作業小屋へ戻る道すがら、日廻たちはほとんど言葉を発さなかった。
沈黙は気まずさではなく、むしろ必要な静寂だった。
歩くという行為そのものが、今はひとつの判断であり、選択であり、負荷でもあった。
先頭を行くチラーミィもまた、先ほどまでの軽さを失っていた。
距離を取ることをやめ、時折立ち止まっては、後方を振り返る。
そこには、傷を抱えたアブソルがいる。
アブソルは表情を崩さない。
痛みを隠すというより、痛みを存在しないものとして扱おうとしているようだった。
日廻は何も言わなかった、すでに多くの言葉をかけてきたからだ。
その全てに対し、抗議の目を向けられてきた。
それは決して冷たい拒絶ではなかった。自分より先にやることがあるだろう、と訴えているように見えた。
ロトムも前へ出かけては戻り、また出かけては戻る。
急ぎたいという衝動と、置き去りにできない現実の間で揺れていた。
日廻はその揺れの中心に、自らの歩幅を合わせた。
アブソルの隣。
手を伸ばせば届く距離。
しかし、触れはしない距離。
それが今の限界だった。
倒れれば支える。
歩けるなら任せる。
その境界線だけが、唯一の秩序だった。
やがて、畑の向こうに作業小屋の屋根が見えた。
その瞬間だった。
『チラッ!』
チラーミィが短く鳴き、弾かれたように駆け出す。
「転ぶなよ」
忠告は届かない。
小さな身体は畝を跳ねるように越え、迷いなく小屋へ向かう。
扉は、出るときのままわずかに開いていた。
チラーミィはその隙間へ吸い込まれるように消えた。
直後、複数の鳴き声が重なった。
日廻は足を速めた。
そして、小屋の影が濃くなった瞬間だった。
アブソルの足が止まる。
「どうした」
返答はない。視線はただ、扉の向こうへ固定されている。
日廻が目を向けた瞬間、アブソルの全身から力が抜けた。
崩れる、というより支えを失った構造物のように。
「おい──」
言葉が終わるより早く、日廻は踏み込んでいた。
前足が折れ、肩が落ちる。
地面に触れるより先に、日廻の腕がそれを受け止める。
衝撃は重い。だが、確かに生きている重さだった。
「だから無理するなって言っただろ」
低い唸りが喉の奥で鳴る。
「今さら怒るな。倒れたおまえが悪い」
『力が抜けただけロト! 意識はあるロト!』
「分かってる」
抱え直すと、想像以上の重量が腕にのしかかる。
それは単なる質量ではない。生存のために積み上げられた筋肉の重みだった。
それでも、運べないほどではない。
アブソルは抵抗しようとしたが、傷ついた前足は裏切るように力を返さない。
「暴れるな。傷が開く、嫌なのは知っているが、あと少しだけ我慢しろ」
そのまま、日廻は小屋へ踏み込んだ。
中の空気が一斉に変わる。
視線が集まる。
警戒。緊張。未知への反射。
小屋の奥には、すでに目を覚ましていたコジョンド。
長い腕がわずかに持ち上がる。
それは防御であり、同時に攻撃の準備でもあった。
だが、動きは止まる。
チラーミィがいる。
アブソルがいる。
そして日廻が、何も武器を持たずに立っている。
その事実だけが、わずかな猶予を生んでいた。
「戻ったぞ」
誰に向けた言葉でもない。
それでも、空間に落とす必要があった。
日廻はアブソルを毛布の上へ下ろす。
「足を見せろ、隠しても無駄だからな」
日廻は使い捨ての手袋をはめる。
包帯を外すと、乾いた血が毛に絡みついていた。
未開封の布を取り出し、清潔な水で濡らした。
固く絞ってから、傷口の周囲へこびりついた血を静かに拭っていく。
「痛いか」
返事は勿論ない。
『アブソルは痛みを隠すことが多いロト』
「それは図鑑の情報か」
『観察した情報ロト』
「今、追加したのか」
『大事な情報ロト!』
布を当て、包帯を巻く。
それは治療というより、出血を抑えるための応急処置にすぎなかった。
「しばらく動くな」
沈黙。
