――黒い太陽が、落ちてきた。
巨大な穴の奥から姿を現したそれは、夜空に滲んだ異物をそのまま切り取ったような姿で、ゆっくりと石の海の上空へ降りてくる。
球体、と呼ぶのが一番近いのだろう。
先ほどまで石の海に立っていたダイマックス状態のコジョンドよりは小さい。それでも、穴から吹き飛ばされ、海面を削りながら辛うじて踏みとどまったゼットを上から覆えるほどには巨大だった。
表面は黒い。だが、夜の闇とも、アブソルを覆っていたあの黒とも違う。油膜のような、あるいは砕けた虹を泥の中へ沈めたような昏い色が黒の奥で脈打ち、その周囲では霧にも煙にも見える何かが絶えず形を変えていた。膨らんでは千切れ、千切れた端からまた本体へ吸い込まれていくせいで、どこまでが身体で、どこからが周囲にまとわりつく何かなのか、見ていても境目が分からない。
「……あれが」
口にしただけで、喉がひどく乾いた。
胸元のポケットに収まったロトムが、珍しく少し間を置いて答える。
『ダークマターネクロズマ……ロト』
ミュウが言っていた、本体。
視界の下では、ゼットが石の海に立っている。砕けた石を踏みしめ、両腕を構える動きに淀みはない。まだ戦える。それでも、あのゼットを巨大な穴の中からここまで吹き飛ばしたという事実だけは、どうしたって消えてくれなかった。
「フライゴン」
『ファイ…』
背中の下で、フライゴンの体が強張る。
無理もない。メガガブリアスとの空中戦から、まともに休めていないのだ。真正面から叩きつけた『すてみタックル』の反動も、最後に放ったZ技の消耗も残っている。呼吸はまだ荒く、翼が空気を捉えるたび、普段より僅かに深く身体が沈む。
それでも、降りようとはしなかった。
日廻も騎乗具の取っ手を握り直す。今ここで休ませてやれるなら、そうしたかった。だが、そんな願いを挟む余地さえ与えるつもりがないのか、黒い球体の奥で昏い光が一度だけ瞬いた。
『――日廻!』
考えるより先にミュウが振り向き、石の海にいたゼットもほとんど同時に顔を上げる。
黒い球体の表面を這っていた虹色の光が、一点へ吸い寄せられていた。
予備動作と呼べるものは、それだけだった。
球体の前方に生まれた小さな光は、次の瞬間には視界を覆うほどに膨れ上がっている。
『エネルギー反応、急上昇! 待つロト、これ――』
ロトムの声が裏返った。
『でんき……ほのお……ドラゴン!? まだあるロト! エスパー、あく――複数属性反応!? 一つじゃないロト!!』
言われなくても、異常なのは見れば分かった。
巨大な光の中で雷が暴れ、炎が渦を巻いている。その外側には黒い霧が食らいつくように這い回り、紫とも青ともつかない光が明滅するたび、周囲の空気まで歪んで見えた。それぞれの力が綺麗に混ざり合っているわけではない。互いに押し合い、弾き合いながら、それでも無理やり一つの方向へ束ねられている。
技を組み立てているようには見えなかった。
持っている力を全部、同じ方向へ向けただけ。
精密さなど必要ないと言わんばかりの、あまりにも乱暴な力の集積だった。
『来るロト!!』
最初に前へ出たのはゼットだった。
同時に、石の海を巨大な足が踏みしめる。
「コジョンド……!」
日廻が呼ぶより早く、コジョンドは動いていた。
メガルカリオとの戦いで傷ついたアブソルが、その後ろにいる。少し離れた上空には、フライゴンと日廻。その傍らには、この場所へ来てからずっと彼らの石化を抑え続けているミュウがいた。
コジョンドの目が、一度だけ仲間たちを辿った。
次にはもう、巨大な身体がその全員を背に庇う位置へ踏み込んでいる。
