森の奥へ進むにつれて、足元の感触が変わっていった。
日本側の杉林に積もっていたのは、細く乾いた葉だった。
こちら側では、日廻の手のひらよりも大きな葉が幾重にも重なり、踏むたびに湿った音を立てて沈む。
頭上を覆う木々も、日本の山にあるものとは違う。
遠くから聞こえる鳴き声も、一つとして日廻の知る動物のものではなかった。
ただ、ここにいるものすべてが無条件に自分を襲うわけではないと、すでに知っている。
未知であることと、敵であることは同じではない。
昨日、アブソルを見ただけで敵だと思い込んだ自分が、そのことを教えていた。
『チラッ』
前方でチラーミィが振り返る。
立ち止まることなく、日廻たちがついてきているのを確認すると、再び走り出した。
小さな体は草の間へ隠れ、耳だけが時折見える。
「見失うなよ」
『誰に言ってるロト?』
「勿論、おまえにだ」
『ボクは高性能な追跡機能を持ってるロト!』
「さっき位置情報が使えないって騒いでただろ」
『目視追跡はできるロト!』
「それを高性能とは言わない」
ロトムが不満そうに画面の口を尖らせる。
日廻はそれを横目で見ながら、足元に張り出した木の根をまたいだ。
その隣を歩くアブソルの前足が、わずかに沈む。
痛みを隠そうとしているのか、すぐに体勢を立て直した。
「やっぱり戻るか」
アブソルは前を向いたまま、歩みを止めない。
「聞くだけ無駄か」
『かなり頑固なアブソルロト』
「アブソルは、みんなこうなのか」
『個体差はあるロト。でも、人前へ出てくるアブソルは誤解されることが多いロト』
その言葉に眉を細めて聞き返した。
「誤解?」
『災害の前に姿を現すから、アブソルが災害を起こしてると思われることがあったロト』
日廻の足が、ほんのわずかに遅くなった。
隣を歩く白い横顔を見る。
危険を察知し、それを知らせるために人前へ出る。
その結果、危険を連れてきた存在だと思われる。
昨日の日廻も同じだった。
血に濡れた姿を見ただけで、傷ついたポケモンたちを襲った側だと決めつけた。
その実態は、自身の傷も厭わずに守ろうとした誇り高きポケモンだった。
「……悪かった」
誰に向けた言葉かを説明する必要はなかった。
アブソルの視線が一度だけ動く。
許したのか、そもそも気にしていないのか。
日廻には分からないが、歩幅は変わらなかった。
『図鑑には、その辺りの情報も残ってるロト』
「全部壊れてるわけじゃないんだな」
『残ってる部分と、消えてる部分があるロト。名前だけ残ってるポケモンもいるし、姿しか残ってないポケモンもいるロト』
「おまえの画面に出ていた情報は?」
『アブソルの基本情報ロト。でも、榊原には読めなかったロト』
「学校へ行ってないからな」
『やっぱり行ってないロト!?』
「冗談だ」
『紛らわしいロト!』
からかわれたことへ憤慨するように、ロトムの端末が上下へ大きく揺れた。
『チラッ!』
少し先からチラーミィが鳴いた。
一本の低い木の前で立ち上がり、両腕を大きく振っている。
枝には、丸い青色の実がいくつもなっていた。先ほどロトムが画面に表示していたものと同じ形だった。
『オレンのみロト!』
「これが、材料か」
『そうロト! ポケモンが食べると体力の回復を助けるきのみロト!』
「そのまま食べてもいいのか」
『食べられるロト。でも、キズぐすりに使うなら成分を抽出して濃度を調整するロト』
試しに青い実を一つ手に取り、表面を確認する。
見た目は果物に近い。
皮は滑らかで、指で押すとわずかに弾力があった。
鼻を近づけると、柑橘類に似た匂いがする。
「……チラーミィ、食べ頃のものを選べるか?」
この世界の木の実をよく知っているらしく、チラーミィは大きく頷いた。
枝の周囲を歩き回り、一つずつ実へ鼻を近づける。
時折、前足で軽く押し、状態を確かめていた。
やがて一つを選ぶと、両腕で抱えて日廻へ差し出した。日廻はそれを受け取り、籠へ入れる。
「居てくれて助かる」
『チラッ!』
耳が勢いよくたった。
褒められたことは分かったらしい。
チラーミィは片手を胸へ当て、得意げに鼻を鳴らした。
「ロトム、何個必要だ」
『試作一回つき、三個から五個ロト、出来るだけたくさん欲しいロト』
「……全部採るのは駄目だな」
その言葉に日廻はオレンの実がなっている木を見上げた。
『どうしてロト?』
「ここで暮らしているやつらの食べ物だろ」
