椀を持つ手のひらから、じわじわと熱が伝わってくる。
日廻は匙で雑炊をすくい、少し冷ましてから口に運んだ。出汁を吸った米が、ほとんど噛まずに喉を通る。空っぽだった腹へ温かいものが落ちていく感覚に、安堵の息が漏れた。
縁側には、ニャスパーが皆の分を運んでくれた椀が並んでいる。庭へ下りたフライゴンには、ひと回り大きな器。傍らのアブソルも頭を下げて食べていて、縁側と庭先を隔てていた隙間は、いつものように尻尾や脚で埋まっていた。
『祝勝会にこれ?』
ミュウが椀を覗き込み、日廻へ目を向けた。
「今日はこれで勘弁してくれ」
『もっとこう、あるでしょう。ケーキとかピザとか』
言い終わる前に一口食べ、もう一口すくう。日廻が返事を考えているうちに、椀の中には小さな窪みができていた。
「次の機会にしてくれ、出来る前に倒れてしまう」
『全く、今日のところは勘弁してあげる』
ミュウはそれだけ言って、念力で口に運んでいく。
日廻のすぐ横で、ヒメグマが椀の縁に手をかけている。匙を使おうとするたびに器が傾き、ピカチュウが片手で押さえてやっていた。
重いものを持っているわけでもないのに、腕がだるく、匙を動かす手が止まった。温かいものを食べて腹は落ち着いてきたが、それで身体まで元に戻るわけではなかった。
器の触れ合う音がする。庭先ではフライゴンが鼻先についた米粒を舐め取ろうとして、うまく届かず首を振っていた。
誰かが食べ終わるのを待ちながら、自分も食べる。そんなことが、今日はひどくゆっくり感じられる。
日廻は椀の底に残った雑炊をすくった。今度は熱を確かめる必要もなく、自然に口へ運べた。
「そういや、お前ら、どうやってこっちに来たんだ?」
声をかけると、盆のそばに浮かんでいたロトムがこちらを向いた。
「ゼットが渡れるかもしれないって言ったのは聞いたけど。穴が、また繋がったのか」
『繋いでくれたロト。ネクロズマが』
日廻はロトムを見たまま、一拍遅れて手を下ろす。
最後に見た姿を思い出そうとすると、崩れた石や眩しい光が混じった。何もかもが必死で、目の前の相手がどうなったか、確かめることもできなかった。
『戦いの後、ゼットが見つけたロト。ソルガレオとルナアーラも協力して、様子を見てくれてたロト。それで、ウルトラホールを開いて移動できるところまで回復したロト』
日廻の視線が、盆の向こうにいるゼットへ移る。小さな身体がこちらを向き、僅かに頭を動かした。
「動けるようには、なったんだな」
『うん。ただ、全部治ったわけじゃないロト』
日廻は短く息を吐いた。
「今、どこにいるんだ?」
『ホールの向こうロト。再会した時から、こっちを見ているらしいロト』
「だったら、呼べるのか。ゼット」
ゼットは日廻を見てから、庭へ身体を向けた。
「礼くらい、直接言いたい。こっちに来るのがきついなら、無理はさせたくないけど」
椀を盆へ戻すと、ニャスパーが空いた器を浮かせてくれた。日廻はその下から手を抜き、縁側の板に置く。
ゼットが庭先へ進み、何もない空間を見上げた。短い声を発した後も、そこから動かずに待っている。
呼びかけに応えるように、庭先の空気に細い光が走った。畑へ続く庭の一角が、奥行きを失って暗くなる。異なる色の光が縁を流れ、そこに、この家のどこへも続いていない穴が開いた。
フライゴンが器から顔を上げ、身体を少し横へずらした。アブソルも食べるのを止めて、日廻の前に出た。
穴の向こうから、黒い腕が現れる。
続いて現れた身体は、日廻の記憶に残る巨体とは違っていた。
幾つもの角度を持つ黒い身体。長い腕と、その先の鋭い爪。
全ての光を飲み込むような漆黒の結晶が、乱雑に積み重なっている。まるで、足りないピースを残したまま、無理やり組み上げたパズルのようだった。その不穏な身体が、宙に浮かんでいた。
日廻は背を柱から離し、板についた手へ体重をかけた。立とうと足を引き寄せたところで視界の端が揺れ、すぐ横のコジョンドに肩を押さえられる。
「……分かった。立たないよ」
そのまま、座る位置だけを少しずらした。
ネクロズマは近づいてこなかった。ウルトラホールを抜けた場所で身体を止め、縁側にいる日廻を見ている。
日廻も顔を上げて、その視線を受けた。
以前向かい合った時とは、何もかもが違っていた。日廻の手には武器も道具もなく、両者の間には食べ終えた器と、庭へ落ちた数粒の米がある。
「皆を連れてきてくれたんだってな。ありがとう……おかげで、また一緒に飯が食えた」
ネクロズマの身体から、低い音が響いた。
