黒い太陽は、もう動かなかった。
砕けた石の海、その中央に巨大な残骸が沈んでいる。表面を這っていた昏い虹色の光は消え、周囲を覆っていた黒い霧も薄れていた。つい先ほどまで空を埋め尽くしていた雷も炎もなく、聞こえるのは崩れた石片が遅れて転がり落ちる音と、フライゴンの荒い呼吸くらいだった。
ミュウが戻ってきたことで、日廻の右手を侵していた灰色も広がらなくなっている。
治ったわけではない。指先から第一関節近くまでが石のような色を残し、曲げればまだ妙な硬さがあった。それでも、止まっている。
フライゴンの翼も、アブソルの毛先も、コジョンドの片腕も同じだった。
今すぐ元通りになるわけではないとしても、少なくともこれ以上悪くはならない。その事実だけで、日廻はようやく肺の奥まで息を吸えた。
「……みんな、いるな」
『いるロト』
皆を代表するようにロトムが答える。
眼下では、アブソルが立っている。その傍ではコジョンドが片膝をついたまま呼吸を整え、少し離れた場所にはゼットの巨体があった。
無傷の者など一匹もいない。
それでも、生きている。
上空にはレックウザも残っていた。
すでにメガシンカは解け、元の姿へ戻っている。球状の災害を貫通した直後なのだから疲労がないはずもない。それでも長大な身体は力を失っておらず、黒い残骸を中心に大きく旋回しながら、地上の様子を窺っていた。
「……やったんだよな」
確かめるように口にする。
『大規模攻撃反応は消えてるロト。エネルギー値も急速に低下して――』
そこで、ロトムの声が途切れた。
「ロトム?」
返事がない。
日廻は胸元へ視線を落とそうとして――やめた。
風は吹いている。頬を撫で、髪を揺らし、フライゴンの翼膜を震わせている。なのに背中には、それとはまったく別の感覚が這っていた。
誰かに見られている。
そんな言葉が、真っ先に浮かんだ。
「……?」
反射的に周囲を見回す。
無数の石柱と、波の形のまま固まった海。遠くにはウルトラホールが不気味な光を漏らしているものの、新しい影が現れた様子はない。
それなのに、視線だけが消えなかった。
皮膚を通り越し、骨の内側をなぞられているような、説明しようのない不快感だった。頭蓋の内側へ何かを差し込まれ、そこに自分という存在があることを確かめられているような感覚に、日廻は無意識に肩を強張らせる。
「新しい奴……か?」
『ファイ……』
フライゴンも感じている。
疲労で垂れかけていた頭が持ち上がり、周囲を探るように左右へ動いた。
地上ではアブソルが身構えていた。
赤い瞳が鋭く細まり、額の角が黒い残骸へ向く。コジョンドも片膝をついた姿勢からゆっくり腰を上げ、石化の残る腕を庇いながら構えを取った。
ミュウまで、表情を変えている。
つい先ほどまで日廻の右手を気にしていた青い瞳が、今は一点だけを見つめていた。
「……ロトム?」
もう一度呼ぶ。
今度は、返事があった。
『……待つロト』
小さい声だった。
「何があった」
『うそ、なに、これ……今……』
言葉が途切れ、続かない。
日廻は眉を寄せた。
こんなロトムは、ほとんど見たことがない。
普段なら、分からないなりに何が起きているのかを伝えようとする。そのロトムが、画面に流れる数字を見たまま黙り込んでいる。
『……日廻。は、始まった、ロト』
その言葉と同時だった。
黒い残骸の内側で、光が灯った。
「……え?」
ほんの一瞬、昏い虹色が見えた。
数秒後、今度は少し離れた場所が光った。
脈拍のように一定でもなければ、先ほどまでのようにエネルギーが流れている様子でもない。
あちらで灯ったと思えば消え、次はまったく別の場所で明滅する。
日廻はそれを見ているうち、なぜか口の中が乾いていくのを感じた。
「……なんだよ、それ」
笑っているように見えた。
もちろん、球体に顔などない。
口も、目もない。
それなのに、不規則に灯っては消える光を見ていると、巨大な何かが身体の内側で声もなく笑っているような錯覚を覚えた。
