罅は、一瞬でコア全体へ走った。
メガアブソルの刃が抜けたあとに残された一本の黒い線。そこから枝分かれするように亀裂が広がり、昏い光を脈打たせていた構造体を端から端まで貫いていく。
コアが、割れた。
音は、不思議なほど小さかった。
あれほど巨大な異形を動かし、砕かれた身体を何度も作り直してきたものが壊れたというのに、響いたのは硬い何かが割れる乾いた音だけだった。
けれど、変化はすぐに現れた。
ダークマターネクロズマの身体が、大きく揺らぐ。
アブソルを迎撃しようとしていた腕が止まり、ミュウへ伸びていた黒い霧が形を失った。ゼットを押し返していた尾も力なく垂れ下がり、巨体の継ぎ目を満たしていた昏い虹色の光が、端から一つずつ消えていく。
「……っ」
日廻は息を止めたまま、それを見ていた。
まだ分からない。
まだ、終わったとは限らない。
何度も壊した。何度も倒せると思った。そのたびに、目の前のものは形を変えて立ち上がってきた。
だから、信じられなかった。
第二形態の胸部から、黒紫の結晶が一つ剥がれ落ちた。
続いて肩。腕。巨大な翼とも爪ともつかない異形の部位からも、次々と結晶が崩れていく。今までなら傷口へ集まっていたはずの光は現れず、ホウオウのものと思われる美しい炎も噴き上がらない。
崩れたものが、戻らない。
『……修復反応、ないロト』
ロトムの声が震えていた。
ゼットが、掴んでいた腕をゆっくりと離す。
支えを失った巨体が傾き、そのまま石の海へ崩れ落ちる。あまりの質量に大地が震え、積み重なった黒紫の結晶が互いにぶつかりながら砕けていった。
コアを切り裂いたアブソルは、崩れる胸の外殻の間から、残っていた勢いのまま外へ投げ出された。
だが、もう着地できる脚ではない。
白い身体が落ちかけたところへ、淡い光が絡みついた。
『……まったく日廻に影響されすぎよ』
ミュウだった。
テラスタルの輝きを纏ったまま、念力でアブソルの身体を受け止める。勢いまでは殺し切れず、石の海すれすれをしばらく滑るように運ばれてから、ようやく地面へ降ろされた。
その頃には、メガシンカの光も消え始めていた。
翼を思わせる白い毛が縮み、本来の姿へ戻っていく。
「アブソル……!」
『フォウ……』
遠くからでも疲労がはっきりと見える。
それでも、返事があった。
生きている。
「ロトム、解析をしてくれ」
『もうやってるロト……!』
返事より前に、画面を幾つもの数値が走る。
『大規模攻撃反応……なし。修復反応もなし。コアのエネルギー値、急速に低下……』
「石化は」
『待つロト』
日廻は自分の左腕を見た。
灰色は残っている。顔の右半分も、失われた視界も戻ってはいない。
だが、さっきまで確実に広がっていたものが、動いていなかった。
眼下のコジョンドも、自分の石と化した左腕を見ている。アブソルの四肢を覆った灰色も、それ以上は伸びていない。レジギガスの指先から腕へ這っていた石化も、途中で止まっていた。
『……止まってるロト。石化反応、停止してるロト』
ロトムの声が小さくなる。
『コア反応も……消失』
日廻は、もう一度ダークマターネクロズマを見た。
動かない。黒い霧は薄れ、石の海を覆っていた圧迫感まで少しずつ消えていく。
ゼットも、追撃しなかった。
傷ついた巨体を地上へ置いたまま、崩壊していく異形を見ている。戦闘態勢を完全に解いたわけではない。それでも、振り上げていた腕はゆっくりと下ろされていた。
レジギガスも同じだった。
石化した指を握り込もうとして、途中で止める。その巨体から僅かに力が抜け、片膝が石の海へついた。
コジョンドも右腕を下ろした。
フライゴンの翼からも、張り詰めていた力が抜ける。
日廻も、騎乗具を握っていた手から少しだけ力を抜いた。
指が痛いのかどうかも、もうよく分からない。
石化したところは冷たく、残ったところは震えている。身体のあちこちが重く、息をするだけで胸の奥が軋む。
それでも、全員生きている。
遠くには、傷ついたレックウザもいる。
誰も、いなくなっていない。
「……やった、のか」
声に出しても、まだ実感がなかった。
