ポケモン、彼らはそう呼ばれている   作:燐2

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七日目【フライゴンの想い】

 

 すぐには立ち上がらなかった。

 

 口に残った強烈な苦味を水筒で何度も流し込みながら、呼吸が落ち着くまで草の上に座っていた。

 ロトムはその間も日廻の周りを離れず、先ほどの飛行中に記録していた映像と、今の日廻の受け答えや顔色を何度も見比べていた。名前や場所、今日の日付まで確認され、さすがに日廻も途中で眉を寄せる。

 

「そこまでやるのか」

 

『確認ロト』

 

 短く返されて、それ以上は何も言えなかった。

 問いにはすべて答えられたし、頭の重さも先ほどよりは引いている。チュリネの葉が効いているのか、それとも単に休んだおかげなのかは分からないが、少なくとも視界が揺れることはもうなかった。

 

 もう少し待ってから、両手を地面についてゆっくり立ち上がる。

 

 コジョンドがすぐ傍へ寄ったが、日廻は急がずに一度姿勢を整えた。ふらつきはない。首を左右へ動かしてみても、吐き気や強い眩暈は戻ってこなかった。

 それでも、ロトムの視線は厳しいままだった。

 

『無茶は禁止ロト』

 

「分かった」

 

 答えると、今度はミュウがじっとこちらを見ていた。

 疑っている。

 それくらいは、日廻にも分かった。

 

「……本当に。分かった」

 

 もう一度、今度は誤魔化さずに言う。

 ミュウの青い目がわずかに細められた。まだ完全に信用したわけではなさそうだったが、先ほどのように手刀が飛んでくることはなかった。

 日廻は少し迷ってから、頭を下げた。

 

「さっきは悪かった。それと……何かあるたび、助けてくれてありがとう」

 

 ミュウは一瞬だけ目を丸くしたあと、ふいと顔を逸らして鼻を鳴らした。

 それで十分だった。頭を上げると、少し離れたところにいたフライゴンと目が合った。

 先ほど日廻を抱きしめていた大きな腕は、今は身体の横へ戻っている。けれどこちらを見る目には、まだ心配そうな色が残っていた。

 

「……ごめんな、お前にも」

 

 フライゴンはすぐには鳴かなかった。

 代わりに、何かを確かめるように日廻をしばらく見つめてから、ゆっくりと身体の向きを変えた。

 そのまま脚を折り、地面へ伏せる。

 背中を、日廻へ向けて。

 

「……?」

 

『ファイ』

 

 低く、短い声だった。

 日廻は、その背とフライゴンの顔を交互に見る。

 

「もう一回、乗れって?」

 

 フライゴンが首を巡らせ、こちらを見る。

 小さく頷いた。

 

「でも……」

 

『ファイ』

 

 もう一度。

 先ほどのように元気よく急かす声ではなかった。

 早く乗れと催促しているわけでもない。ただ、背中を差し出したまま、日廻が決めるのを待っている。

 その姿を見ていると、さっき自分が何度も「もっと速く」とせがんだことを思い出した。

 

 フライゴンは、それに応えてくれただけだった。

 苦しくても、怖くても、自分が頼んだから飛んでくれた。

 それなのに、最後には心配させて、地面まで連れ戻させた。

 

「……今度は、俺が勝手に急がない」

 

 日廻はミュウへ顔を向ける。

 

「……いいか」

 

 ミュウはすぐには答えなかった。

 日廻の顔を見てから、フライゴンを見る。今度はフライゴンも目を逸らさず、何かを伝えるように小さく鳴いた。

 しばらくして、ミュウが小さく息を吐く。

 それから、仕方がないというように片手を振った。

 

「ありがとう」

 

 日廻はもう一度フライゴンの傍へ歩いた。

 先ほどと同じ装具へ身体を固定する。けれど、跨がったときの感覚は少し違っていた。

 一度気を失ったせいか、背中の高さも、翼の大きさも、さっきよりはっきり意識してしまう。手を添えれば、フライゴンの身体が呼吸に合わせてわずかに上下しているのも分かった。

 少し離れたところでは、ミュウは本来姿に戻り浮かんだままこちらを見ている。

 

