ミュウの淡い光の中で、左腕の灰色がじわじわと広がっていた。
それでもまだ、動く。指も曲がるし、騎乗具を掴むこともできる。
眼下では、レックウザが石の海へ長い身体を横たえていた。
『ドラゴンクロー』を受けた傷は目を背けたくなるほど深かった。深く裂けた鱗の周囲から灰色が染み出し、傷口を起点にして、石化が少しずつ身体へ食い込んでいた。
ミュウが近くにいるおかげなのだろう。先ほどより進み方は遅い。
けれど――止まってはいない。
レックウザの身体が僅かに持ち上がった。
「……レックウザ」
日廻は思わずその名を呼ぶ。太い首が震え、石の海を擦る。起き上がろうとしているのだと気づいた。長い身体へ力を入れようとしたが、傷ついた身体が再び石の上へ落ちる。重い音が響き、砕けた石片が周囲へ跳ねた。
自分たちとは、石化の仕方が違う。
日廻たちを侵している灰色は、皮膚の上を這うように外側から少しずつ広がっている。けれど、レックウザが受けた傷はあまりにも深い。抉られた傷口から覗く灰色は、周囲へ広がるのではなく、体の内側へ根を張っているように見えた。
表面に見えている石化は少ない。それなのに、レックウザは身体へ力を入れることさえできない。
「…………」
それが分かった瞬間、日廻の指先が震えた。
ついさっきまで空を駆け、あの黒い球体を『ガリョウテンセイ』で貫いたポケモンが。
そのレックウザを、数度の攻防でここまで追い込んだ。
ゼットの背中越しに、黒紫の異形がいた。
無秩序に重なった結晶の隙間で、昏い虹色が蠢いている。自ら何かを仕掛けるでもなく、ただ立っているだけなのに、その頭部が僅かに動くたび、日廻の身体が勝手に強張った。
今さら怖ろしさを否定できるものではなかった。
第一形態だって恐ろしかった。何度も死ぬと思ったし、今ここに生きていること自体、偶然をいくつ重ねた結果なのか分からない。
けれど、第一形態にはまだ隙があった。
ゼットが耐え、ミュウが翻弄し、レックウザが空から道を穿った。全員でその僅かな綻びへ手を伸ばしたから、どうにか届いた。
目の前のものは、そのレックウザを見て、選んだ。
危険な相手だと判断して、動きを奪い。
逃げられなくしてから、叩き落とした。
そして今度は、こちらを見ている。
喉がひどく乾いていた。息を吸ったはずなのに胸の奥まで入ってこず、心臓ばかりがやけに大きな音を立てている。腹の底が冷え切って、今すぐフライゴンへ背を向けて逃げろと命じたくなる。
ミュウの光の中も安全な場所ではない。
指が硬い。感覚も薄い。強く握ったつもりなのに、本当に力が入っているのかさえ分かりづらかった。
震えも、止まらない。
それでも、離さなかった。
「ミュウ」
少し前方を飛んでいた桃色の身体が振り返る。
いつもなら、呼んだだけでも何かしら返してくる。首を傾げるなり、鬱陶しそうな顔をするなり、わざと知らんぷりをするなりする。
ミュウは黙ったまま、日廻を見ている。
「何ができる」
『……ロト?』
ロトムが先に反応した。
ミュウは、動かなかった。
「まだ何かあるんだろ」
日廻は第二形態から目を離さない。
「あいつを止めるために、今できることだ。何がある」
ミュウの青い瞳が、僅かに揺れた。
何を言っているのだと、そんな顔に見えた。
日廻も頭がどうにかなってしまったかもしれないと思った。
ゼット一体でどうにかなる相手ではない。
逃げた方がいい。
それが一番まともな判断なのかもしれない。
少なくとも、自分たちが完全に石になる前にここを離れれば、いずれ滅びるのだとしても、今ここで石になるよりは長く生きられる。
ミュウも、そう考えている。
日廻にはなぜか、それが分かった。
「……お前」
日廻は少しだけ息を吐いた。
あの時のことを、いつものように得意げに笑ったあの瞬間を、思い出していた。
「俺の傍にいてくれるんだろ」
その一言にミュウが目を見開く。
「だったら、最後まで付き合えよ」
命令するつもりはなかった。
