照合、不一致。端末の画面に、短い表示が浮かんだ。今日だけで何度目になるのか、数えるのはとうにやめている。担当者は椅子の背にもたれ、凝り固まった首をゆっくりと回した。机の端のカップに手を伸ばし、すっかり冷めたコーヒーを一口すする。
机の上には、受信資料を映した画面が三つ並んでいる。左の画面には、これまでに読み解けた規則がまとめてあった。数を表すらしい記号と、その並べ方。区切りに使われているらしい印。最初に届いた資料は、数の並びと単純な図形ばかりで、それを手掛かりに、ここまではどうにか辿り着けた。
問題は、その先だった。
右の画面に映した新しい資料の文字列は、左の規則にまるで従わない。記号の形が違う。並ぶ間隔も違う。同じ規則で読もうとすると、どこかで必ず破綻する。
「……また、書き方が違う」
独り言が漏れた。最初は、表記の揺れだと思っていた。正式な文書と走り書きとで字の形が変わるように、送り手ごとに癖があるのだろう、と。
けれど、揺れというには違いすぎた。
机の脇では、オーベムが紙の束をめくっていた。画面だけでは見比べきれない分を、刷り出して積んであるのだ。その指先が、ふいに光った。赤、黄、緑。三本の指の先が、短く順に点る。何かに気づいたときの、いつもの癖だった。
オーベムは束の中から二枚を抜き出し、担当者の前に並べて置いた。
中心の円と、その周りを回る小さな点。こちらの世界でも見慣れた、恒星と惑星を表す図だ。片方の図の下には、さっきまで散々眺めていた丸みのある文字列。もう片方の下には、角張った、まるで形の違う記号の列が並んでいる。
同じ図に、違う文字。
担当者は身を乗り出し、二つの文字列を見比べた。長さが違う。使われている記号の種類が、ほとんど重ならない。書き方の癖などではなかった。最初から、別の仕組みで組み立てられた文字だ。
「同じものを、別の言葉で書いてるのね」
端末の隅で、通知が点滅した。解析班からの更新だった。受信資料のそれぞれに、送信地点の推定が書き加えられている。文字の種類ごとに、資料を並べ替えてみる。丸みのある文字。角張った文字。右から左へ流れていくように見える文字。分けたそれぞれに、送信地点の推定を重ねていく。
ばらばらに見えていた印が、いくつかの塊に分かれた。
ふと、以前に受け取った資料の中に、陸地の形を描いた図があったのを思い出す。
呼び出してみると、陸地は細い線で幾つにも区切られ、区切られたそれぞれに、形の違う文字が添えられていた。土地の名か何かだろうと、そのときは深く考えなかった。その線と、送信地点の塊が、ほとんど重なっていた。
「……区切られた土地ごとに、違う言葉を使ってる」
口に出してみても、すぐには呑み込めなかった。
地方が違っても、
相手の世界では、そうではないらしい。
この線で区切られた土地に別々の言葉がある――今のところは、そう考えるのがいちばん筋が通った。
「解読しなきゃならない相手が、ひとつじゃないのね……はぁ」
相手を責める気はない。読み解くための前提が、ひとつ増えた。それだけのことだ。
ただ、その「それだけ」が、今はひどく重かった。人手の多くは復旧の現場へ取られ、交信チームに回ってくる人数は、いつだって足りない。
「……こっちは、被害規模の全体像すらまだ把握できていないのに」
誰にともなく、愚痴がこぼれた。
オーベムが担当者の顔をちらりと見てから、机の上の紙を、文字の種類ごとに束へ分け直し始めた。言われる前に手が動くのは、いつものことだった。
担当者も椅子を引き直し、所見をまとめにかかった。宛先は解析班と、交信チームの全体。自分たちが見つけたものが、どこまで正しいのかはわからない。それでも、伝えておかなければ、皆が同じ壁にぶつかり続けることになる。
◇◆◇
