榊原日廻は、立っていた。
ただ、それを「立っている」と呼んでいいのかは分からなかった。膝は震え、背筋を伸ばそうとするたびに身体の奥で何かが軋む。呼吸は浅く、口元から落ちた血が顎を伝い、石の海へ赤い点を作っていく。
顔の半分は石と化し、片方の目は何も映していない。騎乗具を掴んでいた指の一部は砕け、残った指も満足に握れなかった。
本当なら、もうここに立っているはずのない身体だった。
『日廻……』
傍らでロトムが名前を呼ぶ。
フライゴンも石化した脚をぶら下げ、低く浮いたまま寄り添っていた。日廻が少しでも傾けば支えられるように、身体を近くへ置いている。
日廻は答えなかった。何かを言おうとしても、喉が上手く動かなかった。
残った目を、前へ向ける。
ゼットも、ミュウも、レジギガスも、まだ戦っていた。
『プリズムレーザー』を受けたゼットの巨体には無数の損傷が走り、灰色が各所を侵している。レジギガスも石化した腕を上げ、異形の攻撃を受け止め続けていた。
その間をミュウが飛ぶ。光が結晶を削り、修復の輝きが走るより先に別方向からもう一撃。後に残す力まで注ぎ込み、小さな身体を弾き飛ばされても攻撃をやめない。
それでも、足りない。
「…………」
日廻はその戦いを、そして、異形のさらに奥を見ていた。
ダークマターネクロズマが頭部を持ち上げる。巨大な裂け目にも見える口の奥、黒紫の結晶と昏い虹色に覆われた場所に、別の輪郭があった。
顔。そうとしか思えないもの。
その中で、小さな光が瞬いた。
一度消え、もう一度。
弱く、今にも途切れそうに。
意味などないのかもしれない。ただの残光か、内部を巡る力が漏れ出しただけなのかもしれない。
それでも、日廻には。
――
そう、見えた。
「……まだ」
『……え?』
ロトムが振り向く。
「まだ……いる」
声は掠れ、ほとんど息だった。
遠くでミュウがこちらを見た。異形と対峙していたその目が、日廻を捉える。
「……あいつの、なかに……まだ……」
言葉はそこで途切れた。けれど、ミュウには十分だった。
青い目が大きく見開かれる。
血に濡れた服。石になった顔。欠けた指。立っていること自体がおかしい身体で、日廻はなおも敵の内側を見ていた。
『――バカ!!!!!!』
頭の中へ直接叩きつけられた声に、日廻の身体が僅かに揺れた。
『なんで――なんでそういう顔するのよ!!』
「…………」
『あなた!自分が今どうなってるか分かってる!? さっき――さっきあなた……!』
言葉が止まる。
ミュウは知っている。日廻の呼吸が一度消え、それでも帰ってきたことを。
『あなたが動けなくなったら……!』
その先が出なかった。
誰が自分たちの面倒を見るのか。あの家で朝を迎え、どうでもいいことで困った顔をして、食事を用意してくれるのか。
そんなことを、今ここで言えるはずもなかった。
日廻は、せめて謝ろうとした。
『謝るな!!喋ろうともするな!!頭に言葉を浮かべただけで分かるから!!』
「…………」
『……ほんっとに』
怒鳴る震えた声が、急に小さくなった。
『バカ』
ミュウはそれ以上何も言わず、日廻の腕に巻かれたゼンブイリングへ視線を落とした。
筐体には幾つもの罅が走り、砕けた表面から内部機構が覗いている。
『日廻』
ロトムが震えた。
『ゼンブイリング、もう駄目ロト。出力制御も、安全機構も……ほとんど死んでるロト』
「……」
『今使ったら、どうなるか……』
「……」
『…………』
ロトムは、それ以上言えなかった。
日廻は腕を持ち上げようとした。一度では上がらない。もう片方の手を添えようとして、欠けた指先が空を掻く。
それでも少しずつ、リングを前へ向けた。
アブソルが傍らから進み出る。
「アブ、ソル」
灰色に覆われた四肢では走れない。先ほどメガシンカし、コアを切り裂いた消耗も残っている。
それでも一歩ずつ、日廻の前へ出た。
『フォウ……』
振り返らず、そこに立った。
アブソルは分かっている。自分が何のために戻ってきたのかを。
だから、前へ出たのだ。
罅割れたゼンブイリングが唸る。
『エラー……出力制御、応答なしロト……!』
警告音が鳴った。本来ならそこで止まるはずの機構は、止まらなかった。
光が無理矢理、引きずり出される。
日廻の身体が揺れた。胸の奥から何かを掴まれ、そのまま腕の先へ引き抜かれたようだった。