やがて、わずかに頭が下がった。
今だけは日廻の言葉を受け入れるという、小さな意思表示だった。
頭はまだ上がっている。
赤い瞳も、小屋の入り口から完全には離れていない。
それでも、立ち上がろうとはしなかった。
『次は装置ロト!』
「必要なものを出してくれ」
ロトムの画面が切り替わる。
いくつもの部品が、立体図とともに表示された。
小型のポンプ。
液体を通すための細い管。
温度を測定するセンサー。
密閉できる容器。
濾過用の部材。
小型のモーター。
接続端子と配線。
文字は相変わらず読めない。
だが、形だけなら日廻にも見覚えがあった。
「ロトム、しばらくその画面のまましてくれないか。俺の携帯端末で写真を撮って買いにいってくる」
『連れて行ってくれないロト?』
「おまえを、そのまま連れていけるわけないだろ」
ロトムの動きが止まる。
『どうしてロト?』
「空を飛ぶ、喋る端末が店内を飛び回ってみろ。騒ぎになって買い物どころじゃなくなる」
『飛び回らないロト!』
「飛ぶ時点で駄目だ」
『喋らないロト!』
「おまえが一分以上黙っていられるとは思えない」
ロトムが沈黙した。
画面の目が右へ動く。
左へ動く。
やがて、諦めたように口が開いた。
『……無理かもしれないロト』
「正直で助かる」
日廻は作業台の下から、布製の工具鞄を引き出した。
中に入っていた工具を机へ移し、口を大きく開く。
「これに入っていくか、留守番するか、どちらか選べ」
ロトムは鞄へ近づいた。
中を覗き込む。
少し高度を下げる。
すぐに上がる。
『暗いロト、狭いロト、文明が見えないロト』
「必要なときだけ見せる」
ロトムの画面に、深刻そうな表情が浮かんだ。
世界の命運を左右する決断でも迫られているような顔だった。
しばらく悩んだ末、ゆっくりと鞄の中へ入る。
『……鞄で行くロト』
「最初からそう言え」
日廻が口を閉じようとすると、隙間から青白い光が一本伸びた。
『全部閉めるのは嫌ロト』
「外で喋らないなら、少し開けておく」
『約束するロト……暗い場所はいやロト』
その約束がどこまで守られるかは怪しい。
だが、部品を選ぶにはロトム自身がいた方が早い。
日廻はチラーミィへ目を向けた。
「俺は店へ行ってくる」
『チラ?』
「ここにいてくれ」
日廻は小屋の中を指した。
毛布へ伏せているアブソル。
目を覚ましているコジョンド。
傷ついたほかのポケモンたち。
続いて自分を指し、小屋の外へ出て、また戻る動作を示した。
「こいつらの傍にいてくれ」
チラーミィは首を傾げたが、直ぐに理解できたように大きな耳を立てた。
『チラッ!』
「頼んだ」
日廻は保冷庫から、よく熟れたトマトや数種類の野菜が入った籠を取り出し、チラーミィの前へ置いた。
黒い瞳が大きく見開かれる。
「みんなと分けてくれ……独り占めはダメだからな」
『チラッ!』
◇◆◇
軽トラックへ乗り込み、ロトムの入った鞄を助手席へ置いた。
エンジンをかける。
車体が小さく震えた瞬間、鞄の中から声が響いた。
『動いたロト!』
「喋るなと言っただろ」
『まだ誰もいないロト!』
「外に聞こえる」
『小声にするロト』
軽トラックが農道へ出る。
畑の間を抜け、山沿いの道へ入った。
助手席の鞄から、背面のレンズが少しだけ覗く。
「引っ込めろ」
『周囲の安全確認ロト』
「景色を見たいだけだろ」
『それもあるロト』
「正直に言えば許されると思うな」
レンズが渋々引っ込む。
数秒後。
再び、ほんの少しだけ現れた。
『人間が、たくさんいる場所に行くロト?』
日廻は、前を見たまま答えた。
「この辺りは少ない。町へ行けば、もっといる」
『どれくらいロト?』
「数えられないくらい」
再び沈黙が落ちる。
ロトムが何を考えているのか、画面を見なければ分からない。
だが、作業小屋へ飛び込んできたときの叫びを、日廻は覚えていた。
