何もない。暗いのではない。明るいのでもない。闇の中に放り出されたという感覚すらなかった。そもそも、それを確かめるための目がない。
息をしていなかった。胸が上下する感覚も、心臓が脈打つ音もない。手も脚もなく、指先がどこにあるのかさえ分からない。冷たくもなければ温かくもなく、最後まで身体中を食い荒らしていたはずの痛みさえ、きれいに消えていた。
まだ何かがある。
何をもってそう思うのかは分からない。身体も、声も、輪郭さえないのに、自分が自分であるという感覚だけが、消え残った火種のようにかすかに残っている。
ただ、それも頼りなかった。考えようとすると、自分というものが薄くなる。何かを思い出そうとするたび、意識の端がほどけて、どこかへ流れていくような気がした。
最後に、何を見たのか記憶を辿っていくと、巨大な光があった。
空も海も何もかも呑み込んでしまいそうな光と、それに抗う、いくつもの力。ぼろぼろになりながら、それでも自分と一緒に立っていたみんな。
手の中には、何かがあった。
丸いもの。檻のようなもの。結ぶもの。
最後に残っていた――モンスターボール。
届かなかったはずだったのに投げたそれが、途中でもう一度動いた。
その先で何かが軋み、壊れた。
光が溢れた。その光景を見ながら、自分はたぶん、笑っていた。
そして、自分は――。
『――榊原日廻』
耳などないはずなのに、声が聞こえた。
遠くから響いてきたわけではない。頭の中から聞こえたのとも違う。ただ、その意味だけが、形を失っていた意識を自覚させる。
あぁ、そうだ、自分はそんな名前だった。
『聞こえていますか』
返事をしようとして、できなかった。
口も喉もない。
そもそも、どうすれば声になるのかが分からない。
それでも何かを返そうとして、意識だけを必死にそちらへ向ける。
『そのままでは、難しいでしょう』
穏やかな声だった。
『少しだけ、形をお貸しします』
何かが触れた。
それが光だったのかどうか、日廻には分からない。
けれど、次の瞬間には瞼が開く感覚があった。
「――っ」
空気が喉を通り、胸の中へ流れ込んでくる。
反射的に息を吸い込んでから、日廻は自分が呼吸していることに気づいた。足の裏には硬い感触があり、膝が、腰が、肩がある。腕を持ち上げれば、その先に手があった。
頭を上げて周りを見渡すと、そこはどこまでも、白かった。
床らしきものはある。だが、その先に壁はなく、天井もない。遠近感すら曖昧な白い空間が、果てというものを忘れたように続いている。
「…………」
その手に指があるのを見た。
一本、二本と数えるまでもなく、左右とも五本揃っていた。
何の抵抗もなく、それが当然のように動いた。
顔へ触れてみる。頬も額も柔らかく、硬質化した感触はどこにもなかった。片側を奪われていたはずの視界も戻っている。服に血はなく、身体の奥を刺すような痛みもない。
紛れもない、何も傷ついていなかった頃の自分だった。
だからこそ、すぐに分かった。
「……これ、俺の身体じゃない?」
『その通りです』
声がするほうへ日廻が顔を上げる。
少し離れた場所に、白い存在が立っていた。
四本の脚を持つ大きな身体。その胴を囲うように、黄金色の輪がある。ポケモンなのかもしれない。けれど、これまで出会ったどのポケモンとも違って見えた。
この果ての見えない空間そのものが、彼のために用意された見えない玉座であり、彼がいるからこそ、この場所が成立している。
そんな、説明のしようのない感覚があった。
「……あなたは、誰ですか」
『私は
白い存在は静かに答えた。
『そう呼ばれています』
聞いたことのない名前だった。
日廻は警戒を解かないまま、自分の身体へ視線を戻す。
『あなたが私と言葉を交わし、自らを認識するために用意した、仮初めの器です』
なるほど、と素直に納得できるような話ではない。
けれど、今さら常識を持ち出す気にもなれなかった。
この一週間、常識では説明できないことなど嫌というほど見てきた。
「俺の身体は?」
『あなたの身体は、既に生命活動を終えています』
驚いたという感覚はなかった。
目を閉じて、胸の内側へ重いものが一つ落ちた。
「……そう、ですか」
死んだ。言葉にしてしまえば、それだけだった。
けれど、納得しているから平気なわけではない。
本当は帰りたかった。生きて帰って、また家で飯を食って、眠って、次の日を迎えたかった。世界を救ったら死んでもいいなど、一度だって思っていない。