痛みすら、もう遠い。
アブソルナイトが応え、白い光が身体を包んだ。
明滅し、弾け、時折黒い筋まで混じる輝きが、その輪郭を書き換えていく。翼を思わせる毛が広がり、頭部の刃が鋭さを増した。
メガシンカ。
光が収まっても、不安定なエネルギーは火花のように散り続けていた。
メガアブソルは一度だけ日廻を見て、前へ向き直った。
続いてコジョンドが、残った右腕を胸元へ寄せる。
「コジ、ョンド」
『コジョ……』
短い返事に重なって、リングが再び鳴った。
『日廻……!』
ロトムの警告より早く、赤い光が噴き上がる。
巨大化する身体の周囲でエネルギーが暴れ、赤黒い雲が幾重にも渦巻いた。石と化した左腕も、そのまま巨大化して垂れ下がる。
ダイマックスしたコジョンドは右脚を踏み下ろして姿勢を支え、異形を見据えた。
次に、ミュウが戻ってきた。
『…………』
何も言わない。怒っていることだけは、日廻にも分かった。
喋らなくても伝わる。それでも、その名前だけは自分の声で呼びたかった。
「……ミュ、ウ」
日廻が腕を動かす。
手元へ集まった光は、何度も形を崩していた。それを投げるように、ほんの僅かに腕を振る。
放たれた光がミュウを覆い、巨大な結晶体を形作った。桃色の身体が隠れ、その内部で輝きが激しく乱れる。
次の瞬間、結晶体が砕け散った。
宝石のような輝きを纏ったミュウが現れる。
頭上の結晶は時折輪郭を揺らしていたが、テラスタルしたミュウは日廻を見ず、そのままアブソルとコジョンドの隣へ飛んでいった。
フライゴンが、傍を離れる。
「フライ、ゴン」
『ファイ……』
緑の頭が、ほんの一瞬だけ日廻の肩へ触れた。
それから翼を打ち、石化した脚をぶら下げたまま前へ出る。
リングがまた光った。途切れた電子音とともに、膨大な竜の力がフライゴンへ流れ込む。
巨大な輪郭が周囲に生まれては崩れ、翼が軋んだ。それでもZパワーを纏ったフライゴンは逃げず、全身でその力を抱え込んだ。
四匹が、それぞれの力を抱えて進んでいく。
涙を堪えて、前へ。
脚がもつれる、それでも前へ。
翼を翻し、あの向こう側へ。
禍つ光を見据え、戦うために前へ。
―――命を賭した彼の願いを叶えるために。
◇◆◇
四匹が前線へ加わるのと入れ替わりに、ゼットが日廻の傍へ戻ってきた。
戦場の音が、少しだけ遠くなった気がした。
傷ついた巨体はなお、ダークマターネクロズマを見据えている。
四匹が並んでも、日廻には勝てるという確信がなかった。
ゼットなら、答えを出すはずだった。
必要な行動を計算し、実行する。勝てるかどうかではない。やる。
それがゼットだった。
『――私は、既に奴に一度敗北している』
「…………」
顔は上げられなかった。それでも、ゼットがこちらを見ていることは分かった。
『現状から、勝利条件を算出できない』
その声には、迷いがあった。
『日廻』
一拍。
『……どうすれば、勝てる』
日廻は答えようとした。
頭が回らない。視界が白く霞む。作戦も、敵の弱点も、攻撃の順番も、何一つ浮かばなかった。
「……しんじろ」
『…………』
「ムリなら……」
息を吐くと、一緒に血が石の海に落ちた。
「おまえが、しんじるやつを……しんじていけ……」
ゼットは答えず、日廻もそれ以上言えなかった。
ふと、何かを思い出す。
「……」
服の中へ手を入れた。指が布へ引っかかる。それでも探ると、小さな石に触れた。
よかった。割れてなかった。
以前、ゼットから渡されたもの。
お守りのように持っていたもの。
「……こ、れ」
取り出そうとして、落とした。
石が地面へ転がる。屈もうとした膝が崩れかけ、ゼットの巨大な手が先に伸びた。
指先が石を拾い上げる。
『…………』
ゼットが掌の上を見た時、小さな音がした。
ただの石にしか見えなかった表面へ亀裂が走る。外殻が剥がれ落ち、その内側から光が漏れた。
日廻には、もう見えていなかった。残った片目さえ焦点を失い始めている。
けれど、ゼットには分かった。
砕けた石の内側で光を放つ、
『――回答を得た』
「……?」
ゼットが日廻を見る。
『私が信じるものは――』
声から迷いが消えた。
『お前だ』
「…………」
日廻の口元が、ほんの少し動いた。