枝にはまだ多くの実がなっている。だが、この木を利用しているのがチラーミィだけじゃない。
食料を持たない日廻たちが、治療のために必要な分を分けてもらう。
そう考えるべきだった。
「二十個までにするぞ。足りなかったら、また来る」
『また採りに来るのは危険ロト』
「だからって全部持って帰ればここにいるやつが困る。最悪の場合、飢えたやつがこっち側の世界に出ていくかもしれない。俺の畑ならまだいいが、別の場所なら捕まえられるか、もっと酷い扱いを受ける。俺たちが知らないところでな」
ロトムは何も言わなかった。
背面のレンズが、日廻の手と木を交互に映す。
やがて画面の端に、小さな文字列が流れ始めた。
『記録するロト、必要以上に採取しないロト』
「俺の情報を図鑑へ入れるな」
『現地協力者の行動記録ロト!』
「いますぐ消せ」
『嫌ロト』
チラーミィによって選別された二十個の実を籠に入れたところで、手を止めた。
「次は薬草だったな」
『そうロト!』
ロトムの画面へ、次の目的である太い根を持つ植物が表示される。
「チラーミィ、頼む」
チラーミィは画面へ顔を近づけた。
続けて右から見る。
首を傾げて左から見る。
画面の裏まで覗き込もうとする。
「裏には何もないぞ」
『チラ……』
今度は、すぐに反応しなかった。
耳を伏せ、何かを思い出そうとするように目を細める。
日廻は急かさなかった、知らないなら、知らないでいい。
しばらくするとチラーミィの耳が勢いよく立った。
『チラッ!』
小さな体が走り出す。
「思い出したのか」
『そうみたいロト!』
日廻たちは再びそのあとを追った。
森の奥へ進むにつれて、地面は少しずつ傾斜を増していき、日廻は足を置く場所を確かめながら進んだ。
先ほどまで隣を歩いていたアブソルが少し前へ出ていた。
道が険しくなるにつれて、日廻の進行方向を先に確かめるようになっている。
「足は大丈夫か」
アブソルから返事もしない、振り返りもしない。
『アブソルは、榊原を守るつもりロト』
「…俺より自分の傷を気にしてほしいんだけどな」
『守る側は、自分の傷を後回しにしがちロト』
その言葉に心当たりがあった。
兄もそうだった。
生活費が足りないとき。
学費の支払いが重なったとき。
日廻が体調を崩したとき。
大丈夫だと言いながら、自分のことを後回しにしていた。
自分のためだけでなく、他の人まで助けようとした。その結果がどうなったのかを、日廻は知っている。
「守る側が倒れたら、残された方が困るんだよ」
アブソルの足が、一瞬だけ止まったが直ぐに歩き始める。
聞こえなかったわけではない。解したかどうかは分からない。
それでも、言葉は届いたのは、その様子を見れば分かった。。
だから、それ以上追及しなかった。
やがてチラーミィが、斜面の途中で足を止めた。
木々の根元、日光がほとんど届かない湿った土に、細長い葉を持つ植物がいくつも生えている。
「見た画像と同じだな」
『成分を調べるロト』
ロトムが植物へ近づき、背面のレンズを向ける。
画面に数値と波形が表示された。
『記録が欠けてるから全部は比較できないロト。でも、薬効成分らしいものは検出されてるロト』
「毒の危険性は?」
『今の範囲では見つかってないロト』
「絶対に安全ではない」
『絶対とは言えないロト』
日廻はその植物の前へしゃがみ込んだ。
「正直なのは助かる」
『信用できないロト?』
「分からないことを分からないと言うやつの方が、知ったふりをするやつより信用できる」
ロトムの画面が一度だけ明滅した。
その反応が何を意味するのか、日廻には分からない。
日廻は鎌を使わず、持ってきた小さな移植ごてを取り出して、植物の周囲へ差し込み、根を傷つけないよう少しずつ土を崩す。
『根を使うロト』
「全部必要か」
『太い部分を少しだけでいいロト』
日廻は必要な部分だけを切り取る。
日廻は比較用に、薬草の根元の土も袋へ少量入れた。
残った根と株は、元の場所へ戻した。
周囲の土を寄せ、軽く押さえる。
『やっぱり、全部持っていかないロト』
「根まで全部取ったら枯れるだろ」
『また必要になるかもしれないロト』
「だから残すんだよ」
ロトムのレンズが、植え直された薬草へ向く。
『次に来るときも、ここにあるロト?』
「うまく根づけばな」
『増やすこともできるロト?』
「同じ土を用意できれば……もしかしたら、俺の畑でも普通に育つかもな」
『栽培するロト!予定として記録するロト!』
「勝手に予定へ入れるな」
