一日目。瞼を開ければ、見慣れた天井があった。
窓の隙間から朝の光が差し込んでいる。遠くで鳥が鳴き、風に揺らされた葉の擦れる音が聞こえていた。
何の抵抗もなく、呼吸ができた。
両手を持ち上げる。
右手にも、左手にも、指が五本ある。
石になっていない。砕けてもいない。頬へ触れても硬い感触はなく、片目ずつ閉じても、どちらの目もちゃんと見えている。
身体の奥を引き裂いていた痛みも、落下したときに壊れたものも。
流しすぎた血も、最後には息をすることすらできなくなった身体も。
全部、元に戻っている。
アルセウスの言葉通りだった。
「…………」
その事実を噛み締めるより先に、身体が別のことをした。
布団から起き上がり、窓を開ける。
「…………あ」
小さな声が出た。
まるで、思い出したように。
或いは、誰もいないことを確認したように。
「そう、だよな」
体が軽かった。あれほど傷ついていたのが嘘のようだった。いや、世界にとっては本当に、あの傷など最初から存在しなかったことになっているのだろう。
襖を開け、廊下へ出る。
少し歩いて、日廻は止まった。
「…………」
何を、しているんだろう。
それでも、足はまた動いた。
まるでいつもの朝を繰り返すように。
誰もいない居間を見た。
誰かが覗き込んでくるのを待つように開けていた台所の窓も、今は閉じている。
縁側にも、騒いだり涼んだりする姿はない。
庭は、ひどく殺風景だった。
探しているわけではない。
少なくとも、日廻はそのつもりだった。
みんながどこへ行ったのかは知っている。
消えたわけではない、向こうの世界で生きている。
家のどこかに隠れているかもしれないなどとは思っていない。
それなのに、いるはずだった場所を見てしまう。
「……何やってんだ、俺」
やがて、作業部屋の前まで来た。
いつも開け放していたはずの戸が、閉じている。
手を掛け、開けた。
「…………」
部屋の中は、何も起きる前の姿へ戻っていた
勝手に持ち込まれたものもない。妙な改造の痕跡もない。床に増えていた細かな傷も、部品も、工具も、何一つない。
部屋の隅で布が掛けられているものに日廻はゆっくり近づいた。
手を伸ばし、布の端を掴む。
少しだけ迷ってから、引くと灰色の布が滑り落ちる。
その下から現れたのは、3Dプリンターだった。
何の変哲もない。兄が遺したもの。
「…………」
電源は入っていない。勝手に動き出すこともない。
得意げな声が飛んでくることもない。
冷たい、ただの機械だった。
「……本当に」
声が掠れた。
「戻ったんだな」
ここへ帰ってくるまで、分かっていたはずだった。
世界を一週間戻す。
その意味も理解して、自分で選んだ。
それでも、この機械に触れて、ようやく実感した。
日廻は落とした布を拾い、少し埃を払って、もう一度3Dプリンターへ掛けた。
使うことも、捨てることも、兄の遺品だからという理由だけで置いていた。
何一つ、おかしくない。
ただ、布を掛け終えたそれは、ひどく場違いなものに見えた。
朝食を済ませたあと、日廻は家を出た。
目的地に向かって車を走らせている。
何もないことは知っている。
やがて道端で車を停め、覚えている場所まで歩く。
かつて穴があったはずの、ただの斜面へ手を触れる。
「……そりゃ、そうだよな」
日廻は苦笑した。
これが正しい世界なのだと。
みんなは生きている。
向こう側で、自分との一週間を覚えたまま。
自分だって、生きている。
「……これで、よかったんだ」
その日の夕方、居間のテレビでは、ニュースが流れていた。
『――これまで確認されていなかった天体が新たに観測されたとして、国内外の研究機関が相次いで追跡観測を開始しています』
日廻は台所にいた。
包丁で野菜を切っている。
『専門家によりますと、既存の観測記録との照合が進められているものの、なぜこれまで確認されていなかったのかについては、現時点で――』
包丁がまな板を叩く。
日廻は聞いていなかった。
適当にテレビをつけただけだった。
ニュースの内容より、家の中に人の声があることの方が重要だった。
切った野菜を鍋へ入れて、もう一つ切ろうとして。
「…………」
手が止まった。
明らかに、一人で食べる量ではない。
「……何やってんだ」
半分ほどを冷蔵庫へ戻した。
それから一人分だけ作り、一人で食べた。
向かいには、誰もいなかった。
◇◆◇
二日目。目を覚ました日廻は、また家も畑も作業部屋も見て回った。
誰もいないことを記憶に刻むように。
「…………」
台所へ行く。
朝食を用意する。
食べても、いつもより味がしない。