戦えとも、命を懸けろとも言わない。
ただ、ミュウが自分を置いていかないというのなら。
「俺も、お前に付き合うから」
戦場には似つかわしくないほどの、奇妙な沈黙の時間だった。
ゼットが警戒を強める。その向こうで、ダークマターネクロズマが僅かに身体を動かすと、黒紫色の欠片がこぼれ、石の海へ落ちていく。
その音を聞きながら、日廻はミュウを待った。
やがて、声が返ってきた。
『――バカじゃないの』
「……え?」
それは、ロトムの声ではない。
耳から聞こえたのでもなかった。
意味が、直接頭の中へ落ちてきた。
女性の声に似ている気もする。けれど実際には音ではなく、ミュウが考えているものを日廻の頭が言葉として受け取っているだけなのだと、なぜか直感的に理解できた。
目の前のミュウが、呆れ果てた顔をしている。
『本当にバカ。どうして、この状況でまだそんなことを言えるのよ』
「……お前」
日廻は何度か瞬いた。
「喋ることできるじゃないか」
『喋ってないわよ!』
今度は明確に怒った。
『頭に直接伝えてるだけ! 口からあなたたちの言葉を出してるわけじゃないでしょう!』
「いや、俺からしたら大して変わらないけど」
『全然違う!』
「だったら最初からこれで――」
『面倒なのよ! いちいち頭の中へ繋ぐの! それに、こういうことするとあなたは私を質問責めにするでしょう!』
「……言葉が通じるなら、色んな事を聞きたいし」
『ほら!』
何をやっているのだろう。
日廻は一瞬だけ、本気でそう思った。
こんな状況で、ミュウと言い争っている。
けれど、ほんの少しだけ。
呼吸が楽になった。
「それで」
日廻は表情を戻す。
「何ができる」
ミュウも、今度は逸らさなかった。
『……もっと力を出すことはできる。あんたなら分かっているでしょ、最後の一回を使うのよ』
ミュウの視線が、日廻の左腕に巻かれたゼンブイリングへ落ちる。
『その力を全部守る方へ回せば、石になるまでの時間も延ばせるわ』
「それで、あいつを倒せるのか?」
返事はすぐには来なかった。
『……無理』
ミュウは誤魔化さなかった。
『守るだけなら、少し長く生きられる。それだけ。あれを倒せないままなら、結局いつか石になる』
「どのくらい延びる」
『知らない。数分かもしれないし、もっとかもしれない。でも結果は同じよ』
日廻は鼻から息を吐いた。
「それは嫌だな」
『でしょう?』
「ああ」
即答した。
「俺は帰りたい」
ミュウが日廻を見る。
これまでの、騒がしくも確かな暖かさがあった日常を思い出すような瞳で。
「こんなところで石像になるなんて真っ平ごめんだ。家に帰りたいし、まだやることもある。畑だって放ったままだし、まだあの写真を居間に飾れていない」
違う世界、違う生き物同士。
それでも、あの宝物のような証明を残したいから。
「ここで、逃げる気も終わる気も死ぬ気もない」
それだけは、はっきりと言えた。
世界を救うためなら死んでもいい、などと思ったことは一度もない。
異形の奴が怖い。
徐々に石化している指は痛い。
ここで全部放り出して、自分の家の布団へ潜り込めるのなら、どれほど楽だろうと思う。
それでも、ここで背を向ければ。
ミュウはどうする。
ゼットは。
傷ついて倒れているレックウザは。
今この世界を侵略してくる恐怖は。
向こうの世界で命を賭して戦っている人とポケモンは。
「だから」
日廻はミュウを見る。
「頼む。助けてくれ」
ミュウの目が僅かに細くなる。
「それと――」
今だけでも、恐怖を飲み込もうとした。一度だけ、息を吸った。
「お前を、助けさせてくれ」
『…………』
ミュウは長い間、返事をせずに日廻を見つめていた。
やがて、ゆっくりと第二形態へ顔を向ける。
『……あんた。私が、あの球を引きつけてた時にやったこと』
第一形態との戦いが、脳裏をよぎった。
『できるかしら』
「囮か」
『そう』
あまりにもあっさり肯定された。
