日廻は、紙の隅へ書いた文字を見下ろしていた。
ロトムの画面に出ている見本と、見比べる。形は合っているつもりなのに、並べると、どうも違って見えた。
「……これで水、だったよな」
『最後の字が逆ロト』
画面を寄せてもらい、紙の向きを変えかけて、やめた。紙を回してどうにかなるものでもない。初めはボールペンを使っていたが、何度も書き直すうちに、いつの間にか鉛筆へ持ち替えていた。
日廻は冷たくなったコーヒーを啜りながら、居間の壁に張られた一枚を見つめた。
升目に区切られた紙に、鉤のような線と小さな丸や点を組み合わせた、向こうの世界の文字が大きく刷られている。その一字一字の脇には、絵が添えてあった。木の実。鍋。帽子。それから、見覚えのあるポケモンたち。
向こうの子どもが、初めて字を覚えるときに使う表なのだという。
雨の日にロトムが用意した紙の束は、今も棚の上に積んである。いつまでも読み上げてもらうばかりでは、と思って、自分で読めるようになりたいと口にした。その翌日、ロトムが嬉々として刷り出してきたのが、この表だった。
二十歳をいくつか過ぎた男が、子ども用の表を壁に貼って、一字ずつ書き取りをしている。人に見られたら、何と説明すればいいのかわからない。もっとも、荷物を届けに来る配達員を別にすれば、この家を訪ねてくる人間など、まずいなかった。
背中に、ずしりと重みがかかった。
肩越しに、丸い顔が突き出してくる。ヒメグマが日廻の背中によじ登って、ノートを覗き込んでいた。黒い鼻先が、書いたばかりの字のすぐ上まで近づいてくる。
『クマ?』
「……お前のほうが、うまく書けそうだな」
ヒメグマは得意げに鼻を鳴らして、日廻の肩に顎を載せた。降りるつもりはないらしい。
『あ、そうだ、日廻』
ロトムが、思い出したように声を上げた。
『「かわ」って、いくつあるロト?』
「かわ?」
『水が流れてる「かわ」と、果物をむいたときの「かわ」と……ほかにもあるロト?』
「革もあるな。鞄とか、靴とかの」
『ひらがなで書くと、ぜんぶ「かわ」ロト……』
ロトムの画面に、何かの一覧がちらりと映った。すぐに消えてしまったので、何が並んでいたのかはわからない。
「字で分けられないなら、絵でも付けとけばいいだろ。川なら川の絵、皮なら果物の絵」
『それロト!』
ロトムが、宙でくるりと一回転した。
日廻はノートに目を戻しかけて、ふと鉛筆を止めた。
ここ何日、ロトムはこういうことばかり聞いてくる。「ひと」と「にんげん」は、どう違うのか。「うみ」は、しょっぱい水のあるところなら全部そう呼ぶのか。物を数えるときの「ひとつ」と「いち」は、どう使い分けるのか。
どれも、聞かれれば答えられる程度のことだった。だから、深く考えずに答えてきた。
けれど、ロトムはもともと、日本語に不自由していない。今さら、そんなことを確かめてどうするのか。
つけっぱなしのテレビで、ニュースが話題を変えた。
『――太陽の向こう側の惑星から届いた資料について、各国の研究機関による解読作業が続いています』
画面の端に、受信した資料の一部だという画像が映し出される。灰色の背景に、細かな記号がびっしりと並んでいた。
鉤のような線と、小さな丸や点。
日廻は思わず、先ほどまで見ていた壁の表を見た。
『相手側の文字は、地球上で知られているどの文字体系とも一致していません。数を表すとみられる部分など、規則から推測できるところは、少しずつ見えてきてはいるのですが……』
スタジオの専門家が、言葉を選ぶように続ける。
『対訳の手掛かりが、何もないんです。辞書もなければ、教科書もない。ひとつの単語の意味を確かめるだけでも、大変な時間がかかります』
テレビの中の学者たちが頭を抱えている字を、日廻は今、子ども用の表を見ながら書き取りしている。妙な気分だった。
「……向こうも、こんな感じなのかな」
ただの独り言、何の気なしに出た言葉。