「――頼む、コジョンド!」
『ジョオオォォォン!!』
両腕が大きく開かれた。
赤い光が迸り、コジョンドの正面に巨大な防壁が広がっていく。
――『ダイウォール』。
そのさらに前へゼットが立つ。完全体の巨躯から放たれた光が、幾重ものハニカム状の障壁を形成し、盾となって前方へ展開された。
「――ッ!!」
音が消えた、と日廻は錯覚した。
実際には逆だったのだろう。あまりにも巨大な轟音を耳が音として処理できなかっただけだ。
放たれた破滅の光の奔流がゼットへ激突し、その後方に展開されたダイウォールまでまとめて呑み込む。雷が爆ぜ、炎が防壁を舐め、光に絡みついた黒い霧が幾本もの爪のように広がっては何度も叩きつけられた。
『――ロ、ロトォッ!?』
「フライゴン!」
『ファ、イィィィ……!!』
直撃していない。それどころか、ゼットとコジョンドが正面で受け止めている。
なのにフライゴンの身体が押し戻された。
日廻の上体が騎乗具から引き剥がされそうになり、腹へ食い込んだベルトが肺から空気を押し出す。顔を上げれば、前方ではゼットが展開した光の盾に、嫌な音とともに幾重もの罅が走った。その後ろでダイウォールを支えるコジョンドは踏ん張った両脚が海面へ沈み、蜘蛛の巣のような亀裂が広がっていく。
「嘘だろ……!」
ついさっきまで、メガガブリアスとメガルカリオを止めるために、あれほど苦労していた。
アブソルが隙を作り、コジョンドが打ち上げ、ミュウがほんの一瞬だけ動きを止め、フライゴンが限界まで力を振り絞った。誰か一匹では届かない相手へ、全員の力を繋いで、ようやく止めた。
その戦いを終えたばかりの彼らが。
今は、たった一度の攻撃を防ぐだけで押し潰されかけている。
「耐えてくれ……!」
日廻にできることは、それしかなかった。
拳を握り、ゼットとコジョンドが受け止めている光の向こうを睨みながら、願うように叫ぶことしかできない。
どれほど続いたのか。
実際には、ほんの僅かな時間だったのかもしれない。
やがて光の奔流が唐突に細くなり、最後の雷が空を引き裂いたところで、ようやく途切れた。
「――っ、は……!」
止めていた息を吐き、日廻は新しい空気を肺へ押し込む。
遅れて音が戻ってきた。
ぱらぱらと落ちてくる石片がフライゴンの翼を叩き、眼下では砕かれた海面が灰色の粉塵に覆われている。攻撃が通った直線上だけ、石の波がごっそり削り取られ、そこにあったはずの起伏が消えていた。
ゼットは立っている。
コジョンドも、まだ倒れてはいない。
だが、ダイウォールは限界だった。
表面を走っていた罅のような揺らぎが一気に広がり、最後には無数の光の粒となって消えていく。
『防御……成功ロト』
ロトムの声に、いつもの勢いはなかった。
成功。
確かにそうなのだろう。
ゼットの光の盾とダイウォールの二つを重ねて、誰も消し飛ばされなかった。それを成功と呼ぶなら、間違ってはいない。
「……これで、成功かよ」
日廻の呟きに答える者はいなかった。
黒い太陽は変わらず浮いている。
今の一撃で疲れた様子すらなく、表面を這う昏い虹色の光は、すでに次の脈動を始めていた。
『コ゛ジョォォッ!!』
「コジョンド!?」
その前に、コジョンドが動く。
巨大な身体が石の海を蹴った。
一歩目で足元が砕け、二歩目ではさらに大きな亀裂が走る。先ほどまで仲間の前に広げていた両腕を引き、コジョンドは黒い球体へ真正面から踏み込んでいった。
防いだだけでは終われない。
それを誰かに言われるまでもなく理解しているのだろう。
巨大な拳へ赤い力が集まっていく。
「――行け!」
『コジョオオオオォォ!!』