『私が攻撃へ回るなら、誰かがあれの注意を散らさないといけない。ゼットだけに集中されたら、また同じになる』
「俺がやれば、お前とゼットは攻撃できる?」
『話を最後まで聞きなさい』
頭の中でぴしゃりと遮られた。
『一人じゃ無理。あんたたち全員でも、私がやった時と同じことができる保証なんてない』
「でも、注意は逸らせる」
『死ぬわよ』
「石になったら死ぬのも時間の問題だろ」
『そういう問題じゃない!』
強い感情が直接流れ込み、日廻は思わず顔を顰めた。
『あんたが何をしようとしてるか気づいたら、先に消しに来るかもしれない。フライゴンも、アブソルも、コジョンドも、もう限界でしょう。正気じゃないわ』
「……なら」
日廻は少しだけ口元を上げた。
「やれたら、できるんだな?」
『は?』
「俺があいつの注意を引けたら、お前とゼットなら攻撃できる。そういう話だろ」
『あんたね……』
「もしかして、できないのか?」
ミュウの青い瞳が細くなった。
明らかに、カチンときている。
『――私を誰だと思ってるの?』
「よし」
『よし、じゃない!もう!なんであの時の私はあんなことをこいつに言っちゃったのかしら!!』
ミュウの瞳から、さっきまでの諦めの色は消えていた。
日廻は左腕を動かす。
右手も完全には固まっていない。
なら、使える。
ゼンブイリングへ迷うことなく手を伸ばした。
「蓄えた力で使えるのは、これが最後だよな、ロトム」
一瞬だけ沈黙。
『……いけるロト』
「よし、いくぞ!」
決意と共にリングへ光が集まる。
身体の奥を引かれる感覚に、日廻は歯を食いしばった。
人間が触れていいものではない力が身体を通っている感覚だけは消えない。
それでも。
日廻はミュウを見る
ミュウは日廻を見る。
その表情には、もう迷いがない。
日廻はゼンブイリングを掲げた。
「
応えるように、ゼンブイリングが眩い光を放った。
幾重もの光輪が大きく広がり、無数の煌めきが渦を巻く。青、緑、赤――虹を砕いて散らしたような光。溢れ出した輝きが日廻の手の中へ集い、一つの光となる。握り込むことさえできないほど強く。
日廻はそれを、ミュウへ向けて放った。
光が宙を駆ける。
ミュウの頭上へ達した瞬間、弾けた。
直後、ミュウの体は巨大な結晶の中に消えた。
一つ、二つではない。眩い光が放つ結晶柱が次々と重なり合い、ミュウを呑み込んでいく。やがて巨大な結晶体だけが、白く輝きを放ちながらそこに残った。
「……っ」
日廻がその眩しさに目を細める。
結晶の内部で、光が膨れ上がった。
一瞬の静止。
そして――粉々に弾け飛ぶ。
無数の結晶片が煌めきを撒き散らし、砕けた光が辺り一面を埋め尽くす。その中心から、小さな影が姿を現した。
ミュウだった。
けれど、その姿は先ほどまでとは違う。
桃色の身体は磨き上げられた宝石のような硬質の輝きを纏い、その表面を幾色もの光が滑っていく。そして頭上には、自らの属性を象徴する巨大な結晶が、冠のように燦然と輝いていた。
石化の灰色とは正反対の、鮮烈で澄んだ光。
『テラスタル……!』
ロトムが息を呑む。
第二形態が新たな姿になったミュウに反応した。
黒紫の巨体がこちらを向き、身体の隙間から昏い光が溢れる。
直後、一直線の雷が走った。
「ミュウ!」
避けない。
その代わり、ミュウの頭上に浮かぶ結晶が
輝きの色が、形までもが、切り替わる。
『――ロト!?』
雷が直撃した。
爆ぜる光の中から、ミュウが飛び出す。
まともに受けたとは思えない速度で第二形態へ迫り、念力を叩きつけた。
巨体が僅かに傾く。そこへゼットが踏み込む。
『げきりん』が結晶の身体へ叩き込まれ、黒紫の破片が飛び散った。
第二形態が腕を振るう。
今度は黒を混ぜたような凄まじい火炎が、ゼットとミュウをまとめて呑もうと広がる。
ミュウの結晶が、また変わった。
『テラスタイプが変わったロト!?』
