ポケモン、彼らはそう呼ばれている   作:燐2

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【終わりだ】

 

 

 石の海へ叩きつけられた日廻は、動かなかった。

 身体の下から、ゆっくりと赤いものが広がっていく。石化した顔には砕けた石の粉がこびりついていた。騎乗具を掴んでいた手は、何本かの指が途中から失われている。

 

 遅れて降りてきたフライゴンが、日廻の傍へ滑り込んだ。

 石化した両脚では着地できない。翼を激しく打ちながら高度を殺し、最後は腹を石の海へ擦りつけるように身体を落とす。それでも構わず首を伸ばし、倒れた日廻へ鼻先を寄せた。

 

『ファイ……! ファイッ!』

 

 頬へ触れる。

 反応はない。

 もう一度、今度は肩へ鼻先を押しつける。それでも、日廻の身体は僅かにも動かなかった。

 

『日廻?』

 

 ロトムが、その胸元へ降りた。

 

『……日廻?』

 

 返事はない。

 胸が動いていない。

 息を吸う音も、吐く音もなかった。

 

『…………』

 

 ロトムの身体から細い電気が伸びる。首元へ。胸へ。何度も位置を変え、何かを探すように明滅する。

 

『日廻』

 

 もう一度。

 

『日廻……?』

 

 フライゴンが日廻の服を噛み、起こそうとする。けれど、力を入れれば壊れてしまいそうな身体を前に、すぐに口を離した。

 

『ファイ……』

 

 その声にも。

 日廻は答えなかった。

 

『日廻ッ!!』

 

 ロトムの叫びが、石の海へ響いた。

 その向こうでは、戦いが続いていた。

 完全な姿へ戻ったダークマターネクロズマへ、ゼットが再び向かっていく。『プリズムレーザー』をまともに受けた巨体は傷だらけで、石化もさらに進んでいる。それでも腕を振り上げ、黒紫の巨体へ叩き込んだ。

 だが、押し返せない。

 第二形態の腕が振るわれ、ゼットの巨体が石の海を滑った。

 入れ替わるようにレジギガスが組みつく。石化した指を異形の身体へ食い込ませ、押し止めようとする。以前なら僅かにでも後退させられたはずの巨体は、もうほとんど動かなかった。

 そして、ミュウが飛ぶ。

 テラスタルは失われている。

 それでも残った力を掻き集めるように、何度も、何度も攻撃を叩き込む。

 

 防御へ回していた力も。

 石化を抑えるために残していた力も。

 その先のことを考えて配分していたものを、何もかも投げ捨てたように。

 

 激情のまま放たれた光が炸裂する。

 第二形態の頭部が僅かに揺れる。それだけだった。

 黒紫の腕がミュウを薙ぎ払う。

 小さな身体が弾かれ、石の海へ叩きつけられた。

 それでもミュウは、また浮かび上がった。

 

 

 ◇◆◇

 

 白かった。

 どこを見ても、白い。

 日廻は霧の中に立っていた。

 

「…………」

 

 何をしていたのか。

 分からない。

 ここがどこなのかも。

 自分がどうしてここにいるのかも。

 名前さえ、すぐには出てこなかった。

 ただ、行かなければならない。

 それだけが残っていた。

 

「……どこだここ」

 

 自分の声が霧へ吸い込まれる。

 答えはない。

 それでも、日廻は歩き出した。

 一歩。

 また一歩。

 足元は見えないのに、不思議と踏み外すことはなかった。痛みもない。あれほど重かった身体が、今は何も背負っていないように軽かった。

 進むたびに、霧の中へ何かが浮かんでは消えた。

 

 誰かの顔。

 古い家。

 小さな手。

 食卓。

 知らない天井。

 

 近づこうとすると、どれも輪郭を失って霧へ戻っていく。

 その中に、何も映らない場所があった。

 父親、そう呼ぶべき人間がいたはずなのに、顔がない。

 何一つ、思い出せない。

 

