襖を少しだけ開けると、薄暗い部屋の中には幾つもの寝息が重なっていた。
ピカチュウと壁際で丸くなり、そのすぐ傍ではヒメグマが手足を投げ出して眠っている。少し離れた場所にはニャスパーが身体を小さく縮めていて、体がすっぱりと入る鉢の中で眠るチェリネ、マリルは自分の尻尾を抱きしめるように寝ている。誰かが寝返りを打つたび、敷かれた布がかすかに擦れた。
昼間なら、少し目を離しただけで必ず何かしら音がする。
腹が減ったと訴える声がして、畑へ出ていく足音がして、誰かが誰かを追いかけている。ここ数日の家は、日廻が一人で暮らしていた頃とは比べものにならないほど騒がしくなっていた。
けれど今は静かだった。
眠っている姿をしばらく眺めているうちに、日廻の口元がわずかに緩む。
起こさないよう襖を閉じると、その笑みも廊下の暗がりへ置いていくように、自室へ戻った。
戸は開いていた。
中ではロトムが画面を明るくし、アブソルは畳の上に伏せ、コジョンドは壁際に座っている。チラーミィの姿に戻ったミュウは、座布団の端で大きな尾を抱えていた。
日廻が部屋へ入ると、ロトムの画面がこちらへ向く。
『見るロト?』
「……ああ」
座り込み、机へ視線を落とす。
ロトムが操っている日廻のノートパソコンから配信サイトの動画が始まった。
最初に目へ入ったのは、ごく普通の道路だった。
舗装された道があり、その脇には建物が並び、信号も看板もある。どれも日廻にとっては見慣れているはずのものだった。
ただ、人がいなかった。
いや。
――いた。
動いていないだけだった。
「……」
道路の端に。
建物の入口に。
横断歩道の途中に。
人の形をした石が立っている。
倒れているものもあれば、何かへ手を伸ばした姿のまま固まっているものもあった。
映像がさらに街の奥へ進んでいくにつれ、日廻の中から「数える」という発想そのものが消えていった。
アブソルが静かに立ち上がり、喉の奥から低い声を漏らす。コジョンドは何も言わなかったが、膝の上に置いた両手がいつの間にか強く握られていた。
ミュウだけは動かない。
けれど、先ほどまで弄んでいた尾の先は、完全に止まっていた。
映像の向こうでは、風だけが街を通り抜けていく。
日廻は口元を手で覆った。
「……これをやったのが」
『ダークマターネクロズマロト』
ロトムの声も、いつもより小さい。
日廻は画面から目を離せないまま訊いた。
「どんな奴なんだ」
すぐには返事がなかった。
やがてミュウが顔を上げ、短く鳴く。それを聞いたロトムが、慎重に言葉へ直した。
『……光を奪うロト、更に取り込んだポケモンの力まで、自分のものみたいに扱ってるロト』
日廻は眉を寄せた。
「……確か、ゼルネアスが言ってたな。始まりは、ネクロズマってポケモンをダークマターが取り込んだんだって」
『そうロト』
「そいつの力を使って光を奪ってる。それに、ほかのポケモンまで取り込んで、その力も増やしてる……ってことか」
ロトムはミュウを見る。
ミュウが頷いた。
口にしてみても、その規模までは上手く想像できなかった。
それでも、次に続いた説明は嫌でも理解できた。
『それに、世界を渡る力もあるロト』
日廻の指先が、唇に触れたまま止まった。
自分たちのように、たまたま開いた穴を通るのではない。
あれ自身が世界を越えてくる。
「……最悪だな」
思ったことが、そのまま声になった。
ミュウが小さく鳴き、ロトムが続ける。
『最悪の災害みたいなものだって言ってるロト』
日廻は画面へ視線を戻した。
石になった人間、街。
そして、その向こうにいるもの。
「取り込まれたポケモンは?」
『確認できてるのは、イベルタル、ソルガレオ、ルナアーラ』
「……名前を聞いてもどんなポケモンか分からない」
『そうだったロト』
ロトムが画面を小さく揺らし、ミュウが呆れたように一声鳴いた。
『「あなた達の歴史の中で、崇め奉る若しくは畏怖されるような超常的存在が語られる歴史はあるかしら?」って』
「例えば……神話の中にいる怪物とか、神とか?」
ミュウが頷く。
『「この世界にもそういう概念があるのね。なら簡単よ」』
そこで青い目が細められた。
『「もう取り込まれている三匹は、一匹だけでも神話が作られるような存在よ」』
日廻は、すぐには何も言えなかった。
今まで聞いたこともないポケモンの名前だった。姿も知らない。何ができるのかも分からない。