迷いなく飛び込む業火の中で、煌めく晴天の光が突き抜け、至近距離から『ハイドロポンプ』を放つ。第二形態の肩口に激流の放射がぶつけられ、結晶が何本も砕けた。
さらに別方向から黒い霧が爪の形を取る。
結晶が、三度変化した。
『また!?こんなの普通のテラスタルじゃないロト!』
ロトムの声が裏返った。
黒い爪と正面からぶつかり、弾く。
そのまま頭上の宝石が幾多の風船のようになったミュウが高く舞い上がる。
相手の攻撃に合わせて姿を変えている。
あらゆる技を扱えるミュウが、その異常なまでの器用さをテラスタルにまで持ち込んでいる。
けれど、無敵ではない。
第二形態の翼とも腕ともつかない巨大な結晶塊が振るわれた。
ミュウは『リフレクター』で受ける。
相性も何もない、純粋な質量を前に小さな身体が弾き飛ばされる。
「ミュウ!」
『平気!』
空中で姿勢を戻したミュウへ、今度は複数の光が降り注いだ。
異なる力が混ざっている。
合わせて結晶が変化するが、それでも全部は殺せない。
光がミュウの脇を掠め、テラスタルの輝きが激しく揺らいだ。
ゼットが割って入る。
続けた『げきりん』が第二形態へ突き刺さり、巨体の一部をまとめて吹き飛ばす。
だが、そこから炎が噴き出した。
黒い身体には不釣り合いなほど、美しい炎だった。
一瞬だけ、濁りのない鮮やかな色が傷口から溢れる。
次の瞬間、炎が黒く染まった。
燃え上がった火が結晶へ変わり、欠けた部分を埋めていく。
『……やっぱり。あの炎、ホウオウの力が混ざってる』
聞いたことのある名だった。
詳しく問い返す暇はない。
『それに、レジ――』
ミュウの言葉が途切れた。
第二形態の口元から放たれた光線を、ミュウが急上昇して避ける。
光はそのまま遥か後方の石の海へ突き刺さり、地形を抉り取った。
「っ……!」
爆風がここまで届く。
フライゴンが身体を傾け、日廻を庇う。
その瞬間、右頬に冷たい感覚が走った。
「……」
触れなくても、石化が進んでいることが分かる。
ミュウが戦闘へ力を回した分、こちらを覆っていた光は明らかに薄くなっていた。
そうすると決めた。
眼下のアブソルも、コジョンドも分かっている。
誰もミュウを呼び戻そうとはしなかった。
今もゼットとミュウが戦っている。
二体なら、戦えているように見える。
第二形態へ攻撃を届かせ、向こうにも防御や回避を強いている。
それでも押し切れない。
この異形が二体の動きを見切り、有効な反撃に転じるのも時間の問題だった。
そして、自分たちは。
「守られているだけじゃ、邪魔になる」
『日廻?』
ミュウが隙を作り、ゼットがそこへ攻撃を叩き込むことでどうにか今を繋いでいる。
そこへ自分たちまで加われば、ミュウは攻撃だけでなく、こちらを守ることにも力と意識を割かなければならない。
ただでさえ、守りの光は薄くなっているのに。
なら――自分だけならどうだ。
第二形態はこちらを認識している。
何度も指示を出し、攻撃を仕掛け、そのたびに視線を向けられてきた。
近くまで行けば、少なくとも無視はされない。
もっと近づけば、こちらへ意識を向けさせることができるかもしれない。
その間に、ミュウとゼットが攻撃できれば勝機を作れる。
近くの足場へ降り、そこから姿を見せる。
フライゴンまで危険な場所に残る必要はない。
避けられる保証などなかった。
それでも、傷ついた三匹をもう一度前へ出すよりは――。
「フライゴン。俺を、あいつの近くまで運んでくれ」
『ロト!?』
胸元でロトムが声を上げる。
フライゴンも、驚いたように首を振り向けた。
『何言ってるロト!』
「ただ近づくだけだ、あいつがこっちに少しでも意識を向けてくれればなんとかなるかもしれない」
『それで攻撃されたらどうするロト!』
「その時は、頑張って避けてみるさ」
『避けられなかったら!?』
「…………」
『日廻!!』
「分かってる」
答えられるはずがなかった。
まともに受ければどうなるかなど、考えるまでもない。
『本当にやるつもり?』
頭の中へミュウの声が響いた。