『エネルギー反応……再上昇』
ロトムがようやく言った。
いつもの分析口調へ戻ろうとしているのが分かる。
けれど、戻れていない。
『さっきの残留エネルギーじゃないロト。別の……いや、でも反応そのものは繋がって……』
「どのくらいだ?」
『…………』
「ロトム」
『あれは、ただの、殻、だったロト』
ロトムは、信じがたい絶望に震えるように、一語ずつ言葉を零した。
日廻がその意味を理解するまで、一拍かかった。
「……は?」
その直後、石が浮いた。
日廻の視界の端で、小さな破片が一つ、地面から離れる。
墜落で砕けた石片が一斉に地面を離れ、重力を忘れたように空へ昇り始める。拳ほどのものから、人間より大きな塊まで、あらゆる破片が黒い残骸を中心に渦を巻いていた。
石の海まで震え始めた。
最初は微かな振動だった。
やがて騎乗している日廻にも、空気を通してその震えが伝わってくる。波の形のまま固まっていた巨大な石塊が互いに擦れ、地の底から響くような低い音を立てていた。
世界そのものが、軋んでいる。
まるで自分たちより先に、この星そのものが何かの到来を察し、恐怖して震えているようだった。
『日廻、下がるロト』
「ゼットは――」
『下がるロト!!』
もう二体が動いていた。
ゼットが宙を蹴る。傷だらけの巨体が加速し、黒い残骸へ向かう。
ほぼ同時に上空のレックウザが身を翻した。
相談する時間もなく、互いに視線を交わしてすらいない。
それでも二体は、日廻たちより遥かに早く同じ結論へ辿り着いていた。
あれを、出してはいけない。
「ゼット!」
呼んだ瞬間、黒い球体が震えた。
表面に罅が走る。先ほどゼットが刻んだ傷が広がったのだと思った。
しかし、巨大なZの傷とは位置が違う。
球体の側面、まだ形を残していた黒い外殻が、内側から盛り上がっている。
『内部圧力、急上昇ロト!』
罅が増える。
一つ、そこから枝分かれするように二つ、三つ。
黒い外殻が外側へ押し出され、何か巨大なものが内側から身体を伸ばしているかのように膨らんでいく。
「……まさか」
日廻の喉から声が漏れた。
倒したのではなかった。
ただ、外側を砕いただけだった。
今、目の前で起きていることを見ていると、あの巨大な球体が別のものにしか見えなくなってくる。
ロトムが言ったように、殻。
あるいは。
中で形づくられている身体を守るための卵。
『来るロト!!』
球体が、内側から弾けた。
黒が視界を埋めた。
轟音と衝撃が同時に押し寄せる。
「っ――!」
フライゴンが咄嗟に身体を捻った。
逃げる暇はなかった。
外殻だった巨大な破片が周囲へ飛び散り、それと一緒に黒い霧と昏い虹色の光が爆発的に広がっていく。
「フライゴン!!」
騎乗具が身体へ食い込んだ。
フライゴンごと横から殴られ、日廻の視界が大きく回転する。
空と石の海が何度も入れ替わった。
固定具がなければ、とうに身は投げ出されている。
近くにいたミュウも小さな身体を吹き飛ばされ、桃色の影が視界の外へ消える。地上ではアブソルとコジョンドが破片と衝撃に呑まれ、ゼットの巨体さえ前進を止められた。
レックウザも同じだった。
長大な身体が衝撃に押し返され、空中で大きく弧を描く。
ただ何かが生まれたという、それだけの余波で。
日廻たち全員が、戦場から押し退けられた。
「くっ……フライゴン、戻せるか!?」
『ファ、ファイ……!』
返事と同時に翼が開く。
片方の翼にはまだ石化が残っている。それでもフライゴンは空気を掴み、何度か高度を落としながら、どうにか身体の向きを戻した。
日廻も騎乗具へしがみつき、顔を上げる。
黒い霧が晴れていく。
最初に見えたのは、光だった。
昏い虹色。
球状の表面を這っていたものと同じはずなのに、今は意味が違って見える。
それが、身体を繋いでいる。
「……なんだ、あれ」
声が勝手に漏れた。