最大の力を込めた『ダイナックル』が、黒い球体へ真正面から叩き込まれた。
衝撃で空気が押し潰され、眼下の石の海へ円形の亀裂が走る。周囲の石片が一斉に浮き上がり、その中心で黒い球体の表面が拳の形に僅かに沈み込んだ。
「入った……!」
日廻は思わず身を乗り出した。
メガルカリオを遥か上空まで打ち上げた一撃だ。あれだけの質量を持つコジョンドが、全身を使って叩き込んだ。
少しでも、何か一つでも。
そう願った次の瞬間、沈んでいた黒い表面が元の形へ戻った。
『……ロト?』
押し込んでいたはずのコジョンドの腕が、逆に弾かれる。
『ジョ――』
黒い霧が爆ぜた。球体から噴き出したそれは、形を整える暇さえ惜しむように巨大な塊となり、ダイナックルを振り抜いた直後のコジョンドへ襲いかかる。
「コジョンド!!」
避けられない。
巨大な身体は、まだ拳を突き出した姿勢のままだった。あれだけの一撃を放った直後では、引くにも受けるにも間に合わない。
黒い塊が、その腹部へ叩き込まれる――その寸前。
『コジョ……!?』
コジョンドを包んでいた赤い光が、不意に大きく揺らいだ。
次の瞬間、巨体の輪郭が赤い粒子となって一気に崩れ、内側へ収束していく。巨大だった腕も脚も見る間に縮み、つい先ほどまでコジョンドの腹があった空間を、黒い霧の塊が凄まじい勢いで通過した。
轟音。外れた攻撃がそのまま背後の石の海へ突き刺さり、波の形を残していた岩塊をまとめて吹き飛ばす。灰色の破片と粉塵が噴き上がる中、赤い光が完全に消え、その手前へ通常の大きさに戻ったコジョンドが降り立った。
本人も何が起きたのか分かっていないらしい。振り返ったコジョンドの向こうでは、今の一撃が抉った石の海から粉塵が立ち上っている。
『ダイマックスのエネルギーが切れたロト……!』
「……今の、それで外れたのか」
避けたわけではない。
あと一瞬、ダイマックスが長く続いていたら。
その想像に、日廻の背筋が冷えた。
「格が違い過ぎるだろう……」
日廻は黒い球体を見る。
傷を探した。
だが、見つからない。
あれだけの一撃を正面から受けたにもかかわらず、黒い表面には目立った変化一つ残っていなかった。
『完全な無傷かまでは分からないロト。でも……』
ロトムが言葉を濁した。
それで十分だった。
核に当たる部分があると、ゼルネアスは言っていた。
そこを破壊できれば、取り込まれたポケモンたちを分離できるかもしれない。
だが、その核がどこにあるのか。黒い表面に遮られ、内側は何も見えない。
ダイマックスしたコジョンドの拳でさえ、そこへ至る傷一つ残せなかった。
まともに殴り合える相手ではない。
少なくとも、今の日廻たちには。
その時、緑の巨体が視界を横切った。
「ゼット!」
ゼットが動いた。
傷ついたコジョンドの横を抜け、背中を構成する翼が大きく展開され、その巨体が空を駆ける。
『――主対象を引き受ける』
「待て、一人で――」
『接近するな』
短い言葉だった。
日廻が返すより先に、ゼットの周囲へ無数の緑色の光が浮かび上がる。
それらは一斉に空へ駆け上がり、無数の矢となって黒い太陽へ殺到した。
『サウザンアロー』。
黒い霧が迎え撃つように膨れ上がり、何本もの光を呑み込んでいく。それでも全てを消し切ることはできず、残った矢が球体の表面へ次々と突き刺さった。
黒い太陽が、ゼットの方を向いた。
「……見た」
『ロト?』
「ゼットを見た」
標的が変わった。
直後、空そのものが鳴った。
黒い球体の周囲から無数の稲妻が生まれ、扇状に夜空を引き裂いていく。ゼットは巨体を捻って一本目をかわし、二本目を翼で受け流した。その逃げた先へ、今度は山ほどもある炎の塊が飛び込んでくる。
