皆との暮らしがまた始まって、数日が過ぎた。
その日は、朝から雨だった。
屋根を叩く雨音が、家じゅうに低く満ちている。少しだけ開けた縁側のガラス戸の向こうで、庭の土はみるみる色を濃くし、畝の間には細い水の筋が流れ始めていた。
思えば、皆がこちらで雨に降られるのは、これが初めてだった。
開いたガラス戸から、湿った土の匂いが入り込んでくる。
最初に飛び出したのは、マリルだった。丸い身体で縁側から跳び降り、庭でいちばん大きな水たまりへまっすぐ突っ込んでいく。ばしゃん、と派手な音が上がった。
『リルッ!』
水たまりの真ん中で振り返ったマリルが、尻尾の先の玉をぶんぶん振って鳴く。早く来い、と言わんばかりだった。
『ピカッ!』
『クマァァ!!』
縁側の端で空を見上げていたピカチュウが、ぴょんと庭へ降りる。雨粒が当たるたびに、長い耳がぴくぴくと跳ねた。ヒメグマは迷いもしない。転がるように飛び出して、マリルの隣の水たまりへ尻もちをつき、跳ね上がった泥水を顔じゅうに浴びて、きゃっきゃとはしゃいでいる。
チュリネは軒下から少しだけ前へ出て、頭の葉を雨へ向けて広げた。その場からほとんど動かないのに、どこか気持ちよさそうに見える。
ニャスパーだけは、縁側の上から動かなかった。大きな耳を伏せ気味にして、雨の庭をじっと眺めている。
雨音に、いくつもの水音と鳴き声が重なっていく。
日廻は膝に肘をつき、その様子を眺めていた。雨の日まで、ここが静かになることはなさそうだ。
「随分と楽しそうだな」
日廻は押し入れから古いタオルを何枚か引っ張り出し、縁側の踏み石の脇へ並べた。
「戻ってくるときは、ここで体を拭けよ」
『リルー!』
水たまりの中から、マリル達が元気よく返事をした。返事だけは、いい。
庭の隅、作業小屋の軒下では、フライゴンが翼を畳んで座り込み、雨の落ちる庭を眺めていた。縁側の板の間には、アブソルが寝そべっている。薄く開いた目が、跳ね回る小さな影を追っていた。
ガラス戸越しに、マリルが水たまりから水たまりへと跳ね回っているのが見える。晴れた日よりも、ずっと生き生きしているようにさえ見えた。
タイプのことは、前にロトムから一通り教わっていた。マリルは、みずタイプだ。
「なあ、ロトム」
座卓の横に浮かんでいたロトムが、画面をこちらへ向けた。
「みずタイプのポケモンって、やっぱり川とか海で暮らしてるのが多いのか」
『多いロト! 他にも湖とか沼に住んでるのもいるロト』
ロトムは得意げに画面を明るくしてから、こう付け足した。
『でも、みんながみんな水の中ってわけじゃないロト。水辺の近くの森とか、街の中で暮らしてるのもいるロト』
日廻は視線を、庭の隅へ移した。作業小屋の軒下で、フライゴンがゆっくりと首を巡らせ、雨雲を憂鬱そうに見上げている。
「フライゴンは、じめん・ドラゴンだったよな」
『そうロト』
「ドラゴンってことは、山奥とか、人里離れたところに住んでるのが多いのか?」
竜といえば、深い山や、人の寄りつかない谷に棲んでいるものだ。昔話に出てくる竜は、たいていそうだった。
『ドラゴンタイプでも、住んでるところはいろいろロト。山にいるのもいるし、海にいるのもいるし……フライゴンは、主に砂漠に住んでるロト』
「砂漠、か」
思わず、もう一度作業小屋のほうを見る。濡れた庭と、雨に煙る畑。その向こうに霞む山並み。砂漠という言葉からは、どれも遠い景色だった。
日廻は口元に手を当てた。視線はどこか遠くへ向いたまま、考えるようにそのまま黙り込んでいた。
ロトムが、不思議そうに画面の目を瞬かせる。けれど、何も聞いてはこなかった。
やがて、日廻は口元から手を下ろした。
「……図鑑って、そういうのも載ってるのか」
『載ってるロト! 見るロト?』
ロトムが、くるりと画面をこちらへ向ける。
図鑑アプリの画面には、見慣れた緑の翼の絵が映っていた。その横に、文字がびっしりと並んでいる。鉤のような線と、小さな丸や点を組み合わせた、見たこともない文字だった。
「……読めねえ」
『あっ』
ロトムの画面の目が、ぱちりと丸くなる。
『向こうの文字だったロト……』
ロトムの壊れていたデータを直して、ポケモン図鑑アプリとしてまとめ直したもの。元が向こうのデータなのだから、向こうの文字で書かれているのは当たり前だった。
『読むのは任せてほしいロト。でも、画面だと小さいし、いっぺんに見比べられないロト……』
ロトムはしばらく考えるように画面を揺らし、それから、ぱっと顔を明るくした。
『そうロト! 勉強用に、まとめたのを印刷するロト!』
