台所から、戸を開け閉めする音が聞こえていた。
チラーミィは廊下の陽だまりで、尾の先を梳いていた。
灰色の毛は、指を通すと柔らかくほどける。寝起きに少し絡んでいたところも、もう分からない。
チラーミィの姿は、具合がよかった。
小さな隙間へ入れるし、尾を抱えて丸くなれば暖かい。日廻の家には、この身体にちょうどいい場所が幾つもあった。
正体は昨日、知られてしまった。
それでも今朝、目が覚めると、無意識にいつもの姿へ戻っていた。
別に、不思議なことではない。
慣れた形が楽なだけだ。
「……卵もないか」
日廻の声がした。
覗いてみると、開けた冷蔵庫の前で紙に何かを書いている。
「米も買わないとな。あとは……」
ミュウは戸口を抜けた。
足元を通り過ぎようとしたところで、声が降ってきた。
「チラー……」
続きがない。
顔を上げると、日廻は紙を持ったまま、こちらを見下ろしていた。
「……ミュウ、だよな?」
ほかに誰がいるというのだろう。
ミュウは短く鳴いて頷いた。
日廻が紙を台へ置く。
「お前、どっちで呼べばいいんだ。その姿のときも、ミュウでいいのか」
日廻の足元を通り過ぎかけて、ミュウは足を止めた。
膝を少し曲げ、ミュウの顔を覗き込んでいる。返事を待っているようだった。
何ができるのか。
どうして黙っていたのか。
昨日のあとなら、聞きたいことはいくらでもありそうなものだった。
それで、まずは呼び方なのか。
ミュウは一度、耳を動かした。
日廻の視線も、その耳についてきた。
森から町へ降りるときは、いつも姿を変えた。
翼があれば鳥として、毛に覆われていればその種の名で呼ばれる。そうしていれば、見知らぬ者が跪くことも、何かを願って追いかけてくることもなかった。
小さな姿に向けられる手は、よく見えた。
触れようと伸ばされる手も、捕まえようとする手も、畏れて引かれる手も。
正体を見せてから急に丁寧になる者の手つきまで、覚える必要はない。
今、目の前の手は、昨日と同じ場所で止まっていた。
勝手に抱き上げることもなく、返事を待っている。
ミュウは、傍へ浮かんできたロトムを呼んだ。
こいつはポケモンの言葉をある程度なら人間の言葉へ直せたはずだ。
日廻へ伝えるように言う。
『……どの姿でも、ミュウでいいって言ってるロト』
そこで、ロトムの目がこちらへ戻った。
ミュウは顎を上げた。
余計なところで止まらなくていい。
『日廻なら、って』
「そうか。分かった」
ミュウは、その横顔を見上げた。
……それだけ?
もう買い物の続きを考えているらしい。こちらを見もしない。
尻尾の先で、床を一度叩いた。
ずいぶん、あっさり受け入れるものだ。
文句をつける理由もないのに、何となく面白くない。口元だけが緩みそうになるのも、落ち着かなかった。
――なら、もう少し困らせてやろう。
ミュウは、紙へ向けられた視線の先にひょいと顔を出した。
灰色の毛が黄色へ変わる。耳は細長く伸び、頬には赤い丸。背後で揺らした尾は、もう稲妻の形をしていた。
日廻の指が止まった。
「……え?」
そうそう。その顔。
ミュウは満足して、片耳を傾けた。
『ピカ?』
廊下から、本物が顔を出した。
日廻の顔が、こちらと向こうを行き来した。
「……おい」
もう少し、見ていたくなった。
今度は身体を伸ばす。
袖のような毛が両腕を覆い、細い尾が背後へ流れた。高くなった視界の隅で、台所へ来かけていたコジョンドが足を止める。
ミュウは片脚を上げ、昨日見た構えを真似た。
少し大袈裟に、袖を払ってやる。
コジョンドは目を細めた。
それから、ミュウの軸足を指した。
そこでは踏ん張れない、と言っている。
真面目なことだ。
ミュウはわざと、もう少し身体を傾けた。足が浮いても構わない。倒れるつもりはないのだから。