それでも、たった今ミュウが使った言葉だけは分かる。
一匹だけでも、神話になる。それが三匹。
『「簡単に言えば、イベルタルは死と破壊を司るもの。ソルガレオとルナアーラは、それぞれ太陽と月の使者。そう思っておけばいいわ」』
「つまり、そんな神話に出てくるようなのを三体も取り込んで、それぞれの力まで使えるってことか?」
ロトムがミュウを見る。
ミュウは、あっさり頷いた。
日廻は両手で顔を覆った。
「今ので、ちょっとだけ分かっちまった」
『確認できてるだけで、ロト』
手が止まる。
「まだいる?」
ミュウが鳴いた。
『「可能性は高い」って。全部を把握できてるわけじゃないロト』
「黒いアブソルみたいなのも?」
その言葉に、傍にいたアブソルの耳がわずかに動いた。
『それもありえるロト。ただ――』
ロトムが一度ミュウへ視線を向ける。
『「取り込むのと、操るのが同じ仕組みかどうかは分からない」って』
「……分からないことの方が多いんだな」
ミュウは、当然でしょうと言わんばかりに肩をすくめた。
日廻は長く重苦しい息を吐く。
少し理解できたと思えば別の角度から分からないことが増えていく。
それでも、何も知らないままでいるよりはいい。
「こっちに、同じくらいの奴はいるのか」
問いかけると、ミュウの表情が少しだけ変わった。
『「安心しなさい」って』
そこで妙な間が空く。
『「こちらにも、少なくとも二体いるから」』
「二体?」
日廻は、まずミュウを見た。
視線が合うと、ミュウは否定も肯定もせず、ただ口元だけを楽しそうに緩めた。
「……お前?」
問い返しても、返ってきたのは意味ありげな笑みだけだった。
日廻は眉を寄せたまま、次にアブソルを見る。
全力で首を左右に振られた。
続いてコジョンドへ目を向けると、こちらも間髪入れず否定した。
「ロトムは……ありえないか」
『遠回しに失礼なこと言われたロト』
ミュウが小さく笑った。
「じゃあ、誰だよ」
尋ねても答えは返ってこない。
代わりにミュウは何かを含むように目を細めると、ロトムへ一声鳴いた。
『「その時が来れば、あいつが貴方の元で完全な姿を見せるわ」って』
「あいつ?」
それ以上は何も言わなかった。
日廻は数秒待ったが、教えるつもりがないことだけは分かった。
『諦めたロト?』
「この場で一番分かっていそうな奴が、聞いても教えない顔してるからな」
ミュウが満足そうに尾を揺らした。
日廻は机の横へ手を伸ばし、布に包んであったものを取り出す。
白い輪。ゼンブイリング。
照明を受けた表面は、今は何の反応も示していない。
「これがあれば、対抗策と言える程度には使えるのか」
それまで僅かに浮かんでいたミュウの笑みが消えた。
青い目が輪へ向けられ、しばらくしてから鳴き声が返る。
『……可能性は、あるって言ってるロト』
日廻が少し身体を起こすと、ミュウは何かを言いかけたところでふと止まり、別の言葉を探すように首を傾げた。
『「晩ご飯にあった、あの細くて、つるつるしてて、汁につけたやつ」』
「そうめん?」
ミュウが指を立てる。
『「そう。それ一本くらい」』
「一本かよ。せめて束であってくれよ」
思わず出た声に、ミュウの肩が僅かに揺れた。
日廻は額を押さえる。
ほんの一瞬だけ緩んだ空気は、次の言葉ですぐに元へ戻った。
『「太陽や月に、地面から小石を投げたところで届かないでしょう?」』
「……」
『「奇跡みたいに届いたとして、それで太陽がどうにかなると思う?」』
日廻は手元の白い輪を見る。
「そのくらい違うのか。で、俺になにができる」
ミュウがこちらを見る。
細められた目は、呆れているようにも見えた。
『「ここまで聞いて、それでもやることを変えないのね」って』
「今更、変えた方がいいか」
ミュウは鼻を鳴らす。
『「本当に馬鹿」』
「知ってる」
『「そこを即答するのもどうなの?」』
僅かに口元が緩んだ。
けれど、それもすぐに消えた。
『「戦うなら、まず覚えておきなさい」』
日廻は姿勢を正す。
『「攻撃には触れないこと」』
「避けろってことか」
『「違うわ」』
声を訳すロトムの表情まで硬くなる。
『「死んでも避けなさい」』
日廻は何も返せなかった。
『「ほんの少し掠っただけでも、光を奪われる。そこから毒が回るみたいに石化が広がる」』
先ほど見た街が脳裏に蘇る。
「……止められるのか」