「印刷?」
『紙なら、並べて見比べられるし、書き込みもできるロト。パソコン、借りるロト!』
言うが早いか、ロトムは座卓の端のノートパソコンへすいと寄っていった。閉じていた画面がひとりでに明るくなり、何かの読み込みが始まる。部屋の隅のプリンターが音を立てて目を覚ました。
一枚、また一枚と、紙が吐き出されてくる。
どの紙にも、ポケモンの絵や図が刷られていた。枠で区切られた表のようなもの、何かの順番を示すらしい図、絵の横に小さな四角が並んだページ。そして、そのどれにも、例の読めない文字が隙間なく並んでいる。
プリンターは、なかなか止まらなかった。
「……多くないか」
『これでも、選んだほうロト』
ようやく静かになったプリンターから、日廻は紙の束を取り上げた。思っていたより、ずっしりと重い。
一番上の一枚は、表紙らしかった。大きな文字が並び、その下に、丸太のように見えるものを抱き枕のようにして眠る、コアラのようなポケモンの絵が描かれている。
「これは……」
『表紙は飛ばしていいロト! 中身ロト、中身!』
妙に急かされ、日廻は首を傾げつつ表紙を束のいちばん下へ回した。
座布団の上で丸くなっていたミュウが、片目だけを開けた。その目が、ちらりとロトムのほうへ向く。ロトムの画面の目が、すっと横へ逸れた。
何だ、と思ったときには、ミュウはもう目を閉じていた。
紙をめくりかけて、日廻の手がふと止まる。
「著作権的に大丈夫なのか?」
『細かいことは気にしないロト!』
向こうの世界に、そういう決まりがあるのかどうかも知らない。考えたところで答えが出るとも思えず、日廻はボールペンを手に取った。
ロトムが紙の文字を読み上げ、日廻がその横に日本語で書き込んでいく。
絵の下には、名前を。タイプは知っているものなら自分で書き、わからないものはロトムに聞く。知った顔を見つけると、自然と手が止まった。ピカチュウの絵の横には、迷わず「でんき」と書き込む。
どのページにも、絵の横に同じような四角い空欄が並んでいた。学校で使った問題集の解答欄に、どこか似ている。
「この空欄、何を書くところなんだ」
『そこは、また今度ロト!』
答えになっていない。けれどロトムは、もう次のページを読み上げ始めていた。
ガラス戸の外では、遊びがますます盛り上がっていた。ヒメグマはいつの間にか、泥の上をごろごろと転がる遊びを覚えたらしい。庭の端のゆるい斜面では、マリルが腹ばいになって泥の上を滑り降り、それを真似たピカチュウが、勢い余って顔から水たまりへ突っ込んでいた。チュリネの頭の葉には、跳ねた泥がまだらに散っている。
縁側から動かなかったはずのニャスパーまで、気づけば庭の真ん中にいた。マリルに腕を引かれながら、大きな耳の先まで泥をかぶっている。
『じゃあ、ちょっと問題を出すロト!』
ロトムの声が、心なしか弾んでいる。
『上から五枚目と、六枚目を出してほしいロト』
言われたとおりに引き抜くと、片方の紙には、二匹のポケモンの絵が並んでいた。
『左がトランセル、右がコンパンロト』
トランセルは、硬そうな緑の殻に覆われていた。三日月のように反った形で、細めた目だけがのぞいている。見るからに、さなぎだった。
コンパンのほうは、丸くて毛むくじゃらの紫色の身体に、大きな赤い目がふたつ。頭のてっぺんからは、触角がぴんと二本伸びている。
日廻は二匹の名前を、それぞれの絵の下に書き込んだ。
『で、こっちがバタフリーとモルフォンロト』
もう一枚には、翅を広げた二匹が描かれていた。
バタフリーは、黒い筋の入った白い翅に、青紫の身体。顔の大部分を占める、大きな赤い目が特徴だった。モルフォンは、淡い紫の翅に細かな模様を散らした、どこか蛾に似た姿だった。
『トランセルとコンパンは、進化すると、このバタフリーとモルフォンになるロト。さて、どっちがどっちになるロト?』
進化、という言葉は前にも聞いていた。世代を重ねて形を変えていくのではなく、一匹の姿そのものが変わることなのだという。アブソルのメガシンカなら目の前で見たが、あれとはまた別のものらしい。普通の進化を、日廻はまだ一度も見たことがない。
日廻は二枚の紙を並べ、四匹の絵を見比べた。
トランセルは、さなぎだ。さなぎから出てくるなら――と考えかけて、視線がコンパンの顔で止まる。
大きな赤い目。頭の触角。
隣の紙に目を移すと、バタフリーの顔にも、まったく同じものがあった。
「……これだな」
日廻はボールペンの先で、コンパンとバタフリーを順に指した。