こちらを見てもいないのに、戦いながら気づいたらしい。
「やれって言ったの、お前だろ」
『一人で行けなんて言ってない』
「だから一人で行く。アブソルもコジョンドも傷だらけだ。フライゴンだって、ずっと俺を乗せて飛んでる」
『あの子たちだって、まだ動けるわ』
「だからって、動かしていい理由にはならないだろ」
返事はなかった。
日廻は眼下を見る。
「アブソル! コジョンド!」
二匹が顔を上げる。
「下がってろ! 俺が行く!」
それからフライゴンの背を摩る。
「お前も、俺を近くまで運んだら離れろ。いいな? ロトムも」
『…………』
「フライゴン?」
『ファイ』
短い返事だった。
通じているのか分からないが、日廻は頷く。
「頼んだぞ」
フライゴンが翼を打った。
そして、一気に加速する。
「……は?」
近くまで運ぶだけの飛び方ではない。
降りられそうな足場を通り過ぎ、第二形態へ真っ直ぐ向かっている。
「待て、フライゴン! お前は――ロトム、通訳!!」
『ファイッ!』
『「もうひと踏ん張りだよ、日廻」だってロト』
「いや、だから俺だけでいいんだって!」
下から白い影が跳んだ。
「お前も来るな!」
『フォウッ!』
『「見捨てない。お前はいつもそうだろ」って言ってるロト』
「…………!」
アブソルは止まらない。
崩れた石の海を、まだ動く四肢で蹴る。
速さはいつもの半分にも満たない。それでも前へ進む。
その横を、コジョンドが駆けた。
「コジョンドまで!」
『コジョッ!』
『「あなたが行くなら、守るために行くだけだ」ロト』
「やる必要ないだろ!」
退かせるために怒鳴っても三匹は退こうともしない。
その表情に一切の陰りなく、むしろ口元に笑みさえ浮かんでいる。
彼らは日廻の言葉を理解していないわけではない。
分かった上で、共に行く。
傷ついているから、自分が代わりに行く。
――それを、彼らにだけ言えるはずもなかった。
『日廻、どんな時も一緒に、ロト』
「……ほんと」
日廻は騎乗具を強く握った。
「勝手だな、俺もお前らも」
それ以上は言わなかった。
言えるはずもなかった。
「行くぞ!」
戦場に飛び込んだ。
ダメージなど、与えられなかった。
フライゴンの『りゅうのはどう』が結晶へ当たっても、僅かに表面を赤くさせる程度。アブソルの『あくのはどう』も、コジョンドの『はどうだん』も同じだった。
第二形態の頭部が動く。
こちらを見た。
「来た!」
光が集まる。
「フライゴン、右!」
フライゴンが急旋回し、砕けた石の波頭の陰へ滑り込む。
追ってきた光線を、岩塊が一瞬だけ遮った。直後にはその壁も砕け散り、噴き抜けた熱が日廻の頬を焼く。
その一瞬に、ゼットが――マントのように伸びた四本の器官と腕から零距離で『りゅうのはどう』を叩き込み、結晶をまとめて砕いた。
更にミュウのテラスタルの輝きが変わり、『リーフストーム』が傷口を更に拡大させる。
「……いける」
倒せる、という意味ではない。自分たちが注意を引けば、その僅かな間だけでもゼットとミュウの攻撃が通る。それだけで十分だった。
第二形態が振り向き、黒い霧が地を這うように伸びる。狙われたアブソルが横へ跳んだものの、避け切れなかった先端が後脚を掠めた。
『フオッ……!』
「アブソル!」
着地が崩れる。それでもアブソルは倒れず、灰色の広がった脚を無理やり動かして再び位置を変えた。
次に飛来した巨大な結晶片を、コジョンドが右腕で弾く。二つ目は身体を捻って躱した。だが、死角から迫った三つ目には間に合わない。
『コジョッ!』
左腕で受けた瞬間、鈍い音とともに灰色が肩口まで一気に駆け上がった。
「コジョンド!」
コジョンドがこちらを見た。
けれど、左腕はもう上がらなかった。石へ変わった腕を垂らしたまま、それでもコジョンドは右半身を前へ出す。
「下がれ! もういい、十分だ!」
もう、悲鳴に近い嘆願だった。
「だから――っ」
突然、視界の右側が暗くなった。
