政府から預かっていた箱を引き取っていく車を見送ると、日廻は緊張を解すように体を伸ばした。向こうの水と土と空気を採ってきてもらえないかという依頼が日坂から届いたのは、中津たちの訪問からしばらく経った頃のことで、皆と相談すると、コジョンドが手を上げた。ウルトラホールを通ってあちら側に渡ったコジョンドは、持っていった箱の一つ一つに言われたとおりのものを収めて戻ってくると、引き取りの日までの数日間、棚の前を畑班が通りかかるたびに、黙って両腕を広げては通せんぼをしていた。
「助かったよ。ありがとうな」
空いた棚を布で拭いていたコジョンドは、日廻の声に振り返ると、房のような毛の垂れた腕を軽く持ち上げてみせた。それだけでまた棚へ向き直ったその背中は、礼を言われるほどのことではない、とでも言いたげだった。
訪問のあとも、暮らしの中身はそれほど変わっていない。朝は畑に出て、昼を食べたら座卓で紙の束と向き合い、夕方には大鍋で皆の分の飯を作る。変わったことといえば、そこにときどき日坂からの電話が挟まるようになり、同居の扱いについてはまだ検討が続いていることや、資料を引き取りに来る日取りのことを、いつもの丁寧な口調で知らされるようになったくらいだった。
居間には、つけっぱなしのテレビの音だけが流れていた。ロトムは畑班にせがまれて、畑で撮影の続きをしている。日廻が湯呑みを手に座卓へ戻ったとき、画面の中のアナウンサーが、次の原稿を読み上げ始めた。
『行方が分からなくなっていた早瀬記者が昨日、保護されました。受け答えが難しい錯乱した状態で、詳しい事情は分かっていないということです。早瀬記者は――』
遠い場所で物騒な話だな、と思いながら、日廻は続きを待たずにリモコンを取った。テレビを消すと居間はとたんに静かになって、開け放したガラス戸の向こうから、ピカチュウの鳴き声が小さく届いてくる。日廻は居間の棚の上に積んである紙の束を下ろして、座卓の真ん中に置いた。
「さてと、ロトムなしでも向こうの言語が分かるようにしないとな。まずはこの怪しいタイトルから」
おかしいと思い始めたのは、その頃からだった。向こうの字や暮らしを覚えるための教材にしては、問いの形が揃いすぎている。問いの番号の横には、どの頁にも小さな四角がいくつか並んでいて、雨の日に何なのかと聞いたときは「また今度」とはぐらかされたが、日廻はその四角に見覚えがあった。役所に入る前、夜中の机で解き潰した公務員試験の問題集にも、解いた回数だけ印をつけるための同じ四角が、問いごとに刷られていたのだ。
聞いたところで、またはぐらかされるのは目に見えている。だから日廻は自分で確かめることにして、ここしばらくは、読めない言葉に出会うたびに、単語帳の終わりの頁へ書き写しておくようにしていた。字の表と首っ引きだったのはもう前の話で、問いの文くらいなら、ロトムと作った対訳の一覧と、自分で書き溜めた単語帳をときどきめくれば、たいていは読み下せる。同じ言葉が別の頁にも出てくれば、前後の文から意味を絞り込んでいくこともできた。
その日の分の問題も、いつもどおりに解き進めることができた。みずタイプの技が効きやすい相手を選ぶ問いなら、単語帳を開くまでもなく、並んだ答えの中からほのおを選べる。ただ、最後の頁の下に毎日決まって刷られている、励ますような一文の中の一語だけは、今日もやはり読めないままで、単語帳の終わりの頁には、その一語がもう何度も書き写されていた。
日廻は鉛筆を握ったまま、束のいちばん下から、ずっとそこへ回してあった表紙を引き抜いた。丸太を抱えて眠る灰色の生き物の絵の上に、大きな字が並んでいる。頭の言葉は図鑑の頁で覚えた『ネッコアラ』という名前で、その後ろには、子ども向けの本の題でよく見た入門という言葉と、毎日の問題で目にしているトレーナーという言葉、それに制度の頁で覚えた試験という言葉が、はっきりと読み取れた。