「コンパンがバタフリーで、トランセルがモルフォン。だろ」
ここまで似ていれば、迷う余地もない。
『ブッブー! 残念ロト!』
「……は?」
『正解はトランセルがバタフリーで、コンパンがモルフォンロト!』
自信のあった答えを間違いだと言われ、日廻は用紙を注意深く見直した。
コンパンの赤い目を見て、バタフリーの赤い目を見る。触角を見る。もう一度、コンパンを見る。
座布団の上で、ミュウの尻尾がぱたん、と一度揺れた。
『見た目だけで決めるからよ』
「見た目しか判断する材料がないだろ」
言い返しながらも、日廻の目は四匹の絵の間を行ったり来たりしていた。コンパンとモルフォン。紫色なのは、同じと言えなくもない。トランセルとバタフリーは――緑の殻と、白い翅。どこにも、つながるところが見当たらない。
この殻が割れて、この翅が出てくる。頭ではそういうものだと聞いても、どうにも思い描けなかった。
日廻は、二枚の紙の余白に、大きく矢印を書き込んだ。トランセルからバタフリーへ。コンパンからモルフォンへ。
矢印を書き込んだあとも、何度見比べてみても、やはり納得はいかなかった。
つけっぱなしにしていたテレビから、聞き覚えのある言葉が流れてきたのは、そのときだった。
『――新惑星について、続報です』
日廻は顔を上げた。
『先日、地球から送られた信号に対し、それに対応するとみられる応答が確認されました。内容については現在も解析が続けられており、どのような意味を持つのかは、まだ分かっていません』
画面が切り替わり、スタジオの専門家が映る。
『こちらの呼びかけに、向こうが何らかの形で応えた、とは言えると思います。ただ、中身が読み取れたわけではありません。お互いの言葉が通じた、という段階には、まだ遠いですね』
「……返事、したのか」
ロトムは、テレビの画面を見つめていた。何か言いたそうにも見えたが、結局、画面の目を一度瞬かせただけだった。
『……したみたいロト』
日廻は、座卓に広げた紙へ目を落とした。読めない文字が、びっしりと並んでいる。
二ュースはすぐに、天気の話題へ移っていった。日廻は再びロトムの説明に耳を傾け、書き込みを続けた。
気づけば、紙の束は半分ほどがめくられ、余白という余白に日廻の字が並んでいた。
『今日はここまでにするロト!』
ロトムが、満足そうに画面を明るくした。
『毎日ちょっとずつがいいロト。みんなと暮らすなら、知っておいて損はないロト!』
それは、そうかもしれない。生息地のことも、進化のことも、知らないことばかりだった。
「そうだな。分からないところは、また頼むぞロトム」
そう答えると、ロトムの画面がぱあっと輝いた。たかが勉強の続きにしては、やけに嬉しそうだった。
座布団の上で、ミュウがむくりと顔を上げた。感心したような、呆れたような目つきで、じっとロトムを見ている。
「どうしたんだ?」
『なんでもないわよ』
ミュウはそれだけ言って、ふいと顔を伏せた。
日廻は首を傾げながら、紙の束を揃えて座卓の端に置いた。束のいちばん下から、表紙がのぞいている。丸太を抱えた灰色の生き物は、絵の中で気持ちよさそうに眠っていた。
その上に刷られた大きな文字を、日廻はまだ読むことができない。
そこには『
その時、縁側で、ぺたん、と音がした。
「………ぺたん?」
雨垂れとは違う音にまさかと振り向くと、泥の塊にしか見えない何かが、次々と縁側へ跳び上がってきた。
先頭はマリルだった。青い身体はほとんど見えず、尻尾の先の玉まで茶色に染まっている。そのすぐ後ろを、顔じゅう泥だらけのヒメグマが転がるように続き、黄色だったはずのピカチュウと、葉の先から泥水を滴らせたチュリネ、大きな耳の先まで泥をかぶったニャスパーがなだれ込む。
踏み石の脇に並べたタオルには、誰ひとり見向きもしなかった。
縁側の板の上に、小さな足跡が点々と刻まれていく。アブソルが音もなく立ち上がり、その行列を避けるように部屋の隅へと退いた。勢いは止まらない。五つの泥の塊は、まっすぐ日廻を目がけ、そのまま畳の上へと駆け上がった。
マリルが、日廻の目の前でぶるぶると身体を振るう。
泥の飛沫が、畳に、障子に、日廻の頬に飛んだ。
畳の上には、点々と続く足跡と、ヒメグマがひと転がりしたらしい大きな泥の跡。五つの顔が、それはそれは楽しそうに日廻を見上げている。
日廻は、頬についた泥を拭うことも忘れて、大きく息を吸い込んだ。
「――動くなッ!泥団子みたいになった状態でそれ以上動くなぁぁ!!」
その後、泥だらけの五匹は、仲良く日廻の手でお風呂に叩き込まれた。