朝になっても、日廻は一度も眠れなかった。
眠る暇がなかった、という方が正しい。
昨日まで農機具や肥料を置いていた作業小屋は、一晩で見知らぬ生き物たちの寝床へ変わっていた。
床には古い毛布や使っていない布団が敷かれ、その上で十匹ほどの生き物が身を寄せ合っている。
翼を痛めているもの。
足の裏を傷つけているもの。
長い逃走で体力を使い果たし、浅い呼吸を繰り返しているもの。
どれも日廻には名前すら分からない。
どういう種類の生き物なのか。
何を食べるのか。
どれほど眠れば回復するのか。
そもそも、人間の世界にある薬を使ってもよいのか。
分からないことばかりだった。
洗面器の水へタオルを浸した。
使い捨てのビニール手袋をはめ、固く絞った布を手に、隅で体を丸めている青い獣へ近づく。
水色の丸い体に、大きな耳。ジグザグの細い尻尾の先には、青い球のようなものがついている。
「傷を見るだけだ、触るぞ」
返事はないが、体は強張っている。
それでも、逃げようとはしなかったことから、昨日よりも警戒が薄れているかもしれない。
泥の落ちきっていない足を持ち上げ、湿らせた布で拭う。
消毒液は使っていない。
人間用のものが、この生き物たちにどう作用するか分からなかったからだ。
水で汚れを落とし、出血があれば清潔な布で押さえる。
今の日廻にできるのは、その程度だった。
『チラッ』
足元から声がした。灰白色の小さな生き物が、包帯の箱を両腕で抱えて立っている。
昨日、トマトを盗んだ生き物だ。
「それはまだ使わない」
『チラ?』
「傷に巻く前に、きれいにしないと駄目だろ」
言葉が通じているのかは分からない。
小さな生き物は首を傾げたあと、包帯の箱を床へ置いた。
それから日廻の使っているタオルへ目を向ける。
「これは駄目だ、雑巾代わりにしようとしただろ」
先に釘を刺す。
小さな生き物の耳が伏せられた。
『チラッ』
「返事をすれば誤魔化せると思うな」
小さな生き物は悪びれた様子もなく、長い尻尾で床の埃を拭き始めた。
掃除をしているつもりなのだろう。
ただし、その尻尾は昨夜、日廻の顔や服も拭いていた。
「あとで洗うからな」
そう言うと、ぴたりと動きを止めた。
黒い瞳が、ゆっくり日廻を向いたのでもう一度伝える。
今度は、はっきりと一文字一文字に感情を込めて。
「洗う」
『チラァ……』
「嫌そうな声を出すな」
小屋の入り口では、白い獣が静かに伏せていた。
淡雪のような体毛。
藍色の顔と尾。
頭の右側から伸びる、鎌のような黒い角。
前足と肩には、日廻が巻いた包帯がある。
座っていろと言っても、白い獣は入り口から動こうとしなかった。
外から何かが来ないか。傷ついた仲間たちに異変が起きていないか。
眠ることもなく、ずっと周囲を見張っている。
「おまえも休め、昨日から寝てないだろ」
日廻が声をかけると白い獣は赤い目をこちらへ向けた。
何を言っても、ここを動くつもりはないらしい。赤い瞳に宿る頑なな意志を見て、日廻はため息をついた。
「俺もだけど」
日廻は作業小屋の壁へ背中を預け、その場に座り込んだ。
小屋の奥では、細身の獣が眠っていた。
二本足で立ち、白と薄紫の体毛を持つ生き物。
昨日、恐怖に駆られて暴れ、白い獣と日廻がどうにか止めた個体だ。
水辺で気を失ってから、一度も目を覚ましていない。
呼吸は安定している。
熱も、人間と比べれば高いように感じるが、それが異常なのかは分からない。
日廻は救急箱を見下ろした。
中にあるのは、人間用の消毒液や軟膏、鎮痛剤ばかりだ。
「使っていいのか、これ」
誰に尋ねたわけでもない。
人間用の薬が、昨日まで存在すら知らなかった生き物に効く保証はない。
効かないだけならまだいいが、毒になる可能性さえあった。
「食い物も分からない。薬も分からない。傷の治し方も分からない」
『チラッ』
「おまえは元気そうだな」
そのとき、作業小屋の外から奇妙な音が聞こえた。
ばち、ばち、と乾いた放電音。
日廻は顔を上げた。
入り口に伏せていた白い獣も、即座に立ち上がる。
濃い藍色の顔が外へ向き、喉の奥から低い唸り声が漏れた。
「何だ」
日廻も立ち上がり、壁へ立てかけていた鍬に手を伸ばす。
空は晴れている。
雷雲など見当たらない。
それなのに、杉林の方角から青白い光が近づいていた。