ゼットが急降下した直後、炎が石の海へ落ちた。
爆発が海面を吹き飛ばす。
熱で溶ける暇すら与えられず、石化した波が粉々に砕けて周囲へ撒き散らされた。
全ての一撃が、地形すら変える絶大な威力だった。
「ゼット、右だ!」
日廻の声が届いたかどうかも分からない。
それでもゼットは身体を沈め、頭上を通り過ぎた黒い霧の鞭をかわす。空振りした霧はそのまま石の海へ叩きつけられ、巨大な波頭を根元からへし折った。
「何だよ、あれ……」
戦っている、という言葉がどうにも噛み合わない。
メガガブリアスのように、こちらの癖を学習しているわけではない。メガルカリオのように、動きを読み、僅かな隙へ攻撃を差し込んでいるわけでもない。
ゼットがそこにいる。
だから、その辺り全部を壊す。
ただそれだけで、攻撃として成立してしまっている。
『精度は高くないロト!』
「分かってる!」
『でも範囲が広すぎるロト!!』
それも、嫌というほど分かった。
ゼットが球体の側面へ回ろうとするだけで、雷と炎と黒い霧がまとめてその後を追う。一つを避ければ外れた攻撃が海面を吹き飛ばし、その爆発が次の逃げ道を潰す。
そして何より、それらは日廻たちを狙ってすらいない。
『日廻、来るロト!!』
「フライゴン!!」
『ファイ!』
フライゴンが翼を強く打つ。
直後、遥か前方で炎が爆ぜた。
距離がある。
直撃でもない。
それなのに押し寄せた爆風は、横殴りの巨大な壁そのものだった。
「っ……!」
フライゴンの身体が横へ流され、日廻は騎乗具へしがみつく。翼が一度大きく煽られたものの、フライゴンは尾で姿勢を補い、どうにか高度を保った。
眼下ではアブソルが四肢を広げて石の海へ爪を立て、コジョンドも腰を落として飛来した破片を腕で弾いている。
「大丈夫か!」
『ファイッ……!』
即座に返事が返る。
大丈夫なはずがない。
それでもフライゴンは再び翼を広げ、失った高度を取り戻した。
日廻は前を見る。距離そのものは、メガガブリアスと戦っていた時と大きく変わらないはずだった。あの時なら攻撃も届いたし、こちらから距離を詰めることもできた。なのに今は。
「……近づけない……!」
ゼットへ向けられた攻撃の余波だけで、飛び続けることさえ難しい。
直接あの球体へ近づけばどうなるか。
試す必要すらなかった。
『日廻、左から霧ロト!』
ゼットを狙った黒い霧の一部が、千切れたままこちらへ流れてくる。
フライゴンが口を開き、放った『りゅうのはどう』がその側面へ突き刺さった。黒い塊そのものを消すことはできない。それでも軌道が僅かに逸れ、日廻たちの横を抜けた残りが地上へ落ちていく。
『アブ!』
今度はアブソルが動いた。
暗い波動が地上から撃ち上がり、落ちてきた黒い霧と衝突する。先端が散り、それでも抜けてきた小さな塊を、コジョンドが横から蹴り飛ばした。
「……まだ、やれる」
日廻は荒くなった呼吸を整えながら呟く。
本体へ届かない。
まともな攻撃には参加できない。
けれど、何もできないわけじゃない。
「ロトム! ゼットだけじゃなくて、こっちへ流れてくる攻撃も見てくれ!」
『もうやってるロト! 次、上から来るロト!』
「フライゴン!」
飛ぶ。避ける。逸らす。
それでも抜けてきたものを、地上の二匹が叩き落とす。
ゼットが攻撃の大半を引き受け、その外側で日廻たちは戦場からこぼれてくる破壊を必死に処理していた。
攻めているとは、とても言えない。
ただ、この戦場から振り落とされないために食らいついている。