それからしばらくは、言葉ごとに分けた資料と向き合う日が続いた。
言葉が違えば、規則はまた一から探し直しになる。チームの中で受け持つ言葉を分け、担当者とオーベムにも、そのうちのひとつが割り当てられた。それでも、たった一文の意味を確かめるのにさえ、気の遠くなるような時間がかかった。
上から資料が回ってきたのは、そんなある朝のことだった。
送り状には、上層部から、とだけある。添付されていたのは、相手側のひとつの言葉についての、基礎的な対照資料だった。
表題には相手側の文字が並び、その横に、こちらの言葉で名前が添えられていた。
――
めくっていくと、まず四十あまりの文字に、ひとつずつ読み方の音を振った表があった。その先に、数の数え方、簡単な語、初歩的な言い回しが、こちらの言葉での意味と並べて載っている。
「……どこから、こんなものを」
思わず声が漏れた。資料のどこにも、出どころは書かれていない。
疑問は残る。けれど、目の前にあるのは、喉から手が出るほど欲しかった手掛かりだった。
照らし合わせてみると、この日本語で書かれているのは、最初から散々眺めてきた、あの丸みのある文字の束らしい。資料が回ってきたのを機に、担当者とオーベムがその束を受け持つことになった。
担当者が刷り出した対照表を、オーベムが机いっぱいに広げ、その横に受信資料の束を並べていく。担当者が椅子に座り直すころには、もう照合の支度が整っていた。手始めに、以前に受け取った資料の一枚を取る。人の姿を描いた図に、文字がふたつだけ添えられていた。
表の中から同じ形を探し、読み方を確かめる。
「……ひ、と」
たどたどしく口に出すと、横で語の一覧をめくっていたオーベムの指が、ある行で止まった。同じ二文字が、そこに載っている。
図には、人の姿が描かれている。
ただの記号の並びだったものが、初めて、意味のある言葉としてつながった。
もっとも、読み方がわかるのは、対照表に載っている文字だけだった。資料には、表にない文字も混じっている。音を拾えても、その意味までつかめるのは、語の一覧で見つかったものに限られた。ほかの言葉の束には、まだ同じような手掛かりさえなかった。
ある晩、照合に行き詰まって手を止めたとき、オーベムが紙の山から一枚を抜き出し、担当者の前に置いた。
受信資料の中に混じっていた、数少ない写真のひとつだった。
青い海と、雲の浮かぶ空。その下に、丸みのある文字が一行添えられている。
対照表で一文字ずつ音を拾い、語の一覧と照らし合わせていく。何度も行き来した末に、意味までつかめたのは、頭の二文字だけだった。
うみ。――海。
残りの部分は、語の一覧を何度めくっても、半分も読み解けない。
けれど、写真を見れば、そこに海があることは一目でわかる。空も、雲も。どの言葉で書かれていようと、写っているものは変わらない。
「……そっちの海も、綺麗ね」
その晩のうちに、担当者は短い所見を書き送った。
同じことに行き当たっていたのは、担当者たちだけではなかったらしい。数日後、交信チームの方針が改められた。文章の解読は続けながら、画像による相互の紹介を優先する。担当者の所見も、その判断の材料の一つになったようだった。
担当者とオーベムに新たに割り当てられたのは、こちらから送る、生活の写真の選定だった。言葉もまだ満足に通じない相手に、自分たちの暮らしを伝える。何を見せれば伝わるのか、考え出すときりがなかった。
それに、新しい写真ほど使えなかった。
記録庫を開けば、ここしばらくの写真はどれも似たようなものばかりだ。崩れた建物。瓦礫を運ぶ人とポケモン。大嵐が通り過ぎたような、破壊された自然。仮設の寝床に、身を寄せ合って眠る人々。
「……今の写真なんか送ったら、相手は腰を抜かしちゃうわ」