『向こうも、大変ロト。日本語の表を渡しても、まだ……』
そこで、ロトムの声がぷつりと途切れた。
画面の目が、ゆっくりと横へ逸れていく。
それを視線で追う日廻の眉間に、皺が寄った。
「―――日本語の表?」
返事はなかった。代わりに、ロトムは座卓の端まで、すうっと後ずさった。
「……ロトム」
『……はいロト』
「何をやってる」
ロトムはしばらく目を泳がせていたが、やがて観念したように、座卓の真ん中へ戻ってきた。
『前に、話したロト。向こうで捕まりそうになったとき、政府の人たちに話がつながったって』
「確かに言っていたな」
『あれから、ずっと連絡を取ってるロト。……こっちの世界のことを、向こうの人たちに渡してるロト』
肩の上のヒメグマが、空気が変わったのを感じたのか、もぞもぞと背中を滑り降りていった。そのまま、縁側のほうへとことこ歩いていく。
「渡すって、どうやって。電波か」
『ちがうロト。電波のほうは、向こうの交信の係の人たちがやってるロト。こっちのは、別の道ロト』
ロトムは言いにくそうに、機体をわずかに傾けた。
『ときどき、ネクロズマが、ほんの少しのあいだだけ穴を開けてくれるロト。そのときに、まとめて渡してるロト』
庭の上の空気がひび割れ、光の渦が開いていく光景が、日廻の頭に浮かんだ。あれを、ときどき。
「……いつからやっているんだ」
『日廻が寝てるときロト』
日廻は、ゆっくりと鉛筆を置いた。
「人が寝てる間に、そんなことしてたのか」
『だって、最初のころの日廻、寝てばっかりだったロト。起こしたくなかったし、心配させたくなかったロト』
ロトムの声が、一段小さくなる。確かに再会できた当時は、碌に食事をしておらず体の具合は悪く、横になっている時間のほうが多かった。
『それに……ちゃんとできるようになってから、言おうと思ってたロト』
ちゃんとできるようになってから。その言い方が、日廻の耳に小さく引っかかった。
「お前、まさかこっちの世界のシステムに入り込んで機密情報を抜いているとか言わないよな?」
『誰でも見られるものだけロト!』
慌てたような早口だった。
『ニュースとか、地図とか、図書館にあるような本とか。こっちの世界がどんなところなのか、向こうの人たちは何も知らないロト。だから、まずそういうのを渡してるロト。見ちゃいけないものは、ぜったい見てないロト!』
そこだけ、やけに力がこもっていた。入ってはいけないところまで入って、一度捕まりかけた身だ。同じことを繰り返す気はないらしい。
「日本語の表っていうのは」
『……それも、作って渡したロト』
ロトムの画面に、一枚の表が映し出された。
升目の中に、見慣れたひらがなが並んでいる。その一字一字の横に、向こうの文字で、読み方らしきものが書き添えられていた。表示が切り替わると、数の数え方や、簡単な言葉の一覧が続いている。
壁に貼ってある表を、ちょうど裏返しにしたようなものだった。
『日本語なら、日廻に聞けば、合ってるかどうか確かめられるロト。だから、日本語から……漢字とカタカナとひらがな全部送ると大変だから、まずはひらがなから送っているロト』
「……それで、あの質問か」
何も考えずに答えてきたひとつひとつが、太陽の向こう側へ渡っていたことになる。
『ほかの国の言葉も、覚えようと思えば覚えられるロト。でも、覚えたのが合ってるかどうか、確かめられる相手がいないロト。間違ったまま渡したら、かえって向こうを困らせるロト』
日廻は、長く長く息を吐いた。
つまり、こういうことだ。向こうの政府は、ロトムを当てにしている。両方の世界を知っていて、両方の言葉がわかって、機械にも強い。人が寝ている間に、穴の向こうへこっちの世界のことを運んでいく、便利な――
「……諜報員かよ」
ぼそりと、声が漏れた。
『ちょうほういん?』
ロトムの画面を、細かな文字が流れていった。言葉の意味を調べたらしい。次の瞬間、画面いっぱいがぱあっと明るくなった。
