練習してきた挨拶をこんな形で先に言われるとは思っていなかった。少し癖はあったものの、今のは聞き間違えようのない日本語で、ポケットモンスターの世界へようこそと、目の前の博士は確かにそう言ったのだ。日廻は一度だけロトムを見てから、改めて博士へ向き直り、覚えてきた向こうの言葉で「はじめまして、今日はよろしくお願いします」と返した。博士の笑みが深くなったところを見ると、どうにか通じたらしい。
「ちゃんと通じておるぞ。こっちの言葉も、勉強してきたんじゃな」
続いて返ってきた言葉は、もう日本語ではなかった。博士はまた何かを話し始めた。今度は向こうの言葉で、ロトムが問題を読み上げるときよりずっと速く、抑揚も大きい。紙の上なら大抵の文を読み下せるようになった日廻に聞き取れたのは、ほんの短い言葉がいくつかだけだった。
博士はそれから、日廻の傍らに立つアブソルへ目を移した。腰をかがめ、白い毛並みから頭の角の先までを、珍しいものでも見るようにしげしげと眺めていく。アブソルは逃げもせずに赤い目でその顔を見返していたが、やがてふいと視線を外し、日廻の脚に身体を寄せた。博士はそれ以上近づこうとはせず、感心したように一つ息を吐いて、身体を起こした。
「さあさあ、立ち話もなんじゃ。中へ入りなさい」
言葉は分からなくても、研究所の扉を指す手つきで、言いたいことの察しはついた。通されたのは、三方の壁を本棚が埋め、机の上にも床の隅にも紙の束がうずたかく積み上がった部屋で、大きな窓からは、来るときに坂の途中から見えた柵の草地が一望できた。勧められた椅子に腰を下ろすと、アブソルはその足元に伏せ、ロトムは日廻と博士のちょうど真ん中あたりの宙に収まる。博士は奥から湯気の立つ茶を運んできて、日廻の前にも一つ置いてくれた。
その茶を一口すすってから、日廻は、ここへ来る前から聞いてみたかったことを切り出した。
「ありがとうございます、ロトムここから翻訳頼む。自分が受ける三級の資格って、こっちでは、どのくらいの人が持ってるものなんですか」
ロトムが向こうの言葉に直して伝えると、博士は顎に手をやって、短く唸った。
「どのくらい、か。そうじゃのう……大人で持っておらん者を探すほうが、よほど骨が折れるじゃろうな」
ロトムの訳を聞いて、日廻は手元の湯呑みに目を落とした。表紙の題に超入門と刷ってあったのも、ネッコアラでも合格できると謳っていたのも、どうやら大げさな売り文句ではなかったらしい。そうなると、もう一つ気になってくることがあった。
「それなら……自分くらいの歳になってから受けるようなものじゃ、ないんじゃないですか」
口に出してみると、思っていたより気恥ずかしかった。ロトムが訳し終えるか終えないかのうちに、博士は声を立てて笑った。
「お主は、事情が特別じゃろ。この世界とは別の世界で育ったんじゃからな。そこで習う機会がなかったものを、真摯に学んでおる。それでよいんじゃよ」
「それは、そうなんですが」
「ワシがお主の世界へ行けば、知らんことだらけじゃろう。さっきの挨拶も、ちゃんと通じるか少し心配じゃったぞ」
博士は窓のほうへ軽く顎をしゃくり、訳が済むのを待って言葉を継いだ。
「こっちの子どもは、生まれたときから隣にポケモンがおる。お主のところには、それがなかった。違うのは、そこだけじゃよ」
日廻は小さく頭を掻いた。そう言われてしまうと、年のことを気にしていた自分のほうが、かえって妙に思えてくる。
湯呑みを置いて窓の外の草地へ目をやると、柵の内側を、大小さまざまな影がのんびりと行き来していた。ポケモンをどう見ているのか――少し前に、日廻は自分の世界の側で、中津に向かってそう尋ねたばかりだった。あのときは、まだ観測対象としか言えないという答えが返ってきた。ここでは、きっと違う答えが返ってくるのだろうと思いながら、日廻は博士に向き直った。
「やっぱり、こっちは、ポケモンと人が一緒に暮らすのが前提の世界なんですか」
ロトムが訳し終えても、博士はすぐには答えなかった。日廻がさっきまで眺めていた草地へ目をやり、何かを確かめるように黙り込む。そのあいだに、柵の向こうを大きな影がいくつか横切っていった。
「……そうあるのが、理想の形じゃな」
ロトムの訳で届いたその答えは、日廻が思っていたより、ずっと慎重なものだった。博士は窓から視線を戻し、訳が追いつくのを見計らうようにして続けた。