『……たぶん』
声が詰まった。
ロトムは一度だけ画面を明滅させる。
『勝った……ロト』
「…………そっか」
息が漏れた。
笑ったのかもしれない。
日廻自身にも分からなかった。
ただ、身体の奥に張り詰めていたものが切れ、騎乗具の上に身体を預ける。
ミュウの頭上でも、テラスタルの結晶が淡く瞬いた。
役目を終えたことを悟ったように、その輪郭が光へほどけていく。全身を覆っていた宝石のような輝きも薄れていく。
いつもの桃色が戻った。
その顔の、半分ほどを除いて。
「……お前、顔」
頬から片方の目元にかけて、灰色が広がっていた。
ミュウは日廻の傍へ浮かんでくると、動く方の目を細めた。
『あなたに言われたくないわよ』
「……それもそうか」
日廻は笑おうとして、頬がうまく動かないことに気づいた。
口の片側だけが持ち上がる。それを見たミュウの口元も、同じように歪んだ。
『変な顔』
「お互い様だろ」
小さく息が漏れた。
ミュウも肩を揺らし、それが傷に響いたのか、すぐに顔を顰める。
笑っている場合ではない。
どちらも、ひどい有様だった。
それでも、日廻はもう一度笑った。
目の前で、ミュウも笑っていた。
『……疲れた』
「ああ。帰って落ち着いたら、祝勝会でも開くか」
『私の好きなもの、全部作りなさいよ』
「力の限り尽くさせていただきます」
『よろしい。楽しみにするわ』
日廻はようやく、ゆっくりと息を吐いた。
返ってきた言葉に、ほんの少しだけいつもの調子が戻っていた。
日廻は目を閉じそうになって、やめた。
『……ロト?』
ロトムが声を漏らした。
『何か……出てくるロト』
崩れた異形の中心。
二つに割れたコアの間から、何かが漏れていた。
綺麗な光だった。
最初は、細い筋が一本。それがゆっくりと上昇し、暗い空間の中へ溶けていく。続いて二つ、三つ。色も形も違う光が、崩れた黒紫の結晶の隙間から次々と浮かび上がってきた。
「……なんだ?」
ただの光ではない。
巨大な翼を広げたような影。
四足の獣を思わせる輪郭。
月そのものを翼へ変えたような、異様に大きな影。
鮮やかな羽を持つ鳥のようなものもあった。
『……これ、取り込まれてたポケモンたちの……?』
ロトムの声が震える。
だが、恐怖とは違った。
「戻っているのか……?」
思わず、そう口にしていた。
光の輪郭は完全な肉体ではない。
向こう側が透けている。触れれば消えてしまいそうなほど淡く、影というよりも、そこに存在していた何かの残響だけが形を残しているように見えた。
ダークマターネクロズマの中から、外へ出ている。
レジギガスが立ち上がった。
光の群れの中に、細い胴から、稲妻の束を思わせる巨大な両腕を左右へ伸ばした奇妙な影。
その隣には、巨大な竜の頭部を思わせる輪郭。
『…………』
レジギガスの身体の模様が、一度だけ強く光った。
石化した手が上がる。
届くはずもない距離。
それでも、二つの影へ向けて。
「仲間、なのか?」
返事はない。ただ頭部の点滅がまるで彼らの名前を呼んでいるように見えた。
あの中に閉じ込められていたものがようやく解放されている。
それなら、助けられたのかもしれない。
倒すだけではなく、ゼルネアスが言っていたように。
その希望を、初めて現実のものとして感じた。
そして、最後に。
もう一つの光が浮かび上がった。
「……あれは、たしか」
青い巨体と四本の脚。
胸元に輝く結晶。
日廻にも、その姿には見覚えがあった。
この石の海へ落ちてきて、最初に助けたポケモン。
「
ミュウが振り返った。
それまで疲労を隠そうともしていなかった顔から、一瞬で色が消える。
『……まさか』
「ミュウ?」
隻眼になった青い瞳が、ディアルガの影を見つめている。
『ディアルガの光まで、もう奪っていたの……?』
その瞬間、音が消えた。
「…………?」
落ちていた結晶片が空中で止まっている。
崩壊した第二形態から剥がれ、石の海へ向かっていたはずの無数の破片。それらが、地面へ届く寸前で静止していた。
舞い上がった粉塵も、薄れていた黒い霧も。
外へ浮かび上がろうとしていた、伝説たちの光さえ。