日廻が立ち上がろうとした、そのときだった。
アブソルが低く唸った。
先ほどまで静かだった赤い瞳が、斜面の上へ向けられている。
チラーミィの耳も伏せられた。
ロトムが動きを止める。
「何かいるのか?」
木々の間に、動くものは見えない。
だが、アブソルの体は明らかに緊張している。
敵を見つけたときとは違う、何かが起こる前の、張りつめた姿勢。
アブソルが日廻の服の裾を噛んだ。
痛みはなく、強くはない。
だが、明確に後ろへ引いている。
「下がれってことか」
返事の代わりに、アブソルがもう一度裾を引く。
日廻は籠を持ち上げ、チラーミィへ手を伸ばした。
「こっちへ来い、チラーミィ」
チラーミィが日廻の腕へ飛び込む。
抱き上げた直後、斜面の上から小石が一つ落ちてきた。
乾いた音を立てて、日廻の足元を転がる。
それに続き、土の擦れる音。
細い木の根が、ぴん、と引きちぎられた。
『崩れるロト!』
「離れろ!」
日廻は斜面から横へ走った。
腕の中のチラーミィを抱え込み、落石から庇う。
ロトムが青白い光を残してその後を追う。
アブソルは一度斜面を見上げ、日廻たちが退いたことを確かめてから地面を蹴った。
轟音ともに土砂が崩れ落ちる。
圧倒的な量の土砂が、先ほどまで薬草の生えていた場所を呑み込んだ。
日廻は太い木の陰へ身を寄せる。
背中へ細かな土が当たった。
腕の中でチラーミィが小さく震えている。
「大丈夫だ」
自分へ言い聞かせるように呟く。
「もう止まる」
数秒後。
音が消えた。
葉の間から落ちる土だけが、かすかな音を立てている。
「怪我はないか」
『チラ……』
チラーミィの状態を確認する。
体に傷はない。耳も普段どおり動いている。
日廻は息を吐いた。
次にアブソルを探す。
少し離れた場所で、白い体が立っている。
「アブソル」
名前を呼ぶと赤い瞳が日廻へ向いた。
足に巻いた包帯に、赤い染みが広がっている。
崩落を避けたとき、傷へ負担がかかったのだろう。
日廻はチラーミィを地面へ下ろし、アブソルへ近づいた。
「見せろ」
アブソルは顔を背ける。
「今、隠しても意味がない」
日廻が前足へ触れようとすると、アブソルは一歩下がった。
「怒ってるわけじゃない。おまえがいなかったら、俺たちは巻き込まれてた」
アブソルの視線が、チラーミィとロトム、最後に日廻へと向く。
「助かった、ありがとう」
日廻は赤い瞳を見つめて、まっすぐに伝えた。
それでも前足を見せようとはしない。
「だからこそ、無理をするなって言ってる」
返事がなくても続けた。
「守ってくれたことは分かってる。でも、怪我が悪化したら意味がない」
アブソルはしばらく観念したように、ゆっくりと傷ついた前足を前へ出す。
日廻はしゃがみ込み、包帯の状態を確認した。
傷が完全に開いたわけではない。
だが、新しい血が滲んでいる。
「帰ったらすぐに治療するぞ」
『キズぐすりを作るロト!』
「ああ」
日廻は包帯の上から清潔な布を重ね、軽く圧迫した。
アブソルは痛みに耐えるように目を細めたが、足を引かなかった。
「これ以上、何かが起きる前に戻るぞ」
『水がまだロト』
日廻は、ロトムを見る。
『きれいな水が必要ロト。川の水でも作れるけど、濾過の負担が増えるロト』
「濾過水だったか、この世界の水じゃないといけない条件はあるか?」
『……確かにこの世界の水である必要はないロト。ポケモンが飲める程度に清潔なら大丈夫ロト』
脳裏に徹夜で介護したポケモンたちが過る。
彼らに飲料水を配ったが、水の匂いを慎重に確かめたあと、問題なく飲み始めていた。
「濾過水はこっちの世界の水で試す。ダメだったら直ぐにこっちで採取する」
『………分かったロト』
帰り道では、日廻がアブソルの歩調へ完全に合わせた。
傷ついた足へ体重を乗せるたび、アブソルの肩がわずかに揺れる。
『アブソルは自分で歩くつもりロト』
「倒れでもしたら、無理やり背負う」
いつもと変わらない表情しながらも、少しでも距離感が近づけば、唸るだろう。
だから、日廻は何もしない、それがアブソルとの付き合い方だと思ったからだ。
それから何も言わず、歩き続けた。
巨大な穴を抜け、甘い草木の匂いが消え、日本の湿った杉林の空気へ戻る。
日廻は一度だけ振り返った。穴の向こうには、今まで歩いてきた森が広がっている。
斜面の下へ続く、獣道のように細い道。
どれも、穴へ入る前に見たものと同じだった。