巨大な異形が、そこにいた。
もう球体ではない。
生き物の形をしている。
少なくとも、そう呼べるだけの頭部があり、胴があり、四肢らしきものがある。
けれど、どこを見ても正常な生物には見えなかった。
身体の大部分を作っているのは、黒紫色の結晶だった。
大きさも向きも異なる鋭い結晶が、互いを突き破るように無秩序に重なり合っている。その隙間から昏い虹色の光が漏れ、離れているはずの部位同士を無理やり縫い留めていた。
左右の形すら揃っていない。
片側には、月食か日食を思わせる巨大な翼状の輪郭が広がっている。
反対側は翼と呼んでいいのかすら分からなかった。巨大な獣のような腕にも、大爪を備えた翼にも見える結晶の塊がいくつも突き出し、動くたびに形そのものがずれているように見える。
黒と深紅の結晶が、巨大な顎を形づくっていた。噛み合えば何もかも砕いてしまいそうな、その鋭い縁のさらに奥に、虹色の小さな輝きが見えた。
神秘的なものを寄せ集めたはずなのに、そこに神聖さはない。
いくつもの異なるものを砕き、混ぜ、無理やり一つの生き物へ縫い合わせたような姿だった。
それが、こちらを見た。
「――」
日廻の呼吸が止まった。
目が合ったからではない。
そもそも、どこを目と呼ぶべきなのかさえよく分からない。
こちらの存在を、はっきりと区別している事実だけがあった。
「……さっきの奴と、違う」
球状の姿は、災害に近かった。圧倒的な力で、邪魔なものをまとめて壊す。
だが、今の異形は、こちらを見ている。
ただ認識しているのではない。こちらを、敵として。
そして――緑の影が、視界を横切った。
「レックウザ!」
誰よりも早く立て直したのはレックウザだった。
孵化の衝撃で大きく吹き飛ばされたはずなのに、長大な身体を空中で捻り、すでに混沌の化物へ正面を向けている。
口元へ破壊の光が集まる。
一切の躊躇は感じられない。
ロトムが叫ぶより先に、レックウザの口から光が放たれた。
『はかいこうせん』。
先ほど、遥か高空から罅を寸分違わず撃ち抜いた一撃。
今度は、遮るものすらない。
極太の光線が夜空を真っ直ぐに貫き、第二形態の胴へ直撃した。
黒紫色の結晶が弾け飛ぶ。
「入った……!」
光に呑まれた箇所が大きく抉れ、黒い結晶が無数の破片となって飛び散る。身体の一部が、明確に失われていた。
壊せる。
日廻がそう思ったのは、一瞬だけだった。
『……え』
ロトムが声を漏らした。
破壊された箇所の周囲で、美しい炎が噴いた。
噴き出した聖火が徐々に黒く染まり、結晶と化す。その下で、別の結晶が回転する。奥からせり出した細長い結晶が空いた場所へ噛み合い、隙間を昏い虹色の光が繋いでいく。
元の形へ戻っているわけではない。
「……治った?」
『元に戻ったんじゃないロト! 別の……伝説のポケモンレベルの力で、壊れたところを無理やり埋めてるロト!』
攻撃は通じている。
だが、壊しても致命傷にならない。
次の瞬間、ダークマターネクロズマが動きを止めた。
破壊された部位の修復を終えた異形が、ゆっくりと頭部を上げる。
レックウザへ向けて。
「……っ」
日廻には分かった。
今の一撃で、自分を大きく傷つけられる存在を知った。
そして、次に排除する相手を選んだ。
『レックウザ、離れるロト!!』
レックウザが翼もない長い身体をくねらせ、化け物から距離を取ろうとする。
だが、間に合わなかった。
その身体が、空中で止まった。
「……え?」
あまりにも唐突だった。
何かにぶつかったわけでもない。
黒い霧に絡まれたわけでもない。
レックウザの長大な身体が、見えない何かに掴まれたように空中へ固定されている。
『【サイコキネシス】ロト!』
「レックウザ!」
全身を大きく捻り、拘束を引き千切ろうとする。その動きに合わせて周囲の空気が歪み、長い尾が振られるたびに凄まじい風圧が石の海まで届いた。
弱っているから動けないのではない。
レックウザは今も抗っている。