「人とポケモンが共に暮らすことを、この世界は当たり前のこととしておる。じゃが、当たり前にしておることと、何もかもうまくいっておることとは、別の話じゃ。地方ごとに、皆いろんなやり方を試しておるが、土地が違えば、人とポケモンの間合いも違ってくる」
「間合い、ですか」
日廻が聞き返すと、博士はしばし考えてから、柵の草地のさらに先を指すように、窓の向こうへ手を伸ばした。
「ワシらは、ポケモンがおる中で暮らしておる。だが、近くにおるからといって、いつもうまく付き合えるわけではない。互いに困ることもあるし、離れておいた方がよいこともある」
ロトムが言葉を伝え終えるのを待ち、博士は話を続けた。
「たとえば、畑の作物を食べに下りてくるポケモンがおる。追い払えば済むかといえば、そうもいかん。そのポケモンが何を食べ、どこで眠り、なぜ人の畑まで来たのか。それを知らんことには、原因も分からんし、付き合い方も決められんのじゃ」
畑を荒らしに来る獣に頭を抱える話なら、日廻の住む辺りでも珍しくはない。けれど日廻の畑では、ポケモンは作物を食べに来る側ではなく、一緒に育てる側だった。土地と暮らし方が変われば、人とポケモンの立つ場所も、まるで違ってくるのだろう。
「うちの畑は、反対なんです。うちの連中と一緒に耕して、一緒に植えてるので」
ロトムがそれを訳した途端、博士の眉がひょいと持ち上がった。
「ほう、それは面白い。何を植えとるんじゃ? 誰が何をしておる? いや、それは後でゆっくり聞かせてもらうとしよう」
身を乗り出しかけた博士は、自分で自分を制するように手を振ると、照れくさそうに白衣の胸元を指でつついてみせた。
「その土地に暮らすポケモンを知ること。それも、ワシの仕事の一つでな」
どれだけの人が持っているのか、どういう世界で持たれているのかは、なんとなく分かってきた。それでもまだ、いちばん肝心なところが掴めていない気がして、日廻は言葉を選びながら尋ねた。
「じゃあ……トレーナーの資格っていうのは、何を身につけるためのものなんですか」
ロトムがそれを伝えると、博士は、今度は迷わなかった。
「ポケモンと人が、一緒に幸せになるための知識じゃ」
ロトムが訳すあいだ、博士は穏やかな顔のまま、日廻の足元で伏せているアブソルを見ていた。訳を聞き終えても、すぐには何も言えなかった。アブソルが、伏せたまま片目だけをこちらへ向けている。日廻はその白い頭に手を置いて、博士に小さく頷いた。
「お主ならそれを知恵に出来ると信じておる。いや、もう出来ておったな……さて、そろそろ始めるとしようかのう」
試験の段取りは、ロトムがまだ部屋にいるうちに、博士が一通り説明してくれた。問いはどれも、並んだ答えから一つを選ぶ形で、受けるのは日廻一人、見ているのは博士だけになる。試験のあいだ、ロトムとアブソルには廊下で待っていてもらうのだという。
『通訳がそばにいたら、答えを教えてるのと区別がつかないロト。だから、ボクたちは外で待ってるロト』
ロトムはそれが当たり前のことのように言って、扉のほうへ移った。
「アブソル。ロトムと一緒に、外で待っててくれ」
アブソルは日廻の顔をしばらく見上げてから、のそりと立ち上がった。扉の手前で一度だけ振り返り、それからロトムの後について廊下へ出ていく。
『日廻、がんばるロト!』
閉まりかけた扉の隙間からロトムの声だけが飛び込んできて、それきり部屋は静かになった。日廻は鞄から、家の座卓で使い込んで短くなった鉛筆を取り出した。
博士が目の前に置いた問題の束は、家で毎日解いてきたものと、よく似た形をしていた。一問目の文を目で追うと、単語帳を開かなくても意味は頭に入ってきて、日廻は並んだ答えの中から一つを選び、印をつけた。二問目も三問目も同じように進み、ときおり手が止まる問いがあっても、前のノートのどの頁に書いてあったことかを思い出せば、たいていは答えに行き着けた。野生のポケモンとの付き合い方を問う一問では、ついさっき博士から聞いた話が頭をよぎり、日廻はほかの問いより長くそれを見つめてから、答えを選んだ。
博士は窓際の自分の机へ戻って、何かの書類に目を通していた。紙をめくる音と、ときどき博士の椅子が軋む音のほかには、窓の外から届く鳴き声くらいしか聞こえない。答えの欄は少しずつ埋まっていき、窓から差し込む日の向きが変わった頃、日廻は最後の問いに印をつけた。初めから一度だけ見直してから、鉛筆を置いて席を立つ。