金属を震わせたような響きだったが、日廻には、どこまでが一つの声なのかも分からない。傍らのロトムへ目を向けると、画面の顔が困ったように歪んだ。
爪が持ち上がり、途中で止まっていた。その先が向いているのは、自分の胸か、肩か。何かを確かめたそうにも見えるが、こちらの思い込みかもしれない。
ひとまず両手を見せてみる。
「俺は、こんな感じだ。……まあ、ちょっと飯を抜きすぎたけど」
『ちょっと?』
ミュウの声に、日廻は目を逸らした。
ネクロズマは日廻と、その周りに座る仲間たちを順に見ている。穴を背にした身体だけが、食事の輪から離れたままだった。
「ネクロズマ。おまえ、帰るところはあるのか」
日廻はネクロズマに、開いた手を差し出した。声を重ねて急かす代わりに、そのまま返事を待つ。
ネクロズマの腕が動いた。縁側へ向かって、ゆっくりと距離が縮まる。近くで見る身体は思っていたより大きく、差し出した手よりも高いところに頭があった。
日廻が見上げると、ネクロズマはそこで止まった。長い腕を低く置き、それに合わせて、自分から頭を下げる。
手を伸ばせば届くところまで来ても、まだ、指先ひとつ分の隙間を残していた。
「……触っていいのか?」
日廻は手の向きを変え、頭の側面へ近づけた。一度止めた指先へ、ネクロズマの方から、ほんの少し頭が寄せられる。
指先が、頭部の結晶に触れた。
ひやりと冷たい。硝子とも石とも違う、つるりとした硬さの奥で――何かが、びくりと震えた。
◇◆◇
小さな熱だった。
ネクロズマにとって、世界は光の濃淡でできている。陽の光。炎の光。生き物の内側に、かすかに灯っているような光。
かつて、別の世界の人間たちが、その光を意のままに扱おうとした。その果てに身体の一部は欠け、光を生み出す力も失われた。それ以来、それらはすべて、喰らうべきものに見えていた。
今も、飢えは身体の底に沈んでいる。
光を生み出せなくなったこの身体は、どれだけ休んでも、満たされることがない。
穴の向こうから、すでに見ていた。死んだはずの人間が、仲間たちに囲まれて生きているのを。
それでも、いざ目の前にすると、どう近づけばいいのかわからなかった。
闇に囚われ、呑まれた自分を救い出したこの人間は、あの戦いの果てに自身の光の全てを使った。
その人間が、自分に向かって何かを言った。
音の連なりの意味を、ネクロズマは正しくは知らない。けれど、その声も、差し出された手も、自分へ向けられていることはわかった。
縁側に並ぶ小さな光たちも、誰ひとり、それを止めようとはしなかった。
だから、近づいた。
そして、熱が触れた。
頭部の結晶に、小さな手のひら。弱々しい熱だった。陽の光に比べれば、取るに足らないほどの。それなのにネクロズマは、それを喰らおうとは思わなかった。
その瞬間だった。
身体の奥の、どこか古い場所が軋んだ。
闇に呑まれていた頃、時を司るものから流れ込んできた力の感触が、一瞬だけ蘇った。
熱が、光になって流れ込んでくる――いや、違う。流れ込んできたのは、光ではなかった。
まだ、どこにも存在しない記憶。
白い部屋に自分ではない自分がいた。
見たことのない場所なのに、ネクロズマはそこを知っていた。壁を這う何本もの太い管。床から天井まで組み上げられた、巨大な機械。幾重にも重なった輪のような骨組みが、低い唸りを上げている。
よく見れば、その骨組みは継ぎ接ぎだらけだった。色の違う部品があちこちに後から足され、外された跡や、何度も付け直された跡が残っている。
その中心に、自分がいた。
輪の内側で、身体は幾本もの支えに預けられている。管の先から、光が注ぎ込まれていた。外から与えられる光。飢えた身体に、ひととき流し込まれるだけの光。
その光の向こうに、ひとりの人間が立っていた。
白衣を着ている。袖口には、何かの染みがいくつも残っていた。顎の髭はきれいに剃られ、顔つきは、今、縁側に座っている人間よりもいくらか年月を重ねている。けれど、ネクロズマにはすぐにわかった。
日廻と呼ばれている人間だった。
その傍らに、ロトムが浮いている。機体のあちこちに、見覚えのない細かな傷が増えていた。画面には、ネクロズマには読めない数字や線が目まぐるしく流れている。
「人の手足を補う地球のやり方と、ポケモンの身体を診るポケモンの世界のやり方。両方そろって、やっとここまできたな」
『数値、安定してるロト。身体の修復並びに義体パーツ装着、全部終わってるロト!』
「……よし」
日廻は、ロトムの画面ではなく、ネクロズマを見ていた。