日廻は、ノートの新しい頁に『ネッコアラでも合格できる超入門トレーナー試験攻略本』と一行で書き付けた。それだけでも見当はついたが、まだ鉛筆は置かずに、問題の頁を一枚抜き出して、右上の隅に目を落とす。通し番号の手前には、数字の三と見慣れない一語が、どの頁にも組になって刷られていて、日廻はそれを、巻か章の番号のようなものだろうと思って読み飛ばしてきたのだ。
棚から前のノートを取り出して、トレーナーの資格についてまとめた頁を開くと、資格の段階を挙げたくだりに、同じ一語が数字に続いて書き写してあり、その横には、自分の字で「級」と訳が添えてあった。三級、と日廻は口の中で読んだ。毎日の頁の隅と、表紙の題と、前のノートの写しとが、それで一本の線につながった。
向こうのことを覚える教材のつもりで毎日解いてきたのは、トレーナー三級の、試験の問題集だったことになる。日廻は鉛筆を置いて、座卓に肘をついた。腹が立つというより、やっぱりそうか、という気持ちのほうが先に来て、そこから一拍遅れて、ロトムの手を借りずに表紙を最後まで読み通せたのだという手応えが、じわりと追いついてきた。
庭のほうから畑班の声が近づいてきたのは、縁側に落ちる影がずいぶん長くなってからだった。泥のついた足のまま縁側へ上がりかけた小さな影たちが、日廻と目が合うなり揃って踏み石のほうへ引き返していくのと入れ違いに、ロトムが居間へ飛び込んでくる。
『日廻、見てほしいロト! ヒメグマが、畝の上で――』
弾んだ声のまま座卓の上を見たロトムは、そこで宙にぴたりと止まった。開いたノートの横に、束のいちばん下にあったはずの表紙が、いちばん上に載せてある。
「おかえり。ちょっと、こっち来い」
ロトムは日廻の顔を見て一度だけ後ずさりかけたものの、結局はおそるおそる座卓の上まで降りてきた。日廻はノートを相手のほうへ向けて、書き付けたばかりの一行を指先で叩いた。
「ネッコアラでも合格できる、超入門トレーナー試験攻略本。……合ってるか」
『……合ってるロト』
ロトムの画面の目が、ノートの字と表紙の字のあいだを、何度か行き来した。
『全部、合ってるロト。日廻、これ、ひとりで読んだロト?』
「お前と作った一覧と、単語帳があればな」
日廻は抜き出しておいた頁を引き寄せて、右上の隅を指した。
「試験の問題集だろ。これ」
『……そうロト』
観念したように、ロトムの画面が少しだけ暗くなった。
『試験の本だって言ったら、日廻、きっと構えちゃうと思ったロト。それに、向こうで暮らすための決まりが一番よくまとまってるのが、この本だったロト。だから、まずは向こうのことを知る本として読んでもらって、日廻が自分で表紙を読めるようになったら、そのときに話そうと思ってたロト』
「前にも、似たようなことを聞いた気がするな」
『う……』
ちゃんとできるようになってから言おうと思っていた――夜中に穴の向こうへ日本語の表を運んでいたのが分かったときも、ロトムは同じことを言っていたはずだ。日廻は小さく息を吐いて、抜き出した頁を束の上に戻した。とはいえ、向こうの決まりの大半をこの束から覚えてきたのも本当で、ボールのことも、トレーナーが守らなければならないことも、日廻が知っているのは、たいていここに書いてあったことだった。
「別に、怒ってるわけじゃない。……いや、少しは怒ってるけどな。それより、理由を聞かせてくれ。なんで、俺に試験なんか受けさせたいんだ」
『……モンスターボールのことロト』
その言葉に、部屋の隅で寝そべっていたアブソルが、片目だけ開けてこちらへ向けた。
『日廻が前に持ってたモンスターボール、ダークマターネクロズマとの戦いで紛失したままロト。そもそもこの世界で作った物体だから無かったものになってて……』
日廻は、前のノートの頁をさらに何枚かめくった。ボールの決まりについて書き写した頁には、自分の字で、作るには認可が要ることと、認可のないまま作るのは禁じられていることが並んでいる。
「向こうじゃ、モンスターボールは認可を受けたところしか作れないんだよな。作った記録もないなら、向こうから見れば、正式に認可されたものとしては扱えないってことか」
『そうロト。認可のないところで作られたモンスターボールと、見分けがつかないロト。次に使うなら、正式なボールを用意して登録する必要があるロト。その登録には、日廻のトレーナー資格が要るロト』
