石の海へ叩きつけられた日廻は、動かなかった。
身体の下から、ゆっくりと赤いものが広がっていく。石化した顔には砕けた石の粉がこびりついていた。騎乗具を掴んでいた手は、何本かの指が途中から失われている。
遅れて降りてきたフライゴンが、日廻の傍へ滑り込んだ。
石化した両脚では着地できない。翼を激しく打ちながら高度を殺し、最後は腹を石の海へ擦りつけるように身体を落とす。それでも構わず首を伸ばし、倒れた日廻へ鼻先を寄せた。
『ファイ……! ファイッ!』
頬へ触れる。
反応はない。
もう一度、今度は肩へ鼻先を押しつける。それでも、日廻の身体は僅かにも動かなかった。
『日廻?』
ロトムが、その胸元へ降りた。
『……日廻?』
返事はない。
胸が動いていない。
息を吸う音も、吐く音もなかった。
『…………』
ロトムの身体から細い電気が伸びる。首元へ。胸へ。何度も位置を変え、何かを探すように明滅する。
『日廻』
もう一度。
『日廻……?』
フライゴンが日廻の服を噛み、起こそうとする。けれど、力を入れれば壊れてしまいそうな身体を前に、すぐに口を離した。
『ファイ……』
その声にも。
日廻は答えなかった。
『日廻ッ!!』
ロトムの叫びが、石の海へ響いた。
その向こうでは、戦いが続いていた。
完全な姿へ戻ったダークマターネクロズマへ、ゼットが再び向かっていく。『プリズムレーザー』をまともに受けた巨体は傷だらけで、石化もさらに進んでいる。それでも腕を振り上げ、黒紫の巨体へ叩き込んだ。
だが、押し返せない。
第二形態の腕が振るわれ、ゼットの巨体が石の海を滑った。
入れ替わるようにレジギガスが組みつく。石化した指を異形の身体へ食い込ませ、押し止めようとする。以前なら僅かにでも後退させられたはずの巨体は、もうほとんど動かなかった。
そして、ミュウが飛ぶ。
テラスタルは失われている。
それでも残った力を掻き集めるように、何度も、何度も攻撃を叩き込む。
防御へ回していた力も。
石化を抑えるために残していた力も。
その先のことを考えて配分していたものを、何もかも投げ捨てたように。
激情のまま放たれた光が炸裂する。
第二形態の頭部が僅かに揺れる。それだけだった。
黒紫の腕がミュウを薙ぎ払う。
小さな身体が弾かれ、石の海へ叩きつけられた。
それでもミュウは、また浮かび上がった。
◇◆◇
白かった。
どこを見ても、白い。
日廻は霧の中に立っていた。
「…………」
何をしていたのか。
分からない。
ここがどこなのかも。
自分がどうしてここにいるのかも。
名前さえ、すぐには出てこなかった。
ただ、行かなければならない。
それだけが残っていた。
「……どこだここ」
自分の声が霧へ吸い込まれる。
答えはない。
それでも、日廻は歩き出した。
一歩。
また一歩。
足元は見えないのに、不思議と踏み外すことはなかった。痛みもない。あれほど重かった身体が、今は何も背負っていないように軽かった。
進むたびに、霧の中へ何かが浮かんでは消えた。
誰かの顔。
古い家。
小さな手。
食卓。
知らない天井。
近づこうとすると、どれも輪郭を失って霧へ戻っていく。
その中に、何も映らない場所があった。
父親、そう呼ぶべき人間がいたはずなのに、顔がない。
何一つ、思い出せない。
霧が流れる。
次に見えたのは、女の人だった。
母親、こちらには顔がある。
けれど、温度がなかった。
抱き上げられた記憶も。
頭を撫でられた記憶も。
手を握ってもらった記憶も。
探そうとするほど、別のものばかりが浮かんだ。
『あんたを産んでから――』
声。
『仕事だって、全部――』
最後までは聞こえない。
それでよかった。
もう思い返したから。
自分が生まれたせいで、何もかも上手くいかなくなったのだと、何度も言われ続けてきた。