日廻は一度だけ頷き、それから背後を振り返る。
山肌に開いた巨大な穴、その向こうには、先ほどまで歩いていたポケモンたちの世界が広がっていた。
一見すれば、入ったときに見た場所と変わらない。
だが、日廻は目を細めた。
「ロトム」
『何ロト?』
「……向こうの場所が変わっている」
ロトムの動きが止まった。
すぐには返事をせず、穴の向こうへ背面のレンズを向ける。
それに日廻は穴の向こうに指差す。
「入ったとき、正面には幹が二つに分かれた木があったが、今はない」
代わりに見えるのは、根元が大きく持ち上がった一本の太い木だった。
森全体の雰囲気も大きくは変わらない。だが、同じ場所ではない。
「右側にあった岩もない。地面の傾きも少し違う」
『解析するロト』
思い返せば昨日の帰りは、来た道を正確にたどったわけではなかった。日廻には分からない何かを感じ取るように、チラーミィが先導し、いつの間にか穴へ戻っていたのだ。
日廻の頭に、先ほど通ってきた道が浮かぶ。
オレンのみの木、薬草が生えていた斜面、土砂崩れの跡、目印にしていた木や岩。
次に入ったとき、それらすべてが別の場所へ移っているのなら、今回覚えた道は役に立たない。
薬草を植え直した場所へも戻れない。
帰り道を覚えることにも意味がなくなる。
それどころか、森そのものが形を変え続けるのなら、入った直後に道を失う可能性さえある。
『たぶん、榊原の考えてるものとは違うロト』
「違う?」
『森そのものが動いてる……可能性は低いロト』
日廻はロトムへ視線を向けた。
「分かるのか」
『ここへ来るまで、周囲の地形を記録してたロト』
「お前もか」
『穴に入ってからずっとロト。外部通信も位置情報も使えなかったから、移動方向、歩いた距離、高低差、見つけた木や岩を端末の中へ保存してたロト』
ロトムの画面に、一本の線が表示される。
穴を通ってから、オレンのみの木へ。
そこから薬草の生えていた斜面へ。
さらに土砂崩れを避け、戻ってくるまでの経路。
文字は読めなくても、移動の軌跡らしいことは日廻にも理解できた。
『ボクたちが歩いてる間、記録した木や斜面の位置関係はほとんど変わってないロト』
「土砂崩れ以外は?」
『そうロト。森の地形そのものが動いてるなら、行きと帰りで記録がもっと大きくずれるはずロト』
ロトムの画面が切り替わる。
簡略化された森の図。
その中に、複数の点が表示される。
点の一つだけが、わずかに位置を変えていた。
『動いてるのは、森じゃなくて出口の方ロト』
「ポケモン世界側の?」
『そうロト』
ロトムが穴へ近づく。
『こっち側の入口は、同じ場所に固定されてるロト。でも、ポケモン世界側の出口は、一定の範囲内で位置が変わるみたいロト。少なくとも今回は、植物や地面の成分が似た範囲に収まってるロト』』
「入った場所と、出た場所が違う?」
『そうなるロト』
「でも、俺たちは同じ穴を目指して戻ったはずだ」
『入口を探して戻ったというより、戻る途中に出口が見つかったロト。ボクも驚いたけど、チラーミィは出口が分かるロト?』
『チラッ!』
その返事に驚愕と納得が頭を痛めた。
なぜ、アブソルは常に周囲を警戒するのか。
なぜ、元気が形になったようなチラーミィは常に先行していたのか。
そう考えれば、昨日からの二匹の行動にも説明がついた。
「ロトム、確認していなかったがチラーミィはそういうことが出来る特性でもあるのか?」
『……図鑑では確認できないロト』
「またデータが破損しているのか?」
『否定はできないロト……けどボクたちの世界もポケモンの全部が分かっているわけじゃないロト』
「じゃあ、こいつだけができる可能性もある?」
『あるロト。元々あの場所で生息していたから場所を覚えたのか、匂いや空間の変化を感じてるのか……今は判断できないロト』
日廻は足元のチラーミィを見る。
期待するような黒い瞳が、まっすぐこちらを見上げていた。
「……チラーミィ、家に着いたら腹を壊さない程度にトマト食べていいぞ」
『チラッ!!!』
これまでで一番大きな声を上げ、チラーミィが日廻の胸へ飛び込んできた。日廻はその小さな体を受け止め、抱えたまま帰り道を歩き始める。
背後では、日本と異世界をつなぐ穴が、入ったときと同じ場所に静かに開いている。
その向こうに見える景色だけが、先ほどとは少し違っていた。
最後章はある程度決めたからあとはその過程をどうするか、だけど。
か、書き切れるかな……