それでも、ゼットを完全に一人で戦わせているわけではなかった。
その時、黒い球体の周囲から炎が扇状に広がった。
ゼットが身を翻す。
逃れた先へ、黒い霧が巨大な腕のように伸び、頭上から叩きつけられた。
「ゼット!」
避けきれない。
そう思った瞬間。
『ミュウ!』
桃色の光が横から走った。
振り下ろされていた霧の腕が、僅かに軌道を逸らす。ゼットの肩を掠め、そのまま石の海へ叩きつけられた。
「ミュウ!」
日廻のすぐ傍にいたミュウが、黒い太陽を睨んでいる。
小さな身体だった。
あの巨大な球体と比べれば、点にも満たない。
けれど、その青い目だけは妙に静かだった。
『ミュウ』
何かを告げる。
ロトムが一瞬遅れて訳した。
『「このままじゃ、あいつも攻撃に移れない」ロト』
「でも……」
日廻にも分かっていた。
ゼットは強い。
今この場で、あれと正面から戦えている唯一の存在だ。
そのゼットでさえ、今は避け続けている。
『サウザンアロー』を撃てば、その直後にはそれ以上の攻撃が返ってくる。防ぎ、かわし、また防いでいるうちに次が来るせいで、まともに攻めるための時間が作れない。
日廻が答えを探すより先に、ミュウが前へ出た。
「おい」
『ミュウ』
「待て」
今度ははっきり言った。
それでもミュウは止まらない。
「待てって。今、お前が離れたら――」
言いながら、日廻は眼下へ視線を落とした。
アブソル。
コジョンド。
自分とフライゴン。
この石の海へ来てから、ミュウは一度も彼らから大きく離れていない。
理由は、もう分かっている。
『ミュウ』
『「分かってる」』
「だったら!」
ミュウが振り返る。
日廻と目が合った。
青い瞳には迷いがなかった。
止めても行く。
そういう目をしていた。
「……何分だ」
『ロト?』
「ミュウが離れても、俺たちはどれくらい動ける」
ロトムが黙った。
答えがないのではなく、出せないのだと、その沈黙だけで分かった。
『……分からないロト』
「そうか」
『ここは異常が強すぎるロト。ミュウ様から離れる距離も、本体がどれだけ力を出すかも分からないロト。前みたいにすぐ全部石になるわけじゃないと思うロト。でも――』
「時間はある。でも、どれだけあるかは分からない」
『……そうロト』
それで十分だった。
日廻はもう一度ミュウを見る。
「絶対に無茶するなよ」
『ミュウ』
「お前に言ってるんだからな」
ミュウの目が、僅かに細くなる。
『ミュウ』
『「あなたにだけは言われたくない」だそうロト』
「今それ言うか!?」
返事の代わりに、ミュウはもう黒い太陽へ向き直っていた。
桃色の身体が加速する。完全に姿が消えたわけではない。だが、そう見えるほどの速度で日廻たちの傍を離れ、ゼットよりさらに前へ出た。
その瞬間、黒い球体の表面が大きく脈打った。
「……反応した?」
『エネルギー方向変化! ミュウ様へ集中してるロト!』
ゼットへ向かっていた雷が、一斉に向きを変える。
『ミュウ!』
雷光が走る。ミュウは身体を横へ滑らせ、直撃の寸前でかわした。遅れて、今までいた場所を雷が貫く。
続けて炎。さらに黒い霧。
上からは紫色の光が降り注ぐ。
ミュウはそれらを避け、どうしても避けきれないものだけを念力で僅かに逸らしていく。普段なら軽々とやってのけそうな動きなのに、今は一つ避けるたび、次の攻撃がその逃げ道へ食らいついていた。
「ミュウ……!」
速い。それでも余裕があるようには見えない。
何より、日廻は知っている。
あの小さな身体は今までずっと、自分たち全員の石化を抑えるために力を使い続けていたのだ。その負担を抱えたまま、今度は自分自身を守りながら、あの災害じみた攻撃を引き受けている。