すべてが、
『……うそでしょ』
ミュウの意味が届く。
次の瞬間。空中に止まっていた結晶片が、上へ動いた。
落ちるのではない。戻っていく。
地面に散らばっていた破片まで浮き上がり、砕けた場所へ吸い寄せられていく。石の海へ崩れ落ちていた黒紫の巨体が、見えない糸で引かれるように持ち上がった。
「ロトム!?」
『分からないロト! これ……何が――』
粉々になっていた結晶同士が繋がり、消えていた昏い虹色の光が、消えた時とは逆の順序で一つずつ灯っていく。
レジギガスが手を伸ばした。
だが、先ほどまで外へ向かっていた二つの影が、その手から遠ざかった。
崩れた巨体の中へ戻されていく。
『レェェッジィィ――!』
巨人が手を伸ばすが届かない。
ホウオウらしき翼が消える。
巨大な獣の輪郭も。
月の翼も。
次々と、外へ出ようとしていたすべてが、逆に異形の内部へ吸い込まれていく。
「待て……」
目の前で起きていることに日廻の喉から声が漏れた。
「待てよ……!」
何に向かって言っているのか、自分でも分からない。
最後に、ディアルガの影が止まった。
青い輪郭が、淡く揺れる。
次の瞬間には、それも戻った。
崩れていた胸部が閉じていく。
その奥、二つに割れていたはずのコアが動いた。
離れていた断面が近づく。
アブソルが刻んだ黒い一閃が。
端から、何もなかったかのように。
消えていく。
『違う……』
ロトムが震えた声を出した。
画面へ数値が溢れる。
『世界の時間が戻ってるんじゃないロト……!』
日廻は自分の手を見る。
灰色のまま。
潰れた右の視界も。
フライゴンの脚も。
何一つ戻っていない。
『あいつだけ……』
ロトムの声が、叫びを押し殺すように掠れた。
『あいつ自身の状態だけ、戻してるロト……!』
壊されるたびに直す。
その力を上回るために、全員で道を開き、アブソルの刃を核へ届けた。
確かに、破壊したのだ。
修復も止まった。取り込まれたポケモンたちも、外へ出ようとしていた。
それさえ、壊される前へ戻せば済む。
こちらが最後まで見せなかった力で、ようやく掴んだ勝利。
その先に、向こうもまた切り札を残していた。
最後の結晶が嵌まった。昏い虹色の光が全身を走る。
ダークマターネクロズマ第二形態が再び、立ち上がった。
「…………」
傷がない。
違う、傷があった痕跡もない。
この場にいる全員が死力を尽くしたのに、元に戻っている。
対して、ゼットの身体には『ドラゴンエナジー』で受けた損傷が残っていた。灰色も消えていない。
ミュウの呼吸は荒いままで宙に浮かんでいるのも辛そうだった。
レジギガスの指と腕には石化が残ったまま。
アブソルはもう走れない。
コジョンドの左腕も石のまま。
フライゴンの脚も。
日廻の身体も、何一つ戻っていない。
声が出なかった。
少し離れた石の海へ、視線が向いた。
レックウザは、長い身体を地上へ横たえたままだった。深い傷も、身体の内側へ入り込んだ石化も、墜落で受けた損傷も、そのまま残っている。
起き上がることさえ、まだできない。
レックウザは何も言わない。
動きもしない。
それでも、全部を見ていた。
自分たちがようやく壊したものが、何事もなかったように戻っていくところを。
日廻は唇を噛み、前へ向き直った。
その時だった。
完全に復元された異形の頭部。
幾重にも重なった黒紫の結晶の奥。
口なのか。
裂け目なのか。
二重に重なった顎のさらに奥で。
何かが見えた。
「……なんだ、あれ」
結晶のように見えたが、ダークマターネクロズマの黒とも違う。
一瞬、顔のように見えた。
巨大な異形の内側へ押し込められた、ポケモンの顔。
その奥で、小さな光が瞬いた。
あまりにも弱い。
第二形態の身体を満たす昏い虹色とは違う。
今まで自分たちへ向けられてきた、どの破壊の光とも違う。
「……ひかり……?」
何なのか。
分からなかった。
そこに、何かがいる。
『日廻!!』
ロトムの絶叫で、意識が引き戻された。
第二形態の全身が光っている。
「っ……!」
今までとは違った。
腕でも。
口でも。