それでも最後には、自分が戻れるかどうかより先に、やらなければならないことがあった。
壊れかけた身体で。
残っていた命で。
最後には、それよりもっと深い何かまで、使い潰した。
あのときの自分には、それが何なのか考える余裕などなかった。ただ、壊れたゼンブイリングの向こうへ、自分を形作っているものまで流れ出していくような感覚だけは覚えている。
「ここは、死んだ者が来る場所?」
アルセウスは静かに首を振った。
『ここは始まりの間。本来、死者であるあなたが訪れる場所ではありません』
「……なんで俺がいるんですか」
『あなたは肉体の生命だけではなく、自らを形作る根幹まで力へ変えようとしていました』
そこまで聞けば、何となく察せられた。
身体が死んだだけではなかったらしい。
自分という存在そのものまで、あの戦いで燃やしかけていた。
『完全に失われる前に、残っていたあなたを私が拾い上げました』
「……拾った、ね」
魂。そんな言葉が頭をよぎったが、日廻は口にしなかった。
どういう仕組みなのかも、どこまでが自分なのかも分からない。ただ、あそこで終わるはずだった何かが、今はここにいる。
なら、ひとまずそれでよかった。
「……アブソルたちは」
気づけば、その言葉が口から出ていた。
「みんなは。どうなりました」
『全員、生きています』
その一言を理解するまでに、一拍かかった。
「…………全員?」
胸から、息が抜けた。
日廻はその場に座り込みそうになり、どうにか踏みとどまった。握っていた拳から力が抜け、指がゆっくり開いていく。
全員、生きている。
無傷であるはずがない。最後に見た時点で、誰も彼もまともな状態ではなかった。それでも、生きている。
「よかったッ」
声が震えた。そして、その安堵の中にひどく身勝手な感情が混ざった。
――自分だけで済んだ。
自分の死を喜んでいるわけではない。それでも、もしここで誰かの名前を挙げられていたら、きっと耐えられなかった。
自分一人だけだった。
その事実に今だけは安堵してしまう自分を、責めることも肯定することもできなかった。
ただ、生きていてくれてよかった。
そこまで考えてから、戦場にいたのが仲間だけではなかったことを思い出した。
今になって思い返せば、前哨戦のようにすら思えるガブリアスとルカリオとの戦い。
あの二匹も、本当の意味で敵だったわけではない。意思を奪われ、こちらへ牙を向けさせられていただけだった。
最後に見たときにはミュウによって戦場から遠ざけられていた。二匹とも生きており、今はあの闇の支配からも解放されていると知って、日廻はもう一度小さく息を吐いた。
それから、さらに大きな存在を思い出す。
「レジギガスは?」
『生きています』
「……レックウザも?」
『傷は深いですが、生きています』
空を駆けて現れた長大な身体が、最後には地上から空を見上げていた光景を思い出す。飛ぶことすらできないほど傷つきながら、それでも最後の一撃へ加わった。
「ディアルガは」
『無事です。ミュウによって戦場から離された後も、命は保たれています』
「じゃあ、あいつが時間を戻したときは……」
第二形態が、自分だけを戦う前の状態へ戻したあの瞬間。
『以前に奪われていた光を利用したものです』
ディアルガ本人が再び捕らえられたわけではない。
そこまで分かれば十分だった。
日廻は記憶を辿る。
最後、黒紫の巨体が崩れていく中で、無数の光が飛び出した。
自分には正体の分からないものも多かった。それでも、それぞれが別の何かの輪郭を持っていたことは覚えている。
「あいつに喰われてた連中は」
『奪われていた光は、既にそれぞれの持ち主へ還っています』
完全に元通りになったわけではないのだろう。
傷ついた身体まで一瞬で治ったのかは分からないし、奪われていた間に受けた苦痛が消えるわけでもない。
それでも、あの黒いものの中に囚われてはいないことがよかった。
「……そうだ。穴から出てきた、あいつらは」
世界各地へ現れた、ウルトラビーストと呼ばれていた存在。
あれだけの数がこちら側へ流れ込んでいた。
『異常な接続によって本来の世界から離れたものは、それぞれ在るべき場所へ戻します』
「……生きたままだよな」
『ええ、彼らにっても今回のことは異常事態だったでしょう』
それならよかった。日廻には、かれらが何を考えていたのかまでは分からない。
人を襲った個体もいた。被害も出た。