ロトムにとって、この世界は驚きであると同時に、失ったものが残っている場所なのかもしれない。
「会わせるつもりはないぞ」
『分かってるロト、この世界では、ポケモンは正体不明の生き物ロト。見つかったら大変なことになるロト』
事情を説明したところで、信じてもらえるとは思えない。
信じられたとしても、今度は放っておかれない。
警察、行政、研究機関、報道。
どこまで広がるか分からない。
日廻自身、ポケモンについて何も理解していない。
今は、どちらも傷つけずに隠すしかなかった。
二十分ほど走り、ホームセンターへ到着する。
日廻は鞄を肩へ掛け、店内へ入った。
平日の昼を過ぎた時間だからか、客は多くなかった。
それでも、農作業着姿の老人や、資材を運ぶ店員、園芸用品を見ている中年の夫婦がいる。
油断はできない。
日廻は資材売り場へ向かった。
棚には、太さも材質も異なる管や接続部品が並んでいる。
鞄の口を少しだけ開き、日廻は商品を一つ手に取り、鞄の隙間へ近づけた。
『細すぎるロト』
「これは」
『太すぎるロト』
「なら、こっちか」
『たぶん合うロト』
「たぶん?」
『現物へ合わせないと断言できないロト』
「確かにそうだな、二種類とも買うか」
『お金が減るロト』
「おまえは持ってないだろ」
『持ってないロト!』
返事だけは、妙に元気だった。
近くを歩いていた客が、日廻の方を見る。
日廻は口元へ手を当て、咳払いをした。
客は少し不思議そうな顔をしたあと、そのまま通り過ぎる。
『小声だったロト』
「一人で鞄に話しかけている時点で怪しいんだよ」
『ごめんロト……』
そんな会話をしながら、必要になりそうなものを一つずつ籠へ入れていった。
時折、ロトムは名残惜しそうに工具売り場を見つめていたが何も言わなかった。
会計を済ませ、店の外へ出る。
軽トラックへ戻り、周囲を確認してからドアを閉めた。
その瞬間、鞄の口が内側から押し上げられた。
『外ロトーー!』
「叫ぶな!」
『狭かったロト!』
「二十分も入ってない」
『体感ではもっと長かったロト!』
「誰かに見つかる前に車へ入れ」
ロトムは日廻の肩越しに、買ってきた袋を覗き込む。
『これで装置が作れるロト』
「作れる可能性がある、だろ」
『慎重すぎるロト』
「確認できていないことは断言しないんじゃなかったのか」
ロトムが停止する。
画面の目が泳ぐ。
『……作れる可能性があるロト』
「よし」
『榊原は細かいロト』
「薬を作るんだから当然だ」
◇◆◇
作業小屋へ戻ると、戸の前でチラーミィが待っていた。
日廻を見つけた瞬間、勢いよく飛びついてくる。
「待て、荷物を持ってる」
『チラッ!』
日廻は袋を片手へまとめ、空いた腕で小さな体を受け止めた。
「ちゃんと見てたか」
『チラッ!』
小屋の中を確認する。
アブソルは毛布の上へ伏せたまま。
コジョンドも、先ほどと同じ場所にいる。
ほかのポケモンたちにも、大きな異変はなさそうだった。
かなりの量の野菜が入れてあったはずの籠は既に空っぽになっていた。
「少なかったか?」
『チラ!』
「……大丈夫そうだな」
さまざまな食べかすで口元を汚れているチラーミィの耳が立つ。
日廻は買ってきた部品を作業台へ並べる。その横をすり抜けてロトムが3Dプリンターの前へ飛んだ。
『始めるロト!』
「待て」
ロトムが止まった。
先ほどのように、勝手に機械へ入ろうとはしない。
日廻は3Dプリンターの電源ケーブルをコンセントに差し込み、機械へ手を触れた。
外装に傷はない。
表示画面も、印刷台も、以前と同じ形を保っている。
兄へ初任給で贈ったもの。
箱を開けた兄が、子どものように目を輝かせたことを覚えている。
今から作るものを、兄が見ればどう思うだろう。
勝手に使うなと怒るのか。
面白そうだと笑うのか。
きっと、後者だろうなと日廻の口元が無意識に笑みを浮かべた。