幼い自分には、何をどうすれば償えるのかも分からなかった。ただ、そこにいるだけで誰かを不幸にしているのなら、できるだけ邪魔にならないようにしようと思った。
声を出さないように。
なにも求めない。
そうすれば、少しくらいここにいてもいいのかもしれない。
「…………」
日廻は歩いた。
やがて、別の男が見えた。
母親の再婚相手。
兄の父親。
悪い人ではなかった。
それだけは覚えている。
同じ食卓に座った。
何かを話そうとして。
お互いに言葉が見つからなかった。
男の手が、自分の頭へ伸びかける。
けれど途中で止まり、行き場をなくしたように引っ込んだ。
嫌われていたのだろうか。
今になって思えば、違ったのかもしれない。
突然、自分の人生へ現れた、妻の連れ子。
どう接すればいいのか。
どうすれば父親になれるのか。
あの人も分からなかっただけなのかもしれない。
そう考えられるようになった頃には、何もかも終わっていた。
母親は去った。
金も、生活も。
まだ父さんと呼んでいない人が蓄えていたもの奪いつくして。
やがて、兄の父親もいなくなった。
誰かが。
誰かのために。
自分の人生を削っていく。
そして壊れる。
そんなことばかりだった。
「…………」
足が止まった。
そうだ、自分は。
兄の人生まで。
◇◆◇
『――排除を継続する』
ゼットの巨体が立ち上がった。
片脚が僅かに沈む。それでも姿勢を戻し、ダークマターネクロズマへ向かっていく。
レジギガスも、再び前へ出ていた。
異形の巨大な腕を受け止める。
石化した指が軋み、白かった腕へさらに灰色が広がっていく。押し返す力はもう残っていない。それでも身体そのものを壁にして、後ろへ通さない。
その横を、桃色の影が抜けた。
ミュウの体には新たな傷が増えて、呼吸も乱れている。
それでも止まらない。
今度は避け切れず、結晶の爪が身体を掠めた。
空中で姿勢を崩しながらも、ミュウは異形から目を逸らさない。伸ばした片手から光を放ち、その反動でさらに身体が流された。
『ファイ……!』
遠くで戦う三体と。
目の前で動かない一人。
フライゴンは交互に見た。
行かなければならない。
けれど、日廻から離れられない。
『日廻……起きるロト』
ロトムが呼ぶ。
返事はない。
『みんな、まだ戦ってるロト』
胸は動かない。
『だから……』
声が震える。
『起きるロト……』
石を擦る音が近づいてきた。
コジョンドが、動く方の腕でアブソルの身体を支えている。二匹とも足取りは覚束ない。それでも、倒れた日廻へ向かって少しずつ距離を詰めていた。
◇◆◇
「――よう」
聞き覚えのある声だった。
日廻は顔を上げた。
霧の向こうに、一人の男が立っていた。
「……久しぶりだな」
少しだけ笑っている。
記憶の中と、何も変わらない顔で。
「…………」
息が詰まった。
痛みなどなかったはずの胸が、急に苦しくなった。
「に……」
声が上手く出ない。
「兄さん……?」
「おう」
「…………兄さん」
「だからそう言ってんだろ」
足が勝手に前へ出た。
けれど数歩進んだところで、日廻は止まった。
触れていいのか分からなかった。
近づいたら消えてしまいそうだった。
男――
「何思い出してんのか知らねぇけどさ。今のお前、最初に会った時と同じ顔してるぞ」
兄は自分の頬を指差した。
「『俺なんか最初から存在してませんでした』みてぇな顔」
「……そんな顔してた?」
「してた。めちゃくちゃしてた」
「…………」
「しかも全然喋らねぇし。俺、会う前には弟ができるのかって楽しみにしてたんだぞ」
そこで兄が肩を竦めた。
「で、実際会ったら――女!? 妹!? って」
「……あの、えっと、ごめんなさい」
「謝んな。冗談だ」
兄が笑う。
その笑い方まで覚えていた。
「本当に……兄さんは、兄さんなのか」
兄の笑みが少しだけ薄くなった。
「さあな、分からねぇ。お前の目の前にいる俺が、お前にとって都合のいい幻かもしれねぇし」
