光が消えたあと、【始まりの間】には静寂だけが残った。
先ほどまで一人の人間が立っていた場所には、もう誰もいない。榊原日廻は、自ら帰ると決めた世界へ戻っていった。
アルセウスはしばらくそこを見つめていた。
やがて視線を落とすと、白い前脚の輪郭から細かな光がほどけている。因果を修復し、世界を本来の流れへ戻すために使った力は、この器を保つ分まで残っていなかった。
驚きはなかった。惜しいとも思わない。
自らの役目がここまでなのだということを、アルセウスは静かに受け入れていた。
日廻は生きることを選んだ。
もう二度と大切な者たちに会えないかもしれないと知って、それでも帰りたいと言った。その選択を奪うことなく、望んだ場所へ送り返すことができた。
そう考えたとき、ひどく古い風景が意識に浮かんだ。
今では文献の中に名を残すだけとなった、アルセウスにとっては昨日のような、人々にとっては遥かな昔の
人とポケモンが今よりも遠く、互いを恐れることが当たり前だった時代。広い空の下には人の手が及ばぬ土地がいくらでもあり、山から吹き下ろす風も、村へ続く道も、長い時を経た今なお記憶の底に残っている。
けれど、最も鮮明なのは風景ではなかった。
その道を、共に歩いた者がいた。
本来なら、あの時代にいるはずのなかった人間。
共に大地を巡り、多くのものと出会った。決して平穏なことばかりではなかったが、それでも振り返れば、善い旅だったと思う。
だからこそ、残ったものもあった。
最後まで、帰すことができなかった。
あの人が本来いたはずの時代へ。失ったはずの場所へ。
長い時間が過ぎても、その事実だけは変わらない。日廻を帰せたからといって、あのときできなかったことが帳消しになるわけでもなかった。
それでも――今回は。
『彼は、自ら帰ることを選んだ』
崩れていく身体から、また一つ光が離れる。
『今度は、帰すことができた』
その言葉には、ほんの僅かな安堵が混じっていた。
『……これが、善い終わりなのでしょう』
『かえったのですか』
声があった。
アルセウスが顔を上げる。
何者かが現れたわけではない。それでも、先ほどまで空虚だった【始まりの間】が僅かに変わっていた。
他者ではない。
だが、今ここで消えようとしている自分とも違う。
この器も、この意識も、その一部に過ぎない――遥か根源にあるもの。
『……はい。日廻は、自らの世界へ帰りました』
少しの間があった。
『では かれらは どこへ かえるのでしょう』
誰を指しているのかは、聞くまでもなかった。
『彼らには、彼らの世界があります』
そう答えてから、アルセウスは言葉を止めた。
帰るべき場所も、そこにある。
そう続けるはずだった。
けれど、なぜか口にはできなかった。
あの古い時代の大地が、もう一度脳裏を過ぎる。
あの人を帰すことはできなかった。その事実は、これからも変わらない。
ただ、自分はずっと、あの人が失った場所のことばかりを考えていた。
あの人が最後まで、帰る場所を一つしか持たなかったのか。
それを確かめることは、ついになかった。
『……あなたは、彼らを日廻のもとへ帰すのですか』
『いいえ』
返答は早かった。
『わたしは みちを とざしません』
『…………』
『すすむものを えらぶこともしません』
それだけだった。
アルセウスは、半ばまで光へほどけた身体を見下ろした。
『……私はまた、終わりだと決めつけていたのでしょうか』
返事はなかった。
過去は変わらない。あの旅路で果たせなかったことも、日廻が選んだものも。
けれど、その先まで自分が決める必要はないのだろう。
『では――』
言いかけて、アルセウスは止めた。
任せる、と言うのも違う気がした。
『……そうでしたね』
誰にともなく呟き、静かに目を閉じる。
残っていた輪郭が光へほどけていく。
最後にもう一度だけ、ヒスイの空を思い浮かべた。
青い空の下、一人の人間から伸びた両手が
アルセウスはそれを追うことも、呼び止めることもしなかった。
やがて白い姿は完全に光へ溶けた。
『よい たびでしたか』
その問いに、言葉が返ることはなかった。