『日廻、右手を見るロト!!』
「右手?」
言われて、騎乗具の取っ手を握っていた手を見る。
最初は分からなかった。
だが、指先。爪の周囲。
そこだけ、色が薄い。
血の気が引いたというより、色そのものが抜け落ちていくような灰色が、ほんの僅かに皮膚へ広がっていた。
まだ動く。感覚もある。
だが、この色には見覚えがあった。
「……始まったのか」
『ミュウ様の抑制が、もう届いてないロト』
日廻は眼下を見る。
アブソルの白い前脚、その毛先が薄く灰色へ変わり始めている。コジョンドも同じだった。腕の先から僅かに色が抜けているが、どちらもまだ動きに支障が出るほどではない。
『ファイ……』
すぐ下から聞こえた声に、日廻は息を呑んだ。
フライゴンの翼の端。緑色だった鱗の一部からも、少しずつ色が失われている。
手を伸ばしかけて。
日廻は止めた。
「……まだ飛べるか」
『ファイ!』
返事は早かった。なら、それ以上は聞かない。
ミュウが作った時間を無駄にはできない。
「ゼット!」
ゼットが顔を上げた。
黒い太陽から放たれる攻撃の大半は、今やミュウへ集中している。さっきまでゼットの周囲を埋め尽くしていた雷も炎も黒い霧も、完全に消えたわけではない。
それでも。確かに薄くなっている。今なら―――
『――確認した』
その一言とともに、巨体が加速する。
「行った……!」
遠くから撃たない。
真っ直ぐ。
本体へ。
『日廻、ゼットの前! 霧が戻るロト!』
「フライゴン!」
フライゴンの口元へ竜の光が集まり、『りゅうのはどう』が放たれる。
青い衝撃は、ゼットの進路へ戻ろうとしていた黒い霧の横腹を撃った。霧そのものを消し飛ばせるほどの力はない。それでも一瞬だけ流れが歪み、戻る速度が鈍る。
そこへ地上から、アブソルの『あくのはどう』が重なった。
二方向からの攻撃を受け、黒い霧の塊が大きく横へ流される。
道が開いた。
「ゼット!!」
その隙間を巨体が走る。
黒い球体の目前まで迫ったところで、本体がようやくゼットへ反応した。表面から霧が噴き出し、迎撃するように広がっていく。
遅い。
ゼットの巨大な腕が、黒い表面を掴んだ。
脚を押しつけ、全身で球体へ取り付く。
黒い霧が腕へ、肩へ、胴へ絡みついていく。それでもゼットは離れない。
『標的との距離、零!やってしまえロト!!』
ロトムが叫んだ。
ゼットの全身に、無数の緑色の光が灯った。
その巨体を構成する一つ一つが、同時に発光していく。
『――排除を実行する』
次の瞬間。
遥か下の石の海が鳴った。
石化した海全体が一度だけ大きく震え、その振動が空気を通して日廻の腹の奥まで響いてきた。
地の底に眠っていた何かを、強引に引き抜くような感覚。
集められた力は一点に集中する。逃げる時間も、避ける距離も与えない。
ゼットが掴んでいる、その接触面に全てが叩き込まれた。
――『グランドフォース』。
ごっ、と。
今までとは違う音がした。
外から殴りつけた音ではない。
巨大な何かの内部へ、無理やり力を流し込んだような、低く重い音だった。
黒い球体の表面が一度大きく膨らみ、直後には逆方向へ沈み込む。昏い虹色が激しく乱れ、球体全体が初めて明確に揺れた。
反動はゼット自身にも返っている。
巨体が球体から引き剥がされかける。それでも片腕だけは離さず、最後まで力を押し込んだ。
黒い霧がゼットの背を殴る。
さらにもう一度。
『ゼット、離れるロト!!』
弾き飛ばされた巨体は大きく後方へ流れたものの、翼を広げ、空中でどうにか姿勢を立て直した。