「……頼む」

 

 言ってから、一度だけ息を吐く。

 今度は、速くしてくれとも、もっと旋回してくれとも言わなかった。

 フライゴンの背へ置いた手からも、力を抜いた。

 

 

 

     ◇◆◇

 

 あたしは、日廻のことをみんなから聞いていた。

 ご飯を作ってくれる人で、困っている誰かを放っておけなくて、すぐ無茶をする人。

 心配すると困ったような顔をして、自分のことになると途端にどうすればいいのか分からなくなる人。

 アブソルが話す日廻と、コジョンドが話す日廻は少し違った。

 

 ほかのみんなも、それぞれ違う。

 

 嬉しそうに話す子もいれば、呆れたように話す子もいる。怒っているみたいなのに、どこか自慢げに見えることもあった。

 だから、言葉は通じないけど、実際にこうやって語り合うように過ごせる時間を楽しみに待っていた。

 

 会ってみて、なるほどと思った。

 この人はきっと、ずっと誰かの背中を追っている。誰の背中なのかは知らない。

 どうして、もう届かないように見えるのかも分からない。

 それでも、誰かのために何かをしようとするときだけは、迷っていても前へ進めるのに、自分のために休んでと言われた途端、どこへ足を置けばいいのか分からなくなる。

 

 さっきだって、そうだった。

 

 怖かったはずなのに。

 苦しかったはずなのに。

 

 もっと速く。

 もう一回。

 

 あたしも応えた。

 日廻が望んだから。

 ちゃんと飛べるところを見せたかったから。

 けれど、あたしまで同じ方向を向いて急いでしまったら、誰がこの人の顔を見るんだろう。

 背中へ、日廻の重みが戻ってきた。

 さっきと同じはずなのに、装具を握る手はまだ硬い。

 

「……次は、気をつける」

 

 耳の近くへ声が落ちてきた。

 何に気をつけるつもりなんだろう。

 苦しくても言わないこと?

 もう気を失わないように、もっと耐えること?

 

 それなら困る。

 あたしは首を曲げて後ろを見る。

 日廻もこちらを見た。

 

「……心配かけて、ごめんな」

 

 そうじゃない。

 今度は、あたしに任せて。

 そう言っても、きっと伝わらない。

 だから、あたしは急がずに待った。

 あたしの思いが伝わるまで、日廻の目を見る。

 まだ肩には力が入っている。

 風が吹く。

 足元の草が揺れる。

 やがて日廻が一度大きく息を吸い、ゆっくり吐き出した。

 装具を握っていた指から少しだけ力が抜けた。

 

「……お前に、任せてみる」

 

 嬉しくなった。

 

『ファァイ!』

 

「そんな嬉しいのか」

 

 嬉しいよ。

 

 だって、今度はあたしが決められる

 どれくらいの速さで飛ぶかも。

 どのくらい高く上がるかも。

 何を見せるかだって。

 

 翼をゆっくり広げる。

 浮かび上がるときは、できるだけ静かに。

 背中の重みが揺れないよう、風を大きく掴まず身体を持ち上げていく。

 

 日廻の手に力が入る。

 止めない。

 そのまま待つ。

 もう少し上がる。

 やがて指先が緩んだ。

 そこで初めて前へ進む。

 

 速くはしない。

 大きく、緩く曲がる。

 最初の旋回では、日廻の身体が少し遅れて傾いた。

 

 もう一度。

 ほら、さっきより上手くできた。

 

『ファイ』

 

「……今のは、さっきより分かった」

 

 もう一回。左へ大きく円を描き、その次は反対へ。

 風を受ける位置を少しずつ変えながら、背中の人間がどう動くのかを確かめる。

 最初は曲がるたび装具へしがみついていた。

 

 それが、いつの間にか変わっていた。

 あたしが傾くより少し前に、同じ方向へ身体を預けてくる。

 

 嬉しい。でも、速くはしない。

 今は、それじゃないから。

 

 山の端を越える。

 進む先で大地がゆっくり低くなり、視界を塞いでいた木々が翼の下へ沈んでいく。

 そして、その向こうで空が開いた。

 