『榊原、もう一度確認するロト?』
「……日廻だ」
『ロト?』
「榊原は名字だ。俺の名前は日廻」
兄以外の誰かへ、自分からその名を教えたのは久しぶりだった。
名前を呼ばせたところで、何かが変わるわけではない。
それでも、いつまでも他人行儀な名字で呼ばせたまま、兄の遺品を預けるのは違う気がした。
「日廻でいい」
ロトムの画面が、わずかに明るくなる。
『分かったロト、日廻』
日廻は3Dプリンターへ手を置いた。
答えてくれる相手は、もういない。
自分の手で、電源コードをコンセントへ差し込んだ。
「ロトム。
『――
ロトムの画面から、いつもの軽い表情が消えた。
代わりに、幾重にも重なる細い線が映し出される。
日廻には読めない文字と記号。
それらが複雑に絡み合い、画面の中で一つの立体図を作り上げていく。
『日廻。買ってきた部品を、プリンターの周りへ置くロト』
「取りつけなくていいのか」
『並べるだけでいいロト』
日廻は言われたとおり、兄が遺した3Dプリンターを中心にして買ってきた部品を作業台へ並べた。
「これで全部だ」
『確認するロト』
ロトムの背面から、青白い光が広がった。
細い光が部品へ一つずつ触れ、表面をなぞっていく。
恐らく形状や材質、内部構造まで読み取っているのだろう。
『全部の形を記録したロト。再構成を解除すれば、元の状態へ戻せるロト』
「プリンターも?」
『もちろんロト』
「分かった、始めてくれ」
『了解ロト』
スマホロトムの輪郭を、青白い電気が走った。
画面が一度、大きく明滅する。
次の瞬間、端末の背後から伸びていた光が、勢いよく膨れ上がった。
「何だ?」
その現象に日廻が目を細める。
青白い放電の中から、何かが端末の外へ押し出されようとしていた。
まず現れたのは、鋭く尖った橙色の頭部。
続いて、同じ色をした小さな胴体。
左右へ伸びた細い腕の先では、青白い電気が絶えず弾けている。
下半身は足へ分かれず、稲妻のように細く尖っていた。
生き物の形をしている。
だが、肉や骨で作られた存在にも見えない。
橙色の体そのものが電気を帯び、淡い水色の光へ包まれている。
それが完全に外へ抜け出した瞬間、スマホ端末の画面から目と口が消えた。
宙へ浮かぶ力も失われる。
「おい」
落下しかけた端末を、日廻は反射的に受け止めた。
手の中へ収まった端末は、先ほどまでが嘘のように静かだった。
ただの機械。
電源の落ちた、橙色の端末にしか見えない。
そのすぐ上では、電気の塊に似た生き物が浮かんでいる。
画面に映っていたものと同じ表情が、今度は機械ではなく、その顔そのものに現れていた。
「……そうだったな。最初に言ってた。これはお前が入ってる機械だって」
ロトムが、自分の空になった端末の周囲を一周する。
青白い電気が機体の表面を走ったが、再び中へ戻る様子はなかった。
『こっちが、本来のボクの姿ロト!』
誇らしげに言いながら、ロトムが空中で一回転する。
小さい。
日廻が想像していたよりも、ずっと小さな体だった。
それでも、放電のたびに周囲の空気が震える。
スマホ端末の姿をしていたときより、生き物としての輪郭が明確に見えた。
「触ったら感電するのか」
『いきなり触ろうとするロト!?』
「確認しただけだ、触る気はない」
日廻は手にした端末を作業台の端へ置いた。
画面には何も映らない。
ロトムがいなくなっただけで、そこにあった表情も、騒がしさも、すべて消えていた。
初めて会ったとき、ロトムは自分をポケモンだと言った。
スマホ端末へ入っているのだとも説明していた。
だが、あのときの日廻には、目の前の異常を一つずつ理解する余裕などなかった。
兄の遺品へ勝手に入り込まれた怒り。
傷ついたポケモンたちを助けなければならない焦り。
そのどちらにも押し流され、言葉の意味を深く考えてはいなかった。