すべてが自分の意思ではなくこちらへ送り込まれ暴れるように仕組まれていたように思えた。
そんな彼らに、帰れる場所があって、帰ることもできたのなら、とても喜ばしいことだ。
聞けるだけの安否は確かめた。
それでも、最後に一つだけ残っていた。
「ネクロズマは……どうなりましたか」
『ダークマターとの結びつきは断たれました』
そこで、僅かな間があった。
『彼も生きています』
胸の奥から何かがほどけていった。
ネクロズマのことなど、日廻はほとんど知らない。
どんな場所で生きていたのかも、何を好むのかも知らない。言葉を交わしたことすらない。
それでも、最後に見てしまった。異形の怪物の奥深く。何もかもを壊そうとする闇のさらに内側で消えかけながら瞬いていた、あの小さな光を。
あれが本当に言葉だったのかは、今でも分からない。
――たすけて。
日廻には、そう見えた。
だから、やめられなかった。
もう身体は動かなかった。命も尽きていた。それでも、助けを求めているものがまだそこにいると思ってしまったから、最後に残ったものまで使った。
それが無駄に終わらず、届いた。
あの中にいたものを、置いていかずに済んだ。
「……よかった」
自分が死んだと聞いたときよりも、ずっと深く。
日廻は安堵していた。
『あなたとポケモンが出会い、互いを知り、信じるようになったこと。それが最後には、あの闇を祓う力となりました』
「……俺だけではありません」
『知っています』
その返事が、ありがたかった。
自分一人なら何もできなかった。
そもそも、最初から一人でどうにかできるようなことではなかった。
助け、助けられて。
信じ、信じられた。
そうやって一週間の間に積み上がったものが、最後にはあそこまで届いた。
日廻はしばらく黙っていたが、やがて白い空間の向こうへ視線を向けた。
「……結局、あれは、何をしようとしたんでしょうか」
ダークマター。
世界を滅ぼそうとしたもの。
「世界を支配したかったわけじゃない、強くなってその先で何かしたかったようにも見えなかった」
『あれは、自らの存在を否定していました』
「自分を?」
自分なぞ存在しなければいい。自分が生まれたことが間違いなら、自分を生んだものも間違っている。苦しみが生まれる世界そのものが間違っている。
なら、苦しむものも、悲しむものも、怒るものも、絶望するものも――自分も世界も、何も存在しなければいい。
「……世界ごと、心中するつもりだった?」
『それに近いのでしょう』
理解したくないのに、全く理解できない考えでもなかった。
自分などいなければいい。そんな言葉を、人間はたぶん何度も生み出してきた。
そこから世界そのものを消そうとするところまで行くのは異常だ。それでも、その最初の一歩だけなら、あまりにも人間の近くにある。
それが日廻には、何より薄気味悪かった。
「本当は助けてほしかったのかな……」
その言葉に、アルセウスは少しだけ沈黙した。
『それは、私にも分かりません』
「……そっか」
そうであってほしい、と勝手に決めることはできない。
苦しみから生まれたことと、世界を滅ぼそうとしたことは別だ。実際に多くのものを傷つけ、命を奪いかけた。
だからといって、どうしてそこまで行ったのかを考えることまでやめる必要もない。それくらいの距離でいいのだろう。
「人が出したものも、あれには混ざっていた」
『人間だけが生んだものではありません。しかし、人の負の感情もまた、あれを形作る一部となりました』
「だったら……今回のことは、人間が起こしたことでもあると?」
『責任の一端はあるのでしょう』
アルセウスは否定しなかった。そのうえで。
『過ちを犯したことと、滅びるべきであることは、同じではありません』
日廻は何も返さなかった。
間違えた、傷つけた。
取り返しのつかないことをした。
だから、自分などなくなればいい、全部なくなればいい。
それこそが、あの闇が行き着いた答えだったのかもしれない。
人間にも責任があるなら、向き合わなければならない。
けれど、それと滅びて当然だという話は同じではない。
その言葉を胸の中で転がしてから、日廻はふと眉を寄せた。
「……いや、待て」
目の前の白い存在を見る。
「あなたは、そこまで知ってたんだよな」
『ええ』
「しかも……多分、相当強いだろ」
アルセウスは否定しなかった。
日廻の中で、別の感情が膨らむ。
「じゃあ、なんで戦わなかった、世界の危機だったんだぞ」