瞬きをしようとしてもその感覚がない。頬の感覚も薄れている。顎から這い上がっていた石化が目元へ達し、右目の視界を奪っていた。
『日廻!』
「大丈夫! まだ左は見える!」
反射的に返した声は、自分でも分かるほど僅かに籠もっていた。
「すまない!アブソルとコジョンドより前に!」
『ファイッッ!!』
異形の正面を横切る。
追ってきた光を、フライゴンが翼を傾けて躱そうとした。だが、光の端が両脚を掠めた。
灰色が一気に広がり、両脚が力なく垂れ下がった。飛んでいる間はいい。だが、もう着地して踏ん張ることはできないだろう。それでもフライゴンは翼を打ち、続けて伸びてきた黒い霧の下へ潜り込んだ。
その一瞬をゼットは逃さなかった。巨体が踏み込み、第二形態の肩を真正面から打ち据える。黒紫色の結晶がまとめて砕け、間髪入れずにミュウの光が傷口へ突き刺さった。
また、壊れた。
そして――また、直り始める。
「…………」
日廻は、そこで初めて攻防そのものではなく、その後に目を凝らした。
砕けた肩口へ、昏い虹色の光が集まっている。黒く染まった炎と混ざり合いながら、ばらばらになった結晶を別の形へ組み直していく。
先ほどゼットが腹部を抉った時もそうだった。
レックウザの『はかいこうせん』を受けた時も。
壊された場所が違っても、そこへ何かが流れ込んでいる。
――核。
その言葉が脳裏に浮かんだ。
以前、ゼルネアスから聞かされていた。
ダークマターと取り込まれたポケモンを引き離すための手掛かりになり得るもの。確かに存在しているはずなのに、肝心の本体がどこにあるのか分からないとされていたもの。
「ロトム!今の、追えるか!?」
『何を追えばいいロト!?』
「修復に使ってる力だ!」
日廻は片方だけになった視界で、再構築されていく肩口を睨んだ。
「ゼルネアスが言ってた核。もし、あそこから身体を直すための力を送ってるなら――」
言葉の途中で、ロトムの画面が切り替わった。
『……逆に辿れるかもしれないロト』
壊れた場所を見る必要はない。
そこへ流れ込んでくるものを、逆へ追えばいい。
『今までの修復データも重ねるロト!』
「急いでくれ!」
ロトムの声から余計なものが消えた。
恐怖でも驚きでもない。目の前の一つの問題へ全処理能力を集中させた時の声だった。
画面へ、これまで記録してきた映像と数値が次々に呼び出される。
『……駄目ロト。流れが複雑すぎる。今のデータだけじゃ途中で見失うロト』
「何回あれば分かる?」
『分からないロト。でも、別の場所を修復させれば絞れる!』
日廻は顔を上げた。
「ミュウ!」
返事はすぐ頭へ届いた。
『聞こえてるわ』
「悪い。もう少し壊してくれ」
『……本当に注文が多いわね、あなた』
「頼む!あとでなんでも作ってやるから!!」
ほんの僅かな間があって。
『――その言葉、一生忘れないわ!』
ミュウが加速した。
ゼットも二人のやり取りから意図を察したらしい。二体の攻撃が、それまでとは明確に変わる。
倒し切ろうとはしない。
壊し、直させる。
その流れを見る。
ゼットの一撃が第二形態の右肩を砕いた。
昏い光が走り、失われた結晶が組み直される。
続けてミュウが左脇腹を吹き飛ばす。
『こっちにも流入――違う、途中で合流してるロト!』
今度は翼を思わせる巨大な結晶をゼットがへし折る。
その反撃に、ゼットの腹部から石化が始まる。
再構築。そのたびに、ばらばらだった光の流れがロトムの画面上で重なっていく。
第二形態も黙って受けているわけではない。雷が走り、炎が空を焼き、黒い霧が幾本もの腕となって二体へ襲いかかる。ミュウの頭上に輝く結晶が目まぐるしく姿を変え、ゼットは真正面からそれを押し返す。
そして、その攻防を成立させるために日廻たちも止まれない。
フライゴンが第二形態の視界を横切り、光線を引きつける。アブソルはもう走れない四肢で、それでも一歩ずつ位置を変えて敵の目へ入り続けた。コジョンドも石になった左腕を垂らしたまま、残った右腕で飛来する小さな結晶を叩き落としている。