 霧が流れる。

 次に見えたのは、女の人だった。

 母親、こちらには顔がある。

 けれど、温度がなかった。

 抱き上げられた記憶も。

 頭を撫でられた記憶も。

 手を握ってもらった記憶も。

 探そうとするほど、別のものばかりが浮かんだ。

 

『あんたを産んでから――』

 

 声。

 

『仕事だって、全部――』

 

 最後までは聞こえない。

 それでよかった。

 もう思い返したから。

 自分が生まれたせいで、何もかも上手くいかなくなったのだと、何度も言われ続けてきた。

 

 幼い自分には、何をどうすれば償えるのかも分からなかった。ただ、そこにいるだけで誰かを不幸にしているのなら、できるだけ邪魔にならないようにしようと思った。

 声を出さないように。

 なにも求めない。

 そうすれば、少しくらいここにいてもいいのかもしれない。

 

「…………」

 

 日廻は歩いた。

 やがて、別の男が見えた。

 母親の再婚相手。

 兄の父親。

 悪い人ではなかった。

 それだけは覚えている。

 

 同じ食卓に座った。

 何かを話そうとして。

 お互いに言葉が見つからなかった。

 

 男の手が、自分の頭へ伸びかける。

 けれど途中で止まり、行き場をなくしたように引っ込んだ。

 

 嫌われていたのだろうか。

 今になって思えば、違ったのかもしれない。

 突然、自分の人生へ現れた、妻の連れ子。

 どう接すればいいのか。

 どうすれば父親になれるのか。

 

 あの人も分からなかっただけなのかもしれない。

 そう考えられるようになった頃には、何もかも終わっていた。

 母親は去った。

 金も、生活も。

 まだ父さんと呼んでいない人が蓄えていたもの奪いつくして。

 やがて、兄の父親もいなくなった。

 

 誰かが。

 誰かのために。

 自分の人生を削っていく。

 そして壊れる。

 そんなことばかりだった。

 

「…………」

 

 足が止まった。

 そうだ、自分は。

 兄の人生まで。

 

 

 ◇◆◇

 

『――排除を継続する』

 

 ゼットの巨体が立ち上がった。

 片脚が僅かに沈む。それでも姿勢を戻し、ダークマターネクロズマへ向かっていく。

 レジギガスも、再び前へ出ていた。

 異形の巨大な腕を受け止める。

 石化した指が軋み、白かった腕へさらに灰色が広がっていく。押し返す力はもう残っていない。それでも身体そのものを壁にして、後ろへ通さない。

 その横を、桃色の影が抜けた。

 ミュウの体には新たな傷が増えて、呼吸も乱れている。

 それでも止まらない。

 今度は避け切れず、結晶の爪が身体を掠めた。

 空中で姿勢を崩しながらも、ミュウは異形から目を逸らさない。伸ばした片手から光を放ち、その反動でさらに身体が流された。

 

『ファイ……!』

 

 遠くで戦う三体と。

 目の前で動かない一人。

 フライゴンは交互に見た。

 行かなければならない。

 けれど、日廻から離れられない。

 

『日廻……起きるロト』

 

 ロトムが呼ぶ。

 返事はない。

 

『みんな、まだ戦ってるロト』

 

 胸は動かない。

 

『だから……』

 

 声が震える。

 

『起きるロト……』

 

 石を擦る音が近づいてきた。

 コジョンドが、動く方の腕でアブソルの身体を支えている。二匹とも足取りは覚束ない。それでも、倒れた日廻へ向かって少しずつ距離を詰めていた。

 

 ◇◆◇

 

「――よう」

 

 聞き覚えのある声だった。

 日廻は顔を上げた。

 霧の向こうに、一人の男が立っていた。

 

「……久しぶりだな」

 

 少しだけ笑っている。

 記憶の中と、何も変わらない顔で。

 

「…………」

 