声が低くなった。
今まで、圧倒的な存在に腰が引けた言葉が一気に上がった。
「あそこで、みんな死にかけてた。実際、俺は死んだ。それなのに、お前は最後まで出てこなかった」
『私が直接戦うことで、より大きな危険を招く可能性がありました』
「……どういう意味だよ」
『今ここにいる私は、アルセウスという存在のすべてではありません』
アルセウスは、それ以上を必要以上に詳しく語らなかった。
その光は、さらにその先にいる本来の存在へと繋がっている。そして、もしダークマターが目の前のアルセウスから光を奪えば、その繋がりそのものを辿られる可能性があった。
要するに、目の前のこいつまで喰われれば、その向こうにいるもっと洒落にならない何かへ、闇が届くかもしれなかった。
「……だから、出られなかった」
『そうです』
理屈は分かった。納得できるかは別だった。
「……じゃあ」
嫌なものが胸の奥を這った。
「俺たちが負けてたら、どうするつもりだった」
アルセウスが沈黙した。
その短い間だけで、日廻は聞かない方がよかったのではないかと思った。
『あの闇が二つの世界を越え、さらに外へ広がる兆候を見せた場合――あなたの世界とポケモンたちの世界、その双方を他の世界から切り離すことになっていました』
「…………切り離す?」
二度と外へ繋がらないように。
そこまで聞けば、意味は嫌でも分かった。
「二つともまとめて捨てるつもりだったってことか」
『はい』
頭に血が上った。
「ふざけんなよ!」
力を入れた拳が震える。
「こっちに何人いると思ってんだ。向こうにだって、どれだけいるか分かんないだろ。それを全部――俺らが止められなかったら、まとめて切って終わりだったのかよ!!」
アルセウスは目を逸らさなかった。
言い訳もしない。
『あなたの世界には、トロッコ問題という思考実験がありますね』
「……今それを持ち出すのか」
『他に近い言葉を、私は知りません』
そうしなければ、その外にある数え切れない何かまで危険に晒されるかもしれない。
数が多いからこちらを見捨てる、などと簡単に言える話でもない。
けれど、何もしなければ全部が失われる瞬間が来たなら、誰かが選ばなければならない。
『私は、その選択を正しいとは言いません』
「…………」
『ですが、選ばなければならない時が来れば、選ぶことになっていました』
「……クソみたいな二択だな」
『ええ』
あまりにも素直に肯定されて、怒りの行き先を少しだけ失った。
正しいとも間違っているとも言わない
必要ならやるとそれだけだった。
結果として、自分たちはその二択を選ばずに済んだ。
だからといって、自分たちがもっと正しい答えを出したわけでもない。ほんの少し何かが違えば、全て失敗していた。実際、自分はこうして死んでいる。
正解を選び取ったというより、どうにか別の場所まで転がり込んだ。
だからこそ、もう一つ気になることがあった。
「……お前は」
『何でしょう』
「なんで、そこまで人間に肩入れするんだ」
アルセウスが僅かに首を傾ける。
「俺のいたところには、八百万の神って考え方がある。山にも川にも海にも、いろんなところに神様がいるっていう」
昔から深く信仰していたわけではない。
それでも、日本で生まれ育っていれば自然と耳に入ってくる考え方だった。
「でも、神様って人間のためだけにいるもんじゃないだろ。助けるのもいれば、祟るのもいる。人間に都合よく動いてくれるものばっかじゃない」
しかも今回の闇には、人間自身が生み出したものまで含まれていた。
それなのに、消えかけた自分まで、わざわざ拾い上げた。
「なんでだよ」
『私は、人のための神でも、人が作り出した神でもありません』
静かな答えだった。
『本来あるべきでない世界の接続を正すことも、そこから生じた異常を修めることも、人を愛しているから行うのではありません』
「じゃあ、俺を拾ったのも仕事?」
『いいえ』
今度の答えは、少し違った。
『私はかつて、人と共に同じ時間の中で生きていました』
「…………」
『そして、その日々を……善き旅であったと、そう思ってしまった』
その瞳に浮かんだものを、日廻はうまく言葉にできなかった。
ただ、遠い昔誰かと共に歩んだ旅を、今も忘れずにいるのだということだけは分かった。
「……人間に、情が移ったってことか」
『そうなのでしょう』
「神様が、それでいいのかよ」