苦笑まじりに呟いて、担当者は検索の条件を書き換えた。結局、候補に残ったのは、あの災害より前に撮られた写真ばかりだった。
担当者が候補を一枚ずつ画面に出していく横で、オーベムがじっと覗き込んでいる。気に入った一枚が来るたびに、小さく身を乗り出した。
市場の通り。果物の籠を抱えた店主の足元を、小さなポケモンがちょこまかと歩いている。
家族の食卓。卓を囲む人々の輪の中に、自分の器へ顔を突っ込んでいるポケモンが一匹交じっている。
建設の現場。作業着の人々に交じって、ドッコラーたちが角材を担いで足場を渡っている。
ポケモンセンターの受付。白い制服の職員の隣で、タブンネが運ばれてきたポケモンの様子を覗き込んでいる。
最後の一枚が映ったとき、オーベムが画面を指さしたまま動かなくなった。夕暮れの公園で、子どもとポケモンが並んでベンチに座り、同じ方向を眺めている写真だった。
担当者は少し考えて、それも送る束に加えた。
送信の手続きを済ませると、あとは待つしかなかった。返事が届くまでには、どうしても時間がかかる。その間にも、言葉ごとの仕分けは山のように残っていた。
◇◆◇
相手からの画像がまとめて届いたのは、それからしばらく経ってからのことだった。
どんなものが写っているのか、開く前から少しだけ胸が騒いだ。担当者は、受信した画像を順に開いていった。オーベムが、肩越しに画面を覗き込んでくる。
一枚目は、街並みだった。
灰色の道が真っすぐに延び、その両側に、背の高い建物が隙間なく並んでいる。道を行き交う人々は、手に何かを提げて、足早にどこかへ向かっていた。道があって、人が歩いている。店らしい建物の前で、誰かが立ち止まって中を覗いている。
「……街ね。崩れていない」
当たり前のことを、つい口にしていた。
二枚目は、家の中だった。食卓を囲んで、家族らしい人々が食事をしている。湯気の立つ器。何かを頬張る子ども。その子に笑いかける大人。
三枚目は、仕事場らしかった。大きな機械の並ぶ広い建物の中で、揃いの服を着た人々が、それぞれの手元に向かっている。機械を操る者、部品を運ぶ者、何かを書きつけている者。
担当者は、知らず頬を緩めていた。
家に住み、食卓を囲み、働いて、街を作っている。言葉の意味は、まだほんのわずかしかわからない。それなのに、写真の中の暮らしは、驚くほど自分たちと変わらなかった。
四枚目を開いたとき、担当者の手が止まった。
どこまでも平らに延びる滑走路。翼を広げた大きな機体が、何機も並んでいる。その足元では、作業着の人々が荷を運び、車両を動かし、機体を見上げていた。
フキヨセシティの空港も、こんなふうだった。
町じゅうを吹き抜ける風が、滑走路の上では一段と強くなる。荷を満載した機体が、腹に響く音を立てて飛び立っていくのを、柵越しに何度も見上げた。地上では、人とポケモンが一緒になって、大きな荷を運んでいた。
最後に帰ったのは、いつだったか。
次を急かすように点滅していたオーベムの指先が、ふっと静かになった。担当者の顔を一度見て、それから黙って、空港の写真に目を戻す。
「……故郷を思い出しちゃった。オーベムは覚えてる? タワーオブヘブンで、まだリグレーだったあなたと初めて会った日のこと」
遠い星の、言葉もろくに通じない相手。その世界にも、自分の故郷を思わせる場所がある。それが、妙に嬉しかった。
その晩は、届いた写真を刷り出して壁に留め、簡単な所見を書き添えたところで、作業を終えた。
◇◆◇
次の受信分の整理を進めていたとき、気づくと、オーベムが壁の前に立っていた。
留めてある街並みの写真に、顔を近づけている。何かを探しているような様子だった。人の群れを指先でなぞり、店先をなぞり、道の端をなぞる。そのたびに、小さく首を傾げる。