 息が詰まった。

 痛みなどなかったはずの胸が、急に苦しくなった。

 

「に……」

 

 声が上手く出ない。

 

「兄さん……?」

 

「おう」

 

「…………兄さん」

 

「だからそう言ってんだろ」

 

 足が勝手に前へ出た。

 けれど数歩進んだところで、日廻は止まった。

 触れていいのか分からなかった。

 近づいたら消えてしまいそうだった。

 男――榊原(さかきばら)維月(いつき)は、そんな日廻を見て頭をかいた。

 

「何思い出してんのか知らねぇけどさ。今のお前、最初に会った時と同じ顔してるぞ」

 

 兄は自分の頬を指差した。

 

「『俺なんか最初から存在してませんでした』みてぇな顔」

 

「……そんな顔してた?」

 

「してた。めちゃくちゃしてた」

 

「…………」

 

「しかも全然喋らねぇし。俺、会う前には弟ができるのかって楽しみにしてたんだぞ」

 

 そこで兄が肩を竦めた。

 

「で、実際会ったら――女!? 妹!? って」

 

「……あの、えっと、ごめんなさい」

 

「謝んな。冗談だ」

 

 兄が笑う。

 その笑い方まで覚えていた。

 

「本当に……兄さんは、兄さんなのか」

 

 兄の笑みが少しだけ薄くなった。

 

「さあな、分からねぇ。お前の目の前にいる俺が、お前にとって都合のいい幻かもしれねぇし」

 

「…………」

 

「死にかけた脳みそが作ったもんかもしれねぇ。そもそもここが何なのか、俺に聞かれても困る」

 

「……そっか」

 

「おう」

 

 あっさりした返事だった。

 不思議と、それ以上確かめたいとは思わなかった。

 本物なのか、幻なのか。

 もう、どちらでもよかった。

 

「兄さん、ありがとう」

 

 兄の眉が僅かに上がった。

 

「……急だな」

 

「ずっと、言えなかったから」

 

「…………」

 

「俺を、捨てないでいてくれて」

 

 言葉が一つずつ落ちる。

 

「金もなかったのに。兄さんにだってやりたいことがあったのに。俺のこと、家族にしてくれて」

 

 兄は黙って聞いていた。

 

「俺……兄さんがいなかったら、人に大事にされるって、分からないままだった」

 

「…………」

 

「だから」

 

 喉が震えた。

 

「ありがとう」

 

 今度は兄も、すぐには返さなかった。

 やがて頭を掻き、困ったように息を吐く。

 

「……どういたしまして、でいいのか?」

 

「分からない」

 

「俺も分からん」

 

 少しだけ、日廻は笑った。

 けれど、その笑みはすぐに消えた。

 

「それと……ごめん。俺は、兄さんの家族も壊した」

 

 兄の顔から笑みが消える。

 

「兄さんの人生まで、俺がめちゃくちゃにした」

 

「…………」

 

「兄さん、進学するはずだったのに」

 

 霧の向こうへ。

 若い兄の背中が浮かんだ。

 作業着、汚れた手。

 疲れ切った顔。

 

「俺がいたから働いて。慣れない仕事して。毎日怒鳴られて。金のことばっかり考えて……」

 

「よく覚えてんな」

 

「忘れられるわけないよ」

 

「そうか」

 

「俺、本当は……」

 

 日廻は拳を握った。

 

「兄さんにも、もっと好きに生きてほしかった」

 

「…………」

 

「俺なんかに縛られないで。兄さん自身の人生を――」

 

「日廻」

 

 兄が遮った。

 怒った声ではなかった。

 

「まぁ……気にすんな、って言っても、お前がそれで晴れる奴じゃねぇのは分かってる」

 

「…………」

 

「そうだな」

 

 兄は霧の向こうを見る。

 

「お互い、苦労したな」

 

「……お互い?」

 

「お前はあの見た目だけはいいクソ女に散々やられたし」

 

