『天空に座する者――』
ロトムの声に、日廻は雲の彼方を見上げた。
『レックウザ!?』
遥か上空。夜の闇と、無数に開いた穴が漏らす不気味な光との狭間を、巨大な緑の龍が泳いでいる。あまりにも遠いため輪郭さえ霞んでいるというのに、その長大な身体が雲を押し分けるたび、空そのものが割れていくように見えた。
先ほど飛来した『はかいこうせん』が、その龍から放たれたものなのだとすれば。
「……あそこから、当てたのか」
『そうとしか考えられないロト』
黒い太陽へ視線を戻す。
ゼットが零距離で『グランドフォース』を叩き込み、ようやく刻んだ一本の罅。その一点へ、雲より遥か上から寸分違わず攻撃を通した。
しかも、その一撃によって罅は明らかに広がっている。
黒い球体も、それを認識したらしい。
昏い虹色が表面を大きく脈打った直後、まとわりついていた霧が上空へ向かって膨れ上がる。狙いを定めるような細かな動きはない。ただ、先ほど自分を傷つけた何かが上にいると気づき、その方向一帯をまとめて壊そうとしているだけだった。
『来るロト!』
黒い霧の隙間から、幾筋もの雷が空へ放たれた。
夜空を枝分かれしながら駆け上がった雷光は、雲そのものを内側から照らし、遅れて炎と暗い光の塊まで上空へ撃ち出される。そのどれもが正確にレックウザを狙っているわけではない。だからこそ逃げ場までまとめて潰すほど範囲が広く、外れた攻撃さえ雲を吹き散らしながら彼方へ消えていった。
その中を、緑の影が降りてくる。
「速……」
日廻が最後まで言葉にするより早かった。
レックウザは雷の網を大きく避けようとはしなかった。長い身体を僅かにくねらせ、一筋目と二筋目の隙間を抜け、正面から迫った炎だけを身体の向きを変えてかわしていく。炎の縁が緑の鱗を照らした時には、もうそこに姿はない。
『高度、急速低下! こっちへ来るロト!』
「フライゴン、少し上がれるか?」
『ファイ!』
翼が空気を掴む。
だが、いつもの上昇とは違った。メガガブリアスとの空中戦から、フライゴンは休む間もなく飛び続けている。『すてみタックル』の反動も、Z技の疲労も消えてはいない。翼を一度打つだけでも身体が重そうに沈み、それでも日廻を乗せたまま高度を上げていく。
「無理に追わなくていい。近くまで行ければ――」
言っている途中で、風が変わった。
頭上から何かが落ちてきたのかと思うほど強い風圧に、日廻は反射的に騎乗具へ伏せる。
次の瞬間、すぐ横を緑の巨体が通り過ぎた。
『ファイ!?』
フライゴンが驚いて翼を傾ける。
「うおっ……!」
慌てて騎乗具へしがみつきながら顔を上げると、少し前方でレックウザが速度を落としていた。
完全に並んだわけではない。
それでも一瞬だけ。
こちらを向いた黄色い瞳と、日廻の目が合った。
何を考えているのかは分からなかった。そもそも、こちらの言葉が通じる保証すらない。
それでも日廻は、眼下へ視線を落とした。
そこには、傷つきながらも再び黒い太陽へ向かおうとしているゼットがいる。
さっきまで、あの中で一人で戦っていた。
ようやく外へ出てきたと思えば、休む暇もなくあの球体の攻撃を引き受け続け、ミュウが囮になって作った僅かな隙へ飛び込み、初めてあの外殻へ傷をつけた。
それでも、まだ戦おうとしている。
日廻は騎乗具の取っ手から片手を離し、レックウザへ向けた。
「……たのむ」
灰色になり始めた指が、うまく伸びない。
握り直すように一度曲げ、それでも手を向けたまま声を張る。
「たのむ、ゼットとミュウを、助けてくれ……!」
倒してくれ、とは言わなかった。
あれを何とかしてくれとも、戦ってくれとも言わなかった。
レックウザの黄色い瞳が日廻を捉えている。
返事はなかった。ほんの一瞬だけこちらを見たあと、レックウザは再び正面へ顔を向けた。
次の瞬間には、その姿が遠ざかっていた。
「……え?」
『行ったロト!』
深翠の竜がまるで流れ星のように落ちる。