光は木々の間を縫い、上下左右へ忙しなく揺れながら飛んでくる。
「今度はあちら側から、何かきたのか」
日廻は鍬を構えた。
白い獣が、その前へ出る。
光は畑の上空まで来ると、急に速度を上げた。
『人間ロトーーー!!』
「は?」
甲高い声が辺りへ響き渡る。
青白い光をまとった何かが、作業小屋の入り口へ勢いよく飛び込んできた。
『生きてたロトーー!!』
日廻と白い獣の間を抜け、狭い小屋の中を高速で旋回する。
『文明あるロトーー!!』
「うるさい!」
騒音を撒き散らすものに向かって日廻が叫ぶ。
飛び回っていたものが、空中で急停止した。
薄い板状の機械だった。
橙色の縁取り。
上部には、耳か角のような突起が一つ。
画面には大きな青い目と、尖った口が映っている。
端末の背後からは不安定な淡い水色の光が伸び、その機体を宙へ浮かせていた。
『人間がいるロト……』
画面の中の目が、潤んだように見開かれる。
『本当に、生きてるロト……』
「さっきから何なんだ、おまえ」
日廻が鍬を下ろさずに尋ねる。
浮いている端末は答えず、今度は小屋の中を見回した。
怪我をしている謎の生き物たち、空気循環のために置いた工場扇、簡素な作業机。
『家ロト! 道具ロト! 電気もあるロト!』
「落ち着け」
『文明ロト!』
「分かったから叫ぶな」
端末は日廻の周囲を一周する。
『人間の言葉も通じるロト!』
「おまえも喋ってるだろ」
『通じてるロト!』
「だから近い!」
日廻が手で払いのけると、不規則に浮遊していた端末は慌てて距離を取った。
『乱暴ロト!』
「いきなり人の家へ飛び込んできたやつが言うな」
『緊急事態だったロト!』
「こっちも昨日からずっと緊急事態だ」
白い獣は日廻の前に立ったまま、空中の端末を睨んでいる。
端末はようやく、その存在に気づいたように画面を向けた。
『アブソルロト!』
「アブソル?」
『そうロト。さいなんポケモン、アブソルロト! 危険の兆しを感じ取る能力があるロト!』
ロトムの画面が切り替わった。
そこには、目の前にいる白い獣とよく似た姿が映し出されている。
その横には名前や分類、特徴を示しているらしい文字が並んでいた。だが、それは平仮名でも漢字でも、日廻が知る外国語でもなかった。
規則正しく並んでいることから文字なのだろうとは分かる。
それ以上は、何一つ分からない。
日廻は目を細め、しばらく画面を凝視した。
「…………読めねぇ」
『学校行ったことないロト!?』
「何て書いてあるのか全く分からない」
『アブソルの情報ロト』
「それは今の説明で分かる。文字が読めないって言ってるんだ」
ロトムは画面に情報を表示したまま、空中で小さく傾いた。
どうして読めないのか、本気で理解できていないらしい。
人間の言葉を話し、画面に表情まで浮かべる機械のような生き物。その存在だけでも十分に理解を超えているというのに、今度は異世界にも文字や学校があり、ロトムにとってはそれを読めることが常識らしい。
次々と押し寄せる未知に、日廻は早くも頭が痛くなってきた。
それでも、理解できたことが一つだけあった。
画面に書かれた内容は読めなくとも、ロトムが口にした名前だけは聞き取れた。
日廻は、これまでずっと白い獣と呼んでいた存在へ目を向ける。
「おまえは、アブソルっていうのか」
名前を呼ばれた白い獣の赤い瞳が日廻を向く。
否定する様子はない。その反応だけで十分だった。
『そっちはチラーミィロト!』
『チラッ!』
灰白色の小さな生き物が、元気よく前足を上げた。
「チラーミィ」
日廻が名前を繰り返す。
小さな生き物は、もう一度元気に返事をした。
どうやら、それが自分の名前だと理解しているらしい。
「じゃあ、おまえは何だ」
日廻は浮かんでいる端末へ尋ねた。
『ボクはロトムロト!』
「ロトム」
『正確には、スマホロトムロト!』
端末は誇らしげに空中で一回転した。
『ロトムがスマホ端末に入ってるロト! 記録、撮影、解析、通信、ポケモン図鑑、いろいろできるロト!』
「機械なのか、生き物なのか、どっちなんだ」
『ロトムはポケモンロト。この端末はボクが入ってる機械ロト』
「今度はポケモンか」
『知らないロト?』
「知らない」
『アブソルも、チラーミィも?』
「昨日、初めて見た」
『……ポケモンを一匹も?』