「資格を取ったって、モンスターボールを作っていいことにはならなくて、あくまで個人の識別番号みたいなもの発行がされて登録できるようになるって感じだな」
そこまでは、自分で読んだ決まりとも食い違わない。日廻は、縁側の先の庭へ目をやった。作業小屋の前ではフライゴンが夕日を浴びて腹ばいになり、畝の間ではヒメグマとマリルが、泥のついた手で何かを掘り返している。これまでボールがなくて困ったことは一度もなかったし、皆この家と畑を好きに歩き回って、好きなところで眠っている。
けれど、いつまでもそれで済むとは限らなかった。誰かが怪我をして、急いでどこかへ運ばなければならない日が来るかもしれない。フライゴンほどの身体を日廻ひとりで抱えて走ることはできないし、いつか皆を連れて祭りへ出かけるのなら、人の多い場所で小さな連中を見失わずにいる手立ても要る。モンスターボールさえあれば何でも防げるわけではないことくらいは分かっていたが、そういう日のことを思い浮かべてみると、手元に何の手立てもないままでいるのは、どうにも落ち着かなかった。
「……で、受けるとしたら、どこで受けるんだ。まさか、もう決まってるなんて言わないよな」
半分は冗談のつもりだったのに、ロトムの画面の目は、すっと横へ逸れていった。
「……おい」
『マサラタウンっていう町に、オーキド博士っていう、ポケモンの研究をしてる有名な博士の研究所があるロト。向こうの政府と相談したら受けられるように手配してくれたロト』
「っで、向こうは?」
『博士も、いいよって言ってくれてるロト。あとは、日にちを決めるだけロト』
日廻は、座卓に額を押しつけたくなった。聞いたこともない町の、聞いたこともない博士のところで、表紙一枚を読み解くのに苦労した本人の知らないうちに、話はとうにその先まで進んでいたらしい。
「ほとんど決まってるじゃねえか」
『決まってないロト!』
ロトムが、勢いよく画面を明るくした。
『受けるかどうかは、日廻が決めることロト。場所を用意しておけば、日廻が受けたいって思ったときに、すぐ受けられると思っただけロト。日廻が嫌なら、ボクがちゃんと博士に断る連絡をいれるロト』
いつもの、慌てたときの早口ではなかった。日廻はその画面をじっと見ていたが、やがて、さっきから引っかかっていたことを口にした。
「その博士は、なんで、会ったこともない俺のために、そこまでしてくれるんだ」
『博士は日廻のこと、知ってるロト』
ロトムは、言葉を選ぶように間を置いた。
『……ファイルZを、読んでるロト』
「ファイル、ゼット?」
『無かったことになったこの世界の一週間の記録ロト。向こうでは、そう呼ばれてるロト』
日廻は、すぐには返事ができなかった。あの一週間のことは、今でも細かなところまで覚えているが、こちらの世界の人間でそれを知っている者は、一人もいないはずだった。向こうでは名前のついた記録としてまとめられ、誰かに読まれているのだという。自分の知らないところで、自分の一週間に名札をつけられていたような、落ち着かない気分だった。
『でも、記録にあるのは、アルセウスが現れたところまでロト。そのあと日廻がアルセウスと何を話したのかは、入ってないロト。博士も、そこから先は知らないロト』
それを聞いて、日廻は自分でも意外なほど、肩から力が抜けるのを感じた。あの場で交わした言葉までは、誰の手にも渡っていない。
『ファイルZを読んだ人は、向こうでも限られた人だけロト。でも、読んだ人たちは、日廻がどうしてるか、ずっと気にしてたロト。博士も、日廻がちゃんと元気でいるのか、自分の目で確かめたいって言ってたロト』
会ったこともない誰かが自分の無事を気にかけているというのは、妙な話だった。それでも、あの一週間を知る人間が自分のほかにもいるのだということは、胸の底のほうへ、思いがけず静かに落ちてきた。