長い身体が夜空を滑り、黒い太陽から放たれた雷を紙一重で抜ける。そのまま球体の側面へ回り込むと、広がった罅の近くを掠めるように通過した。
直後、黒い外殻が大きく揺れた。
何をしたのか、日廻には見えなかった。
返事がなくても、それで十分だった。
「……ありがとな」
レックウザはもう、ゼットとミュウと共に戦っていた。
◇◆◇
そこから、戦場の流れが変わった。
黒い太陽の力が弱くなったわけではない。
むしろ、レックウザという新たな標的が加わったことで、周囲へ撒き散らされる破壊は激しさを増していた。
「……追いつけてない」
『処理対象が増えたせいロト!』
ロトムの言葉通りだった。
あの球体は、メガガブリアスのようにこちらの癖を学習しない。メガルカリオのように、動きを読んで攻撃を差し込むこともしない。標的を選び、その方向へ圧倒的な力を放つ。それだけなら、ゼット一体を相手にしている間は十分すぎるほど機能していた。
けれど今は違う。
正面にはゼットがいる。
上空からレックウザが罅を狙う。
さらに、その二体とはまるで異なる軌道を描きながら、ミュウが球体の周囲を飛び回っていた。
ゼットへ雷を向ければ、レックウザが背後へ回る。
レックウザを追って黒い霧を伸ばせば、その間にゼットが距離を詰める。どちらもまとめて押し潰そうと炎を広げれば、今度はミュウの念力がその端を捻じ曲げ、できた僅かな隙間を二体が抜けていく。
攻撃を切り替えるたび、ほんの僅かに対応が遅れる。
それは人間なら見落としてしまいそうなほど短い時間だったが、あの三体にとっては違った。
『レックウザ、また罅へ行くロト!』
ロトムの声に合わせるように、翠の龍が急降下する。
黒い球体が反応し、霧が壁のように膨れ上がった。その真正面へゼットが巨体を押し込み、霧を両腕で受け止める。
レックウザを止めるために伸びていた黒い塊が、ゼットへ引っ張られた。
そこを、レックウザが通る。
罅の近くで衝撃が弾け、黒い外殻がまた揺れた。
すぐに炎が追う。レックウザは身を翻したが、その逃げた先へ別の光が生まれた。
「ミュウ!」
桃色の身体が横から飛び込む。
放たれた光線そのものを受け止めるのではなく、発射される寸前に念力で球体の表面を僅かに押した。狙いがほんの数度ずれ、光線はレックウザの尾を掠めて夜空へ消えていく。
そのミュウへ、今度は雷が向く。
ミュウは重力を感じさせない動きで躱す。
空いた正面から、ゼットが攻撃を叩き込む。
黒い太陽の周囲で、三つの影が絶えず位置を入れ替えていた。
連携を打ち合わせたわけではない。
けれど、誰か一体へ注意が向けば、残る二体が必ず動く。
それだけで、圧倒的な出力は少しずつ空回りし始めていた。
「……いける」
日廻は思わず呟いた。
倒せる、とはまだ言えない。
だが、さっきまでとは違う。
あれほど遠かった黒い太陽へ、今は攻撃が届いている。
『日廻、手!』
「分かってる」
右手の石化は、指先から第一関節の近くまで進んでいた。
感覚そのものが完全に消えたわけではない。だが、騎乗具を握った時の感触が薄い。手袋を何枚も重ねているような鈍さがあり、指を曲げるたび、皮膚ではない硬い何かを無理に動かしているような違和感が走る。
フライゴンも同じだった。
翼の端から始まった灰色は少しずつ内側へ広がり、羽ばたくたびに僅かな硬さが混じる。
眼下のアブソルとコジョンドにも石化は進んでいる。二匹ともまだ動けているが、アブソルの前脚には灰色が増え、コジョンドも片腕の先が薄く石へ変わり始めていた。
時間は、決して増えていない。
「ミュウ……!」
あいつも分かっているはずだ。
このまま長引けば、ダークマターネクロズマを倒すより先にこちらが動けなくなる。
そして、黒い太陽もまた、何かを変え始めた。
『エネルギー反応、増大ロト!』
「どこからだ!?」
『全部ロト!』
「全部?」
『方向が――ないロト!!』
直後、黒い太陽の全身が膨れ上がった。
表面を這っていた昏い虹色の光が、これまでとは比較にならないほど激しく明滅する。黒い霧が球体から離れ、無数の塊となって周囲へ広がった。