「待て待て待て」
日廻が片手を上げた。
「ロトム。これ、そう見えてるだけなのか。幻とか、そういう……」
『“へんしん”ロト。身体そのものを変えてるロト』
「……身体を」
『そうロト』
日廻の目が、頭から足先まで下りていく。
もう一度、顔へ戻ってきた。
「これも不思議な生き物で済ませていいのか?」
ミュウは袖で口元を隠した。
分かったと言ったばかりなのに。
呼び名を決めるより先に聞くことがあったのではないか。
『ミュウ、日廻が困ってるロト』
ミュウはロトムへ顔を向けた。
ゆっくりと、首を傾げる。
へえ。
あんたまで、いつからそんなに親しくなったのかしら。
『……ミュウ様』
言い直した声が低くなった。
ミュウは満足して、桃色の身体へ戻った。
「今、何かあったか?」
『何でもないロト』
そう、何でもない。
日廻へ向き直り、にっこり笑ってやる。
「面白かったか」
『ミュウ』
日廻が何かを書き綴った紙を持って移動する。
ミュウもいつもの姿に戻り、そのあとを追った。
着いていくと日廻が、困ったように額へ手を当てた。
今度は、隠さずに笑った。
◇◆◇
当たり前だけど、この家では、食べ物が勝手に増えるわけではない。
それくらいは知っている。
けれど、日廻がほかの人間から物を買うところは、まだ見たことがなかった。
『ボクも行くロト』
「分かってる。向こうで浮くなよ。声も小さく」
『普通のスマホロト』
「普通のスマホは自分でそう言わない」
差し出された掌へ、ロトムが降りた。
日廻が胸ポケットへ入れようとすると、その身体が僅かに浮いた。
指に触れたまま、そこから下りてこない。
画面の目は、ポケットの奥へ向いていた。
ミュウは耳を動かした。
さっきまで賑やかだった声が、止まっている。
日廻も手を止めた。
ロトムとポケットを見比べ、それから掌を戻す。
「……顔、出しとくか。喋るときは小さくな」
『……分かったロト』
今度は、ロトムも浮かなかった。
画面が外へ覗く位置に収められ、日廻の指が縁を軽く直す。
ミュウは尾を抱え直した。
何が怖かったのか、聞かないのね。
日廻はもう、玄関へ向かっていた。
胸元から声がすると、いつもの調子で返している。
日廻の心へ、もう一歩近づくことはできた。
けれど、今日はその必要がなかった。夜更けや、誰かを見送るとき、繰り返し浮かんでくる同じ背中を、ミュウはもう知っている。
今は、ロトムが傍にいた。
「食い物、買ってくる。畑の方、頼むな」
玄関でピカチュウが頷く。
戸が閉まり、少しして車の音がした。
ミュウは窓辺へ跳んだ。
車の窓越しに、日廻がロトムを助手席へ置くのが見えた。
何か声をかけている。その口元が、少し緩んだ。
……あの小うるさいのは、当然のようについていくのね。
窓枠へ垂らした尻尾の先が、ひとつ揺れた。
自分だって、行くと言えば済むことだ。けれど、今から追いかけて頼むのも、何だか癪だった。
外では、小さな鳥が枝を移っていた。
ミュウは片耳を立てた。
見たことのない種類だったが、形は難しくない。尾を縮め、毛を羽へ変え、窓枠を掴む足先を細くする。
今日くらい、畑を離れてもいいだろう。
毎日同じ場所にいるのも退屈だし、この世界の町も、まだろくに見ていない。
日廻が戻るまでに帰ってくればいい。
羽を開いた。
車が道へ出るのを待ち、屋根の上へ舞い上がった。
◇◆◇
人間の町は、昔からよく形を変えた。
久しぶりに森を出ると、道が増えていることがある。
前に泊まった屋根がなくなり、顔見知りだった人間の代わりに、よく似た顔の子供が店番をしていることもあった。
この町にも、道と店があった。
車が列になって走り、頭上では幾本もの線が柱を繋いでいる。大きな箱を積んだ車が、日廻の車とすれ違った。
