ネクロズマは、すぐには頭を上げなかった。日廻の手が離れたあとも、縁側の前で身を屈めたまま、くすんだ結晶をこちらへ向けている。様子が変わったように見えたのが何だったのか、日廻にはわからないままだった。
カシャ、と小さな音がした。
見れば、少し離れた宙で、ロトムが画面をこちらへ向けていた。
悪びれる様子はまるでない。日廻は小さく息を吐いた。止める気力も、止める理由も、あまりなかった。
ロトムは画面の中で、撮ったばかりの写真を整理し始めたらしい。ぶつぶつと呟く声が聞こえてくる。
『ネクロズマと、コジョンドと、アブソルと、ジガルデと……』
「……ジガルデ?」
聞き慣れない響きだった。
『ゼットのことロト』
ロトムが写真の端を拡大してみせる。庭の真ん中に、ゼットの姿が小さく写り込んでいた。その脇に、日廻には読めない文字が添えられている。
『写真は図鑑の名前で分けてるロト。壊れてたデータは向こう側の世界のネットワークと繋がったときに図鑑アプリにまとめ直したロト。あれで見ると、ゼットはジガルデっていう種類のポケモンなんだロト』
「種類の、名前」
『そうロト。アブソルがアブソルなのと同じロト』
あのロトムが持っているデータと知識には、何度も世話になってきた。
それでもゼットは、名前が分からず最初からゼットだった。
日廻がそう呼び始めて、ゼットがそれに応えてきた。ただそれだけの名前だ。それでいいのかと、本人に確かめたことは一度もなかった。
チラーミィだと思っていたのがミュウだと知ったときも、呼び方を考え直した。
縁側の端から、日廻は庭の真ん中のゼットを見た。ゼットもまた、こちらを見ていた。
「ジガルデ」
確かめるように、呼んでみる。自分の声なのに、どこか別の誰かを呼んでいるような気がした。
ゼットは、何とも言えない難しい顔をした。
「ゼット」
今度は、いつもの名前で静かに呼んだ。
ゼットは答えなかった。ただ、日廻を見ている。その沈黙が、ずいぶん長く感じられた。
やがて、ゼットが小さく頷いた。
それでいい、ということなのだろう。日廻はそう受け取って、頷き返した。それだけのことで、肩に入っていた力が少し抜けた。
「これからもゼットと呼ぶよ」
ゼットはそれには応えず、ふいと向きを変えた。
ネクロズマが、屈めていた身体をゆっくりと起こす。日廻のほうを一度見てから、自分から庭の中ほどへ移り、ゼットの隣に並んだ。黒い巨体と小さなゼットが並ぶと、それだけで庭の空気が少し張りつめる。
「……どこか、行くのか」
問いかけた先はゼットだったが、答えたのはミュウだった。
『戻るのよ。向こうに』
縁側の柱にもたれたまま、ミュウは空になった器を抱えていた。
『向こうの世界はね、まだ直し始めたばかりなの。あれだけめちゃくちゃになったんだもの。元通りになるまで、まだずっとかかるわ』
ミュウは器の縁を、小さな手でなぞった。
『そういうときって、釣り合いが崩れやすいのよ。人間の側と、ポケモンの側。どっちかに傾きすぎないように、ゼットはそれを見張りに行くの』
「見張り……」
『それが、ジガルデのやることだから。誰かに言いつけられてやるんじゃないわよ。ゼットが、自分でそうしてるの』
ミュウは、庭の二体へ目をやった。
『ネクロズマもゼットと一緒に戻るわ。ずっとってわけじゃないから』
日廻は、並んだ二体を見た。
うちにこい、と言ったばかりだった。
来たばかりの相手が、もう行ってしまう。しばらくの間だとわかっていても、胸の奥がわずかに軋んだ。
「……そうか」
それだけ言って、日廻は縁側の端に座り直した。立って見送れないのが、少しだけ悔しかった。
「ゼット。ネクロズマ」
呼べば二体が、こちらを向く。
「いってらっしゃい、腹が減ったらいつでも帰ってこいよ」
言い終えると、ロトムがすっと寄ってきて、声を落とした。
『……ネクロズマは、ふつうのごはんは食べないロト』
日廻は小さく肩をすくめただけで、言った言葉を取り消しはしなかった。
ゼットが、ふう、と細く息を吐いた。
ため息だった。けれど、日廻に向けられた感じはしない。どちらかといえば、自分自身に呆れているような吐き方だった。
何に呆れたのか、日廻にはわからない。聞き返す前に、ゼットはもう背を向けていた。
ネクロズマが宙を仰ぐ。庭の上の空気に、細い光の筋が走った。筋は枝分かれし、絡まり合い、やがて渦を巻くように丸く開いていく。
ゼットが先に、穴の向こうへ消えた。
ネクロズマは穴の縁で一度だけ振り返り、日廻を焼き付けるように見つめた。日廻は、膝の上の手を軽く持ち上げた。今の腕では、それが精一杯だった。縁側のほうで、ピカチュウが短く鳴く。ヒメグマが、つられたように両手を振っていた。他にもマリルたちも倣うように手を振り始めた。
ネクロズマが光の向こうへ入っていく。穴は静かに縮み、やがて、何もなかったように消えた。
庭には、さっきまでと同じ景色が残った。二体分だけ、広くなって見えた。
『……さ、もう休みなさい』
ミュウが、日廻の肩を優しく叩いた。
『今日はもう、十分でしょ』
言い返す気力は、残っていなかった。
◇◆◇
布団に身体を横たえると、ずぶずぶと沈んでいくような心地がした。
コジョンドとアブソルの支えで寝室まで来たことは覚えている。誰かが布団を整えてくれていたことも。そこから先は、横になること以外、何も考えられなかった。