「知らない」
愕然とするロトムが空中で静止する。
画面には細かな文字列が流れ始めた。
やがて、信じがたい事実へ行き当たったように、ロトムがノイズ混じりの声で呟いた。
『この世界、ポケモンの記録がないロト……』
「勝手に何を調べてる」
『受信できる情報を確認しただけロト!』
「十分勝手だろ」
『でも、これは大変ロト!』
「俺にとっては、おまえが突然来たことも十分大変だ」
ロトムの画面へ、二つの円が表示された。
一方には青い星。
もう一方には、山や海の絵。
『こっちが榊原たちのいる世界ロト』
「名前を教えた覚えはないぞ」
『作業着の胸に書いてあるロト』
日廻は自分の胸元を見る。
古い作業着には、確かに榊原と刺繍されていた。
『それで、こっちがボクたちの世界ロト』
「別の世界なのか」
『たぶんロト』
「たぶん?」
『ボクは専門家じゃないロト。今分かるのは、二つの場所が何らかの理由でつながったことくらいロト』
「山に開いた穴は?」
『通路か入り口に近いものロト』
「どうして開いた」
『知らないロト』
「おまえは、どうしてこっちへ来た」
『移動できる場所を探してたら、つながってたロト』
「元の世界で何が起きた」
『詳しくは、知らないロト』
ロトムの声から、ほんの少しだけ勢いが消えた。
『通信が途切れたロト。記録も壊れてるロト。ボクの知ってる人間も、ほかの担当も見つからなかったロト』
だから、日廻を見つけた瞬間に叫んだのだろう。
人間がいた。
生きていた。
文明が残っていた。
ロトムにとって、それは大声を上げずにはいられないほどの出来事だった。
「それで、こいつらは全員ポケモンなのか」
『そうロト』
「ポケモン」
日廻はその言葉を、噛み締めるように口にする。
アブソルが顔を上げた。
チラーミィも耳を動かす。
眠っている生き物たちの何匹かが、声に反応した。
「おまえたちは、そう呼ばれているのか」
『そうロト。ポケットモンスター。縮めてポケモンロト』
昨日まで、彼らは名前すらない未知の生き物だった。
それが今、ポケモンという一つの言葉で結ばれた。
何かを理解したわけではない。
けれど、正体不明の化け物ではなくなった。
「ロトム」
『何ロト?』
「こいつらの傷を治す方法は分かるか」
日廻は用意していた救急箱を示した。
「人間用の薬を使っていいのか分からない」
ロトムの画面に、赤い警告が表示される。
『使わない方がいいロト』
「……やっぱりか」
『ポケモンは種類によって体の構造も、持ってるエネルギーも違うロト。人間用の薬が効く場合もあるけど、悪化する可能性もあるロト』
「ポケモン用の薬はあるのか」
『あるロト!』
「持ってるのか」
『持ってないロト!』
「意味がないな」
『作り方の記録なら少し残ってるロト!』
ロトムの画面へ、小さな容器の画像が表示された。
『基本的な傷なら、キズぐすりを使うロト』
「作れるのか」
『設備と材料があれば作れるロト』
「必要な設備は?」
『成分抽出機、攪拌機、濾過装置、充填装置、制御端末――』
「そんなもの、ここにはない」
『ないロト?』
「ここは実験室じゃなくてただの一般家庭だぞ」
ここは山と畑に囲まれ、人目を避けられるという理由だけで選んだ場所だ。
持ち込んだ家具も、生活に必要な最低限の物だけ。
兄が使っていた家電や日用品も、ほとんど処分した。
残した物は、わずかしかない。
その中の一つが、作業小屋の奥に置かれた3Dプリンターだった。
机の上へ置ける程度の、箱型の装置。
入門機よりは性能がよいが、業務用と呼べるほど高級ではない。
複数の樹脂を使った小物や、壊れた器具の交換部品を作れる程度。
物作りが好きだった兄に初任給でプレゼントしたものだった。
買った本人には、使い方も性能の違いもよく分からなかったが、それでも兄は宝石を見たように目を輝かせて喜んでくれた。
久しぶりに思い出した兄の笑顔は、胸に小さな温かさを残した。
だが、もう兄はいない。
生まれたばかりの温かさは、すぐにいつもの空白へ沈んでいった。
『榊原?大丈夫ロト?』
「……あぁ、いや、すまない。これは使えないか」
『何ロト?』
日廻は部屋の片隅へ歩み寄り、3Dプリンターを覆っていた布を外した。電源コードをコンセントへつなぎ、ロトムに見えるよう一歩下がる。