『かっこいいロト!』
「褒めてないからな」
座布団の上では、ミュウがおやつのプリンを食べていた。念力で浮かせた皿とスプーンをそのままに、こちらへ目を向ける。
『言っとくけど、最初に頼まれたのは、こっちなのよ』
「……は?」
『ゼットがね、こっちの世界のことも気にかけてて、手を貸してほしいって言ってきたの。でも、機械のことも、こっちの言葉のことも、ロトムのほうがずっとわかってるでしょ。だから、それならロトムに頼みなさいって言ったの』
ミュウは悪びれた様子もなく、尻尾の先をくるりと回した。
『適材適所よ』
「お前が回したのかよ……」
日廻が目を戻すと、ロトムはどこか誇らしげに宙に浮いていた。頼まれて、それに応えられた。そのことが嬉しくてたまらない、という顔だった。
全く面白くない。
誰でも見られるものを渡しているだけだ。危ないことをさせられているわけでも、無理に働かされているわけでもない。それは、わかっている。
それでも、うちのロトムが、よその偉い人間たちの「頼りになる情報源」にされている。そう思うと、腹の底がむずむずした。
「……くそ。お前に頼まない理由が、思いつかない」
向こうの世界は、まだ直している途中だ。人手も足りない。そこへ、太陽の向こう側の得体の知れない星から、電波が届く。言葉は通じない。相手が何を考えているのかもわからない。
そんなときに、その星で暮らしたことがあって、向こうの言葉もこっちの言葉もわかるロトムが現れたら。
向こうの立場だったら、たぶん、同じことをする。
だから、怒れなかった。
怒る筋合いがないのはわかっているのに、面白くないものは面白くない。日廻は座卓に頬杖をつき、恨めしげに天井の木目を睨んだ。
「……無理は、してないんだろうな」
『してないロト!』
即答だった。それから、ロトムはそっと目を伏せた。
『……ちょっとだけ、夜ふかしはしてるロト』
「してるじゃねえか」
『こっちのアニメとか特撮がおもしろすぎて……』
「しかもそっちかよ」
やめろ、とは言えなかった。ロトムが自分で決めて、自分で続けていることだ。
それはそれとして、変な影響を受ける前に、スマホとパソコンには閲覧制限をかけておこう。日廻は、頭の中の予定にそう書き加えた。
『……それと、もうひとつ、伝えたことがあるロト』
ロトムの声の調子が、変わった。
『こっちの世界には、ポケモンがいないってことロト』
ガラス戸越しに見える縁側では、ピカチュウが、ヒメグマの背中についた草を払ってやっていた。庭の隅では、マリルがたらいの水に首まで浸かり、チュリネが日向で頭の葉を広げている。
この家にいるのは、皆、太陽の向こう側から来た者たちだ。この星のほかのどこにも、同じ姿の生き物はいない。
向こうの人間にとって、ポケモンは隣にいるのが当たり前だ。同じ道を歩き、同じ食卓を囲み、一緒に働く。そういう世界の人間が、その報せをどんな顔で聞いたのか。日廻には、思い描いてみることしかできなかった。
「……向こうは、どうなってる」
『すごく大変らしい、ロト』
ロトムは、政府の人たちから聞いたという話を、ぽつりぽつりと並べていった。
復旧に人を取られて、交信に回せる人数がいつも足りないこと。こっちの言葉が国によって違うとわかって、読み解かなければならない相手が、いっぺんに何倍にも増えたこと。日本語の表を渡したあとも、音は追えるようになったが、意味まではなかなか辿り着けないこと。
日廻は、テレビに目をやった。画面はとうに別のニュースへ移っていたが、さっきの専門家の声が、まだ耳に残っている。
辞書もなければ、教科書もない。向こうでは、復旧の合間を縫って、足りない人数で、いくつもの言葉と格闘している。こっちでは、学者たちが手掛かりひとつないまま、見たこともない字と向き合っている。
向こうには、ロトムの作った日本語の表が渡っている。