棚から出した空っぽな幾つもの食器を見て、うんざりするように息を吐く。
「……バカか俺は」
自分へ言い聞かせるように呟いた。
それから、一人だった頃の生活を思い返す。
ずっと続けてきたはずのものを、埃の被った棚から引っ張り出すように。
「いつまでやってんだよ」
昼過ぎ、パソコンの前で手が止まった。
画面には、日廻にはよく分からない表示が出ている。
「これ、どうすりゃ――」
口が勝手に動いた。
「ロト――」
そこで止まった。
部屋が静かだった。
「…………」
日廻は唇を閉じる。
検索欄へ文字を打ち込んだ。
自分で調べればいい。以前はずっと、そうしていた。
分からないことがあれば検索する。
説明書を読んで、試してみる。
それだけのことだった。
「……頼りすぎてたな」
思い返して、笑ってみた。
少しも面白くなかった。
いつもより時間が長く感じながら夜になる。
もともと静かな家だった。兄がいなくなってから、誰かと暮らした時間より、一人で暮らした時間の方がずっと長い。
だからこれは、元に戻っただけだ。
時計の針だけが、忌々しいほど規則正しく進んでいく。
最初のうちは、そのたびに顔を上げた。
何度目かで、それもやめた。
内容を聞くためでもないのにテレビをつける。家の音を聞かなくて済むように音量を少し上げた。
◇◆◇
三日目。日廻は朝から、自分に腹を立てていた。
いつまでこんなことを続けるつもりなのか。
いないことは最初から分かっている。
向こうで生きていることも知っている。
なのに、身体だけが、あの一週間から戻ってこない。
「……駄目だろ」
洗面台の鏡に映る、酷い顔の自分へ言った。
「ちゃんと、しろよッ」
生きると決めた。
帰ると決めた。
特別なことをする意識を捨てて、元々やっていた生活へ戻ればいい。
掃除も、洗濯も、買い物も。
溜まっていた細かな用事を一人で片づけた。
ただ、明日は畑をやろうと決めた。
夕方。テレビでは、例の天体について続報が流れていた。
『――追加観測によって、岩石を主成分とする惑星である可能性が高まっています。また、大気が存在する可能性を示す観測結果も――』
日廻は洗濯物を畳んでいた。
『温度などの条件から、仮に観測結果が正しければ、液体の水が存在できる環境である可能性も指摘され――』
シャツを畳む。
その上に重ねる。
『生命が存在し得る環境なのか、専門家は慎重に分析を――』
日廻はテレビを見なかった。
畳んだ洗濯物を抱え、自室へ向かった。
◇◆◇
四日目。朝から畑へ出た。
何も考えないようにして鍬の刃を土に入れて起こす。
それを何度も、繰り返す。
額に汗が滲む。それが、少しだけ心地よかった。
土は変わらない。手を掛ければ、その分だけ応えてくれる。
世界がおかしくなる前から、ずっとやっていたことだ。
雑草を抜いて、土の状態を見る。
畝を整える。穴が開いていないことも確認する。
途中で水を飲み小休憩を挟みつつ、また作業へ戻った。
昨日より、ちゃんとできているとそう思えた。
別に全部忘れる必要なんてない。
ただ今日やることをやって、生活すればいい。
少しずつ、普通のことだと認識を変えていけばいい。
「……ここは」
畝を見ながら、自然に思い浮かんだ目標を組み立てる。
「西瓜、植えなきゃな」
少し広めに取った方がいい。
収穫するときに、ヒメグマが潰さないように――。
「…………あ」
いない。
誰もいない自分だけがいる畑を見る。
視線が別の場所へ移ろいでいく。
一人だけで鍬を振るって、水をやり、野菜たちを育てる。それが一週間前までの日廻の日常だった。
なのに、身体だけは、まだあの一週間の中で生活をしていた。
「…………なんでだよ」
声が漏れた。
「分かってるよ」
鍬を握る手に力が入る。
「いないの、分かってるよ」
喉が震えた。
「向こうで生きてるのも……分かってる」
死んだわけではない。
消えたわけでもない。
自分との時間を忘れたわけでもない。
何度も。
何度も、自分へ言い聞かせた。
「分かってるって……!」
いったいこれがどんな感情かを理解する前に、鍬を土へ叩きつける。
「俺が決めたんだろ!」
誰もいない畑へ怒鳴る。
「俺が戻してくれって言ったんだろうがッ!!」
鍬を投げた。地面を跳ね、鈍い音を立てて転がる。
「だったら……!」
息が荒い。
視界が歪み。
普通を、普通として飲み込めない。
「だったら、なんで……!」
続きが出なかった。
何に怒っているのか分からない。
アルセウスではない。
仲間たちでもない。
向こうの世界でもない。
こちらの世界でもない。