『「私や、あいつが近くにいれば、進行を留められるぐらいはできる」』
「治すことはできるのか?」
ミュウの顔から、からかうような気配が完全に消えた。
『「分からない。でも、期待しないほうがいいわよ」』
日廻はゆっくり息を吐く。
『「だから基本は回避。相手に合わせるなら、嫌でも速い戦いになる」』
「俺じゃ無理だな」
『「ええ」』
「そこは少し迷えよ」
『「事実でしょう?」』
「そうだけど」
ミュウの尾が揺れる。
『「だから、フライゴンに乗る」』
「……フライゴンに」
『「私でも運べるけど」』
ミュウがふわりと浮かび、部屋の中を一周する。
『「敵の攻撃を抑えながら、周りも見て、全員を助けながら動くことになる」』
ミュウがにっこり笑った。
嫌な予感しかしない。
『「その軌道に人間の身体で付き合いたいなら、今から試してみる?」』
日廻は即座に首を振った。
『「ぐしゃぐしゃになるわよ」』
さらに強く首を振ると、ミュウが楽しそうに笑い、コジョンドまで僅かに顔を背けた。
「……俺ができるのは」
日廻は再びゼンブイリングへ目を落とす。
『「必要なときに、それを使うこと」』
ミュウの声が静かになった。
『「三回」』
日廻の指が止まる。
『「消費として使えるのは、あと三回まで。その先がどうなるかは……身をもって経験したでしょう?」』
ゼルネアスの言葉が蘇った。
初めてメガシンカして、その後体中の何かが吸い取られたような感覚と共に日廻が倒れたこと。
「分かってる」
アブソルがこちらを見ている。
以前使ったときの感覚は、今も腕の奥へ残っていた。
刺すような痛みと、身体の内側から焼かれるような熱。
「メガシンカは一回使った。どういう感じなのか、少しは分かる。でも、ほかの三つは名前しか知らない」
『Zワザ、ダイマックス、テラスタルロト』
「あとで、教えてくれ」
『分かったロト』
「使うかどうかじゃなくて、まず知らないと判断もできない」
『そうするロト』
日廻はゼンブイリングを布へ戻し、丁寧に包んだ。
目の前から白い輪が隠れても、机の上に置かれた重さまで消えた気はしなかった。
◇◆◇
夢の中では、家も畑も静まり返っていた。
呼んでも誰も返事をせず、振り返った先には、アブソルもコジョンドも、ミュウもロトムも、みんな石になっていた。
そこで目が覚めた。
障子の向こうは、もう朝の色になっている。
日廻はしばらく天井を睨んだあと、片手で顔を覆った。
「……嫌なものを見た。くそっ」
予定通りに支度を済ませて、日廻はフライゴンの背へ取り付けられた装具を確かめる。
身体の形に合わせて作られた、馬具に似た装備だった。
ロトムがポケモンライドというものに使われる機構を参考に作り、それをミュウが補強しているらしい。腰と脚を支える部分には特殊な力が働き、身体を磁石のように固定してくれる。
『固定、確認ロト』
日廻は身体を少し傾けた。
確かに、簡単には外れない。
『落ちにくいロト。でも、身体にかかる力までなくなるわけじゃないから、気を付けるロト』
「分かってる」
『……分かってる人間の顔じゃないロト』
横からミュウがこちらを眺めている。
今日はチラーミィの姿だった。
「……何だよ」
『チラ』
ミュウがロトムへ何か言う。
『「どうせ聞かないから、痛い目見れば?」って』
「朝から優しいな」
ミュウがいつものように楽しそうに笑った。
少し離れたところでは、フライゴンが大きく翼を広げている。
『ファァイ!』
その元気な声を聞くだけで、日廻の身体から僅かに力が抜けた。
それでも周囲へ目を向ける。
近くの里から離れているとはいえ、山菜を取りに近くまで来る人もいる。
もしかしたら、を考えると。不安が過った。
「……見られないか?」
ミュウがフライゴンと日廻に手を向けると、淡い揺らぎが周囲へ広がった。
日廻は自分の腕を見る。
消えてはいない。
ただ、服の色が背景に馴染むよう変わり、フライゴンの黄緑色の身体も遠目には景色へ溶け込んで見えた。
「流石だな、神話に語られるようなポケモン様は」
ミュウは意味深そうに頷くだけだ。
日廻はフライゴンの背を軽く叩いた。
「頼む」
『ファイ!』
翼が大きく動いた。
身体が浮き上がる。
「……っ」
腹の奥だけが、一瞬遅れて持ち上げられたような感覚がした。
家の屋根が下へ沈み、畑が小さくなり、一本一本だった木々が次第に緑の面へ変わっていく。