なのに、変わらない。
「引かれてる……!」
レックウザの巨体が、急速に横へ動き始める。
見えない力が、あの巨大な身体を空ごと掴み、そのまま異形の元へ引き寄せている。
『出力が高すぎるロト! レックウザでも振りほどけてないロト!』
動きを止め、自由を奪い、そこへ次の攻撃を重ねる。
今までにない戦い方だった。
「ミュウ、助け――」
日廻が言い切るより先に、ミュウは動いていた。
桃色の身体がレックウザへ向かう。
だが、もう遅い。
異形の片腕が持ち上がった。
腕と呼ぶことさえ躊躇うような、結晶と爪の塊。
その先端へ、禍々しい光が集まっていく。
『ドラゴン系反応!』
レックウザも気づいている。
拘束されたまま身体を捻り、せめて直撃だけは避けようとする。
見えない力が、それすら許さない。
『ドラゴンクロー』。
光を纏った巨大な爪が、レックウザの胴を斜めに抉った。
『――――ッ!!』
レックウザの咆哮が夜空を震わせる。
「レックウザ!!」
緑の鱗が飛び散った。
身体が大きく折れ曲がる。
その身体を空中へ縫い留めていた力が、今度は下方へ働いた。
ミュウが両手を伸ばすより早く、レックウザの巨体が叩き落とされる。
桃色の影が、その後を追った。
「っ、フライゴン!」
『ファイッ!』
フライゴンが翼を打つ。
消耗しきった身体では、落下するレックウザへ追いつけない。
緑の巨体が石の海へ激突した。
長い身体が何度も跳ね、波の形をした石塊を次々と薙ぎ倒しながら滑っていく。その軌道に沿って灰色の粉塵が巻き上がり、ようやく止まった時には、最初に落ちた場所からかなり離れていた。
「レックウザ……!」
日廻の意識から、ダークマターネクロズマの存在が一瞬だけ抜け落ちた。石の海を削りながら滑っていった緑の巨体は、もう動いていない。
「フライゴン、近づいてくれ!」
返事とともにフライゴンが翼を傾け、レックウザの落下地点へ向けて高度を下げる。
『日廻、待つロト! あいつが――』
「分かっている!!」
地上へ降りれば逃げ場を失う。あれは今、レックウザを狙って叩き落としたばかりだ。
それでも、このまま離れるという選択肢もなかった。
あのレックウザは、ゼットを助けてくれた。日廻の願いに言葉ではなく行動で応え、災害を振り撒く黒玉を貫いて道を開いてくれた相手だ。生きているのかさえ分からないまま、置いていくことなどできなかった。
先行していたミュウが、倒れたレックウザのもとへ辿り着く。フライゴンも後を追ったが、地面すれすれまで高度を落としたところで翼を広げ、着地せずに速度を殺した。激しく羽ばたくたびに灰色の粉塵が舞い上がり、日廻は騎乗具へ身体を固定したまま、その背から身を乗り出す。
「レックウザ!」
返事はない。
だが、近づいたことで分かった。
長い胴が、微かに上下している。
生きている。
「……よかった」
思わず息が漏れた、その時だった。
閉じかけていた黄色い瞳が僅かに動き、低空に留まるフライゴンと、その背の日廻を捉える。続いてレックウザが苦しげに低く唸り、長い身体を僅かに捩った。
「どうした……?」
日廻はその動きを追い、視線を胴へ滑らせる。
『ドラゴンクロー』を受けた場所だった。
緑の鱗が切り裂かれ、その下には深い傷が走っている。空からでも分かるほど大きな裂傷だ。だが、日廻の目を止めたのは傷そのものではなかった。
「……なんだ、あれ」
傷の縁が、灰色になっている。
最初は墜落した時についた石の粉かと思った。あれだけ激しく石の海を滑ったのだから、全身が粉塵に塗れていてもおかしくはない。
けれど違う。
灰色は鱗の上を覆っているのではなかった。裂けた傷口を起点に、緑だった鱗そのものから色が失われている。それどころか、日廻が見ている間にも境目はごく僅かに外へ広がっていた。
「ミュウ!」
日廻に言われるまでもなく、ミュウは動いていた。