今になって、ようやく理解する。
機械が生きていたのではない。
生き物が、機械を自分の体のように動かしていたのだ。
「それで、その姿のままプリンターへ入るのか」
『そうロト』
ロトムが3Dプリンターへ向き直る。
画面を持たないその顔にも、不思議と意志が見えた。
『スマート端末から、3Dプリンターへ移るロト。でも、今回はただ中へ入るだけじゃないロト』
「買ってきた部品も使うのか。どうやって」
『全部、一度ボクの中へ取り込むロト。正確には、ボクが入った機械を中心にして、部品の構造を組み替えるロト』
「再構築するってことか」
『日廻との約束通り、元へ戻せるように構成するロト!』
「……分かった」
日廻は一度だけ3Dプリンターへ視線を移し、すぐにロトムへ戻した。
「悪い、手を止めたな。続けてくれ」
『任せるロト!』
「任せたのは俺の方だ」
『そうだったロト!』
ロトムが3Dプリンターの正面へ移動する。
細い腕を左右へ広げると、体を包む青白い光が一気に強くなった。
ロトムの橙色の体が、輪郭を失い始めた。
肉体が消えたわけではない。
形を保っていた電気がほどけ、無数の光へ変わっていく。
青白い光の中心で、二つの瞳だけが最後まで日廻を見ていた。
作業台へ並べた部品が一斉に浮かび上がった。
ネジや配線へ瞬く間に分解され、青白い光の中へ呑み込まれていく。
3Dプリンターの外装が展開し、その隙間へ管やポンプが吸い込まれる。壊れているように見えて、どの部品も正確な位置へ再配置されていた。
数秒後、広がっていた外装が閉じる。側面には透明な容器、上部には材料を入れる投入口、正面には液体を排出する細い管が形成されていた。
『再構成完了―――これがボクの新しい姿、名付けてロトム・プリンターフォーム!!』
プリンターの内部から、低い駆動音が響く。
同時に、作業台へ並べられた部品が青白い光へ包まれていた。
『さぁ!オレンのみと薬草、買ってきた水を用意するロト!』
◇◆◇
『完成ロトー!』
「……想像していたよりだいぶ早いな」
『日廻はもう忘れたロト!?ボクは技術・生産担当ロト!たとえデータが虫食い状態でも知識と経験でどうにかできるロト!』
今までの苦労を考えれば、まるで魔法のようにロトムは高らかな声で『キズぐすり』の完成を宣言した。
もしもの事態に備えて、また穴に向かう準備すら済ませていた日廻は、ポケモンを拭いて汚れた布を、ゴミ箱に投げた。
日廻は、キズぐすりがポケモン世界でどのように使われているのかを、事前にロトムから聞いていた。
その説明に従い、新品のスプレー容器を洗浄してロトムのそばへ置く。
『入れるロト』
機体から伸びたホースを通り、淡い青色の液体がスプレー容器を満たしていく。
わずかに甘い香りがした。
「最初は誰に使う」
『傷が浅くて、体の小さいポケモンがいいロト』
「……と、なると。ゼットか」
ゼットというのは、日廻についてきたポケモンの一匹で
「データが破損していて、ロトムが分かったのはゼットって文字だけだったよな」
『どんなポケモンか分からないロト、ゼットという文字すら、名前とは無関係の内容かもしれないロト、でも容量が大きいデータロト』
「ということは研究を進めやすいほど数がいるポケモンなのか?」
ポケモンたちを介抱している間、日廻はゼットの片目が潰れているように見えたため、最も重傷な個体だと思っていた。
そのため細心の注意を払って接していたが、ゼットは日廻の前で飛び跳ね、元気に動き回っていた。
「ゼット、傷を見せてくれないか。状態の確認とキズくすりの効果が知りたい」
『…………』
声を聞いたことがないため発声器官の有無の判断ができないが、ゼットは毛布から立ち上がると、日廻の言葉に応じるように、全身の擦り傷を静かにさらした。