ゼット、レックウザ、ミュウ。
三体のどれを狙えばいいのか、もう選んでいない。
あるいは、選ぶ必要そのものを捨てた。
「まずい……!」
禍つ光が全方向へ走った。
一本や二本ではない。
黒い球体を中心に、巨大な雷光が無数の枝となって夜空を埋め尽くす。雷の隙間からは炎が噴き出し、さらにその外側を黒い霧が鞭とも爪ともつかない形へ変えながら暴れ回った。
そこへ紫色の光が混ざる。
目に見えない何かが空気を押し潰し、衝撃そのものが波となって広がっていく。
もはや攻撃と呼ぶより、爆発し続ける天災だった。
『日廻、離れるロト!!』
「フライゴン!」
逃げる方向を選ぶ余裕すらない。正面から来た雷を下降して避け、眼下を横切った炎の熱に煽られながら、少しでも球体から距離を取る。
それでも衝撃波には追いつかれた。
「ぐっ……!」
背中から殴りつけられたような衝撃に、日廻の身体が騎乗具へ押しつけられる。フライゴンも大きく高度を落とし、片翼が石の海へ触れそうになる寸前でどうにか身体を持ち上げた。
眼下では、地形そのものが消えていく。
石化した波が雷に砕かれ、炎に吹き飛ばされ、黒い霧に叩き潰される。何百年もそこにあった岩山を破壊しているような光景なのに、それが元は海だったことを思い出すと、日廻の頭はもう規模をうまく理解できなかった。
その中心では、ゼットもレックウザも近づけなくなっている。
ゼットが前へ出ようとすれば、複数の攻撃が同時に巨体を叩く。
レックウザはそれらをかわしているものの、罅を狙えるほどの直線を作れない。
ミュウでさえ、今は避けるだけで精一杯だった。
「これじゃ……!」
せっかく増えた手数を、力任せに全部潰された。
対応できないなら、周囲全部を攻撃する。
あまりにも単純で、だからこそ止めようがない。
その中で、ミュウが動きを止めた。
「ミュウ?」
ほんの一瞬だった。
黒い霧を避け、炎の間を抜けたミュウが、ゼットを見る。
次に、レックウザへ。
青い瞳が僅かに光った。
『……ミュウ様、テレパシーを使ってるロト』
「何を――」
聞き返すより先に、二体が動いた。
ゼットが大きく後退する。
同時に、レックウザも身を翻し、黒い太陽から一気に距離を取った。
「え……?」
逃げた。
一瞬、そう見えた。
だが違う。二体とも同じ距離まで離れたところで止まり、こちらへ背を向けることなく黒い太陽を見据えている。
まるで、そこから先へ入ってはいけないと最初から知っていたように。
『ミュウ!』
その中心に、ミュウだけが残った。
四方八方から迫る破壊を潜り抜けながら、ミュウが両手を広げる。
――世界の形が、変わった。
透明なはずの空間へ幾何学的な光が次々と浮かび上がり、巨大な四角形が幾重にも重なっていく。
けれど、その境界は戦場全体を覆ってはいない。
中心にいるのは、黒い太陽。
そして、その周囲を埋め尽くす雷と炎と黒い霧。
ゼットとレックウザは、その外側にいる。
『『トリックルーム』ロト!』
「トリック……?」
日廻が聞き返した時には、異変はもう始まっていた。
雷が、空中に長い軌跡を残した。
先ほどまで一瞬で夜空を横切っていたものが、まるで時間そのものへ引っかかったように進みを鈍らせている。
炎も黒い霧も同じだった。
速ければ速いほど、その空間の中では逆に、足枷を嵌められたように動きが鈍る。
無秩序に撒き散らした攻撃が、前へ進みきれない。後から放たれた炎や雷まで追いつき、黒い太陽の周囲へ幾重にも滞留していく。
『速さの関係をひっくり返してるロト! あいつが撒き散らしてる攻撃が速すぎるから――』
「逆に、遅くなる……!」
完全に安全な道ではない。
それでも、さっきまで一瞬で埋め尽くされていた空間に、今は確かに隙間がある。
その外側でゼットがレックウザを見る。
レックウザもまた、ゼットへ顔を向けた。
初めて会ったはずの二体だった。
言葉を交わした様子もない。
