首を振った。
違うと伝えたかった。
何が違うのかを、まだ自分でも言葉にできなかった。
日廻の手が、膝から下りた。
触れる前に止まり、掌が上を向く。
その手を、知っていた。
最初は、振り払おうとした。
近づいてくるものが何もかも怖くて、誰の声も聞けなくなっていたとき、それでも自分を背負った人の手だった。
あのとき、自分は何もできなかった。
この家へ来たばかりの頃も、眠ってばかりいた。
目を覚ますと水があった。食べ物があった。起きられない日も、戸は開いた。
昨日、蹴りがすり抜けたときも。
日廻が叫んだのは、距離を取れという言葉だった。
コジョンドは、差し出された手へ指を伸ばした。
途中で止まる。
もう一度失ったら、今度はどうなるのか。
掌は動かなかった。
そっと触れた。
硬くなった皮膚の下に、温かさがあった。指を添え、握る。握り返された力は、まだ弱かった。
昨日、この人は倒れた。
呼んでも起きず、自分の腕へ体重を預けたまま、何も言わなかった。
今は、ここで息をしている。
握った手にも、確かに力が返ってくる。
この人を、守りたい。
これからも傍にいて、この人の呼びかけに応えたかった。
伸ばされたこの手が、もう動かなくなるところを見たくなかった。
もっと強く、
この人へ届く危険を、自分の身体で受け止められるほどに。
コジョンドは日廻の手を握ったまま、もう片方の手を伸ばした。
腰のホルダーへ触れる。
そこにある白いボールを指先で示し、それから、自分の胸へ手を当てた。
日廻の目が動いた。
ボールを見て、コジョンドを見る。
「……お前も?」
頷いた。
今度は、顔を伏せなかった。
日廻はしばらくこちらを見ていた。
やがて、繋いだ手へ僅かに力を込めた。
「ロトム。頼みがある」
作業台の前で、画面が振り向いた。
日廻の隣に、コジョンドが立っている。
下ろされた日廻の手へ、細い尾が緩く絡んでいた。日廻もそれを解かず、指先を添えている。
ロトムの目が、二人の間で止まった。
コジョンドがこちらを見て、小さく頷く。
少し間を置いて、ロトムは日廻へ向き直った。
『何を作ってほしいロト?』
「モンスターボール」
その日から、日廻のホルダーに、モンスターボールが一つ増えた。
使えないポケモンは好き勝手にパーティから外すでしょう?by ポケモンの保護を目的とした財団の代表。
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