その間にも、日廻の顔を灰色が侵していく。
右側はもうほとんど何も感じない。口元まで硬くなり、声を出すたびに頬の内側が引き攣った。
それでも。
「もう一回!」
『ファイッ!』
第二形態の頭部がこちらを追う。
それでいい。
ほんの一瞬。
その一瞬を、後ろの二体へ渡す。
「ゼット!」
巨体が踏み込んだ。
真正面から叩き込まれた一撃に、第二形態の胸部が大きく陥没する。黒紫色の結晶が大量に飛び散り、奥から昏い光が噴き出した。
『来たロト!』
ロトムが叫んだ。
『今の流れ、さっきの腹部と同じところを通ってるロト!』
上空からミュウの攻撃が降る。
今度は胸部の少し下。
結晶が弾け、すぐさま修復が始まる。
ロトムの画面上で幾本もの流れが重なった。
胸部から腹部を隠すように、異形の腕が動く。
ほんの僅かな変化。
けれど、それだけで十分だった。
「――見つけた!」
『胸から腹部の奥ロト! どこを直しても、一度そこを経由してる! そこだけエネルギーの密度が全然違うロト!』
胸部から腹部にかけて、幾重にも重なった巨大な黒紫の結晶。
外から見ただけでは、他の場所と何も変わらない。
けれど、あの奥に。
「……核がある」
存在は、知っていた。
ようやく、場所が分かった。
『可能性はかなり高いロト!』
「ミュウ!」
『分かってる!』
異形の腕は、なおも腹部を庇っている。
「そこまで庇ったら、丸分かりだろ!!!」
日廻が叫んだ。
「フライゴン!」
『ファイッ!!』
加速した。
真正面へ。
『日廻、近すぎるロト!』
「見てくれなきゃ意味ない!」
第二形態の頭部がこちらを向き、結晶の隙間へ光が集まり始める。
まだ、日廻は退かない。
片目しか見えないせいで距離感が狂っている。どこまで引きつければ避けられるのか、もう正確には分からない。
それでも。
「今だッ……!」
第二形態の意識が完全にこちらへ向く。
フライゴンが急上昇した。
放たれた光線が腹の下を抜け、熱だけで翼膜が焼ける。巨体が大きく揺れたが、それでもフライゴンは上へ抜けた。
そして、その陰から、ゼットが現れる。
第二形態の横腹へ、巨大な身体ごと激突した。
異形が傾く。
腹部を庇っていた腕が外れる。
その一瞬を、ミュウは待っていた。
小さな身体が一直線に飛び込む。頭上の結晶が瞬時に姿を変え、眩い光が一点へ凝縮された。
『沈みなさい!!』
頭の中で、ミュウの叫びが弾ける。
『テラバースト』。
腹部を覆っていた巨大な結晶が、内側から爆ぜるように砕け散った。
黒紫色の破片が雨となって石の海へ降り注ぐ。
そして、その奥にあったものを、日廻は見た。
「……あれが」
周囲の結晶とは、明らかに違う。
身体の継ぎ目を走っている昏い虹色の光とも違う。
異質な輝きを抱えた丸い構造体が、第二形態の奥深くで脈打っている。
『エネルギー流、完全一致ロト!』
ロトムが叫ぶ。
『間違いない! 修復に使われてる力が、あそこへ集中してるロト!』
ようやく、手が届く場所まで引きずり出した。
その瞬間、第二形態が止まった。
ゼットを追っていた頭部が動く。
ミュウへ向いていた意識が外れる。
「……?」
日廻は、変化をすぐに理解した。
今までとは違う明確な視線。
力では到底及ばないはずの者たちが注意を引くたびに、ゼットとミュウの攻撃が通った。ついには、核を覆っていた結晶まで剥がされた。
今、その隙を作り続けていた自分たちへ、異形の視線が据えられている。
第二形態の中で、何かの優先順位が明確に入れ替わった。
核を晒した異形が、巨体を激しく捻った。
ゼットが押し退けられ、ミュウも振り抜かれた結晶の腕を避けて上空へ退く。二体が攻撃へ戻るより先に、異形の頭部が日廻たちへ向いた。
『逃げなさい日廻!!!』
「フライゴン!」
『ファイッ――!!』
まだ、飛べる
だが、逃げ切れない。
フライゴンは旋回するだけでも高度が落ちる。