けれど、互いの視線が重なる。
ゼットがほんの僅かに頭を動かした。
レックウザも応じる。
「今だ……!」
日廻が叫ぶ。
「一気にやれ!!」
次の瞬間、ミュウが両腕を振り下ろす。
戦場を覆っていた幾何学模様が、一斉に砕け散った。
『トリックルーム』が消える。
その間に、ゼットは正面の射線から外れた位置へ、レックウザは上空へ回り込んでいた。
幾何学模様が砕け、滞留していた雷と炎が、放たれた時の軌道を駆け抜けた。
その先に、もう二体の姿はない。
ゼットが正面へ踏み込み、レックウザがさらに高く舞い上がる。
「……え?」
反射的に、日廻は自分の左腕を見た。
ゼンブイリングは沈黙している。
何もしていない、それなのに。
『レックウザのエネルギー、急上昇ロト!』
光はレックウザ自身の内側から溢れていた。
緑の鱗をなぞるように眩い輝きが走り、長大な身体の輪郭が変わっていく。顎部から伸びた角はより鋭く、身体からは金色に輝く長い器官がたなびき、夜空そのものを従えるような姿へ変貌していく。
『メガシンカ……!?』
ロトムの声が震える。
『でも日廻は何も――』
「あいつが、自分で……?」
姿が変わったレックウザが、眼下を見た。
その先にあるのは黒い太陽。
そして、ゼットが作り、自らの『はかいこうせん』で広げた、あの罅。
日廻の脳裏に、一瞬だけ先ほどの光景が蘇る。
自分を見た黄色い瞳。
高空から一直線に。
緑の身体を深翠の光が包み、その周囲で空気が幾重にも弾ける。先ほどまで空を埋め尽くしていた雷も炎も、その突入を止められない。
黒い太陽が反応した。
ゼットへ向けていた霧を引き戻そうとする。
だが『サウザンアロー』の光の矢が黒い霧を散らす。
『主要攻撃経路を確保』
メガレックウザが迫る。
黒い球体が、残った力を上空へ向けようとする。
ミュウが最後の念力を叩き込み、その向きを僅かにずらした。
そして、メガレックウザが、隕石が落ちるような速度で罅へ突っ込んだ。
――『ガリョウテンセイ』。
轟音は、少し遅れてやってきた。
最初に見えたのは、黒い外殻が内側へ大きく陥没する光景だった。
ゼットの『グランドフォース』で生まれ、『はかいこうせん』で広がった罅へ、メガレックウザの全身が突き刺さる。
黒い霧が、押し戻そうとその身体へまとわりつく。
それでも止まらない。罅が一気に左右へ走った。
「いけ……!」
日廻の声に応じたわけではない。
それでも。
「いけぇぇぇっ!!」
次の瞬間、メガレックウザの姿が黒い太陽の中へ消えた。
『入ったロト!?』
球体全体が大きく膨らむ。
昏い虹色の光が乱れ、表面のあちこちから緑の光が漏れ始める。内部で何が起きているのか、外からは分からない。
ただ、黒い太陽がこれまでにないほど激しく揺れていた。
そして、反対側の外殻が弾けた。
「――っ!」
黒い破片と霧を突き破り、緑の龍が飛び出す。
その後ろに残ったものを見て、日廻は息を呑んだ。
黒い太陽を、貫いている。
向こう側の夜空が見えるほど巨大な穴が、球体の中央近くへ開いていた。
『貫通したロト!!』
「やった……!」
言いかけたところで、日廻は気づいた。
レックウザの身体を覆っていた光が消えていく。
姿が戻る。金色に輝いていた器官が光の粒となり、輪郭が変わり、やがて元のレックウザが空へ現れた。
たった一撃。
その一撃のためだけに、あの姿になった。
けれど、十分だった。
あれほど何をしても届かなかった黒い太陽に、初めて向こう側まで届く道ができている。
『日廻、待つロト!』
「何だ!?」
『穴が――』
開いたはずの貫通孔へ、周囲の黒い霧が集まり始めている。
「……塞ごうとしているのか!?」
飛び散った霧が戻ってくる。
砕かれた外殻の縁へまとわりつき、粘つく泥のように形を作り直していく。貫通孔の向こうに見えていた夜空が少しずつ黒に侵され、その奥では昏い虹色の光まで再び脈打ち始めていた。
『活動反応、まだあるロト!』
「ここまでやって……!」