けれど、それ以上を尋ねることもなかった。
『おかえりなさい』
◇◆◇
目を覚ましても、部屋は薄暗かった。
カーテンは六日目の朝から閉じたままだ。隙間から漏れる光で朝になったことくらいは分かる。それ以上を確かめる気にはならず、日廻は布団の中で天井を見ていた。
腹は空いているはずだった。昨日も、その前も、まともに食べていない。身体を起こせばきっと怠さも眩暈もある。それが分かっているから、なおさら動く気にならなかった。
今日も、昨日と同じでいい。
眠れるなら、もう一度眠ってしまえばいい。
そう思って目を閉じた直後、家の奥から、ごとり、と何かがぶつかる音がした。
「…………」
日廻は目を開けた。
しばらく待ってみる。何も聞こえない。
元々が古い家だ。風が吹けば軋む場所もあるし、何かが落ちることくらいはある。そう片づけかけたところで、今度は明らかに床板が鳴った。しかも一度ではない。重さのある何かが、家の中を移動している。
「…………泥棒か」
乾いた口に出してみても、危機感はほとんど湧かなかった。
財布でも家電でも、欲しいなら持っていけばいい。今の日廻には、それを取り返すために誰かと揉めることの方が面倒だった。
けれど、作業部屋の光景が頭をよぎった。
兄が遺したもの、布を被せたままの3Dプリンターが。
「…………」
自分の物なら、どうでもいい。
だが、あれは違う。
「……兄さんのは、駄目だろ」
小さく息を吐き、日廻は布団を押し退けた。
床へ足を下ろして立ち上がると、案の定、視界が一瞬暗くなった。壁へ手をついてやり過ごし、寝癖を直すことも着替えることもなく部屋を出る。
六日間ほとんど動かなかった身体は、ひどく重かった。
それでも、前に進んだ。
◇◆◇
日廻の家の中に、誰かがいる。
それに最初に気づいたミュウが動きを止めたことで、空気が変わった。
人間の気配だった。この家へ入ってから、誰もそんなものがあるとは思っていなかった。あるはずがないと知っていたからだ。
コジョンドが音もなく身構える。ロトムは浮かぶ高度を少し下げ、玄関前で待っているフライゴンは首をもたげた。ゼットはその場から動かないまま、家の奥へ身体を向ける。
知らない人間がいる。
その認識以上のものを、誰も持たなかった。
ただ一体、アブソルだけが妙な反応をした。
まるで知っている匂いを感じたように鼻先を僅かに上げる。
一度。もう一度、空気を吸い込んだまま、信じられないように動かなくなった。
知っている匂いだった。
朝も夜も、畑から戻ったあとも、頭を撫でられたときも、眠っている傍へ寄ったときも、何度となく覚えた匂い。
そして最後に嗅いだのは、呼吸をしない身体だった。
何度呼んでも、触れても、動かなかった。冷えていく頬へ鼻先を寄せたときにも、同じ匂いがした。
アブソルの前脚が一歩だけ前へ出て、止まる。
確かめたい。それと同じくらい、確かめるのが怖かった。
やがてもう一度だけ鼻を鳴らすと、アブソルは家の奥へ歩き始めた。
◇◆◇
廊下の先で、何かが動いた。
反応して、日廻の足が止まる。
曲がり角から、白いものが姿を現した。
向こうも、止まった。
「…………」
白い毛並み。黒い刃。正面から見れば、どこか太極図を思わせる姿。
見間違えようがなかった。
この六日間、何度も物音に振り向き、気配を探し、そのたびに何もいないことを思い知らされてきた。
今度も、そのはずだった。
幻だと思考の一部が訴えても、目を逸らせない。
アブソルも動かなかった。嬉しそうに駆け寄ることも、警戒して唸ることもなく、ただ日廻を見ている。
喉が張りついていた。
それでも、どうにか声を出す。
「…………アブ、ソル?」
白い身体が跳ねた。
「うわっ――」
受け止める余裕などなかった。
まともに食べていない身体へ真正面から飛び込まれ、日廻はそのまま廊下へ倒れ込んだ。背中を打った痛みに顔をしかめる間もなく、鼻先が頬へ押しつけられる。
「ちょ、待っ……」
首筋へ。胸元へ。また頬へ。
何度も匂いを確かめたあと、アブソルは胸へ耳を押し当てるように身体を寄せた。日廻が声を掛けても離れず、前脚で押さえ込んだまま、今度は鼻先を口元へ近づける。