『普通の樹脂積層式3Dプリンターロト』
「兄貴の……遺品だ。これで薬は作れないか」
『このままじゃ無理ロト。でも――』
ロトムの体から、青白い電気が伸びた。
日廻が反応するより早く、電流が3Dプリンターへ流れ込む。
停止していた表示画面が点灯した。
モーターが動く。
印刷台が前後へ走り、ノズルが左右へ激しく移動する。
「おい」
『制御基板、正常! モーター出力、ぎりぎり! 加熱性能不足! センサー精度も足りないロト!』
「ロトム」
『でも
使えるか確かめてほしいとは言った。
だが、勝手に中へ入り込み、形を変えていいとは言っていない。
『まず、このプリンターで改造部品を作るロト! 足りない部品は、ほかの機械から――』
「出ろ」
『ロト?』
日廻の声が低くなる。
「今すぐ、そこから、出ろ」
『でも、これなら薬を――』
「出ろって言ってる!!」
作業小屋の空気が怒りの声と共に変わった。
ポケモンたちが一斉に日廻に視線を向けた。
日廻は3Dプリンターへ近づく。
勝手に動き続ける印刷台を見て、拳を強く握った。
「それは兄貴の物だ」
『遺品って言ってたロト』
「だから何をしてもいいと思ったのか」
『壊してないロト。少し調べただけロト』
「改造していいと言ってない」
『待つロト! 今切ったら制御確認が――』
「知るか!」
そう吐き捨てて電源を落とす。
駆動音が止まり、作業小屋へ静けさが戻った。
数秒遅れて、ロトムが3Dプリンターから飛び出した。
先ほどまでの勢いは消えている。
『……怒ったロト?』
「見れば、分かるだろ」
『薬を作れると思ったロト……これならポケモンを治せるかもしれないロト……』
ぎりっ、とその問いに何も返さず、歯に力を込めた。
目の前の命を助けるためなら、この機械を使うべきなのだろう。
そんなことは、日廻にも分かっていた。
それでも、兄の遺品を勝手に別の物へ変えられようとした怒りは消えなかった。
使うかどうかを決めるのは、自分でありたかった。
日廻は3Dプリンターの外装へ手を置いた。
冷たい。
兄が死んでから、何度も処分しようとした。
引っ越しの荷物を減らすときにも、一度は業者へ渡しかけた。
だが、できなかった。
兄が何を作っていたのか。
どんな気持ちでこの機械を使っていたのか。
日廻はほとんど知らない。
知らないまま、聞ける相手だけがいなくなった。
この3Dプリンターは、兄が確かに生きていた痕跡の一つだった。
役に立つから残したわけではない。
使いたかったわけでもない。
ただ、捨てられなかった。
「……俺だって、こいつらの傷は治したい」
『だったら――』
「だからって、勝手に改造とかされたら、俺はそれを許すことができない」
ロトムの高度が少し下がった。
『……悪かったロト』
先ほどまでの騒がしさが嘘のような、小さな声だった。
日廻はすぐには答えなかった。
プリンターへ視線を落とす。
兄が残した物を、このまま埃の中へ置いておくことに意味があるのか。
誰にも触れさせず、使わず、壊れるまで保管することが、兄を大切にすることなのか。
答えは、分からない。
だが、勝手に決められたくはなかった。
使うかどうかは、自分で選びたかった。
その沈黙の中で、アブソルが静かに3Dプリンターへ近づき、鼻先でそっと触れた。
壊そうとしているわけでも、警戒しているわけでもない。
まるで、日廻にとって大切な物なのだと確かめるような仕草だった。
その姿を見て、日廻はわずかに肩の力を抜いた。
「……壊さないと約束できるか」
ロトムの画面が上がる。
『絶対、とは言えないロト』
「おい」
『機械の改造に絶対はないロト! でも、できるだけ元へ戻せる形にするロト。外装は削らないロト。基板も交換しないロト。追加部品は取り外せるようにするロト』
日廻は、ロトムを見る。
『作業する前に、全部説明するロト。勝手に動かさないロト、榊原が嫌だと言ったらやめるロト、もし壊したら直すロト!』
「……直せなかったら?」
ロトムが沈黙した。
『……謝るロト』
「謝って済むか」
『でも、それ以上はできないロト』
妙に正直な答えだった。
日廻は長く息を吐いた。
「まず、何をするつもりだった」
ロトムの画面に、先ほどの設計図が再び表示された。
今度は3Dプリンターへ入らず、自分の画面だけで見せている。