ミュウは少し高度を上げた。
荷物を下ろしているのは、人間だった。
建物の壁へ梯子を掛けているのも、人間。
道を掃く者の傍にも、店先で座って待つ者の足元にも、ポケモンはいなかった。
道の端を、見慣れない四足の生き物が歩いていた。
首には輪があり、そこから伸びた紐を人間が握っている。
姿だけなら、ガーディやラクライに少し似ていた。
こちらに気づくと、その生き物が足を止めた。
鼻先を上げ、突然、大きな声で吠える。
ミュウは枝へ降りるふりをして、目の前をひらりと横切ってやった。
紐を握っていた人間が、困ったように何か言いながら引き留めた。
ミュウは少し離れた枝へ止まった。
吠える声は威勢がいい。けれど、炎を吐いたり、電気を放ったりする様子はない。
それでも、人間はあれと一緒に歩いているらしい。
戦わせるためでも、荷物を運ばせるためでもなさそうだった。
人間が歩けば隣を歩き、人間が止まれば、その生き物も止まる。
あちらで見慣れた光景に、少しだけ似ている。
けれど、やはり何かが違った。
ミュウは羽を返した。
車も、灯りも、重い荷物を動かす道具もある。
あちらで見たものと似ているのに、よく見ると違う。店の入口には人間の腰ほどの高さに取っ手があり、窓に並んだ服も靴も、人間の形ばかりだった。
人間が人間のために作った町。
日廻が言っていたとおりだ。
ここでは、自分たちがいなくても暮らしが続いてきた。
駐車場へ入る車を追い、ミュウは木の枝へ降りた。
日廻が袋を持って店へ入っていく。
しばらくは、窓越しに姿を追えた。
棚の前で紙を見て、品物を取って、また戻す。別の品物を手にして、印刷された小さな文字を見比べていた。
随分と面倒な選び方をする。
食べてみれば早いのに。
窓から見えなくなると、ミュウは枝を移った。
入口の傍には、幾つもの紙が貼られていた。見慣れない生き物へ近づかないように、というものもある。
ミュウはそこだけ、もう一度読んだ。
――触らない。餌を与えない。
尾羽を一度揺らす。
その下を、人間たちは足を止めずに通っていった。
日廻は幾つもの袋を載せたカートを押して、店から出てきた。
車の傍で袋を一つ持ち上げ、眉を寄せる。
昨日の腕は、まだ違和感があるらしい。
ミュウは枝から少し身を乗り出した。
「榊原君?」
店の横から、帽子を被った人間が近づいてきた。
畳んだ空の箱を抱えている。
「ああ、お久しぶりです」
日廻が背筋を伸ばした。
声まで、家にいるときより整っている。
「今日は随分買ったね」
「ちょっと、切らしてたものが多くて」
「畑の方はどう。良心市には出せてる?」
「ぼちぼちです。まとめて出すには、まだ数も揃わなくて」
「一年目から何でも揃ったら苦労しないよ。無理して広げないようにね」
日廻が、小さく笑った。
ミュウは首を傾けた。
畑の話なら、日廻が教える方だと思っていた。
言われたことに頷く顔を、枝の上から眺める。
こんな顔もするのか。
「ところで、山の方は変わりない?」
箱を抱え直しながら、その人間が尋ねた。
「変わり、ですか」
「穴から出てくる生き物。君のところ、山に近いから」
日廻の手が、袋の持ち手で止まった。
「……この辺でも、何かあったんですか」
「この辺では、まだ聞いてないけど。ニュース、見てない?」
「ここ数日、ちょっと立て込んでいて。テレビも、ほとんど」
「あの街の映像も?」
日廻は答えなかった。
相手の顔から、さっきまでの笑みが消えた。
入口にいた別の人間が、こちらを向いた。
「昨日から、ずっとやってるでしょう。家族からも動画が送られてきて。私、最初は作り物かと思ったもの」
袋を抱える腕へ、力が入る。
「うちは、子供だけでは外へ出さないことにしたよ」
ミュウは羽の先を整えながら、その声を聞いた。