「…………」
「死にかけた脳みそが作ったもんかもしれねぇ。そもそもここが何なのか、俺に聞かれても困る」
「……そっか」
「おう」
あっさりした返事だった。
不思議と、それ以上確かめたいとは思わなかった。
本物なのか、幻なのか。
もう、どちらでもよかった。
「兄さん、ありがとう」
兄の眉が僅かに上がった。
「……急だな」
「ずっと、言えなかったから」
「…………」
「俺を、捨てないでいてくれて」
言葉が一つずつ落ちる。
「金もなかったのに。兄さんにだってやりたいことがあったのに。俺のこと、家族にしてくれて」
兄は黙って聞いていた。
「俺……兄さんがいなかったら、人に大事にされるって、分からないままだった」
「…………」
「だから」
喉が震えた。
「ありがとう」
今度は兄も、すぐには返さなかった。
やがて頭を掻き、困ったように息を吐く。
「……どういたしまして、でいいのか?」
「分からない」
「俺も分からん」
少しだけ、日廻は笑った。
けれど、その笑みはすぐに消えた。
「それと……ごめん。俺は、兄さんの家族も壊した」
兄の顔から笑みが消える。
「兄さんの人生まで、俺がめちゃくちゃにした」
「…………」
「兄さん、進学するはずだったのに」
霧の向こうへ。
若い兄の背中が浮かんだ。
作業着、汚れた手。
疲れ切った顔。
「俺がいたから働いて。慣れない仕事して。毎日怒鳴られて。金のことばっかり考えて……」
「よく覚えてんな」
「忘れられるわけないよ」
「そうか」
「俺、本当は……」
日廻は拳を握った。
「兄さんにも、もっと好きに生きてほしかった」
「…………」
「俺なんかに縛られないで。兄さん自身の人生を――」
「日廻」
兄が遮った。
怒った声ではなかった。
「まぁ……気にすんな、って言っても、お前がそれで晴れる奴じゃねぇのは分かってる」
「…………」
「そうだな」
兄は霧の向こうを見る。
「お互い、苦労したな」
「……お互い?」
「お前はあの見た目だけはいいクソ女に散々やられたし」
「兄さん」
「俺の親父もなぁ……なんであんなのに惚れ込んだんだか。死んでも分かんねぇや!」
ははは、と兄が笑った。
日廻はしばらく黙ってから、眉を寄せる。
「……兄さんが言うと洒落にならない、死んでも分からないって」
「はは、本当だな」
また笑う。
日廻も、ほんの少しだけ口元を緩めた。
笑っていい話なのかは分からない。
それでも、兄と話す時は。
昔から、こんなものだった。
「まぁ、しんどかったのは本当だ」
兄が続けた。
「後悔だってした。別の道選んでたらって考えたこともある。いつか宇宙で働きたいって夢も、諦めた」
「……うん」
「帰ったら帰ったで、金ねぇし。お前の学校のこともあるし。明日の飯どうすっかなって考えて」
兄が指を折りながら苦笑する。
「我ながら、よくやったと思うわ」
「だから――」
「でもな」
兄が日廻を見る。
「帰ったら飯あったろ」
「……え?」
「最初の頃は酷かったけど」
「…………それに関しては」
「お前の料理」
「……ごめん」
「だから謝んなって」
兄は笑いながら続ける。
「朝早く起きて飯作って。弁当まで作って。洗濯して、掃除して。俺が遅く帰っても、眠そうな顔して勉強しながら待ってたじゃねぇか」
「それくらいは……」
「それくらい、じゃねぇよ」
日廻は黙る。
「俺、お前の料理食うの、結構楽しみだったんだぞ」
「……本当に?」
「本当だよ。弁当持ってくたび現場の奴らに弄られたけどな」
「何を?」
「『いいなぁ、将来いい嫁さんになるぞ』って」
「…………」
「男だぞ! 弟だぞ!? って何回言ったと思ってんだ」
「……ごめん。どう返したらいいか分からない」
「だからそこで謝るなって!」
兄の笑い声が霧へ広がった。その声を聞きながら、日廻も口元を緩める。何を言ってもすぐに謝って、そのたびに兄に呆れられる。そんなやり取りが、どうしようもなく懐かしかった。