日廻は、開いたままのノートから手を離した。いつの間に寄ってきたのか、アブソルとコジョンドが傍らに座っていた。彼らと自分を結んでいたモンスターボールは、もう無かったことになっている。声も出さず、何かを望むように見上げてくる二匹に、日廻は両手を伸ばし、それぞれの頭にそっと触れた。その温かさを掌に受けながら、庭で見た皆の姿をもう一度思い浮かべた。
「……受けるよ。俺にとってもあいつらにとっても必要なものだからな」
口に出してみると、思っていたより迷いのない声が出た。
「言っとくけど、お前に言われたからじゃないぞ。いざってときに、こいつらのためにボールが使えたほうが、助かるかもしれない。そう思ったから、受けるんだ」
『……うん、日廻らしいロト』
ロトムの画面に、ゆっくりと明るさが戻っていった。
「それと、日にちの相談は、俺も一緒にやる。勝手に決めるなよ」
『分かったロト!』
◇◆◇
それからの日々は、問題集が問題集として座卓に広げられるようになったこと以外、あまり変わらなかった。ロトムは答え合わせの頁を隠さなくなり、日廻は時計を横に置いて、決まった時間で決まった数を解くようになった。ある日の問題には、雨の日に間違えたトランセルとコンパンの進化が出てきて、今度は迷わず正しいほうを選んだ日廻の横で、ロトムが画面いっぱいに花丸を咲かせていた。
挨拶だけは、自分の口で言いたかった。夜、問題集を閉じてから、向こうの言葉の「はじめまして」を口にしては、そのたびにロトムに『そこは、もっと短いロト』と直され、日廻は同じ短い一言を、膝の上のチュリネとヒメグマが寝息を立て始めるまで繰り返した。
日取りは、ロトムに間に立ってもらいながら研究所と何度かやり取りをして、日廻が自分で決めた。試験当日に、日廻は日坂にも電話を入れた。
《今日が試験の日でしたね》
「はい。予定どおり、これから向こうへ行ってきます」
《こちらでも確認しています。危険生物取扱管理者をもっと身近にしたような内容だとか》
「こいつらと暮らしていくのに、向こうで要る資格です。自分で、受けると決めてました」
電話の向こうで、短い間があった。
《承知しました。大臣にも、そのようにお伝えします。お預かりしたものは、まだ分析の途中ですので、くれぐれもお気をつけて。お戻りになりましたら、ご一報いただけますか》
「はい。戻ったら、すぐに連絡します」
試験は午前中には済むそうだ。作り置きのおかずを冷蔵庫に詰めて、おやつの時間の見張りはピカチュウに頼む。フライゴンは、背中に乗せていくつもりだったのか、出発の前の晩から作業小屋の前に伏せて動かなかったが、首筋を撫でながら留守を頼むと、不満げに鼻を鳴らしてから、ようやく頭を下ろした。
連れていくのは、ロトムとアブソルだけにした。向こうの言葉の細かいところはロトムがいなければ心許ないし、アブソルのほうは、日廻が誰を連れていくのかを口にする前から、もう縁側で鞄の横に座っていたのだ。鞄の中には、何冊目かになったノートと問題集を詰め込んで、外に出ると軒下からその様子を見下ろしていたミュウが、尻尾の先をくるりと回した。
『いってらっしゃい、落ちたら慰めてあげてもいいわよ』
「受かったらどうするんだ」
『そしたら私の試練に挑戦する権利をあげるわ』
「因みにどんな内容?」
『当然、その時のお楽しみよ』
なんだか嫌な予感がすると日廻は、口元を引きつかせた。
庭の真ん中に進むと空気がひび割れて、光の渦の奥からネクロズマが姿を現した。日取りは、この前ネクロズマが顔を出したときに日廻が自分で伝えてあったものの、それが伝わったのかどうかは、くすんだ結晶がかすかに揺れたことくらいでしか確かめようがなかった。朝露の残る庭に降り立った黒い身体を見上げて、日廻はようやく、ちゃんと伝わっていたのだと知った。
ロトムが画面に研究所の写真を映して差し出すと、ネクロズマは、しばらくそれに結晶を向けていた。何を見て、何を考えているのかは、日廻にもロトムにも分からない。やがてネクロズマが片腕を持ち上げると、その先の空気が音もなく裂けて、さっきとは別の光の渦が口を開けていった。