『だからこそ、私は止められました』
「……え?」
アルセウスが日廻を見る。
『私は、あなたを生へ戻すことを望みました』
意味を理解した瞬間。
借り物のはずの心臓が、大きく跳ねた。
「……できるのか」
『できます』
死んだという事実を受け入れたはずなのに、奇跡の御業を可能にする存在に、身体が勝手にそちらへ手を伸ばした。
『ですが、それを選ぶことは許されません』
伸ばしかけたものが、止まった。
「…………」
『人と共に生き、人へ情を持つようになった私が、ただ一人を死なせたくないという願いだけで死を覆すことは許されないのです』
力がないから、できないのではない。
目の前の存在自身は、そうしたいとすら言った。
それでも、その奇跡を個人的な情だけで使ってはいけない。
目の前にいるこいつが全てではないという、先ほどの話とも繋がっているのだろう。日廻はしばらく黙ったあと、力なく息を吐いた。
「……面倒くさいな、神様って」
アルセウスは何も反論しなかった。
その代わり、少し間を置いてから続ける。
『ですが、あなた一人の生死とは別に、修復しなければならないものがあります』
「……世界か」
『ええ』
今回の出来事は、本来交わるはずではなかった二つの世界が、異常な形で繋がったことから始まった。
ならば、その異常そのものを正すことは、死者一人を情によって蘇らせることとは意味が違う。
『あなたの世界を、異常な接続が生じる以前へ戻すことができます』
「以前って……どれくらい」
『およそ一週間です』
「…………一週間」
その数字を聞いた瞬間、嫌な予感がした。
世界中に開いた穴も、石化も、壊れた街や環境も、そこで傷ついた人も死んだ人も、記録された映像も写真も、この一週間で人間の世界に刻まれたポケモンの痕跡も。
すべて、異常が起こる前へ戻る。
死者を一人ずつ蘇らせるのではない。
死という結果に至った因果そのものを、世界ごと異常が生じる以前へ戻す。
「向こうの世界も?」
『いいえ。ポケモンたちの世界は戻しません』
「……じゃあ、向こうじゃ、この一週間は」
『起こったこととして残ります』
胸がざわついた。
日廻は少し考えてから尋ねる。
「俺はどうなる」
『今のあなたは、既にあなたの世界の時間から外れています』
今の日廻は死によって世界の時間から外れ、ここへ拾い上げられている。だから世界だけを一週間戻しても、今ここにいる自分まで巻き戻るわけではない。生きていた頃の肉体へ、現在の自分が帰る。
「……要するに、俺だけ世界の外にいるから、俺だけ忘れない?」
『大きく間違ってはいません』
「じゃあ、それでいい。これ以上聞いても多分分からん」
仕組みを知ることより、もっと重要なことがあった。
「向こうにいるみんなは?」
『彼らの記憶も失われません』
それならと一つの希望が、反射的に浮かんだ。
「……また、あいつらに会えるのか」
『分かりません』
胸の奥が冷えた。
慰めるための間すらなかった。
本当に分からないのだ。
『むしろ私は、二つの世界を再び安易に接続するべきではないと考えています』
「……それは、どうしてだ?」
『人とポケモンが出会えば、必ず理解し合えるわけではないからです』
アルセウスは、人がポケモンを恐れていた時代を知っているのだという。
ポケモンに傷つけられた人間がいた。
人間に傷つけられたポケモンもいた。
今、向こうの世界で人とポケモンが当たり前のように共に暮らしているとしても、最初からそうだったわけではない。
『共に生きることは、互いを好くことから始まったのではありません。まず、互いが何を恐れているのかを知るところから始まりました』
「……何を、恐れてるか」
その言葉が妙に残った。けれど今の日廻には、それ以上の意味までは分からない。
自分はたまたま、ポケモンたちと一緒にいられた。
だからといって、世界中の人間が同じようにできるわけではない。
それだけは、この一週間で嫌というほど分かっていた。
『決めるのは、あなたです』
「……俺が?」
『この選択を行える場所にいるのは、あなたです』
今、世界の外にいるのは自分とアルセウスだけ。
その選択を受け取れる場所に、たまたま自分がいる。
なら、戻せばいい。迷う理由など探す方が難しい。
一週間前へ戻れば、死んだ人が戻る。傷ついた人も、壊れた街も、傷ついた土地も、全部が異常が起こる前の姿へ戻る。
そして自分も生きて帰れる。
なら、戻せばいい。
――本当に?