「……お前は元々回復能力が高いみたいだな。昨日と比べて明らかに傷の治りが早い、だけど……お腹の傷は少し深そうだな。今からキズぐすりを使う、耐えきれないほど沁みれば手を払いのけてくれ」
いつものように、通じているかは分からない。それでも思いが伝わることを願いながら、ゼットの体にキズぐすりを、擦り傷へ向けて一度だけ噴霧した。
赤く腫れていた部分が、ゆっくりと落ち着いていくのが目に見えた。
「ロトムからある程度は聞いていたが、ポケモン世界の回復薬はすごいな」
手にしたキズぐすりが、ポケモン世界では最も一般的な薬だと聞かされていた。
それだけに、日廻は自分の世界にある薬との違いへ目を見張った。
『反応正常ロト!このキズぐすりだと傷口を保護して、ポケモンの回復する力を助けるだけの薬ロト!でも、もっとすごい薬も作れるようになるロト!』
「……材料は?」
『別担当ロト!』
「はいはい……良かったなゼット、元気になれよ」
そう言い残し、日廻は他のポケモンの元に移動した。
製造を終えたロトムは、いつの間にか見慣れたスマホ端末の姿へ戻っていた。
日廻はロトムと一緒にポケモンたちの傷の状態を確認しながら、名前を呼び、傷へ触れ、薬を使っていった。
名前を知っただけで、すべてを理解できたわけではない。
だが、呼びかけることができる、誰かと誰かを区別できる。
何かではなく、一匹として見ることができる。
ゼットと呼ばれたポケモンは、なにかを確かめるように、日廻を見ていた。
「お前で最後だ、コジョンド」
最後に残ったのは、コジョンドだった。
日廻が近づくと、長い腕へ力が入る。
昨日の恐怖は、まだ消えていない。
毛布の上へ横たわっていても、逃げ道と日廻の位置を確かめている。
「無理にはしない」
日廻は少し離れた場所へスプレーを置いた。
「でも、その肩は治した方がいい」
コジョンドの視線が、スプレーへ落ちる。
次に、日廻の頬へ向く。
赤い傷。
昨日、自分がつけたもの。
「これは気にするな」
日廻は視線に気づいたように頬へ触れた。
「おまえは怖かっただけだろ」
コジョンドの瞳が、わずかに揺れる。
「俺も怖かった」
日廻はその場へ座った。
手は膝の上へ置く。
何も持っていないことが見えるように。
「だから、お互い様だ」
コジョンドは動かない。
チラーミィが、チラーミィが包帯を抱え、コジョンドの隣へ座った。
小さな前足で、長い腕へそっと触れた。
『チラ』
治療を終えて、張り詰めた顔から少し穏やかになったアブソルも顔を上げる。
赤い目で、コジョンドを静かに見ている。
責めているようには見えなかった。
日廻も待った。
数秒。
十秒。
それ以上。
小屋の外から風が入り、戸口に積もった藁を揺らす。
ロトムは珍しく口を挟まなかった。
やがて、コジョンドの長い腕から少しずつ力が抜けた。
傷ついた肩を、日廻へ向ける。
「今から、触るぞ」
コジョンドは目を閉じた。
日廻はゆっくり近づく。
急な動きをしない。
傷口へ触れる前に、もう一度声をかける。
「洗うぞ、続けて薬だ」
水で泥と乾いた血を落とす。
コジョンドの体が震える。
長い指が床をつかむ。
だが、攻撃は来ない。
スプレーを一度。
傷が深いため、少し範囲をずらしてもう一度。
赤く腫れていた皮膚が、ゆっくりと落ち着いていく。
日廻はチラーミィから包帯を受け取り、傷口へ新しく巻き直した。
『反応正常ロト』
「終わった、離れるぞ」
日廻は距離を取ると、コジョンドが目を開けた。
自分の肩に触れ、痛みを確かめるように、ゆっくり腕を動かす。
次に、日廻を見る。口元がわずかに動いた。
『ジョ……』
昨日のような、恐怖に満ちた叫びではない小さな声だった。
意味は分からない。
だが、拒絶ではないことだけは分かった。
「ゆっくり休め」
日廻はそれ以上、何も求めなかった。
すべての治療が終わった頃には、窓から差し込む光が赤くなっていた。