 遠くまで続く大地。

 細く光を返す川。

 畑と屋根。

 

 その全部の先で、空と大地が遠く一本の線になっている。

 あたしには見慣れた景色だった。

 けれど、同じに見える日は一日もない。

 

 雲の形も、風も、光も、いつだって少しずつ違う。

 今日は、それを見てほしかった。

 翼を大きく広げたまま、風へ乗る。

 背中が静かになった。

 

 怖がっている時の静かさじゃない。

 苦しさを我慢している時とも違う。

 そっと振り返ると、日廻は遠くを見ていた。

 

 ただ、一番遠いところを。

 

「……すごいな」

 

 小さな声だった。

 でも、聞こえた。

 嬉しくなって、ほんの少し翼が持ち上がる。

 

「おい、今揺らしただろ」

 

『ファイ』

 

「絶対わざとだろ」

 

 違う。

 ちょっと嬉しかっただけ。

 日廻の口元が動く。

 笑った。本当に、ほんの少し。

 それだけなのに、胸の奥が明るくなった。

 そのまま進む。

 眼下を川が流れ、水面を光が滑っていた。

 

「あそこ、光ってる」

 

 知ってる。

 でも、あなたが見つけたのは初めてだね。

 日廻の片手が背中から離れ、指先が遠くを示した。

 川が曲がった先、細い光の帯が続いている方向。

 

「あっち」

 

 声がする。ワクワクするような上ずった声。

 

「あっち、行けるか?」

 

 あたしはすぐに鳴いた。

 

『ファァイ!』

 

 行ける。

 

 もちろん、そっちへ行きたいの?

 誰かが待っているからじゃなくて。

 何かをしなきゃいけないからでもなくて。

 

 あなたが見たい言葉、それが嬉しかった。

 あたしは進路を変える。

 でも、急には曲がらない。

 大きく円を描きながら向きを変えると、日廻の身体も今度は自然についてきた。

 風を掴み、光の方へ向かう。

 

「……はは」

 

 今度は、ちゃんと聞こえた。

 笑ってる。

 あたしも鳴いた。

 

『ファァァイ!』

 

「急に元気になるなよ」

 

 だって嬉しいんだもん。

 もっと見せたい。

 もっと飛びたい。

 でも、今日はこれでいい。

 怖いものがなくなったわけじゃない。

 地面へ降りたら、日廻はまた難しい顔をするのかもしれない。

 誰かのために急いで、またあたしたちを困らせることもあるかもしれない。

 

 それでも、今日、日廻が自分で指した場所がある。

 誰かに行けと言われたわけじゃない。

 あたしが連れていくと決めた場所でもない。

 自分の目で見つけて、自分であっちへ行きたいと言った。

 

 それを、覚えていてほしい。

 誰かの背中だけじゃなくて。

 自分の目でも、ちゃんと見つけられる。

 綺麗だと思うものも。

 行ってみたい場所も。

 日廻の手が、あたしの背へ触れた。

 

「フライゴン」

 

『ファイ?』

 

「あと、少しだけ」

 

 声が少し遠慮していた。

 

「もう少しだけ、飛んでてくれるか」

 

 訓練、そうは聞こえなかった。

 速く飛びたいとも。

 もっと慣れたいとも言わなかった。

 ただ、もう少し。

 あたしは返事をするように大きく鳴いた。

 

『ファァァァイ!』

 

 もちろん。

 こんなの、あたしの元気のほんの少しだよ。

 あたしの全力(・・)は、まだまだこんなものじゃない。

 こっちの空にも。

 あっちの空にも。

 いっぱいあるから、もっと見せてあげる。

 

 だから、いつか。

 何かができた日だけじゃなくて、誰かを助けられた日だけでもなくて。

 今日みたいに、空が綺麗だっただけの日にも、生きていてよかったって思えたらいい。

 あたしの背中で笑ってくれたなら、きっとあたしは今日よりもっと空を好きになる。

 遠くで空と大地が触れている、その境界へ向かって風に乗った。

 背中から、もう一度小さな笑い声が聞こえる。

 今度は振り返らなかった。

 聞き間違えるはずがなかったから。

 

 




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