笑い終えた兄が、日廻を見る。
「俺だけがお前を養ってたわけじゃねぇんだよ。お前だって、ずっと頑張ってただろ。二人で生活してたんだから」
日廻は目を伏せた。食事も洗濯も、置いてもらうために当然やるべきことだと思っていた。兄がそれを、二人で暮らしていた証として覚えているとは思わなかった。
「俺だって完璧じゃねぇ。お前に何言えば伝わるのか分からなかったし、自分がやってることが正しいのかも分からなかった」
「兄さんも?」
「当たり前だろ。俺を何だと思ってんだ」
「……何でも分かってると思ってた」
「んなわけあるか、お前は俺より偏差値高い学校を卒業してんだぞ」
兄が呆れたように鼻を鳴らす。
「どうすりゃいいんだって考えて。ああすりゃよかった、こっち選べばよかったって後悔して。それでも時間は止まらねぇ」
兄の目が、少し遠くを見る。
「また忌々しい明日が来る」
「…………」
「だから起きて、仕事行って、帰って、飯食って、寝る。そんでまた次の日だ」
兄は肩を竦めた。
「そんなもんだったよ」
「……でも」
「それでも、お前を弟にしたことを間違いだと思ったことはない」
「…………」
息ができなかった。
「それとこれとは別だ」
「……それでも!」
声が大きくなった。
「俺のせいで兄さんの人生をめちゃくちゃにしたことは変わらない!」
「だから」
「俺がいなかったら、兄さんは――!」
「じゃあ何だ!」
兄の勢いある声が重なった。
「俺が死んだら、お前までそこで終わるのか?」
「…………」
「俺がいなくなったら、俺への負い目でも背負ってなきゃ生きられねぇのか」
「そんな……」
「いつまで俺の人生をお前が決めんだよ」
「……え」
兄は怒っていなかった。
ただ、まっすぐ日廻を見ていた。
「俺が何を捨てたとか。何を失ったとか。俺が幸せだったか、不幸だったか。全部お前が決めんのか?」
「…………」
「俺が選んだんだよ」
静かな声だった。
「間違えたこともある。後悔したこともある。それでも俺が選んだ」
「兄さん……」
「だから勝手に全部、お前の罪にすんな」
日廻は何も言えなかった。
兄が少しだけ笑う。
「……俺の弟って、そんなに弱かったか?」
◇◆◇
ミュウが落ちた。
何度目かも分からない。
石の海へ小さな身体が転がり、しばらく動かなくなる。
それでも、前脚が動いた。
身体を起こし、浮かび上がる。
また、前を見る。
ゼットも片膝をついていた。
『――損傷……』
一度、声が途切れる。
それでも立ち上がった。
『戦闘……継続』
レジギガスが二体の前へ出る。
巨体を盾にして攻撃を受け、押し戻されながらも踏み止まる。
誰も勝っていない。
誰も敵を押し返せていない。
それでも。誰も、やめなかった。
『日廻……』
ロトムはまだ呼んでいた。
『日廻』
返事はない。
『聞こえてるなら……』
言葉が続かなかった。
アブソルが、動かない日廻の傍へ頭を伏せる。
『……フォウ』
その声が。
遠く。
遠くへ。
届いていく。
◇◆◇
「…………?」
日廻が振り返った。
霧の向こうから、何かが聞こえた。
「聞こえたか」
兄が言う。
「兄さんにも?」
「さあな」
「…………」
「俺じゃなくて、お前が聞こえたんだろ」
耳を澄ます。
意味までは分からない。
遠い、誰かが叫んでいる。
その向こうで、何かがぶつかる音がする。
霧が僅かに薄くなった。
「……あ」
緑の巨体、白い巨人。
小さな桃色の身体。
何度倒れても、まだ戦っている。
少し離れた場所には、白いポケモンがいる。
細身の身体で、片腕を庇うポケモンも。
そして、緑の竜。
その傍に、小さな橙色の身体。
「……みんな」
声が震えた。
霧の向こうから。
また呼ばれる。
言葉を話せない声もある。
それでも分かる。
自分を呼んでいる。
「……俺」
何かが戻ってくる。