「兄さん」

 

「俺の親父もなぁ……なんであんなのに惚れ込んだんだか。死んでも分かんねぇや!」

 

 ははは、と兄が笑った。

 日廻はしばらく黙ってから、眉を寄せる。

 

「……兄さんが言うと洒落にならない、死んでも分からないって」

 

「はは、本当だな」

 

 また笑う。

 日廻も、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 笑っていい話なのかは分からない。

 それでも、兄と話す時は。

 昔から、こんなものだった。

 

「まぁ、しんどかったのは本当だ」

 

 兄が続けた。

 

「後悔だってした。別の道選んでたらって考えたこともある。いつか宇宙で働きたいって夢も、諦めた」

 

「……うん」

 

「帰ったら帰ったで、金ねぇし。お前の学校のこともあるし。明日の飯どうすっかなって考えて」

 

 兄が指を折りながら苦笑する。

 

「我ながら、よくやったと思うわ」

 

「だから――」

 

「でもな」

 

 兄が日廻を見る。

 

「帰ったら飯あったろ」

 

「……え?」

 

「最初の頃は酷かったけど」

 

「…………それに関しては」

 

「お前の料理」

 

「……ごめん」

 

「だから謝んなって」

 

 兄は笑いながら続ける。

 

「朝早く起きて飯作って。弁当まで作って。洗濯して、掃除して。俺が遅く帰っても、眠そうな顔して勉強しながら待ってたじゃねぇか」

 

「それくらいは……」

 

「それくらい、じゃねぇよ」

 

 日廻は黙る。

 

「俺、お前の料理食うの、結構楽しみだったんだぞ」

 

「……本当に?」

 

「本当だよ。弁当持ってくたび現場の奴らに弄られたけどな」

 

「何を?」

 

「『いいなぁ、将来いい嫁さんになるぞ』って」

 

「…………」

 

「男だぞ! 弟だぞ!? って何回言ったと思ってんだ」

 

「……ごめん。どう返したらいいか分からない」

 

「だからそこで謝るなって!」

 

 兄の笑い声が霧へ広がった。その声を聞きながら、日廻も口元を緩める。何を言ってもすぐに謝って、そのたびに兄に呆れられる。そんなやり取りが、どうしようもなく懐かしかった。

 笑い終えた兄が、日廻を見る。

 

「俺だけがお前を養ってたわけじゃねぇんだよ。お前だって、ずっと頑張ってただろ。二人で生活してたんだから」

 

 日廻は目を伏せた。食事も洗濯も、置いてもらうために当然やるべきことだと思っていた。兄がそれを、二人で暮らしていた証として覚えているとは思わなかった。

 

「俺だって完璧じゃねぇ。お前に何言えば伝わるのか分からなかったし、自分がやってることが正しいのかも分からなかった」

 

「兄さんも?」

 

「当たり前だろ。俺を何だと思ってんだ」

 

「……何でも分かってると思ってた」

 

「んなわけあるか、お前は俺より偏差値高い学校を卒業してんだぞ」

 

 兄が呆れたように鼻を鳴らす。

 

「どうすりゃいいんだって考えて。ああすりゃよかった、こっち選べばよかったって後悔して。それでも時間は止まらねぇ」

 

 兄の目が、少し遠くを見る。

 

「また忌々しい明日が来る」

 

「…………」

 

「だから起きて、仕事行って、帰って、飯食って、寝る。そんでまた次の日だ」

 

 兄は肩を竦めた。

 

「そんなもんだったよ」

 

「……でも」

 

「それでも、お前を弟にしたことを間違いだと思ったことはない」

 

「…………」

 

 息ができなかった。

 

「それとこれとは別だ」

 

「……それでも!」

 

 声が大きくなった。

 

「俺のせいで兄さんの人生をめちゃくちゃにしたことは変わらない!」

 

「だから」

 

「俺がいなかったら、兄さんは――!」

 