朝から何も口にしていないことを、日廻はそのとき思い出した。
作業小屋の壁へ背中を預け、その場へ座り込む。
痛みが引いていくポケモンたちは毛布の上で休んでいた。
安堵したように眠り始めるポケモン達に、日廻は一つの山場を超えたのだと実感した。
『キズぐすりの製造記録を保存したロト』
「次も作れるか」
『同じ材料があれば作れるロト。言われていた通り、オレンのみの種は残したロト』
「すまないな、こっちの土で育てられるか試したかった。上手くいけば、薬草もやってみたい」
『試す価値はあるロト!』
日廻は畑の方向を見る。
空いている場所はある。
野菜とは育て方が違うかもしれない。
気候が合わない可能性もある。
それでも、毎回穴へ採りに行くよりは安全だった。
『ポケモン世界のきのみを、この国……えっと「日本」日本で栽培するロト!』
「大声を出すな」
『大発見ロト!』
「まだ植えてすらいない」
『成功したら図鑑へ登録するロト!』
「失敗したら?」
『失敗例として登録するロト!』
「そうだな、おまえらしい」
『記録は大事ロト!』
日廻は目を閉じた。
ようやく休めると息を吐いた。
母屋へ戻るだけの力さえ残っていなかった。
壁へ背中を預けたまま、意識が沈み始める。
そのときだった。
『そういえば、モンスターボールも作れるロト』
日廻の目が開いた。
「……モンスター、ボール?」
『ロト?』
「何だ、それ」
ロトムの動きが止まる。
画面から表情が消えた。
まるで思考そのものが一度、深い底へ沈んだかのように。
数秒間、音が途絶える。
作業小屋の空気だけが、重く滞留していた。
日廻の声は低い。
怒鳴り声ではない。だが、刃のように鋭い静けさを含んでいた。
眠りかけていたチラーミィがびくりと跳ねる。
ゼットが寝返りを打って背を向ける。
マリルが反射的に耳を立てる。
アブソルは片目だけを開き、空気の変化を測るように日廻を見る。
コジョンドは小さく息を吐き、視線を逸らした。
小屋の中のすべてが、一瞬だけ緊張で固まった。
『せ、説明……して、なかったロト』
「一番、最初に、言え」
『でも!今は寝た方がいいロト!!』
「言い逃げ、するな。今、説明しろ」
日廻は一歩踏み出す。
その足取りは重い。徹夜と疲労が骨の奥にまで沈んでいる。
糸で無理やり引き起こされる人形のような動きだった。それでも、止まろうとはしなかった。
『とても長くなるロト!!』
「気になって……眠れない、だろ」
『次に説明するロト!』
「ロトム」
『ロト?』
「そこから動くな」
その一言で、空気がさらに沈む。
命令ではない。だが拒否を許さない圧があった。
日廻は立ち上がろうとする。
だが、膝が言うことを聞かない。
視界の端がわずかに揺れる。
壁へ手をつき、どうにか体を支える。
呼吸が浅い。
それでも目だけは、ロトムから逸らさない。
『ひ、日廻は休むべきロト!』
「休め、なくしたのは、おまえ、だ」
言葉は途切れ途切れで短い。
だが、積み重なった疲労と焦燥がそのまま乗っている。
『説明は明日ロト!』
「逃げるな!!」
その夜、日廻は彼らの名前を知った。
ポケットモンスター、縮めてポケモン。
自分とは異なる理のもとに存在する、生き物たち。
穴が開いた理由は分からない。
彼らが何から逃げてきたのかも分からない。
ロトムの世界で何が起きているのかも分からない。
分からないことばかりだった。
それでも、昨日とは違う。
名前を知った。
傷を癒す手段を一つ知った。
知らないものを恐れるだけではなく、理解へ踏み出す方法を手に入れた。
日廻が彼らへ近づいたのか。
彼らが日廻を受け入れ始めたのか。
今はまだ、どちらとも言い切れない。
ただ、同じ屋根の下で。
同じ夕暮れの残滓の中で。
同じ明日を迎えようとしている。
それだけは、確かだった。
執筆スピードがドンドン遅くなる今日…やばい