縁側には、見送りの顔が並んでいた。ヒメグマは最後まで日廻の裾を握って離そうとせず、ピカチュウに手を引かれてようやく縁側へ戻っていき、その後ろではコジョンドが腕を組んだまま、小さく頷いてみせる。作業小屋の前からはフライゴンが長い首を伸ばしていて、軒下に浮かんだミュウは、ひらひらと尻尾を振っていた。
「行ってくる」
鞄の紐を握り直して、日廻は光の渦へ向き直った。
穴をくぐるのは、初めてではない。あの一週間に足を踏み入れた穴の奥の場所なら、よく知っている。けれど今日、この光の先にあるのはあの避難空間ではなく、皆が本来暮らしていた星そのものだった。アブソルが先に一歩を踏み出し、ロトムがその横に並ぶのを見届けてから、日廻も光の中へ足を進めた。
光が途切れると同時に、足の裏へ柔らかな草の感触が返ってきて、頬を撫でていった風に、日廻は思わず足を止めた。草と土の匂いに、どこか遠くの水の匂いが混じっていて、それだけなら家の庭とよく似ている。けれどその風に乗って届く鳴き声は、家で聞き慣れたどの声とも違っていて、しかも一つや二つではなく、丘の向こうからも、頭上の透き通った空からも、絶えず重なり合って聞こえてきた。
見上げた空には、見慣れた太陽が眩しく照っていた。この星は、日廻の暮らす星から見て、ちょうど太陽の向こう側にあるのだという。だとすれば今見上げているのは、家の畑を照らしているのと同じ太陽を、反対側から仰いでいるだけのことで、そう思うと、紙の束の中でしか知らなかった向こうの星が、急に足元の地面と地続きのものになった気がした。
アブソルは、草の上で鼻先を風のほうへ向けたまま、しばらく動かなかった。白い毛並みが風に流れ、赤い目は、なだらかな丘の連なりの先を見ている。やがてアブソルは日廻のほうへ顔を戻すと、いつもの距離まで戻ってきて、黙ってその横に並んだ。
『着いたロト! ここが、マサラタウンロト!』
ロトムが、待ちきれないように宙でくるりと回った。ゆるやかな坂の下には、屋根の数を数えられそうなほどの小さな町が広がっていて、坂の上には、白い壁の大きな建物が建っている。建物の裏手には柵で囲われた広い草地がどこまでも続き、その上を、いくつもの影がのんびりと動いていた。
坂道を上り始めると、靴の底で乾いた土がかすかに鳴った。道の両脇の草むらがときおりざわりと揺れて、小さな影が顔を覗かせては、こちらを見るなりまた引っ込んでいく。アブソルはそのたびに視線だけを動かしたが、足取りを崩すことなく、日廻の隣を歩いた。
『バリバリ!』
「こいつは、たしかバリヤードだったか?」
赤い屋根の家の前では、ピエロのような姿のポケモンが箒で掃除をしていた。こちらに気づくと掃除の手を止め、あいさつでもするように片手を上げた。
「えっと……おはよう、ございます?」
『バリリ!!』
まだ自信のないこちらの世界の言語であいさつを返すと、通じたようにバリヤードは笑みを浮かべて返事をした。
手を振るバリヤードに会釈して、目的地を目指して足を進める。
『日廻、ちゃんと発音できていたロト!あのバリヤードも人と一緒に生活して長いように見えたロト』
「だな、明らかに言葉を分かっているようだったっと……ここか」
足を止めて看板の字を、日廻はロトムに読んでもらうより先に、自分で読み取っていた。オーキドポケモン研究所と記されたその一行は、雨の日には一字も読めなかったはずの字で書かれていて、それが今はすんなりと名前として頭に入ってくる。
『あの人が、オーキド博士ロト!』
ロトムの声に顔を上げると、坂の上の建物から、白衣を羽織った年配の男が出てくるところだった。男はこちらに気づくなり、白衣の裾を風になびかせながら、年のわりに軽い足取りで坂を下りてくる。日廻のすぐ前まで来て足を止めた博士は、まず日廻の顔を、それから傍らのアブソルを、確かめるようにゆっくりと見つめてから、目尻に深い皺を寄せて笑った。
日廻は背筋を伸ばし、何度も練習してきた向こうの言葉の挨拶を、口の中でもう一度なぞった。けれど日廻が口を開くより先に、博士のほうが大きく息を吸い込んで、少し癖のある、一音ずつ確かめるような発音で、日本語を口にした。
「はじめまして! ポケットモンスターの世界へようこそ!」