ゼンブイリングが反応する。最後まで残っていた何かを吐き出すように光が溢れ、ジガルデナイトと呼応した。
光の中で、ゼットの輪郭が変わる。
パーフェクトフォルムを形作っていた巨体が、さらに別の秩序へ組み替えられていく。全身を走る緑の光が一斉に強まり、膨大なエネルギーが噴き上がった。
頭上へ、ゼット自身を覆ってしまいそうな巨大な黒い構造が展開される。幾本もの黒い肢が、緑の身体とそれを繋ぐように伸びていく。
メガシンカの光が晴れる。
けれど、日廻にはもう、その姿をはっきりと見ることができなかった。残った片目にも光は滲み、緑と黒の巨大な輪郭が揺れていることしか分からない。
それでも。
「いって、こい」
ゼットが前へ出る。日廻の傍から、仲間たちのところへ向かっていった。
◇◆◇
ダークマターネクロズマが、大きく距離を取った。
アブソルを避け、コジョンドの攻撃範囲から離れる。ミュウの光を振り切り、フライゴンの竜の力とゼットの攻撃から逃れるように、巨体が上昇していった。
『逃げる……?』
ロトムが呟いた。
違った。
上空で異形が止まり、身体を構成する結晶が一斉に開く。その隙間から光が漏れた。
ロトムの画面を数値が走り、止まる。計測限界を超えていた。
『……駄目ロト』
空が明るくなる。
黒紫の異形を中心に、巨大な光が形成されていた。雲も石の海も照らされ、影が消えていく。世界中から奪った光を、一か所へ集めたような輝きだった。
『あれが……地表に触れたら』
ロトムが計算を止めた。
『この星が終わるロト』
誰も答えなかった。
ダークマターネクロズマの全身から溢れた力が収束し、天を埋め尽くす。
日廻たちも、戦場も、星ごと終わらせるための光。
ゼットが前へ出た。メガシンカした身体へ、これまでとは比較にならない力が集まっていく。
アブソルも頭部の刃を持ち上げ、走れない脚で地面を踏み締めた。周囲へ闇が渦巻く。
巨大化したコジョンドが右腕を引くと、集まった格闘の力がさらに巨大な拳を形作った。
フライゴンの周囲では、抑え込んでいたZパワーが一つの竜へ収束する。
ミュウの頭上でも結晶が形を変えた。荒れる光の下で、青い目が上空を見据えていた。
日廻はその背中を見ていた。
見えているのか、もう自分でも分からない。それでも、そこにみんながいることは分かった。
「……いけ」
アブソルの前から、巨大な闇が放たれた。
『あくのはどう』。黒い奔流が空へ伸びる。
同時に、コジョンドが右腕を突き出した。
『ダイナックル』。拳を覆っていた格闘エネルギーが本体から離れ、空を駆け上がる。
フライゴンが翼を打った。
『アルティメットドラゴンバーン』。傷ついた身体を包んでいた巨大な竜が、咆哮とともに昇っていく。
ミュウも結晶の輝きを一点へ集めた。
『テラバースト』。宝石のような光が、三つの攻撃へ重なる。
そして、ゼット。
X、Y、Z。
砲口に光が走り展開される。
一瞬の空白。
解き放たれた数多の光の柱が、四匹の攻撃とともに天へ伸びた。
それら全てを上回るほどの極光の柱『無に帰す光』。
五つの力が、『天焦がす滅亡の光』にぶつかる。
光の境界で空間が歪み、石の海へ巨大な亀裂が走る。触れられてすらいない灰色の大地が、次々と砕けていった。
『まだ……足りないロト……!』
その時、レジギガスが石化した腕を持ち上げた。
まともに立つことさえ難しい身体で、掌を空へ向ける。そこに集まった光が、一条の奔流となった。
『はかいこうせん』。
六つ目の光が加わり、境界が僅かに押し返される。
だが、まだ足りない。
離れた石の海で、長い身体が動いた。
深い傷も、身体を侵す石化も残ったまま。空へ戻る力など、もうなかった。
それでも黄色い瞳が上を向く。
天空に座する者が地上から頭を持ち上げ、口を開いた。
レックウザは飛べないまま、地上から空を撃った。
『はかいこうせん』。
七つ目の光が重なる。
異なる力が一つの巨大な奔流となって昇り、衝突する。
境界が止まり。一瞬、完全に拮抗した。
『…………』
ロトムは数値を追っていた。「頼む」と口にする余裕さえなかった。
やがて境界が動く。
下へ。
『……そんな』
僅かに、敵の光が勝っている。
七体すべての力を合わせても、なお足りなかった。
『出力……足りないロト……ほんの少し、ほんの少しだけ……!』
境界がまた下がる。