まだ、浮いている。
攻撃こそ止まっているが、終わってはいない。
壊されたなら、直せばいい。
そうすることしか知らないように、ただ外殻を作り直そうとしている。
けれど、ゼットは焦る様子もなく、開いた穴を見つめたまま、巨大な身体をゆっくりと起こす。
胸部、そこにある口が開いた。
「……ゼット?」
光が生まれる。
緑を中心に、青や赤、いくつもの色を含んだ光が一点へ集まり、ゼットの胸元で急速に密度を増していく。
ダークマターネクロズマの再構築が進む。
それでもゼットは撃たない。
まだ、もう少し。
レックウザが命懸けで作った道が、完全に閉じる寸前まで。
『エネルギー収束……!』
ロトムが息を呑む。
『日廻、あれ――』
日廻にも分かった。
レックウザが開けた道へ、あの力を撃ち込むつもりなのだ。
核の位置までは、まだ分からない。
それでも、攻撃を阻んでいた外殻には穴が開いた。そこから内部へ、あれだけの力を叩き込めるなら。
今度こそ、核まで届くかもしれない。
日廻は、硬くなった指を握り込んだ。
取り込まれたポケモンたちを引き離せるという、あの予測に賭けるしかなかった。
ゼットの胸元で、光が限界まで膨れ上がる。
『――構造内部への攻撃経路を確認』
パーフェクトジガルデの目が、真っ直ぐに黒い太陽を捉えた。
『排除を実行する』
――『コアパニッシャー』。
強大な緑色の奔流が、レックウザの開けた穴へ吸い込まれていく。
外殻を壊すための攻撃ではない。
黒い太陽の内部へ。
直接、撃ち込まれた。
球体の中心で光が爆ぜた。
昏い虹色の脈動が、一瞬だけ止まる。
「……っ!」
最初の光が、黒い球体の上部を横へ走る。
その端から、二本目が斜め下へ。
最後の光が、下部を逆方向へ薙いだ。
三本の傷が繋がる。
内側から外殻を焼き切るように光が駆け抜け、その軌跡に沿って黒い表面が裂けていく。
日廻はそれを見上げた。
巨大な黒い球体。
その表面、光が刻んだ形を。
「……Z」
誰に聞かせるでもなく、声が漏れた。
巨大な一文字が、黒い太陽へ刻み込まれている。
そして、その傷が光った。
Zの字を形作った亀裂から緑の光が溢れ、黒い外殻がゆっくりとずれていく。再構築のために集まっていた霧が形を保てなくなり、球体の周囲へ溶けるように散り始めた。
昏い虹色の光が激しく明滅する。
一度、二度。
そして三度目は、なかった。
黒い太陽の中心から、光が消えた。
『活動反応、急速低下!』
ロトムが叫ぶ。
同時に、球体を空中へ留めていた何かが失われた。
巨大な身体が傾く。
「落ちる……!」
あまりにも巨大な質量を伴って、石の海へ落下していく。
ゼットが距離を取る。ミュウも離れ、レックウザは大きく弧を描いて上空へ逃れた。
数秒後、黒い太陽が地へ落ちた。
石の海が跳ねた。
海であるはずなのに、水飛沫は上がらない。代わりに巨大な石塊が空高く舞い上がり、灰色の粉塵が津波のように周囲へ広がっていく。
「フライゴン、上!」
『ファイッッ!』
フライゴンは振り絞るような声とともに翼を打ち、粉塵から逃れる。
やがて遠雷の轟音が遠ざかり、粉塵も少しずつ薄くなっていった。
そこに、黒い太陽は浮いていなかった。
砕けた石の海の中央に、巨大な黒い塊が沈んでいる。
表面には、あれほど不気味に脈打っていた虹色の光もない。周囲を覆っていた霧も、風にほどけるように薄くなり、夜の闇へ溶けていく。
何も、飛んでこない。
日廻はしばらく動けなかった。
耳の奥には、まださっきまでの轟音が残っている。
次が来る。
そう思って身体が勝手に強張っているのに。
何も来なかった。
『……大規模攻撃反応、消失』
ロトムの声も、どこか信じられないように小さい。
『あの球体……止まってるロト』
「……やった?」
自分で口にしてから、不安になった。
ロトムを見る。
画面には何本もの解析結果が流れている。ロトムはそれを何度も確認してから、ようやく画面を日廻へ向けた。
『少なくとも……もう、動いてないロト』