なら、一番腹が立っているのは、自分だった。
「俺が……選んだんだろ……」
なら、耐えるしかない。
自分で選んだ結果がどうなるかも、理解したつもりで頼んだ。
「なんで、まだいるつもりなんだよ……」
あの一週間を日常として抱えている自分自身へ吐き捨てた。
心の内の何かが拒絶して、また腹が立って足元の土を蹴った。
せっかく整えた畝が崩れる。
「くそ……くそッ!!」
何度も蹴った、今度は息が切れるまで続けた。
それでも怒りはどこにも届かなかった。
やがて、足元で何かが転がった。
「…………」
赤い、トマトだった。
暴れた拍子に落ちたのだろう。
土の上を転がり、少し離れたところで止まっている。
ついさっきまであった怒りが、底の抜けた穴へ落ちるように消えた。
「…………もう、いいや」
自分でも分からなかった。
鍬を拾わなかった。
トマトも拾わなかった。
自分で崩した畝も直さない。
ただ、日廻は家へ向かった。
玄関で靴を適当に脱ぎ散らして、自室に向かい襖を閉める。
まだ昼なのに布団へ潜って身体を丸めた。
何も考えたくなかった。
けれど、目を閉じれば浮かんでくる。
誰かがいることが、いつの間にか当たり前になっていた日常を。
「……やめろよ」
顔を布団へ押しつけた。
最後の戦いで、身体が壊れても立った。
一度死んでも、それでも立った。
そして始まりの間で、戻したくないと言った。
それでも最後には、自分で生きることを選んだ。
なのに、今でも日廻にとって非日常の中で生きているように苦しかった。
「…………ごめん」
声が震えた。
「ごめん、兄さん……」
布団を掴む。
五本ある指が、布を強く握った。
「俺……ちゃんと、やろうとしたんだよ」
返事はない。
「やろうと……したんだけど……」
喉の奥が詰まった。
「……無理だった」
少し間を置いて。
「……俺、弱かったよ……兄さん」
何も失われていないはずの、安全な家の中で。
涙が止まらなくなった。
「……ごめん……」
誰に謝っているのかも分からない。
兄に対してなのか。
向こうにいるみんなになのか。
生きると決めたのに、その程度のこともできない自分になのか。
日廻は布団の中で身体を丸めた。
嗚咽は気絶するように眠るまで続いた。
◇◆◇
五日目。もうカーテンを開けなかった。
朝なのか昼なのか、しばらく分からなかった。
空腹を感じることはあっても、何かを作る気にはならない。
冷蔵庫を開ければ食べるものがあっても、取りに行くことすら面倒だった。
それでも、喉が渇いたときだけ起きた。
水を飲む。
布団へ戻る。
眠る。
目が覚める。
また眠る。
夕方になったことは、部屋が暗くなってから知った。
照明はつけなかった。
◇◆◇
六日目。畑には今日も行かなかった。
四日目に投げた鍬がどうなっているのかも知らない。
トマトがまだそこにあるのか、畝がどれだけ崩れているのか。
考えもしなかった。
カーテンも閉じたままだった。
食事らしい食事を、いつ最後に取ったのか分からない。
眠る事、目が覚めることを繰り返した。
静かな時間だけが進んだ。
日廻は布団から手だけを伸ばした。
リモコンを探して、テレビをつけた。
誰でもよかった。
自分に向けられた声でなくてもいい。
この家の中に、自分以外の声があればよかった。
『――昨夜発表された追加観測について、研究チームは慎重な分析が必要だとしています』
日廻は壁を見ていた。
『惑星の暗部で確認された複数の発光域について、一部には自然現象だけでは説明が難しい特徴が見られるとして――』
言葉が耳へ入る。
意味になる前に抜けていく。
『現時点で人工的なものと断定することはできません。しかし、発光の分布や規則性については――』
布団の中で、日廻は僅かに寝返りを打った。
『仮に文明活動に由来する光であった場合、地球外の知的生命の存在を示す極めて重要な――』
日廻はリモコンへ手を伸ばした。
うるさいと感じたから音量を下げる。ただ、それだけだった。
画面の中では、知らない専門家たちが何かを話している。
世界中の人間が、これまで知らなかった何かへ目を向け始めている。
遠いような、近くにあるような、新しい世界へ。
でも、日廻には関係がなかった。
布団を頭まで被る。
音量を下げたテレビから、それでも僅かに人の声が聞こえていた。
何一つ、欠けていない世界の中で。
せめて何かを呪えたなら、まだ楽だったのかもしれない。
日廻は考えることを放棄して、目を閉じた。
閉じたカーテンの向こうで、日が落ちていく。
そのことにも、日廻は気づかなかった。
次回最終回。
今日の18:30に投稿予定です