「オーベム、何か気になるものがあるの?」
返事の代わりに、オーベムは自分の胸に手を当て、それから担当者を指した。最後に、写真の中の人々を指す。
担当者は席を立ち、オーベムの隣で写真を見た。
歩いている人。立ち止まっている人。荷物を提げた人。
「……人しか、いない?」
こちらから送った写真を、端末に呼び出して見比べる。市場の通りでは、店主の足元をポケモンが歩いていた。公園のベンチでは、子どもとポケモンが並んで座っていた。
並べてみると、違いははっきりしていた。
写真を撮った場所が、たまたまポケモンの寄りつかない通りだったのかもしれない。人の多い場所ではモンスターボールに入れておくのが、相手の世界の決まりなのかもしれない。写真を選んだ誰かが、人の暮らしを見せることだけを考えたのかもしれない。
壁の、家の写真に目を移す。
食卓を囲む家族。卓の下にも、窓辺にも、ポケモンの姿はない。人混みでもない家の中で、わざわざボールに入れておくものだろうか。
仕事場の写真。並ぶ機械と、それを扱う人々。重い部品を運んでいるのも、機械だった。
機械なら、こちらにもいくらでもある。驚くようなことではない。気になるのは、その機械の隣に、当然いるはずだと思っていたものの姿がないことだった。
別の送信地点から届いた写真も、端末で遡って開いていく。別の街。別の家。別の仕事場。どれにも人の暮らしが写っているのに、その傍らにいるはずの姿だけが、やはり見当たらない。
一枚なら、偶然で済む。二枚でも、まだ言い訳はつく。けれど、めくってもめくっても――
「……偶然、だよね?」
呟いた声は、自分で思っていたより頼りなかった。
最後に、壁の空港の写真の前に立った。前に見たときは、懐かしさばかりで眺めていた写真だった。
今度は、端から端まで、ポケモンの姿を探した。
滑走路の脇。荷を運ぶ車両の上。機体の陰。作業着の人々の足元。
フキヨセなら、荷を運ぶ人の隣には、いつもポケモンがいた。けれど、写真の中で荷を運んでいるのは、人と機械だけだった。
懐かしさは、まだ胸に残っている。滑走路も、機体も、働く人々も、たしかに故郷とよく似ていた。似ているからこそ、そこに欠けているものが、かえって目についた。
隣で、オーベムが自分の指先を見つめていた。点りかけた光が、途中でふっと消える。
仕事のときも、そうでないときも、当たり前に隣にいる相棒。同じように人が暮らし、働き、大きな機体を空へ飛ばしている世界。その写真のどこにも、オーベムのような存在が見当たらない。
「まさか……いや、そんなこと……」
写真の選び方のせいかもしれない。たまたま、そういう場面ばかりが写っただけかもしれない。そう考える余地は、まだ残っている。それでも、一度芽生えた疑いは、簡単には引っ込みそうになかった。
端末が、短く鳴った。画面に、招集の通知が浮かんでいた。上層部から重大な報告がある。交信チームは全員、ただちに会議室へ――。
担当者はオーベムと顔を見合わせ、席を立った。
会議室には、すでにチームの顔ぶれがほとんど揃っていた。解析班の者も、別の言葉の束を受け持つ者も、皆どこか落ち着かない様子で前を見ている。椅子の脇や膝の上では、相棒のポケモンたちも、同じように前を向いていた。担当者が後ろの席に着くと、オーベムもその隣に収まった。
前に立つ上司は、手元の資料に目を落としたまま、なかなか顔を上げなかった。一枚めくり、また前の頁へ戻す。何かを言いかけて、口を閉じる。
やがて上司は、静けさの中で資料から目を上げた。その目が、職員たちの傍らに控えるポケモンたちの上を、ほんの一瞬だけさまよう。
そして、言葉を選ぶようにして、一度だけ息を吸った。
「……
見返す度に最後のセリフに無限にダメージが蓄積されていきます……。