桃色の身体が傷口のすぐ傍まで飛び、両手を向ける。淡い光が広がり、倒れたレックウザの身体を包み込んだ。第一形態との戦いで何度も日廻たちの石化を抑えてきた、あの力だ。
日廻はフライゴンの背から、その変化を食い入るように見つめる。
灰色の広がる速度が、落ちた。
「……待て」
止まっていない。
ゆっくりと、灰色の境目はミュウの光の中を這い、傷口から外側へ侵食を続けている。
『石化反応、確認ロト』
ロトムの声が掠れた。
『【ドラゴンクロー】を受けた箇所から……広がってるロト』
「でも、ミュウがいるだろ」
『いるロト。抑制反応も出てるロト』
「だったら、なんで……」
答えは返ってこなかった。
日廻は騎乗具を握ったまま、眼下のレックウザを見つめる。
ミュウはすぐ傍にいる。その力も届いている。実際、灰色の広がり方は明らかに鈍くなった。
なのに、止まらない。
緑の鱗を侵しているものが何なのか、もう見間違えようがなかった。
レックウザの瞳が、日廻の背後へ向いた。
「ひっ……」
ぞくり、と。
首筋を何かが這った。
短い悲鳴が喉を震わせる。
ダークマターネクロズマが、こちらを見ていた。
先ほどまでレックウザを最優先で排除しようとしていた異形は、追撃もせずに動きを止めている。その視線の先には、石の海へ墜落したレックウザと、その傷口へ力を注いでいるミュウ。さらに、そのすぐ上で低空飛行を続けるフライゴンと日廻がいる。
少し離れた場所では、アブソルとコジョンドもこちらへ向かおうとしていた。孵化の衝撃で押し戻されたゼットも、崩れた石塊を踏み越え、こちらと異形との間へ回り込もうとしていた。
全員の位置を。
誰が傷つき、誰が動けるのかを。
確かめている感覚があった。
異形の巨体が僅かに沈んだ。
ほんの小さな動きだった。
けれど、それを見たゼットが凄まじい勢いでこちらを振り向いた。
『――離脱しろ!』
次の瞬間。
石の海が、爆発した。
「っ――!?」
轟音が下から突き上げる。
地面が揺れた、などという言葉では足りなかった。波の形のまま固まっていた海そのものが、見えない巨大な力によって下から殴り上げられたように隆起し、幾重にも折り重なりながら砕けていく。
『【じしん】ロト!!』
レックウザの横たわる足場にも、罅が走った。ミュウが両手を上げる。淡い光に包まれた長い身体がわずかに浮き、その下で石の波が崩れ落ちた。
地上ではアブソルとコジョンドが大きく体勢を崩した。盛り上がった石の波が二匹の間を引き裂くように突き上がり、その頂点が砕けた途端、人間の身体を優に超える石塊が四方へ弾け飛ぶ。
「アブソル! コジョンド!」
このまま地上に残しておく方が危険だ。
日廻は腰へ手を伸ばし、二つのモンスターボールを掴んだ。
「一回戻れ!」
二匹へボールを向ける。
だが、地上だけでは終わらない。
砕けた石の海そのものが、凶器となって空へ噴き上がった。
「フライゴン、上だ!」
『ファイッッ!』
フライゴンが翼を強く打つ。
身体が騎乗具へ押しつけられるほどの勢いで、一気に高度が上がった。
「ぐっ――」
咄嗟に取っ手を掴む。
その拍子に、握っていた二つのボールが指の間からこぼれた。
「あっ」
手を伸ばしたときには、もう遅かった。
二つのモンスターボールは急速に遠ざかり、崩れ続ける石の海へ落ちていく。
「クソッ……!」
思わずその行方を目で追う。
『日廻、下見るな! 上ロト!!』
数え切れない石片が灰色の雨となって下から迫り、その間を縫うように巨大な石塊まで回転しながら飛んでくる。
フライゴンが高度を上げる。だが、間に合わない。
数え切れない石片が灰色の雨となって下から迫り、その間を縫うように巨大な石塊まで回転しながら飛んでくる。
『じしん』そのものがフライゴンを捉えたわけではない。
その余波によって破壊された戦場全体が、空にいる者まで巻き込もうとしている。