答案を受け取った博士は、その場で頁をめくり始めた。ぺらぺらと紙の鳴る音に合わせて、博士の目が上から下へと答えを追っていく。思っていたよりずっと速い手つきで、日廻は椅子に座り直したものの、膝の上に置いた手のやり場が見つからなかった。役所に入る前、合格者の番号が貼り出された掲示板の前で、自分の番号を探していたときの心地が、こんなところで蘇ってくる。
博士の指が頁の途中で止まりかけるたびに、日廻の肩にも力が入ったが、指はまたすぐに動き出した。扉のほうへ目をやっても、そこに通訳の姿はない。廊下で待っているロトムとアブソルのことを思いながら、日廻は、最後の頁がめくられる音を聞いた。
博士は答案を机の上でとんとんと揃えると、顔を上げ、晴れやかに告げた。
「合格じゃ!」
弾むような声だったが、それは向こうの言葉で、日廻はすぐには返事ができなかった。耳に残った音を、知っている言葉に一つずつ当てはめていく。そのあいだ、部屋には、窓の外の鳴き声だけが聞こえていた。
返事がないのを見て、博士は一度瞬きをし、それから、扉のほうへ目をやった。通訳が廊下にいることを、博士のほうもすっかり忘れていたらしい。それでも、日廻へ向き直った博士の顔は、目尻の皺をいっそう深くして、満面の笑みを湛えていた。
その顔を見れば、言葉が分からなくても十分だった。日廻は、試験のあいだ胸の奥に溜め込んでいたものを全部吐き出すように、長い息をついて天井を見上げた。
博士は椅子から立ち上がると、扉を開けて廊下へ声をかけた。待ちかねていたようにロトムが部屋へ飛び込んできて、その後ろからアブソルがいつもの足取りで戻ってくる。博士が短く何かを告げると、ロトムの画面がぱっと明るくなった。
『合格ロト! 日廻、合格ロト!』
画面いっぱいに紙吹雪を散らしながら、ロトムが日廻の周りをくるくると回った。その声を聞いて、さっき博士の口から聞いた音が、単語帳に何度も書き写したあの一語だったのだと気がついた。紙の上では見慣れた言葉でも、耳で聞くのは、ほとんど初めてだったのだ。
アブソルは日廻の椅子のそばまで来ると、低く短く鳴いた。
「博士の顔で、だいたい分かった。付き合ってくれてありがとうロトム」
『日廻が、ちゃんと勉強したからロト』
日廻はアブソルの頭に手を置いたまま、博士のほうへ向き直った。礼くらいは、自分の口で言いたい。覚えたての向こうの言葉で短く礼を言うと、博士は嬉しそうに頷いてから、手の中の答案を軽く持ち上げてみせた。
「礼を言われることはないわい。これだけ解けたのは、お主がちゃんと勉強してきたからじゃ。答案を見れば、それくらいは分かる」
ロトムがそれを訳すと、日廻は答案の束へ目をやった。並んだ印の一つ一つが、座卓で過ごした昼下がりや、ロトムに発音を直されながら更けていった夜の続きにあるのだと思うと、その紙の束が、どこか誇らしく見えた。
「さて、次はモンスターボールじゃな」
モンスターボールという一語だけは、訳を待つまでもなく聞き取れた。博士は窓際の自分の机へ移ると、端に置かれた機械の前に日廻を呼んで、隣の椅子を勧めた。
「前のモンスターボールのことは、記録が何も残っておらん。お主の場合は一からの登録になる」
訳を聞いて、日廻は黙って頷いた。あの一週間のボールが、記録の上では無かったことになっているのは、ここへ来る前にロトムから聞いて知っている。
それから先の手続きは、思っていたより地味なものだった。博士は機械に向かって何かを打ち込みながら、ロトムを通していくつかのことを日廻に確かめ、日廻はそれに一つずつ答えていった。名前を書く欄を示されたときには、何度も練習してきた向こうの字で、自分の名前を綴った。
「よし。これで、お主の名前で登録できるようになった。モンスターボールそのものをどうするかは、また改めて相談しようかのう」
その訳を聞きながら、日廻は機械の画面に目をやった。並んだ向こうの字の中に、さっき自分で綴ったばかりの名前が収まっている。手元には、まだモンスターボールの一つもない。それでも、家で待っている皆のために使えるものを、ようやく自分の名前で整えられるところまで来たのだと思うと、画面の中のその短い綴りが、ずいぶん頼もしいものに見えた。
「資格証ができるまで、少しかかる。その間、ワシが預かっとるトレーナーたちのポケモンを、見ていくかのう?」
「ぜひお願いします」
思わぬ誘いに日廻は笑みを浮かべて頷いた。