「じゃあ何だ!」

 

 兄の勢いある声が重なった。

 

「俺が死んだら、お前までそこで終わるのか?」

 

「…………」

 

「俺がいなくなったら、俺への負い目でも背負ってなきゃ生きられねぇのか」

 

「そんな……」

 

「いつまで俺の人生をお前が決めんだよ」

 

「……え」

 

 兄は怒っていなかった。

 ただ、まっすぐ日廻を見ていた。

 

「俺が何を捨てたとか。何を失ったとか。俺が幸せだったか、不幸だったか。全部お前が決めんのか?」

 

「…………」

 

「俺が選んだんだよ」

 

 静かな声だった。

 

「間違えたこともある。後悔したこともある。それでも俺が選んだ」

 

「兄さん……」

 

「だから勝手に全部、お前の罪にすんな」

 

 日廻は何も言えなかった。

 兄が少しだけ笑う。

 

「……俺の弟って、そんなに弱かったか?」

 

 ◇◆◇

 

 ミュウが落ちた。

 何度目かも分からない。

 石の海へ小さな身体が転がり、しばらく動かなくなる。

 それでも、前脚が動いた。

 身体を起こし、浮かび上がる。

 また、前を見る。

 ゼットも片膝をついていた。

 

『――損傷……』

 

 一度、声が途切れる。

 それでも立ち上がった。

 

『戦闘……継続』

 

 レジギガスが二体の前へ出る。

 巨体を盾にして攻撃を受け、押し戻されながらも踏み止まる。

 誰も勝っていない。

 誰も敵を押し返せていない。

 それでも。誰も、やめなかった。

 

『日廻……』

 

 ロトムはまだ呼んでいた。

 

『日廻』

 

 返事はない。

 

『聞こえてるなら……』

 

 言葉が続かなかった。

 アブソルが、動かない日廻の傍へ頭を伏せる。

 

『……フォウ』

 

 その声が。

 遠く。

 遠くへ。

 届いていく。

 

 ◇◆◇

 

「…………?」

 

 日廻が振り返った。

 霧の向こうから、何かが聞こえた。

 

「聞こえたか」

 

 兄が言う。

 

「兄さんにも?」

 

「さあな」

 

「…………」

 

「俺じゃなくて、お前が聞こえたんだろ」

 

 耳を澄ます。

 意味までは分からない。

 遠い、誰かが叫んでいる。

 その向こうで、何かがぶつかる音がする。

 霧が僅かに薄くなった。

 

「……あ」

 

 緑の巨体、白い巨人。

 小さな桃色の身体。

 何度倒れても、まだ戦っている。

 少し離れた場所には、白いポケモンがいる。

 細身の身体で、片腕を庇うポケモンも。

 そして、緑の竜。

 その傍に、小さな橙色の身体。

 

「……みんな」

 

 声が震えた。

 霧の向こうから。

 また呼ばれる。

 言葉を話せない声もある。

 それでも分かる。

 自分を呼んでいる。

 

「……俺」

 

 何かが戻ってくる。

 石の海。戦場を薙いだ光。騎乗具を掴んでいた指が砕け、フライゴンの背中が遠ざかっていったこと。

 最後まで、自分を呼んでいた声。

 

「今、お前は何がしたい」

 

 世界を救いたい。

 そんな言葉は浮かばなかった。

 英雄になりたいわけでもない。

 正しいことをしたいからでもない。

 もっと、小さくて。身勝手で。

 簡単なものだった。

 

「……帰りたい」

 

 日廻は言った。

 

「帰って……また、みんなと」

 

 声が詰まる。

 それでも、霧の向こうを見る。

 

「あいつを、止めたい」

 

「ああ」

 

「あいつらと……一緒にいたい」

 

 兄が笑った。

 

「それでいい」

 

「……いいの?」

 

「したいことがコロコロ変わるのも人生だ」

 