真下から飛来した岩塊が腹部すれすれを抜け、そのまま遥か上空へ消えていった。続けて二つ、三つ。フライゴンは傷ついた翼を必死に動かしながら回避するが、今までの戦闘で蓄積した疲労は隠しようがない。旋回するたびに身体が僅かに沈み、普段なら難なく避けられるはずの破片が少しずつ距離を詰めてくる。
大きな石塊は避けた。
だが、その陰に隠れていた拳ほどの破片までは見えなかった。
灰色の石が、フライゴンの翼を掠める。
『ファイッ!!』
「フライゴン!?」
大きく体勢が傾いた。フライゴンはすぐに反対側の翼で空気を掴み、墜落だけは免れたものの、日廻の目は別のものを捉えていた。
石片が触れた場所。
そこは、それまで石化していた翼端とは離れている。
まだ緑色だったはずの翼膜に、小さな灰色の染みが生まれていた。
染みが、広がる。
ゆっくりと。だが確実に。
接触した場所を中心として、フライゴンの翼から色が失われていく。
『飛んできた石片にも、石化反応があるロト……!』
「ふざけんな! なんでこんな!!」
声を上げながらアブソルたちを探す。
アブソルは隆起する石の波を跳び越えながら、どうにかレックウザの方へ近づこうとしていた。その後ろではコジョンドも石塊を蹴り、崩れる足場から足場へ飛び移っている。
しかし、異形が引き起こした『じしん』は逃げ場そのものを壊していく。
アブソルの着地点が砕けた。
咄嗟に横へ跳んだ身体を、飛び散った小さな破片が掠める。
直撃と呼ぶほどのものではない。
白い毛の表面を擦った程度だった。
それなのに、その下から灰色が滲み出した。
コジョンドが振り返る。
次の瞬間には、別の石片がその腕へ当たった。
『コジョッ……!』
あれだけの戦いを潜り抜けてきたコジョンドなら、本来は痛みに顔を顰めるほどですらない衝撃だった。
けれど、石片が触れた場所から、毛並みと皮膚の色が失われていく。
前から残っていた石化ではない。
新しい灰色だった。
「ミュウ……」
日廻は思わず周囲を見回した。
ミュウはいる。
レックウザのすぐ傍に浮かびながら、それでも日廻たちを覆うだけの力を広げている。
淡い光は消えていない。
むしろ、さっきまでより強い。
レックウザだけではない。フライゴンも、アブソルも、コジョンドも、可能な限り自分の力の中へ収めようとしているのが分かる。
なのに、フライゴンの翼を侵す灰色は止まらない。
「ミュウの力は届いてるんだよな!?」
『届いてるロト! 抑制反応もちゃんと出てるロト!』
「だったら、なんで石化が止まらない!」
『分からないロト! 今、さっきの形態のデータと比較して――』
ロトムが言葉を切った。
画面を凄まじい速さで数値が流れていく。
日廻はその結果を待ちながら、なおも飛来する破片を避けるフライゴンの背へしがみつく。『じしん』の揺れ自体は少しずつ弱まっているものの、持ち上げられた巨大な石塊が次々と落下しているせいで、眼下の海はまだ崩壊を続けていた。
その最中、ミュウが弾き損ねた小さな破片が、横合いから飛んできた。
「っ!」
鋭い痛みが左腕を走った。
服の袖が裂け、浅い傷から血が滲む。
傷口の周囲から熱とは正反対の感覚が広がり始めた。
「……まさか」
血の滲んだ皮膚、そのすぐ横から色が失われていた。
右手には、第一形態との戦いで受けた石化が残っている。
今度は左腕、石片が掠めた場所から新しい灰色が生まれている。
「ミュウ!」
ミュウがこちらを見る。
日廻と目が合った瞬間、その表情が変わった。
驚いたのではない。
ミュウ自身も、すでに分かっていた。
淡い光がさらに強くなる。
日廻の左腕を侵していた灰色の動きが、目に見えて遅くなった。
「……もう、止まらない」
あの時はミュウの傍へ戻れば、そこで止まった。石化した部分がすぐ元へ戻らなくとも、それ以上身体を奪われることはなかった。
今は、ミュウの力が届いている。
それでも灰色は、ほんの僅かずつ境界を押し広げている。
『ミュウ様の力は効いてるロト!』