「……アブソル、俺だ」
返事の代わりに、紺碧の額が額に押しつけられた。
日廻は恐る恐る手を上げた。
指先が白い毛へ触れる。
柔らかな毛の奥から、体温が掌へ伝わってきた。
「あったかい、な」
その一言を口にした途端、喉の奥が詰まった。
日廻はアブソルの毛を掴んだ。力を入れすぎたかもしれない。それでも離せなかった。
「…………夢、じゃないッ」
続きは出なかった。
【始まりの間】では、言いたいことがいくらでもあったはずなのに。
アブソルがもう一度、日廻の胸元へ顔を押しつける。
日廻はその身体を抱き締めた。
音に気づいたのか、廊下の向こうから複数の気配が近づいてきた。
『…………日廻?』
震えた電子音に、日廻が顔を上げる。
ロトムがいた。その後ろにも、見覚えのある姿が重なっている。
「…………ロトム、お前なのか」
『日廻……?』
「……ああ、俺だ」
ロトムの身体が大きく揺れた。
『日廻……!』
もう一度返すと、ロトムが飛んできた。アブソルに押し倒されたままの日廻の周囲をぐるぐると回り、何かを確かめるように顔の前まで降りてくる。
『日廻! 日廻……!』
「聞こえてるよ」
返事を受けたロトムが、そこで言葉を詰まらせた。
普段なら誰より早く状況を理解しそうなミュウまで、少し離れたところで黙っている。日廻と目が合っても、何も言わない。
「……ミュウ」
『…………』
「お前まで黙ってると、ちょっと怖いんだけど」
『…………うるさい』
ようやく返ってきた意味が、直接頭の中へ響いた。
『今、考えてるのよ』
「何を」
『全部よ!!このバカ!!あんぽんたん!!唐変木!!』
「……ひどくない?」
思いつく限りの言葉で怒鳴られたのに、口元が緩んだ。
コジョンドは構えこそ解いていたものの、まだ近づいてこない。日廻へ手を伸ばしかけては止めている。
日廻の方から腕を差し出した。
「……コジョンド」
細い指が手首を掴んだ。
「いっ……」
思ったより強かった。
その一言で力は緩んだが、手は離れない。
日廻も何も言わず、空いた指をその手へ重ねた。
すぐ傍まで来たみんなの中で、フライゴンだけが玄関の奥にいた。
「……フライゴン」
目が合う、でも動かない。
皆に断りを入れて、日廻はよろよろと立ち上がって歩き、フライゴンを前に手を伸ばした。
「こいよ」
しばらくして、大きな身体がようやく動いた。
身体を低くしながら近づき、日廻の前で長い首を下ろす。鼻先が恐る恐る触れてきた。
日廻はその額を撫でた。
「……ありがとな」
フライゴンは目を閉じた。
その向こうでは、ゼットがじっと日廻を見ていた。
やがて、短く声を発する。
日廻には意味が分からない。
『……駄目ロト』
ロトムが困ったように揺れた。
『何か言ってるのは分かるロト。でも、うまく訳せないロト……』
「いいよ、分かってる」
日廻はゼットへ向き直った。
「……ゼット」
小さな身体が僅かに動く。
「俺だよ」
何か説明しなければならない気がした。
けれど、結局出てきたのは一番単純なことだった。
「いろいろあったけど、生きてる」
ゼットはしばらく日廻を見つめたあと、近づいてきて、その身体を日廻の手へ触れさせた。
日廻は手の中の感触を確かめるように、そっと指を添えた。
「……うん」
何に頷いたのかは、自分でも分からなかった。
しばらく、まともな話にはならなかった。
日廻は何度もみんなへ触れた。アブソルは相変わらずすぐ傍から離れず、コジョンドも手首を掴んだままだった。
ミュウへ手を伸ばせば、
『私は触らなくても分かるでしょ』
と呆れられた。
「俺が分かんないんだよ」
『…………』
それでミュウは黙った。
日廻がそっと頬へ触れても、ミュウは抵抗しなかった。
聞きたいことは山ほどあったし、向こうにも同じくらいあるらしい。
日廻は、死んだあとにアルセウスと会ったこと、人間世界を一週間ほど戻すことを自分で選んだこと、向こうの世界の時間は戻っていないと聞かされたことだけを、途切れ途切れに話した。