 兄が言う。

 

「昔こう思ったからって、死ぬまで同じこと考えてなきゃならねぇ決まりなんかねぇよ」

 

「…………」

 

「俺のために生きるとか。俺だったらどうするとか。そんなもん、もういい」

 

 日廻は兄を見る。

 

「前へ進め、日廻」

 

 霧の向こうから。

 また声がした。

 

「『俺だったら』じゃねぇ」

 

 兄は、もう日廻ではなく。

 その先を見ていた。

 

「お前が見つけて、お前が選んだもんを――お前自身の覚悟で、世界に叩きつけてやれ」

 

「……兄さん」

 

「そうすりゃ」

 

 いつものように。

 少しだけ意地の悪い笑みを浮かべる。

 

「お前は最高に格好いい男になれるさ」

 

 視界が滲んだ。

 もう最後だ。

 一歩でも先へ進めば、もう二度と会えなくなるような気がした。

 

「……もし、もう一度生まれ変われることがあったら」

 

 だから。

 

「今度は、生まれた時から……兄さんの弟に、なりたいです」

 

「――――はは」

 

 笑った。兄が、目元を僅かに濡らして。

 

「……そうか、そうだな。その時は容赦なくお前をパシらせてもらうわ!!!」

 

 まだ伝えたい言葉が、いくつも浮かんだ。

 けれど、兄の顔を見て、それ以上は言わなかった。

 日廻は深く頭を下げた。

 そして、霧の向こうへ。

 声のする方へ、一歩を踏み出す。

 今度は、理由が分かっている。

 

「日廻」

 

 背中から兄の声がした。

 日廻は止まらなかった。

 振り返らない。

 兄も追ってこない。

 ただ、声だけが。

 

「行ってこい」

 

 日廻は走った。

 帰るために。

 自分で選んだ場所へ。

 

 ◇◆◇

 

『日廻……』

 

 ロトムは、もう何度目かも分からない名前を呼んだ。

 動かない。

 呼吸もない。

 血に濡れた身体は、さっきから何一つ変わっていない。

 

『…………』

 

 その時、指先が、動いた。

 

『……え』

 

 ほんの僅か。

 砕けずに残った指が、石の上を掻いた。

 

『……日廻?』

 

 アブソルが、フライゴンが、コジョンドが頭を上げる。

 

『ファイ……?』

 

 止まっていた胸が。

 僅かに、上がった。

 

「――……っ」

 

『フ、ォウ……』

 

 空気を吸うことすら、身体が忘れてしまったような音だった。

 肺へ入った息は少ない。

 すぐに咳へ変わり、口元から血が落ちる。

 

『日廻!!』

 

『コジョッ!!』

 

 片方の瞼が開いた。

 見えない。

 滲んでいる。

 それでも、光はあった。

 

『日廻! 日廻、分かるロト!? 動いちゃ駄目ロト! 今――』

 

 日廻は答えなかった。

 指の残った左手が動き、石の海へ掌をつく。

 

『……え』

 

 身体を起こそうとしている。

 

『駄目ロト!!もう無理ロト! その身体じゃ――』

 

 フライゴンも鼻先を押しつけ、起き上がらせまいとする。

 日廻は何も言わなかった。

 

 残った片目で、遠くを見る。

 ダークマターネクロズマ。

 まだ戦っている仲間たちを。

 日廻はもう一度、腕をついた。

 

 力を入れるたびに身体の奥で、何かが軋む。

 滴る血が石の上へ落ちる。

 それでも、上体が起きた。

 一度、崩れかけても、もう一度足へ力を込める。

 

『……日廻』

 

 ロトムは、それ以上何も言えなくなった。

 血を垂らしながら。

 半分を石に奪われた顔で。

 片方しか見えない目を前へ向け。

 砕けた指を握ることすらできないまま。

 満足に息をすることさえできない身体で。

 

 榊原日廻は、立つ。

 

 

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