こっちには、何もない。ただ、この部屋の壁には、向こうの子どもが初めて字を覚えるための表が貼ってある。見慣れない文字の脇には、木の実や鍋や帽子の絵が並んでいた。
「……ロトム」
『なにロト?』
「これ、こっちの政府に送れないか」
ロトムの画面の目が、まんまるになった。
『この表を、ロト?』
「向こうの子どもが字を覚えるやつなんだろ。こっちの大人が覚えるのにも使える。現に、ここで一人使ってる」
芯の折れた鉛筆で、ノートの升目を軽く叩いてみせる。
『でも、向こうの字のままじゃ、こっちの人は読めないロト』
「だから、日本語を付けるんだよ。お前が読んで、こっちが書く。雨の日から、ずっとやってることだろ」
ロトムは、しばらく黙っていた。画面の中で、目が何度か瞬く。
それから、ぱっと明るくなった。
『――やるロト!』
◇◆◇
翌日から、座卓の上は紙だらけになった。
ロトムが、向こうの子ども向けの本を次々と刷り出していく。文字の表のほかにも、そういう本はいくつもあった。見開きに絵とその名前だけが並んだもの。指の絵で数を数えるもの。簡単な挨拶を、二人の子どもの絵で示したもの。
全部を送るつもりはなかった。日廻は刷り上がった紙を一枚ずつ確かめ、座卓の右と左に分けていった。右は送るもの。左は送らないもの。
右に積まれていくのは、水や火、木、手や目、太陽や月の絵だった。左には、それ以外のほとんどが積み上がっていく。
天井の近くから、ミュウが紙の山を見下ろしていた。
『つまんない絵ばっかり選ぶのね』
「誰が見ても、同じものに見える絵じゃないと意味がないからこれでいいんだ」
左の山には、ポケモンの絵が多かった。子どもの本なのだから、当然だった。木の実をかじるポケモン。眠っているポケモン。人と手をつないで歩くポケモン。
こっちの人間には、見たこともない生き物の絵にしか見えない。
その左の山から、ひょいと一枚が抜き取られた。
ヒメグマだった。両手で掲げた紙を、日廻の目の前に突き出してくる。丸い顔と、額の三日月模様。描かれているのは、ヒメグマ自身の姿だった。
『クマッ!』
「それは、送らない」
ヒメグマの両手が、紙ごと力なく下がった。
「……そいつは、うちに置いとけ」
言いながら、日廻はその一枚を受け取り、壁の文字の表の隣に貼ってやった。ヒメグマは、壁の絵と日廻の顔を何度も見比べてから、満足そうに胸を張った。
送る絵が決まると、次は言葉だった。
ロトムが、絵の名前を向こうの言葉で読み上げ、どういう意味の言葉なのかを説明する。それにいちばん近い日本語を、日廻が選ぶ。
『これは、「いえ」ロト? 「うち」ロト?』
紙に描かれているのは、屋根と窓と扉のついた、簡単な家の絵だった。
「絵なら、いえだな」
『うちは、ちがうロト?』
「……うちは、もうちょっと、中身の話だ」
ロトムの画面の目が、ふっと柔らかく細くなった。何も言わずに、表の欄へ「いえ」と打ち込む。
文字の表は、絵を外して、字と読み方だけにすることにした。ロトムが読み上げる音を、日廻がひらがなで書き取っていく。
『ちがうロト。そこは、もっと短いロト』
「……今のと、何が違うんだ」
『ぜんぜん違うロト!』
ロトムが同じ音を三度繰り返し、日廻は三度書き直した。
何日かかけて、資料はようやく形になった。
文字の表と、その読み方。絵と向こうの言葉、日本語の意味を並べた一覧。数の数え方。全部合わせても、十数枚にしかならなかった。
「これで読めるようになるわけじゃ、ないけどな」
『でも、取っ掛かりにはなるロト』
ロトムが、日廻のほうへ向き直った。
『どこに送るロト?』
日廻は、すぐには答えなかった。国の偉い人間に、まるで伝手がないわけではない。ひとつだけ、心当たりの連絡先が頭をよぎった。
けれど日廻は、それを思い浮かべただけで、ノートパソコンに向き直った。
政府の問い合わせ窓口のページを開く。役所に届いたものは、宛先さえ間違っていなければ、どこかの担当へ回される。そのくらいのことは、前の仕事で知っていた。