このままなら、負ける。
「ミュウ」
その声に、ミュウが反応する。
振り返るより早く、
何も言わず、青い瞳を光らせた。
『サイコキネシス』。
次の瞬間、念力に押されて加速した。
七つの攻撃と、『天焦がす滅亡の光』。
世界を二つに割るほどの光。その奔流の縁をかすめ、あまりにも小さな球が昇っていく。
七つの攻撃を押し返すために、すべての力を使っていたダークマターネクロズマは気が付かない。
裂け目の奥、黒紫に呑まれた別の顔。その中で瞬く光へ、届いた。
ボールが開き、赤い光が走った。
ダークマターネクロズマではなく、その内側のネクロズマへ。
一匹のポケモンとして認識し、捕まえようとする。
黒紫の身体が、大きく痙攣した。
赤い光がネクロズマを包む。だが、引き込めない。
絡みついたダークマターから昏い虹色の光が逆流し、捕獲の光を押し返していた。ボールが軋み、表面に罅が入る。
捕まらない。
それでも、十分だった。
ネクロズマを引き込もうとする力と、離すまいとするダークマター。その二つが逆方向へ引き合い、一体となっていたものの間に僅かなずれが生まれた。
小さな光が、強く瞬く。
全身を巡っていた昏い虹色が途切れ、『天焦がす滅亡の光』が揺らいだ。
『――今ロト!!』
全員が、同時に力を込めた。
『フォォォォウッ!!』
アブソルの闇の奔流が膨れ上がる。
『コジョォォォォォンドォォッ!!』
巨大な拳が光を押し上げた。
『ファイイイイイッ!!』
竜が咆哮する。
『ミュゥゥゥウッ!!!』
ミュウの結晶が激しく輝き。
ゼットの砲身から更に光が溢れた。
『
レジギガスの巨体が震える。
レックウザも地上から咆哮した。
七つの力が境界を押す。
下がり続けていた光が止まり、上へと動いた。
七つの攻撃が『天焦がす滅亡の光』を押し返す。
少しずつ、やがて一気に。
天を覆っていた光が逆流し、敵の攻撃を呑み込みながら、その先へ届いた。
光が爆ぜる。腕も翼も、異形を構成する黒紫の結晶が次々と砕けていく。千切れた昏い虹色は繋がらず、ホウオウの炎もディアルガの時間も、修復へ回らなかった。
モンスターボールが砕けた。
赤い光が消える。
だが、その直前、ダークマターと閉じ込められていたものの間へ、決定的な亀裂が入っていた。
黒が剥がれ、隙間から光が溢れる。
七つの攻撃が、異形を貫いた。
◇◆◇
音が戻った時、巨大な異形はもうそこにはいなかった。
空から黒いものが降っている。灰とも霧とも結晶の欠片とも違う粒が、形を保てなくなった感情のように崩れていった。
その中に、一瞬だけ別の輪郭があった。
黒く、角張った身体。
先ほどまでの異形とは違う、一匹のポケモン。
その身体から黒い霧が離れ、光が漏れた。
巨大な翼。獣の輪郭。月を思わせる翼と、鮮やかな鳥。稲妻を束ねた両腕を持つ影の隣には、巨大な竜の頭部を思わせる影がある。
そして、青い巨体。
奪われていた光が、今度こそ離れていく。
戻されることなく空へ昇り、それぞれが還るべき場所へ向かっていった。
その輝きが、石の海へ降り注ぐ。
誰かを焼くためでも、奪うためでもない光が、戦場を静かに照らしていた。
アブソルを包んでいた光が消え、白い毛が元へ戻る。
コジョンドの巨体も赤い粒子を零しながら縮み、フライゴンを覆っていた竜の力が消えた。
ミュウの頭上で結晶が砕け、宝石の輝きがほどけていく。ゼットのメガシンカも、静かに解けた。
レジギガスが腕を下ろし、最初に振り返った。
少し離れた場所では、レックウザも地面へ伏したまま、黄色い瞳を同じ方向へ向けていた。
『………日廻ッ』
ロトムの声がした。
五匹は、まだ振り向かなかった。
分かっている。
分かっている。
分かっている。
分かっている。
分かって……いる。
誰よりも帰りたがっていたのが、誰なのか。
あの古い家へ、いつもの場所へ、またみんなで帰りたいと言ったのが。
誰よりも、生きたがっていたのが。
だから、振り向けなかった。
そこにあるものを見れば、本当だと認めなければならない。
空から光が降っている。
奪われていたものが、次々と還っていく。
何秒だったのか、何分だったのか。もう誰にも分からなかった。
やがて、アブソルが。
ミュウが。
コジョンドが。
ゼットが。
フライゴンが。
振り向く。
もう、榊原日廻は動かない。