自分の中から、そんな問いが返ってきた。
「…………」
一週間、たった七日。人生の長さで考えれば、誤差みたいな時間だった。
なのに、思い出そうとすれば、その七日の中には驚くほど多くのものが詰まっていた。
朝、目を覚ませば、聞こえるのは家が軋む音くらいだった。
それが、いつからか違っていた。
誰かの気配がする。どこに居ても一人ではない。
台所にも、畑にも、庭にも。作業部屋にも
何もせずに家で過ごしていても、どこかに誰かの気配があった。
一人だけの静かだった家が騒がしくなった。
食費も増えた、作る量は倍以上に膨らんだ。
勝手なこともされて、怒ったり困ったりもした。
それでも、その騒がしさの中で明日のことを考えながら眠るようになっていた。
一人で暮らしていた時間の方が圧倒的に長いはずなのに、いつの間にか、一人だった頃の方が昔になっていた。
あの数日を日廻は、自分の心の在り処だと思った。
大袈裟な言葉では、そこに帰ればみんながいたから。
それだけだった。
それだけのものを。
ようやく手に入れた。
世界を戻すということは。
「……戻し、たくないッ」
戻さないという選択もある。戦いは終わった。ダークマターはもういない。
このままでも世界は続いていく。みんなと過ごした一週間も、あの家に残ったものも、消えずに済む。
「俺は……戻したく、ない」
「だって、あったんだよ」
「ちゃんと、あったんだ」
同じ一週間で失われたものも、すべてそのまま。
死んだ人間が戻ることはない。壊れた街も、失われた日常も、起こったこととして残り続ける。
一週間しかなくても、夢ではなかった。自分は確かに、そこで暮らした。
世界を戻しても、自分は覚えている。向こうにいるみんなも覚えている。だから、なかったことにはならない。
それでも、自分の世界からは消える。
家から気配が消える。作業部屋に残った変化も、庭や畑に刻まれた痕跡も、何もかも一週間前へ戻る。
自分だけが覚えている生活になる。
どうしようもなく、残したかった。
けれど、別の景色が浮かんだ。
空に開いた穴、逃げる人々、襲われる街。
自分が直接見ていない場所でも、同じようなことが起きていた。
誰かが死んだ。
誰かが家族を失った。
誰かが、昨日まで当たり前だった日常へ二度と帰れなくなった。
自分には、その人たちの名前も顔も分からない。
それでも、その人たちにも、自分が失いたくないと思ったものと同じように、失いたくなかった生活があった。
当然のようにポケモンを恐れた人間もいた。
日廻だって最初から何も怖くなかったわけではない。
昨日まで存在すら知らなかった生き物が突然現れ、その中には人間など簡単に殺せるほどの力を持つものまでいる。
そんなものを目の前にして、怖がるな、自分と同じように接しろなどと言えるはずがない。
自分の一週間を残す。
それは、その人たちの喪失も残すということだった。
「…………ああ」
日廻は両手で顔を覆った。
「そういう、ことかよ」
少し前、目の前の神へ怒った。
二つの世界を切り捨てるのか、と。
そんなものを選ぶのか、と。
今度は、自分の番だった。
同じではない、規模も意味も違う。
自分が大切にしたいもののために、誰かの損失を残す。
ただ、安心する自分の隣の線路で誰かの悲鳴が想像できた。
「……クソみたいな二択だな」
『ええ』
さっきと同じ言葉。
さっきと同じ返事。
けれど今度は、アルセウスへ投げた言葉ではなかった。
世界のために戻せとも。
自分の大切な一週間を守れとも。
どちらが正しいとも言わない。
神様なら正解くらい教えてくれよ、と一瞬だけ思った。
たぶん、さっきからこいつが言っているのは人間の尺度では正解が存在しない、ということなのだろう。
時間の感覚がない場所で、日廻は長く考えた。
何度考えても、大切なものは大切なままだった。
世界中の誰かを思えば、あの一週間が軽くなるわけではない。
自分の生活が大切だからといって、知らない誰かの死が軽くなるわけでもない。
天秤に載せられるものではない。
それでも、選ばなければならない。
「…………戻してくれ」
口にした瞬間、胸の中で何かが千切れた気がした。
『分かりました』