「始めるぞ」
日廻は、ネクロズマの反応を待っていた。言葉が通じなくても、結晶の揺れ方ひとつ、頭の傾け方ひとつで、こちらの答えを汲み取るようになっていた。
ネクロズマは、頭をほんのわずかに傾けた。それだけで伝わった。
「ロトム。外からの供給、切ってくれ」
『……切るロト』
管の先の光が、ふっと途絶えた。
輪の唸りが低くなり、部屋の明かりが落ちる。注がれていた光が、ネクロズマの身体から引いていく。これまでなら、そこで飢えが戻ってきた。満たされたと思った端から、内側から焦がれるような痛みが襲う。何度も、何度も、そうだった。
けれど。
身体の芯に、熱が残っていた。
いや、残っているのではない。生まれていた。
胸の奥、自分でも触れたことのない深く傷ついたはずの場所で、小さな光が灯っている。それは消えなかった。外から与えられたものではない。誰かから奪ったものでもない。脈を打つように、ひとつ灯るたびに、次の光を生んでいく。
光は身体の内側を巡り、腕の結晶へ、肩の結晶へと満ちていった。くすんでいた面が透きとおり、ひびの消えた結晶が、内側から光をこぼす。暗くなった部屋の壁に、虹のような色が散った。
ロトムの画面に流れていた線が、やがて一本にそろっていく。
『出力……自分で出してるロト。外から何も入れてないのに、ずっと、光ってるロト……!』
日廻は、機械の輪をくぐり、支えの間を抜けて、ネクロズマのすぐ前まで歩いてくる。その足取りに、迷いはなかった。何度もこの場所を行き来してきた者の足取りだった。
ネクロズマは、頭を垂れた。そうしようと思ったわけではない。身体の内側から溢れてくるものを、もう堪えきれなかった。結晶の端が小さく震え、こぼれる光が細かく揺れる。
この人間に、どれほどのものを返せばいいのか。届く言葉を、ネクロズマは持たない。震えることしかできなかった。
日廻の両腕が、その頭を抱えた。
白衣の袖が、結晶に触れる。手のひらが、震える頭をそっと押さえる。その手の重さを、ネクロズマは知っていた。知らないはずなのに、知っていた。これまで幾度となくこの手に触れられてきたのだと、身体のほうが覚えていた。
「……長かったな」
日廻が、ぽつりと言った。
『何回やり直したか、もう数えてないロト』
ロトムが、画面の目をくしゃくしゃにしながら言う。
「数えてるだろ、お前は」
日廻が、小さく笑った。ロトムも返す言葉の代わりに笑っていた。
「よく頑張ったな、ネクロズマ」
頭を抱える腕に、少しだけ力がこもった。
ネクロズマの内側で、光がまたひとつ生まれた。誰からも奪っていない、自分だけの光だった。それが、この人間の腕の中で灯っている。
――光が、遠ざかる。
白い部屋が、機械の輪が、ロトムの声が、ほどけるように薄れていく。待て、と思った。まだ、あの腕の中に――
手のひらの熱が、残っていた。
庭先だった。
結晶に触れている手は、記憶の中の手よりも細かった。指先は冷えていて、腕はかすかに震えている。持ち上げているだけでも、楽ではないはずだ。縁側の端に腰を下ろし、横からコジョンドに支えられながら、それでもその手は離れていなかった。
「……分からない、お前が何をそんなに混乱しているのか」
無精髭の伸びた顔が、ネクロズマを見上げていた。眉が寄っている。急に震えだした相手を、案じているのだとわかった。
この人間は、何も知らない。白衣も、機械の輪も、外からの光が途絶えたあの瞬間も。自分がこの先、どこへ辿り着くのかも。
なぜあれが見えたのか、ネクロズマにもわからなかった。
身体の奥を探る。光を生む力は、戻っていない。結晶はくすんだまま、飢えも、消えてはいなかった。
それでも、手のひらの熱は、記憶の中と同じだった。弱くて、小さくて、陽の光にも遠く及ばない熱。奪おうと思えば、たやすく奪えてしまうほどの。
光とは、奪うしかないと思っていた。足りないものは、外から奪って埋めるしかないのだと。
けれど、あの記憶の中で灯った光は、誰からも奪っていなかった。この人間の手の下で、自分の内側から生まれていた。
ネクロズマは、頭をもう少しだけ下げた。日廻が無理に腕を上げなくても、手が届く高さまで。
「なんだろうな、アブソルや、ピカチュウ達に会った時のことを思い出すな」
手のひらが、結晶の上に、そっと重さを預けてくる。
奪わなくてもいい光が、ここにある。
小さな熱を結晶越しに受け止めながら、ネクロズマは静かに、それを確かめていた。
「ネクロズマ、
この人間こそが、自分の光なのだと。