手足が重い。瞼も重い。身体のほうは、とっくに休みたがっている。目を閉じれば、そのまま底まで落ちていけそうだった。
それなのに、閉じた瞼の裏で、意識だけがいつまでも浮いていた。
家の中は静かだった。皆、家のどこかで休んでいるはずだった。ついさっきまで縁側にも庭先にも、器の音や鳴き声が溢れていたのに、今は襖一枚隔てただけで、何の物音も聞こえてこない。
耳を澄ます。どこかで家鳴りが一度、みしりと鳴った。それきりだった。
この静けさを、日廻は知っていた。
目を覚ましても、誰の足音もしない朝。名前を呼んでも、返事のない家。皆はもういないのだと、自分に言い聞かせながら過ごした日々。
――全部、夢だったら。
眠って、目を覚ましたら、またあの日々の続きだったら。
そんなはずはない、と頭ではわかっている。雑炊の熱さも、ネクロズマの結晶の冷たさも、まだ指先に残っている。ミュウの文句も、ロトムのシャッターの音も、ちゃんと覚えている。
それでも、目を閉じるのが怖かった。
閉じかけた瞼を、何度も持ち上げる。暗がりに慣れた目に、天井の木目がぼんやりと浮かんでは、また滲んだ。
寝返りを打つ。それだけで頭の芯がぐらりと揺れて、しばらく動けなくなる。掛け布団の端を握った指に、知らず力が入っていた。
誰かの名前を呼べば、きっと返事はある。わかっているのに、声が出なかった。もし、返ってこなかったら――そう考えただけで、息が浅くなった。
「……喉が、乾いた」
水でも飲めば、少しは落ち着くかもしれない。
日廻は布団に手をつき、上体を起こしかけた。視界の端が、わずかに揺れる。
そのとき、白い影がするりと部屋に入ってきた。
上体を半分起こしたまま、アブソルの姿に目をぱちくりさせた。
アブソルは日廻を横目でちらりと見ただけで、何も示さなかった。そのまま布団の脇、枕元に近いあたりまで歩いてくると、身体を横たえる。前脚を揃え、その上に顎を載せた。
ここで寝る。そう言わんばかりの、落ち着き払った寝姿だった。
日廻は何も言わずに、布団の中へ潜り直した。
水は、もういい気がした。
横になると、すぐ隣にアブソルの気配がある。暗がりの中で、白い毛並みがほのかに浮かんで見えた。呼吸に合わせて、背中がゆっくりと上下している。
さっきまで耳を塞ぐようだった静けさの中に、自分のものではない息遣いがひとつ、混ざっていた。それだけで寒くなっていた心がじんわりと温かくなった。
日廻は、布団の端から手を伸ばした。
畳の上、アブソルの前脚のすぐそばに、手のひらを置く。触れるか触れないかのところで、指を止めた。
アブソルの片方の前脚が、ゆっくりと動いた。手の甲に、柔らかな重みが載る。毛並みの奥に、硬い爪の感触があった。押さえつけるのでもなく、ただ、そこに重ねられている。
赤い瞳がこちらを見ていた。
言いたいことは、ほかにもあった気がする。けれど、口から出たのは一言だけだった。
「……ありがとう」
声は、思っていたより掠れていた。
アブソルが、喉の奥で低く鳴いた。短く、静かな声だった。日廻には、それが同じ言葉を返されたように聞こえた。
手の甲の重みは、離れていかなかった。
目を閉じる。まだ、少し怖い。眠ってしまうことへのためらいは、胸の底に残ったままだった。
それでも、手の甲には温もりが載っている。暗がりのすぐ向こうから、静かな息遣いが聞こえてくる。
その音に耳を傾けているうちに、日廻の意識は、少しずつ沈んでいった。
◇◆◇
重い。
意識が浮かび上がって、最初に思ったのはそれだった。
身体が、やけに重い。腕も、脚も、胴のあたりも、布団ごと何かに押さえつけられているようで、思うように動かない。
本格的に体調が悪くなってしまったのか。
瞼を持ち上げる前に、ほんの一瞬だけ、身体がこわばった。
目を開ける。障子越しの朝の光が、部屋の中を満たしていた。
右の脇腹のあたりが、妙に温かい。
首だけを動かして見下ろすと、布団の中、日廻の脇にぴったりと身体をくっつけるようにして、ヒメグマが丸まっていた。日廻の袖を握ったまま、口を半開きにして寝息を立てている。ときおり、むにゃむにゃと口元が動いた。
枕の脇では、チュリネが頭の葉を投げ出すようにして眠っていた。その葉の先が、日廻の耳にちょうど触れている。
掛け布団の上、お腹のあたりには、ピカチュウが丸くなっていた。ぎざぎざの尻尾が、日廻の首元へ無造作にかかっている。
脚のほうに目をやると、布団の盛り上がり方がおかしかった。脛の上あたりではニャスパーが前脚を折り畳んで座り込み、その先の足元では、マリルが丸い身体で布団の端をすっかり押さえ込んでいる。脚が動かないわけだった。
畳の上では、アブソルが昨夜と同じ場所に横たわっていた。その前脚は、まだ日廻の手の甲に載ったままだ。薄く開いた赤い瞳が、こちらを見ている。
いつの間に入ってきたのか、まるで覚えがない。夜のうちに一体、また一体と潜り込んできたのだろう。それぞれが好き勝手な場所を陣取って、遠慮の欠片もなく眠りこけている。
身体は重いのに、腹の底から、こらえきれないものがこみ上げてくる。
「お前ら本当に……ははははッ」
夢の疑念は払拭された。
日廻は、思わず泣きそうになりながらも声を立てて笑った。