「正しいとは思ってない」
日廻はアルセウスを見ずに続けた。
「これが一番いいのかも、分かんない」
世界のために、人類のために。
そんな立派な言葉は出てこなかった。
「俺が嫌だからって理由だけで……戻せるはずのものを、戻さないって決めるのは」
喉を詰まらせて言葉を探した。
うまく見つからなかった。
「……俺には、できない」
大切な一週間を失いたくない。その気持ちは、何一つ変わっていない。
それでも、そのためだけに、他の誰かが失った命や生活を戻せる機会を捨てる。
それを選べなかった。
だから戻す。
正しいからではない。
自分が、そう決めた。
アルセウスの周囲に、淡い光が灯った。
その光を見た瞬間、日廻の中で別の思いが弾けた。
「あ……待ってくれ」
日廻が面を上げると光が止まる。
「……一つだけ、頼んでいいか」
『聞きましょう』
日廻は一度、息を吸った。
「あいつらに……会わせてくれ!」
アルセウスは動かなかった。
「一回だけでいいッ!」
膝をつき、両手を床へついた。
そのまま額を、白い床へ押しつけて懇願する。
「別れの言葉くらい、届かせてくれッ!!」
返事はすぐには来なかった。
その短い沈黙だけで、嫌な予感がした。
『できません』
「…………」
日廻はしばらく何も言えなかった。
「声だけでもか?」
『それもできません』
「夢を見せて、とか」
面を上げると、アルセウスは静かに首を振った。
そして、少しずつ分かった。
「……できない、じゃないんだろ」
アルセウスは答えない、沈黙が答えだった。
会わせる力はある。
声を届けることも。
夢を見せることも。
おそらくは、今の自分をその場へ連れていくことさえできる。
ただ、それをすれば日廻は、もう一度あちらの世界へ触れる。
世界の時間から外へ引き上げられているからこそ、今の記憶と存在を保ったまま一週間前へ戻れる。
その自分をもう一度、声でも、思念でも、どんな形でも世界へ繋げれば、再びその世界の因果へ組み込まれる。
その状態で世界そのものを巻き戻したとき、今ここにいる自分を、そのまま一週間前の身体へ戻せる保証がなくなる。
最後の戦いで、自分を形作るものまで、ほとんど使い果たしていた。
辛うじて残ったものをアルセウスに拾われ、今ここにいる。
その自分自身が、世界を戻す流れの中で保てなくなるかもしれない。
最後の別れをすること。
今の自分のまま、生きた身体へ戻ること。
どちらか一方ならできるかもしれない。
けれど、両方を叶えられるとは限らない。
「…………」
日廻は俯いた。
戻すと決めた
自分で決めた。
その時点で、みんながいる生活を手放すことは分かっていた。
けれど、最後に一度くらいは。
せめて、ちゃんと終わらせるくらいはできるのだと。
「……さよならも、言えないのか」
『はい』
それだけだった。
大丈夫だとは言われなかった。
彼らなら分かってくれるとも。
想いは届いているとも。
いつか会えるとも。
何一つ、アルセウスは慰めなかった。
そのことが、ありがたくて。
同時に、どうしようもなく苦しかった。
たくさんのありがとうを伝えたかった。
何度も自分の前へ立ってくれたことに。傷だらけになっても離れなかったことに。何も知らない自分を何度も助けてくれたことに。
たくさんのごめんを伝えたかった。
最後まで心配をかけたことを。勝手に死んだことを。こんな別れ方しかできなくなったことを。
それから、一緒にいられてよかった。
たぶん、それが一番言いたかった。
作業部屋から聞こえていた音。
誰かを背に乗って空を飛んだときの風。
朝、何気なく交わした挨拶。一人分ではなくなった食卓。
畑の土、家の中を行き交う気配。
何でもないものばかりだった。
世界を救った瞬間より。
伝説と呼ばれるような存在を目の前にした瞬間より。
そんなものの方が、ずっと鮮明に浮かんできた。
全部、一週間の中にあった。
全部、自分の日常になっていた。
向こう側では、その一週間は消えない。
みんなにとって、自分はどうなる。
「…………あ」
自分たちの世界が戻れば、自分は一週間前の身体へ帰る。
生きている。
けれど、ポケモンたちの世界は戻らない。