件名に、太陽の向こう側の惑星の文字について、と打ち込む。本文には、その星の子ども向けの教材をもとにした初歩的な対応表であることと、解読の参考になればということだけを書いた。
氏名の欄で、指が止まった。
『名前、書かないロト?』
「……空けとく」
資料のファイルを添えて、送信のボタンを押す。
画面が切り替わり、送信が完了したことを告げる短い文が表示された。
何かが鳴るわけでも、誰かから返事が来るわけでもない。居間には、テレビの音と、縁側でじゃれ合うピカチュウ達の声が流れている。
『……届いたロト?』
「届いたんだろ。たぶん」
日廻は、ノートパソコンを閉じた。あれを、誰が開くのか。開いた誰かが、どんな顔をするのか。この居間からは、何ひとつ見えなかった。
◇◆◇
それから、幾日かが過ぎた。
ニュースは相変わらず、解読が難航していると繰り返していた。政府の窓口に何が届いたのかなど、どこにも出てこない。はじめのうちはいちいち確かめていた日廻も、そのうち、確かめるのをやめた。
一度だけ、夜中にふと目を覚ましたことがあった。障子の向こうで、庭のほうが一瞬だけ、ほの白く明るんだ。
それが何なのか、今の日廻は知っている。
暗い天井を恨めしげにひと睨みして、日廻は寝返りを打った。
朝は畑に出て、土を返す。昼を食べたら、壁の表と向き合う。夕方、畑の片付けを終えてからは、座卓の端に積んだカタログをめくるのが、このところの習いになっていた。
少し前に取り寄せた、
『それ、最近よく見てるロト』
ロトムが、肩越しにページを覗き込んできた。
庭の隅では、マリルが今日も、たらいの水に浸かっている。マリルの丸い身体が、やっと収まるくらいの大きさしかないたらいだ。作業小屋の前では、フライゴンが乾いた地面に腹ばいになり、前脚で土を掻いては、物足りなさそうに鼻を鳴らしていた。
『池と、砂ロト?他にも色々』
ロトムの目が、たらいと作業小屋を順に行き来した。
『どうして、急にロト?』
「まぁ……な」
最後のページには、「お見積り・現地調査は無料です。お気軽にご相談ください」と、大きな字で刷られていた。日廻は、その決まり文句をしばらく眺めていた。
閉じたカタログを、座卓の端の山へ戻す。ロトムは何か言いたそうに機体を揺らしたが、それ以上は聞いてこなかった。
◇◆◇
電話がかかってきたのは、それからまた何日か経った朝のことだった。
日廻は、畑で草を抜いていた。畝の間にしゃがみ込み、根の深い草を一本ずつ引き抜いていく。隣の畝ではヒメグマが、抜いた草を両手に握って得意げに振り回していた。ロトムは畝の上に浮かび、その様子を撮っている。
ズボンのポケットで、携帯が震えた
軍手を外しても、指先には土が残っていた。その指で携帯を取り出し、表示を確かめる。履歴は残っていないが掛けたことがある番号だった。
少し迷ってから、日廻は通話の表示に触れた。
「……はい、もしもし」
《突然のお電話、失礼いたします。榊原日廻さんの携帯電話で、お間違いないでしょうか》
聞いたことがある。落ち着いた、丁寧な声だった。
「……そうですけど」
《先日、政府の窓口に資料をお送りいただいた件で、ご連絡を差し上げました》
名前は、書かなかった。畝の向こうで、ロトムがぴたりと動きを止めていた。足元では、ヒメグマが草を握ったまま、日廻の顔を見上げている。
《詳しいことは、改めてご説明させていただければと存じます。実は、大臣がお名前を拝見しまして、ぜひ直接、榊原さんとお話ししたいと申しております》
「大臣って、どなたですか」
《中津防衛大臣です。私は、その秘書官をしております日坂といいます。よろしければ、このままおつなぎいたします》
日廻は、土のついた指で、携帯を握り直した。資料を送ったあの日、思い浮かべただけでしまい込んだ連絡先。その先にいる相手が、電話の向こうで待っていた。