地上の二匹も、攻撃の範囲から抜け出せない。
ミュウとゼットは、腹部を破壊した直後。
第二形態の身体に、光が集まり始める。
『まずいロト……!』
今までより大きい。
複数の結晶の隙間から溢れた力が一つの場所へ集まり、昏い虹色を中心に、雷も炎も黒い霧も呑み込みながら膨れ上がっていく。
間違いなく狙いはこちら。
「アブソル!」
日廻は叫んだ。
「コジョンド!」
二匹を見る。
逃げろ、と。
言おうとした。
無理だ。
「……くそ」
ミュウとゼットがこちらを向いた。
二体が動くが間に合わない。
第二形態の前方が白く染まった。
日廻は騎乗具を握る。
硬くなった指が、うまく閉じない。
最後に見たのは敵ではなかった。
フライゴンの首筋。
眼下のアブソル。
片腕が石になっても動くコジョンド。
「――っ」
その直前、視界の横から。
何かが飛んできた。
「……は?」
それは、波の形を残したまま引き剥がされた巨大な岩盤だった。
石の海の一部が、地面から丸ごと抉り取られ、凄まじい速度で空を飛んでくる。
『ロトォ!?』
岩盤と光が正面から衝突した。
衝撃と共に世界が白く染まる。
「っ――!」
岩盤が粉砕された。
数え切れない石片が爆風とともに周囲へ弾け飛び、第二形態の攻撃もそこで散らされる。
相殺された。
必殺に見えた。
直撃すれば助からないと思った、あの一撃が。
「何が……」
日廻には理解できない。
誰が、あれだけの岩盤を。
『日廻!』
ロトムが叫ぶ。
『来るロト!!』
「何が!?」
『向こう!!』
砕け散った岩盤の向こう。
粉塵の中で白いものが見えた。
岩の一部だと思った。
それは動いていた。
大木のような巨大な腕。
短く太い脚。
苔のような緑を纏った、白い巨体。
その大きさからは想像もできない速度で、走っている。
「……っ!?」
止まらない。
白い巨体が、そのまま真正面から激突した。
空気が爆ぜて黒紫色の巨体が後ろに吹き飛んだ。
あれほど巨大な第二形態が、地面を削り結晶を撒き散らしながら押し退けられていく。
白い巨人は追撃せず、その場で止まる。
日廻たちと第二形態との。
ちょうど間に。
巨人は振り返らない。
日廻たちへ顔を向けることすらしなかった。
ただ、背中を向けている。
広い、巨大な白い背中だった。
傷ついた日廻たちを、その身体そのもので覆い隠すように。
第二形態の前へ壁のように立っている。
やがて、巨人の両腕が広がった。
『レェッジィッギィッガァァスゥッッッ!!!!!』
雑音のように聞こえる咆哮が、石の海を叩きつけた。
その背中を見つめながら、ロトムは何も言わなかった。
図鑑を開かない。
分析もしない。
名前を復唱することさえしなかった。
『…………』
「ロトム?」
『……来て』
声が震えていた。
『来て、くれたロト……』
レックウザが来た。
そして、この巨人が。
この世界で何が起きているのか、どこまで伝わっているのかも分からない。
向こうの世界がどれほど危機的な状況なのかも知ることはできない。
誰かが助けに来る保証など、最初からどこにもなかった。
それでも、来てくれた。
『……ありがとう』
一度、声が詰まった。
ロトムの身体が小さく震える。
『ありがとうロト……!』
その声を背に受けながら。
レジギガスは一歩も退かず、ダークマターネクロズマの前に立っていた。
こちらへは、最後まで振り返らなかった。
ただ、その大きな背中だけが、ここから先へは、絶対に行かせないと告げていた
※ミュウの特殊なテラスタルについて
本作独自の設定です。作中のミュウは、その変身能力とあらゆる技を覚える特徴を応用し、テラスタルを維持したまま自身のテラスタイプを切り替えることができます。
ゲーム的には「へんげんじざい」や「リベロ」に近いイメージですが、技に応じて変化するのではなく、ミュウ自身が任意に切り替えています。これがゲームで実装でもされた瞬間、対戦環境は終わります。