向こうにとって榊原日廻は、最後の戦いまで共にいて、世界を救ったあとに死んだ人間のままだ。
自分は彼らが生きていることを知った。
ネクロズマまで助かったことを知った。
けれど、自分が今ここにいることを、彼らは知らない。
一週間前へ戻り、何もなかったことなった世界で生きようとしていることを。
「……ひどい、な」
誰に言ったのか分からなかった。
アルセウスでも世界でもない。
自分自身へだった。
戻すと決めたのは自分だ
誰かに命令されたわけではない。
それでも、最後に一度くらい会えるだろうと、勝手に思っていた。
「……会いたかったな」
少しだけ笑った。
笑えてはいなかった。
「ちゃんと、言いたかった」
それ以上は、声にならなかった。
ここで会わせてもらえば、ありがとうとごめんが言える。
一緒にいられてよかったと伝えられる。
その代わり、自分が一週間前へ帰れなくなるかもしれない。
今ここに残っている自分まで消えてしまうかもしれない。
一瞬だけ。
――それでもいいんじゃないか。
そう思った。
最後にちゃんと別れられるなら、あの一週間をくれたみんなに、自分の口で言葉を返せるなら。
そこで終わっても。
その方が――。
――前へ進め、日廻。
「…………」
霧の中で聞いた声が蘇った。
生きろとは言われなかった。
死ぬなとも、戻れとも。
最後まで、自分の答えを押しつけなかった。
前へ進め、と言った。
『俺だったら』ではなく。
自分が見つけて。自分が選んだものを。自分自身の覚悟で。
「……兄さん」
返事はない。今度こそ、本当に自分で決めなければならない。
別れを言うために、ここで終わる。
それも、自分で選べるのかもしれない。
でも、帰りたい。戦いの最中から、ずっとそうだった。
生きたい、家へ帰りたい。
失ったものを抱えたままでも。
言えなかった言葉が残ったままでも明日を迎えたい。
それを選ぶことは、みんなを捨てることではない。
少なくとも、そう思わなければ――――。
「…………」
面を上げて、アルセウスを見る。
「戻してくれ」
同じ言葉だった。
少し前にも、同じことを言った。
今度は意味が違った。
世界を戻してくれ、だけではない。
自分も、その世界へ。
生きた身体へ、帰してくれ。
『―――分かりました』
アルセウスの周囲に光が広がった。
白い空間へ溶けるように、淡い輝きが満ちていく。
今度は、日廻も止めなかった。
「向こうにいるみんなは?」
『彼らの記憶も失われません』
それだけは、消えない。
だから十分だとは思わなかった。
記憶があるから、会えなくてもいい。
そんなふうに割り切れるはずがなかった。
むしろ覚えているからこそ、これから苦しいのだろう。
なにをするにしても、心の在り処は思い出すだろう。
自分だけが知っている一週間の時間は、傷のように祝福のように滲むだろう。
光が強くなっていく。
日廻は、自分が帰る場所を思い浮かべた。
家はある。
畑もある。
縁側も。
作業部屋も。
兄が遺した3Dプリンターも、きっと何も知らなかった頃の姿へ戻っている。誰かに弄り回される前の、布を被せられたままの遺品として。
何一つ壊れていない。
何一つ失われていない。
世界から見れば、そうなのだろう。
そこにあったはずの気配だけがないまま。
自分にとっての日常だけが、丸ごと欠けている。
「……帰るよ」
誰へ言ったのか。
自分でも分からなかった。
目の前のアルセウスへだったのか。
もう一度だけ会えた兄へだったのか。
もう声を届けることのできない、みんなへだったのか。
返事はない。
日廻も、もう求めなかった。
光が、榊原日廻を包む。
最後まで。
さよならだけは、言えなかった。
日廻が選ばなかった場合
・日廻は死んだまま、ただポケモンたちと共に生きた証は現代世界に残る。
・現代世界にポケモンが出現した事実は残る。
・今回の異変によって生じた被害も残る。
日廻が選んだ場合
・結果として日廻は蘇る。
・現代世界にポケモンが出現した事実は消える。
・今回の異変によって生じた被害も消える。
・ポケモンたちと共に生きた証も消える。
※ポケモン側の世界は巻き戻らないため、彼らの記憶にはすべて残っています。