装具から手を離しても落ちないことは分かっているのに、日廻の指には力が入った。
速度が少し上がるにつれ、頬へ当たる風も強くなっていく。
日廻は身体を伏せた。
「もう少し、速くてもいい」
フライゴンが小さく鳴く。
一瞬、背中が揺れた。
迷ったのだと分かった。
「慣れたいんだ。頼む」
『ファイ……』
大きく翼が動く。
風の音が一気に変わり、景色が後ろへ流れ始めた。
「っ……!」
腰はしっかり固定されている。
それでも、胸の中身だけを後ろへ置き去りにされるような感覚に、日廻は歯を食いしばった。
旋回へ入る。
今度は身体が横へ強く引かれ、視界そのものが大きく傾く。
木々と空と大地の境目が崩れた。
「もう一回」
食いしばる声にフライゴンが振り返る。
「大丈夫」
嘘ではなかった。
少なくとも、まだ耐えられる。
けれど、その言葉を口にした瞬間、昨夜の映像も夢が脳裏に浮かんだ。
今この瞬間にも、あの街のどこかで。
自分の知らない場所で。
誰かが石になるのを止めようとしているかもしれない。
いつ、決死の作戦が始まるか分からない。
いつ、災厄がこちらの世界に穴を開くか分からない。
その時になって、飛べません、慣れていません。
そんなことを言っている時間があるのか。
「頼む!」
返事は加速。
胸が押され、呼吸が浅くなる。
続けて旋回へ入った。
耳の奥で、風とは違う音が鳴った。
一瞬だけ指先の感覚が薄くなる。
身体は、もう止めろと言っていた。
「まだ――」
声にならなかった。
風の音が遠のいていく。
最後に感じたのは、フライゴンの背が急に水平へ戻ったことだった。
◇◆◇
眩しさで目が覚める。
ゆっくり目を開けると、最初に青空が見えた。視界の端ではロトムが覗き込み、その少し後ろにチェリネの姿もある。
何かを喋る前に、唇へ何かが押し当てられた。
反射的に口へ含み、そのまま噛んだ。
「――っっっ苦ッ!?」
目眩も忘れて飛び起きた。
舌の奥から喉まで、どうしようもない苦味が一気に襲い掛かる。日廻は口元を押さえ、何度か咳き込みながら隣を見る。
チェリネは、頭の葉を一枚失った姿でこちらを見上げていた。
「……こ゛れ、お前の゛葉っは゛か?」
チュリネが何度も頷く。
衝撃的な苦さに悶えていると、水筒を手にしたコジョンドが傍へ寄り、それを差し出してきた。
『疲れた身体にすっごく効くロト!』
「効く前に舌が死ぬ……!」
それでも、さっきまで頭の奥にかかっていた重い靄は、少しずつ引き始めていた。
コジョンドとチュリネに礼をしながら、水で口内を洗い流してもまだ残っている殺人的な苦さを感じながらロトムに視線を向ける。
「……俺、どのくらい気を失っていた?」
『ほんの少しロト。でも駄目ロト。今日はもう――』
「もう一回」
周囲が止まった。
『日廻』
「さっきより分かった。次は、急に曲がる前に――」
白い影が視界へ滑り込んだ。
次の瞬間。
こつん、と額へ軽い衝撃が走る。
「っ」
強くはない。
けれど、十分に痛い。
「何すんだ」
目の前では、ミュウが片手を下ろしたところだった。
『チラ』
『「からてチョップ」ロト』
「今のが?」
『手加減してるロト』
「そうじゃなくて」
ミュウがこちらを見る。
笑っていない。
『「あなた、ここに生きて帰るつもりでしょ」』
日廻は口を閉じた。
『「もう死に急いだ目をしているわよ」』
「……」
嫌な映像が頭に浮かぶ。
「でも」
声が感情が、強くなる。
「今だって、向こうじゃ――」
『「知ってる」』
「だったら!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
その瞬間、フライゴンがこちらに振り向き心配そうな顔をした。
日廻はそこで言葉を止め、奥歯を噛み締めた。
「……悪い」
誰へ言ったのか、自分でも分からなかった。
恐怖か緊張か、自分の指先が小さく震えていた。
その時、大きな身体が近づいてくる。
黄緑色の腕が、日廻を包み込んだ。
「……フライゴン?」
『ファイ……』
身体ごと引き寄せられる。
大きな温かい手が背中へ触れ、ゆっくりと上下する。
一度、もう一度。
子供をあやすように、丁寧に。
『ファイ……ファイ』
大丈夫、そんなふうに聞こえた。
「……ごめん」
背中を撫でる手は、しばらく止まらなかった。
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