『このプリンターだけでは、液体の薬は作れないロト』
「それは分かる」
『だから、プリンターには改造用の外装部品や接続部品だけを作ってもらうロト』
画面の図が切り替わる。
『薬の成分を混ぜる小型攪拌器。ごみを取り除く濾過器。液体を容器へ移すポンプ。温度を測るセンサー。それを別の部品として作って、プリンターの横へ追加するロト』
「プリンターそのものを薬の製造機に変えるわけじゃないのか」
『完全には変えないロト。追加した装置を制御する中心として使うロト』
「ポンプやセンサーは、どこから持ってくる」
『ホームセンターで売ってる部品でも代用できると思うロト。足りない形はプリンターで作るロト』
「おまえが入れば、それを動かせる?」
『制御はできるロト。でも、ずっとボクが中にいる必要があるロト』
「完成品が勝手に動くわけじゃないんだな」
『ボクがいなければ、ただの部品の集まりロト』
日廻はもう一度3Dプリンターを見た。
兄の遺品。
今まで何も生み出さず、ただ置かれていた機械。
それが、傷ついた生き物を助けるために使えるかもしれない。
「設計図は、あるんだな」
『あるロト!』
「材料は?」
『…………』
「材料」
『…………』
「おい」
『知らないロト!』
「知らねぇのかよ!」
『ポケモン世界なら普通にあったロト!』
「お前にとってここは異世界だからな!?」
『あっ』
ロトムの画面から、先ほどまでの自信が消えた。
「機械を勝手に動かしておいて、材料は知らないのか」
『ボクは技術・生産担当ロト! 資材調達は別担当ロト!』
「その別担当はどこにいる」
『知らないロト』
「本当に、知らないことが多いな」
『でも、必要な物の画像と成分情報は残ってるロト!』
ロトムの画面へ、いくつかの画像が表示された。
青い木の実、太い根を持つ薬草、澄んだ水。
『基本的なキズぐすりなら、これを使って作れる可能性があるロト』
「可能性?」
『製造記録も一部壊れてるロト。成分を調べながら調整する必要があるロト』
「この青い実や植物はどこにある?」
『知らないロト』
日廻は何も言わず、ロトムを見た。
とても申し訳なさそうに高度が下がっていく。
『本当に知らないロト……』
日廻はチラーミィへ視線を向けた。
それから、ロトムの画面に表示されたキズぐすりの材料を指差す。
「これを見たことはあるか」
チラーミィが画面を覗き込む。
黒い瞳が画像を見つめた。
次の瞬間、大きな耳が勢いよく立ち上がる。
『チラッ!』
「あるんだな」
チラーミィは何度も頷いて、そのまま作業小屋の外へ走り、入り口で振り返る。
小さな前足を、跳躍と共に大きく振った。
昨日と同じだった。
ついてこい、と言っているようだった。
日廻はすぐに、採取用の鎌と籠を用意した。
出発しようとすると、アブソルも傷ついた体をゆっくり起こした。
「おまえは留守番だ、怪我しているだろ」
赤い瞳は動かない。ただ日廻を見つめている。
「……来る気か」
『榊原を心配してるロト』
「知り合ったばかりだぞ」
『トレーナーとポケモンみたいに見えるロト』
「トレーナー?」
初めて聞く言葉に眉を細めてロトムを見ると、画面に二つの疑問符を浮かべた。
日廻が聞き返すと、ロトムは画面に二つの疑問符を浮かべた。
自分がまた未知の言葉を口にしたことに、気づいていないらしい。
詳しく聞けば、また説明が長くなる。今は傷ついたポケモンたちの治療が先だった。
「……それはあとで聞く」
先を行くチラーミィ。
その隣を歩く、傷ついたアブソル。
後ろから騒がしくついてくるスマートロトム。
兄の遺品を使うことへの迷いは、まだ消えていない。
だが、使わないまま残すのか。
誰かを助けるために使うのか。
その選択を、今度は誰かに委ねたくなかった。
日廻は自分の意思で、もう一度あの穴へ向かった。
「……ロトム。さっきは怒鳴って悪かった」
『ボクも悪かったロト。急ぎすぎたロト』
「必要な部品を、あとでまとめてくれ。俺が買う」
『いいロト?』
「おまえ、この世界の金なんて持ってないだろ」
『持ってないロト!』
「ただし、もう一度言う。兄貴のこれは、元に戻せる範囲で使え。勝手に改造するな」
『約束するロト! やる気がニトロチャージロト!』
「……燃やすなよ?」
『そういう意味じゃないロト!』