日廻は黒い球体を見る。
変化を探した。
けれど、すぐには何も見つからない。
あれだけやって。
ゼットが零距離まで潜り込み、反撃を受けながら全身で叩き込んで。
それでも――。
『日廻、あそこロト!』
ロトムの画面から伸びた光が、一点を示す。
黒い球体の表面。
昏い虹色が絶えず蠢く、その中に。
「……あ」
細い、線があった。
遠目なら、光の揺らぎと見間違えてしまいそうなほど細い。
それでも、確かにそこにある。
滑らかだった黒い表面へ。
一本だけ、罅が入っていた。
『ダメージ……』
ロトムの声が震える。
『ダメージ確認ロト!!』
「効いた……?」
日廻は呟いた。ダイマックスしたコジョンドの拳でも駄目だった。
『サウザンアロー』を受けても、目に見える変化はなかった。
ミュウが危険を承知で囮として前へ出て、フライゴンとアブソルが進路を開き、その全てを繋いで。
ようやく、罅が一本。
たった、それだけ。
それでも日廻は、灰色に変わり始めた指で騎乗具の取っ手を強く握った。
「……壊せる」
届かないものではない。
何をしても傷つかない存在でもない。
ほんの一瞬だけ、そう思えた。
だから最初、その光が何なのか分からなかった。
遥か彼方。夜空の一点が、不自然なほど白く染まる。
『……ロト?』
ロトムも気づいた。
『新規高出力反応――』
ロトムが言い切るより早く、一本の光が、夜空を貫いた。
「――ッ!?」
日廻の目では追えない。
遥か彼方から放たれた光が、夜空を一直線に引き裂き、戦場を横断する。通過しただけの風圧でフライゴンの翼が煽られ、日廻は反射的に騎乗具へ身を伏せた。
光は日廻たちを狙っていない。
ゼットでも、ミュウでもない。
その先の黒い太陽。
たった今、ゼットが作った一本の罅。
そこへ、寸分違わず突き刺さった。
轟音が遅れて押し寄せる。
黒い太陽が、今までで最も大きく揺れた。
球体そのものが横へ押し流され、まとわりついていた黒い霧が衝撃で大きく吹き飛ぶ。
『今の……『はかいこうせん』ロト!?』
一本だった罅から、細い枝が伸びていく。
初めてだった。
誰が見ても分かる形で。
黒い太陽が、傷ついた。
「何だ!?」
日廻は光が飛んできた方向を振り向いた。
何も見えない。そこにあるのは、無数の異常な穴が浮かぶ夜空だけだ。
『攻撃方向、追跡するロト!』
胸元の画面が切り替わり、数字と線が目まぐるしく流れていく。
ロトムが解析を続ける間にも、日廻は目を凝らした。海面には何もいない。遠くの空にも、こちらへ向かってくる影は見えない。
『違う……海上じゃないロト』
「じゃあ、どこだよ!」
『上ロト』
「上?」
『もっと上ロト!!』
夜空、その途中には雲があり、さらに上では月も星も、無数の穴が吐き出す不気味な光に霞んでいる。
最初は何も見えなかった。
だが、雲が割れた。
風で流されたのではない。
遥か高空を横切った巨大な何かによって、その一部だけが大きく裂けた。
「…………」
蛇にも、龍にも見える身体。
夜空の中で僅かに光を返す、緑色の影。
雲よりも上。
海も、人も、この戦場さえ遥か下に見下ろすような天空から。
それは、こちらを見ていた。
『…………ロト』
胸元から掠れた声が聞こえる。
「ロトム?」
『まさか……まさか!!』
ロトムの画面に、一つの姿が表示された。
日廻は知らない。
けれど、ロトムは知っていた。
その声に混じった驚愕と、普段のロトムからは滅多に聞かない畏怖が、それが何者なのかを名前より先に伝えてくる。
『天空に座する者――』
雲の彼方。
緑の龍が、悠然と身を翻した。
『レックウザ!?』