「……核も、壊れたのか?」
ロトムはすぐには答えなかった。
『そこまでは、まだ分からないロト』
日廻は黒い残骸へ目を凝らした。
取り込まれていたポケモンたちは、どうなった。
薄れていく粉塵の向こうに、その姿を探す。けれど、ここからでは見つけられなかった。
「……中にいた奴らも、探してくれ」
『分かったロト』
返事を聞いて、ようやく息が抜けた。
少なくとも、攻撃は止まった。
その瞬間、自分がどれだけ力を入れていたのか初めて分かった。
騎乗具を握っていた右手から力が抜ける。石化している指は上手く開かなかったが、それでも肩から余計な力が落ちていった。
「フライゴン」
フライゴンも限界だった。
翼を動かしてはいるが、呼吸は荒く、飛行高度も少しずつ下がっている。
「ありがとな。もういい。少し降りよう」
『ファイ……』
今度の返事には、さすがにいつもの元気がなかった。
高度を下げる途中、桃色の影が近づいてくる。
「ミュウ!」
『ミュウ』
ミュウは返事をすると、まず日廻の右手を見た。
次にフライゴンの翼。
途端に眉間へ皺が寄る。
「いや、これはお前が悪いんじゃ――」
『ミュウ』
「……はい」
何を言われたのか分からないのに、なぜか怒られていることだけは分かった。
ミュウが近くへ戻ってきたことで、指先を這っていた灰色の進行が止まる。元へ戻ったわけではないが、それ以上は広がっていかない。
眼下では、アブソルとコジョンドも無事だった。
コジョンドは片膝をついているものの、日廻が見下ろすと片腕を上げた。アブソルもその傍で立っている。白い毛の一部は灰色に変わっていたが、こちらを見上げる赤い瞳にはまだ力が残っていた。
「……よかった」
本当にようやく、そう言えた。
少し離れた場所では、ゼットが石の海へ降り立っている。
完全体の巨体にも傷がある。あれだけの攻撃を正面から引き受け、零距離で『グランドフォース』を叩き込み、最後には『コアパニッシャー』まで放ったのだ。無事なはずがない。
それでも立っている。
「ゼット!」
日廻が呼ぶ。
パーフェクトジガルデが、こちらを向いた。
それだけで十分だった。
「……よかった」
同じ言葉が、もう一度口から出た。
その上空を、長い緑の身体が横切る。
「……あ」
レックウザ。
メガシンカはすでに解けている。
黒い太陽を貫いたとは思えないほど悠然と空を泳ぎ、一度だけ日廻たちの上を旋回した。日廻はそれを見上げた。
「レックウザ!」
黄色い瞳が、こちらを向いたように見えた。
日廻は何を言うか少し迷って。
結局、最初に浮かんだ言葉をそのまま口にした。
「助かった! ありがとう!」
返事はない。
レックウザはそのまま長い身体をくねらせ、ゼットの上空を一度通り過ぎる。
ゼットも顔を上げた。
二体の視線が重なった。
ほんの一瞬、それだけだった。
その下では、黒い太陽が動かない。
そして、ゼットが立っている。
ミュウもいる。
アブソルも。
コジョンドも。
フライゴンも。
ロトムも。
誰一人、無傷ではなかった。
日廻自身の右手にも灰色が残っている。
それでも。
全員、生きている。
「…………」
長く息を吐いた。
空気が肺から抜けていくのと一緒に、身体の奥に張りつめていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。
まだ世界中には、いくつもの穴が開いている。
ウルトラビーストたちのこともある。
ゼルネアスたちがどうなったのかも分からない。
終わったことより、分からないことの方が多い。
それでも今だけは、あれを止めたのだと思いたかった。
日廻は砕けた石の海を見下ろす。
そこに落ちた黒い塊は、もう太陽には見えなかった。
――けれど。
まだ、終わっていない。
哀しみは残っている。苦しみも、怒りも、絶望も、この宇宙から消えてはいない。
ならば、それらを終わらせなければならない。
すべてを終わらせるために。
宇宙の意志を、実現するために。