それだけでもロトムは何度も質問を挟みかけ、ミュウも険しい顔で考え込む。向こうにも日廻へ話したいことがあるらしく、途中から何を先に聞けばいいのか誰にも分からなくなった。
「……待った」
日廻が止める。
「一個ずつにしよう。俺も頭回ってない」
『それがいいロト……』
ロトムも珍しく素直に同意した。
そのとき、アブソルの毛に置いていた指が止まった。
今はいる。
では、いつまで。
「……なあ」
『どうしたロト?』
「お前ら……いつ、帰るんだ」
『…………?』
ロトムが傾いた。
『もう帰ってきてるロト?』
「……え?」
日廻は瞬いた。
「いや。向こうだよ」
言ってから、自分の言葉の方が違う気がして言い直す。
「お前らの世界。そっちには……戻らないのか」
『用事があったら行くことはあると思うロト』
「…………」
あまりにも普通の返事だった。
『でも、今は帰ってきたロト』
「……ここに?」
『そうロト?』
どうしてそこを聞き返されるのか分からない、とでもいうように、ロトムがまた傾く。
日廻は何も言えなかった。
代わりにアブソルの毛へ置いた手へ力が入る。
アブソルは嫌がらなかった。
そのとき、家の外から鳴き声が聞こえた。
「…………?」
一つではない。
庭の方。もっと向こう――畑の方からだった。
「まだ、誰かいるのか?」
返事を待つより先に、足が動いた。
廊下を進み、サンダルすら履かずに玄関を抜けた。
「……まぶし」
朝の光に目を細める。
冷えた朝の空気が頬へ触れた。
目が慣れるのを待って庭の先へ目を向けた日廻は、そこで立ち止まった。
畑、四日目に自分で荒らした場所。
蹴り崩した畝は、まだ形が歪んでいた。土の高さも揃っていないし、以前より明らかに不格好だ。
けれど、崩れたままではなかった。
「…………あ」
投げ捨てた鍬も、畑の端へ立て掛けられている。
その畝の間で、小さな黄色い身体が動いた。
少し離れた場所では葉を揺らしているものがいる。水を運んでいるものも、土に触れているものもいた。
西瓜を植えようとして、誰のために植えるのか分からなくなった、あの場所には。
見覚えのある小さな熊の姿があった。
「…………お前らもなのか」
掠れた声に、最初の一体が振り返る。
続いて、その隣も。
畑にいたみんなが、こちらを見て動きが止まる。
日廻も止まったままだった。
彼らは、自分がここにいると知って畑を直したわけではない。
生きていると知って、ここへ来たわけでもない。
日廻のいない家へ来て。
日廻のいない畑を見て。
それでも、ここにいた。
背後からアブソルたちがついてくる気配がする。
先ほどのロトムの言葉が、ようやく胸の中へ落ちてきた。
――もう帰ってきてるロト?
泣きそうなのか、笑いそうなのか、自分でも分からない。
「……そっちもだったのか」
畑で最初の一体が駆け出した。
それを合図にしたように、他のみんなも一斉に動く。
声が上がった。
誰かが持っていたものを落とし、別の誰かがそれにつまずきそうになって横から押される。朝の畑が、あっという間に騒がしくなった。
「お、おい、待てって……!」
日廻は慌てて身構える。
前から来る。後ろには、もうみんながいる。
誰かが鳴いて、誰かがぶつかって、ロトムまで何か叫んでいる。
日廻は一度だけ袖で目元を拭った。
言いたかったことなら、山ほどあった。
けれど、もう別れの言葉から選ばなくていい。
むしろ、言わなければならない言葉がある。
「ただいま」
――完。
これにて『ポケモン、彼らはそう呼ばれている。』完結となります。
この小説はEvery Little Thingさんの『宙-そら-』と『響-こえ-』本作の勝手なエンディングテーマとして挙げさせてもらいます。……八日目のタイトルを見て、察していた方がいたらすみません。そういうことです(笑)。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。もし印象に残ったポケモンや場面がありましたら、一言でも教えていただけると嬉しいです。
彼らの物語は、ひとまずここで一区切りです。
また、どこかの日常で。
第二章やるかどうかは、まだ考え中です。