ロトムが叫ぶ。
声には、解析結果を得られた安堵など微塵もなかった。
『球体だった時より、ミュウ様の抑制出力は上がってるロト! 日廻も、フライゴンも、アブソルもコジョンドも、ちゃんと守られてるロト! でも……石化反応そのものが、それを上回ってるロト……!』
日廻は言葉を失った。
守られている。
ミュウが抑えているからだ。
もしミュウがいなければ、今頃どうなっていたのか。想像したくもなかった。
けれど、それは同時に別の事実を意味していた。
ミュウの傍に戻れば大丈夫だという場所が、なくなった。
「…………」
日廻はミュウを見た。
ミュウは、いつものように胸を張ることも、心配するなと笑ってみせることもない。ただ悔しそうに唇を結び、もう一度レックウザの傷へ意識を戻す。
その表情だけで十分だった。
ミュウにも、止められない。
できるのは、遅らせることだけ。
『日廻……』
「……じゃあ、あれが第二形態ってことか」
ロトムが小さく頷く。
日廻は、フライゴンの背から異形を見た。
『じしん』はすでに収まりつつある。
宙へ巻き上げられた最後の石塊が落下し、崩れた海へ叩きつけられるたびに低い轟音が響く。その向こうで、黒紫色の結晶を不規則に重ねた異形だけが、何事もなかったように立っていた。
あれだけの規模の攻撃を放ったというのに、疲労した様子はない。
追撃すらしてこない。
必要がないと判断しているようにさえ見えた。
日廻は、その静けさの方が恐ろしかった。
第一形態も強かった。
何もかもをまとめて消し飛ばしかねないほどの力を持ち、余波だけでこちらを戦場から振り落とすような怪物だった。
けれど、あれは力を撒き散らしていた。
ゼットへ攻撃を向ければ、ミュウが別方向から注意を引けた。ミュウが囮になれば、ゼットが懐へ飛び込めた。レックウザが加われば、その粗雑な制御では三体を同時に捉えきれなくなった。
だが、レックウザの『はかいこうせん』を受けた第二形態は、まず自分を傷つけられる相手を見極めた。
『サイコキネシス』で動きを封じ、そこへ『ドラゴンクロー』を重ねた。
レックウザが落ちれば、助けようとする者が集まる。
その状況を見て、広い範囲そのものを破壊する『じしん』を使った。
「……あいつッ」
第二形態の頭部が、僅かに動いた。
視線がこちらをなぞる。
低空にいるフライゴンと、その背に乗っている日廻。
レックウザを守るミュウ。
地上のアブソルとコジョンド。
そして、崩れた足場を越え、こちらと第二形態との間へ迫るゼット。
一体ずつ、何をすれば最も効率よく排除できるのかを確かめるように。
「俺たちを見て……戦い方を変えてるのか」
ロトムは否定しなかった。
その沈黙が、何よりの答えだった。
ゼットが前へ出る。孵化の衝撃でさらに傷を増やしながらも、巨大な身体を第二形態との間へ割り込ませる。
揺れが弱まり、ミュウがレックウザを残った足場へ横たえる。レックウザは黄色い瞳を開いたまま長い身体を動かし、再び空へ上がろうとしている。
地上ではアブソルが立ち、コジョンドも石化し始めた腕を庇いながら構え直す。
そして日廻を乗せたフライゴンも、荒い息を吐きながら高度を保ち続けていた。
誰も、まだ戦うことをやめていない。
だからこそ、日廻には分かってしまった。
ここから先、戦うということが、何を意味するのか。
これまでは、ミュウのもとへ戻れば石化を止められた。
今は、戻っても止まらない。
地上にいても。
空を飛んでいても。
攻撃を受ければ。
その余波に触れれば。
ミュウの光の中にいたとしても、灰色の侵食からは逃げられない。
安全な場所は、どこにもない。
日廻は石化の始まった左腕から目を離し、フライゴンの背で顔を上げた。
戦い続ける限り、自分たちは少しずつ石になっていく。
その事実を理解した日廻の前で、ダークマターネクロズマは再びゆっくりと頭部を持ち上げた。
次は、誰から壊すべきかを、選ぶように。