石の海。戦場を薙いだ光。騎乗具を掴んでいた指が砕け、フライゴンの背中が遠ざかっていったこと。
最後まで、自分を呼んでいた声。
「今、お前は何がしたい」
世界を救いたい。
そんな言葉は浮かばなかった。
英雄になりたいわけでもない。
正しいことをしたいからでもない。
もっと、小さくて。身勝手で。
簡単なものだった。
「……帰りたい」
日廻は言った。
「帰って……また、みんなと」
声が詰まる。
それでも、霧の向こうを見る。
「あいつを、止めたい」
「ああ」
「あいつらと……一緒にいたい」
兄が笑った。
「それでいい」
「……いいの?」
「したいことがコロコロ変わるのも人生だ」
兄が言う。
「昔こう思ったからって、死ぬまで同じこと考えてなきゃならねぇ決まりなんかねぇよ」
「…………」
「俺のために生きるとか。俺だったらどうするとか。そんなもん、もういい」
日廻は兄を見る。
「前へ進め、日廻」
霧の向こうから。
また声がした。
「『俺だったら』じゃねぇ」
兄は、もう日廻ではなく。
その先を見ていた。
「お前が見つけて、お前が選んだもんを――お前自身の覚悟で、世界に叩きつけてやれ」
「……兄さん」
「そうすりゃ」
いつものように。
少しだけ意地の悪い笑みを浮かべる。
「お前は最高に格好いい男になれるさ」
視界が滲んだ。
もう最後だ。
一歩でも先へ進めば、もう二度と会えなくなるような気がした。
「……もし、もう一度生まれ変われることがあったら」
だから。
「今度は、生まれた時から……兄さんの弟に、なりたいです」
「――――はは」
笑った。兄が、目元を僅かに濡らして。
「……そうか、そうだな。その時は容赦なくお前をパシらせてもらうわ!!!」
まだ伝えたい言葉が、いくつも浮かんだ。
けれど、兄の顔を見て、それ以上は言わなかった。
日廻は深く頭を下げた。
そして、霧の向こうへ。
声のする方へ、一歩を踏み出す。
今度は、理由が分かっている。
「日廻」
背中から兄の声がした。
日廻は止まらなかった。
振り返らない。
兄も追ってこない。
ただ、声だけが。
「行ってこい」
日廻は走った。
帰るために。
自分で選んだ場所へ。
◇◆◇
『日廻……』
ロトムは、もう何度目かも分からない名前を呼んだ。
動かない。
呼吸もない。
血に濡れた身体は、さっきから何一つ変わっていない。
『…………』
その時、指先が、動いた。
『……え』
ほんの僅か。
砕けずに残った指が、石の上を掻いた。
『……日廻?』
アブソルが、フライゴンが、コジョンドが頭を上げる。
『ファイ……?』
止まっていた胸が。
僅かに、上がった。
「――……っ」
『フ、ォウ……』
空気を吸うことすら、身体が忘れてしまったような音だった。
肺へ入った息は少ない。
すぐに咳へ変わり、口元から血が落ちる。
『日廻!!』
『コジョッ!!』
片方の瞼が開いた。
見えない。
滲んでいる。
それでも、光はあった。
『日廻! 日廻、分かるロト!? 動いちゃ駄目ロト! 今――』
日廻は答えなかった。
指の残った左手が動き、石の海へ掌をつく。
『……え』
身体を起こそうとしている。
『駄目ロト!!もう無理ロト! その身体じゃ――』
フライゴンも鼻先を押しつけ、起き上がらせまいとする。
日廻は何も言わなかった。
残った片目で、遠くを見る。
ダークマターネクロズマ。
まだ戦っている仲間たちを。
日廻はもう一度、腕をついた。
力を入れるたびに身体の奥で、何かが軋む。
滴る血が石の上へ落ちる。
それでも、上体が起きた。
一度、崩れかけても、もう一度足へ力を込める。
『……日廻』
ロトムは、それ以上何も言えなくなった。
血を垂らしながら。
半分を石に奪われた顔で。
片方しか見えない目を前へ向け。
砕けた指を握ることすらできないまま。
満足に息をすることさえできない身体で。
榊原日廻は、立つ。