一つの結晶でもない。
巨体を構成する無数の結晶すべてへ光が走り、それらが一斉に一つの場所へ向かって集まり始めている。
『エネルギー値、上昇――まだ上がるロト!?』
ロトムの声が裏返る。
『みんなここから離れて――!!』
ゼットが動いた。
傷ついた身体を、もう一度前へ出す。
ミュウも。
『……冗談じゃ、ないわよ……!』
ミュウが両手を突き出した。震える身体の前に淡い光が重なり、障壁を形作っていく。
レジギガスが石化した脚を踏み出し、再び日廻たちの前へ立ちはだかった。
コジョンドも残った右腕を構える。
『ファイッ……!』
翼が震えても、それでも飛ぶ。
誰も、動くことをやめなかった。
けれどさっきと同じだけの力は誰にも残っていない。
【プリズムレーザー】。
世界から色が消えた。
そう錯覚するほどの光だった。
ゼットが正面から呑まれる。
ミュウの展開した力が一瞬だけ奔流を押し返した。だが、光の膜は大きく撓み、次の瞬間には砕け散った。
レジギガスが、両腕を広げ受け止める。
足元の石の海が削れた。
巨体が押されても、それでも踏ん張る。
だが、止まらない。極光が戦場を薙いだ。
「――っ!!」
音すら遅れて届いた。
ゼットの巨体が浮き、遥か後方へ吹き飛ばされる。
ミュウも地面へ叩き落とされた。
レジギガスの両脚が石の海を抉り、最後にはその巨体さえ支え切れず横倒しになる。
アブソルが余波に巻き上げられた。
コジョンドが残った腕を前へ出した直後、身体ごと吹き飛ばされる。
「アブソル! コジョンド!!」
返事を待つ余裕はなかった。
フライゴンが飛んだ。
日廻を乗せたまま、少しでも戦場の外へ。
「フライゴン!?」
両脚が石になっても、翼が傷ついても。
ここまでずっと背中へ乗せ続けてきた人間を少しでも遠くへ逃がすために。
フライゴンが必死に高度を上げる。
プリズムレーザーの中心からは外れた。
直撃はしない。だが、そんなことで逃げ切れる規模ではなかった。
「――っ!?」
空気そのものに殴られた。
フライゴンの身体が跳ねる。
翼が大きく折れ曲がり、上下の感覚が一瞬で消えた。
腰を支えていた固定具が、衝撃で根元から砕けた。
身体を繋ぎ留めているのは、取っ手を掴んだ手だけだった。
日廻は騎乗具へしがみつく。
まだ動く手で。
硬くなった指へ、力を込めて。
「フライ、ゴン……!」
離すな。それだけを考えた。
もう片方の視界はない。
残った片目も衝撃で滲む。
それでも。力を込めて握る。
さらに強い衝撃が走った。
ぱき。
「……え」
小さな音だった。
戦場を壊す轟音の中では、本来なら聞こえるはずもない。
それなのに、はっきりと聞こえた気がした。
握っていた指がない。
痛みはなかった。
石になっていた部分が、衝撃に耐えられず砕けていた。
騎乗具を掴んでいたものが、なくなった。
「…………」
身体が浮いた。
最初は、それが何なのか分からなかった。
目の前に、フライゴンの背中がある。
なのに、遠ざかっていく。
騎乗具が。
翼が。
緑色の身体が。
上へ。
違う。
上がっているのは、フライゴンではない。
自分が、落ちている。
『ファイ――!?』
フライゴンが振り返った。日廻と目が合い、その瞳が大きく見開かれる。
『ファイッッ!!』
日廻へ向かって翼を畳んで急降下。
けれど、遅い、遠い。
日廻の身体は、もうずっと下にある。
『日廻!!』
胸元からロトムが飛び出した。
小さな身体が服へ取りつく。
指先がなくなった腕ではなく、襟に這いこんで浮かばせようとしている。
『止まれロト!!』
無理だった。
成人した人間一人の身体を。
落下の勢いごと。
小さなロトム一匹で支えられるはずがない。
「…………あ」
片方しかない視界の中で。
石の海が、近づいてくる。
フライゴンも見えた。
必死に、こちらへ向かっている。
『ファイィィィッ!!』
ロトムも。
『日廻ッ!! 日廻ァッ!!』
分かってる。
来てくれている。
けれど、間に合わない。
残った視界を、石の海が埋め尽くした。
「にげ」
ぐしゃり、と。
身体の奥で。
何か大切なものが壊れる音がした。