警戒と、恐れ。
どちらも、耳を澄ませるより先に分かるほど表へ出ていた。
「何があったんですか」
「……帰ったら、ちゃんと見ておきなさい。君も一人なんだから」
箱を持つ人間の声が、低くなった。
「可哀想でも、近づいちゃ駄目だよ。餌なんかやって居つかれたら困る。家へ入れるなんて、もってのほかだからね」
まあ、そうなるでしょうね。
ミュウは、嘴で乱れた羽を挟んだ。
知らない生き物を遠ざける人間なら、あちらにもいた。
牙を剥かれたことがあれば、なおさらだ。反対に、珍しいと知ると手を伸ばす者もいたし、力を見せれば急に願い事を始める者もいた。
目の前の二人は、少なくとも捕まえたがってはいない。
日廻が無事でいるように、と話している。
「ただ、全部が、人を襲うとは――」
「あの映像を見たら、そうは思えないわよ」
日廻の口が閉じた。
相手は箱の角を見下ろした。
指で押されて、少し潰れていた。
「……いや。見てないんだったね」
「すみません。知らないまま、軽く返しました」
日廻が頭を下げた。
胸元のロトムも、声を出さなかった。
ミュウは羽繕いをやめた。
枝の下では、二人の視線が日廻へ留まっている。
「君を責めたいわけじゃないんだ。ただ、あそこじゃ何かあっても、すぐ助けに行けないから」
「はい。……もし見かけても、追いかけたり、追い詰めたりはしない方がいいと思います」
日廻の声は、先ほどよりゆっくりだった。
伝えるより、自分に言い聞かせているように。
「逃げられる場所がないと、向こうも必死になるでしょうから」
「そりゃ、こっちから近づきたくはないけどね」
入口の人間が、硬い声で返した。
日廻は頷いた。
「そうですね。距離を取ってもらえれば」
ミュウは、日廻の横顔を見た。
ここへ来たばかりのコジョンドを思い出す。
水の器を置き、手を引いて、日廻は待っていた。相手が何者なのかも、何を恐れているのかも、ほとんど知らないままで。
この町のどこで、それを覚えたのだろう。
「何かあったら連絡しなさい。一人で何とかしようとしないで」
「ありがとうございます」
人間たちが離れていく。
日廻はその背中を見送ってから、最後の袋を車へ載せた。
ミュウは視線を町へ戻した。
あちらの町なら、店番の隣でポケモンが眠っていることもあった。
子供に尻尾を引かれて怒る者もいれば、荷車を引く足を止め、好物をもらうまで動かない者もいた。喧嘩の声も、笑い声も、たいてい同じ道から聞こえてきた。
ここには、その隣がない。
今日、突然、穴から出てきたもののために空けてくれと言われても、困るのだろう。
ミュウは片足を持ち上げ、枝を掴み直した。
もう少し、簡単かと思っていた。
日廻の家ばかり見ていたせいかもしれない。
下で、ロトムの画面が明るくなった。
「今のニュース、調べられるか。まず、どこで何があったのか知りたい」
『調べるロト』
画面から顔が消える。
ミュウのいる枝からは、並んだ文字までは読めなかった。
日廻の指が画面を滑り、止まった。
「……これ、こっちの世界で起きてるんだよな」
『……そうロト』
長い間、日廻は顔を上げなかった。
横を通る人間へ半歩道を空け、また画面へ目を戻す。
肩に残っていた力が、今度は首元へ集まっていくように見えた。
「元の報道も、見られるようにしておいてくれ。帰ってから、ちゃんと確かめる」
『分かったロト』
日廻が買い物袋を見た。
胸元へ戻しかけたロトムを、もう一度持ち直す。
「……何を、どこまで言えばいいんだろうな」
ロトムは答えなかった。
日廻の指先が、画面の縁をなぞった。
ミュウは、その動きを枝の上から見ていた。
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