目を覚ましたとき、日はすでに高かった。
日廻は布団の中でしばらく動かなかった。徹夜と山歩き、土砂崩れから逃げた疲労が一晩遅れて全身へ残っている。
体を起こすと、背中と両腕が鈍く痛んだ。
「……寝すぎたな」
水道の蛇口をひねれば、冷たい水が奔出する。手のひらに受けた水の冷たさは、眠気を洗い流すにはまだ足りない。徹夜の疲労は骨の髄まで染み渡っている。日廻は水面に映る自分の顔を見た。鏡には目の下へ隈を作った自分と、コジョンドにつけられた頬の傷が映っていた。
その傷を見て、前夜にロトムから聞かされた話を思い出した。
彼らはポケットモンスター。縮めて、ポケモン。
ポケモンには「技」と呼ばれる特殊な能力があり、安全に収納できる「モンスターボール」という道具も存在する。
小さな球体へ生き物が入る。
窒息も圧迫もせず、傷つけることもないという。
「普通に入る、で説明になると思ってるのか」
ロトムの説明を思い出し、日廻は眉を寄せた。
だが、技については疑えない。
昨夜、実際に見てしまった。
◇◆◇
『そ、それじゃ、チラーミィ。あそこにある箱を、スピードスターでやっつけるロト!』
先ほどまで、幽鬼のような日廻に追い回されていたロトムは、技の説明を手早く済ませようとしていた。日廻がいつ倒れても不思議ではなかったからだ。しかし、チラーミィは、ロトムの声を聞いても見向きもしない。尻尾を揺らしながら、日廻の足元をじゃれていた。
『ロト!? 聞こえてるロト?』
『チラッ』
『だったら使うロト!』
返事だけをして、チラーミィは動かない。
その様子に日廻が口を開く。
「嫌なんじゃないか」
『日廻が頼むロト!』
「なんで俺が?」
『日廻の言うことなら聞くロト!』
日廻はチラーミィを見る。
技を使うことが、どれほど負担になるのか分からない。危険はないとロトムは言うが、それだけで命令する気にはなれなかった。
「チラーミィ。悪いが、あの空き箱へスピードスターという技を使ってみてくれないか」
日廻は命令するつもりはなかった。ただ、お願いしただけだ。
チラーミィは日廻の顔を見つめて、数秒間立ち止まった。そして、小さな体がふわりと浮き上がる。小さな体の周りに、淡い光の粒が舞い始めた。
次の瞬間、チラーミィの周囲へ淡い光が生まれた。
最初は火花ほどの大きさだった光が、空中で明確な輪郭を持つ。
星形だった。一つ、二つと数を増やし、チラーミィの周囲で静かに回っている。
日廻が息を呑んだ直後、光の星は一斉に飛び出した。
乾いた音が連続する。空き箱が大きく揺れ、床の上を滑って壁へぶつかった。側面には、星の角を押しつけたような跡がいくつも残っている。
光は、命中と同時に消えていた。
破片も、弾丸も、熱も残っていない。
ただ、そこへ何かが当たったという結果だけが残されていた。
「……何だ、今のは」
『スピードスターロト!』
「何を材料にした」
『知らないロト』
「エネルギーはどこから出た」
『ポケモンからロト』
「どうやって星の形にした」
『スピードスターだからロト』
「……説明になってない」
『知らないものは知らないロト!』
チラーミィは何も持っていなかった。
仕掛けもない。
光にしか見えない何かを、生物が自分の意思で作り出し、離れた箱へ命中させた。理解できたのは、それが現実に起きたという一点だけだった。
「俺が頼めば、必ず使うのか」
『違うロト。使うかどうかを決めるのはポケモン自身ロト』
「さっきは俺の頼みを聞いた」
『日廻がしてほしいことを伝えて、チラーミィがやってもいいと思ったから使ったロト。指示は命令じゃなくて、合図ロト』
チラーミィは得意げに胸を張った。
◇◆◇
顔を洗った。冷水が皮膚を刺す。昨日までの自分なら、あの光景を夢だか幻覚だかと思ったかもしれない。だが今は、違う。これは現実だ。自分が知らない、もう一つの現実が、隣に存在している。
「…考えても分からないものは、後だな」
日廻は、鏡から目を離した。台所へ向かい、自分用のパンを齧りながら鍋へ水と米を入れた。
ニンジン、カボチャ、葉物野菜。どれも細かく刻み、味をつけずに柔らかく煮る。
「……この材料は全員に食べさせていいんだな」
そう言って、母屋に唯一入れることにしたロトムに確認する。
『危険な成分はないロト。でも、好みや個体差までは分からないロト』
「一度に混ぜすぎると、何かあったとき原因が分からないな」
こちらの世界で動物に毒になると調べたネギ類は入れずに作った雑炊と野菜を、小皿へ少量ずつ分けた。
『細かいロト』
「生き物へ初めての餌を与えるなら普通だ」
『昨日は籠ごと渡してたロト』
「急いでた。反省してる」
『素直ロト! 記録するロト!』
「消せ」
作業小屋の戸を開けると、複数の視線が日廻へ集まった。
昨日より呼吸は落ち着き、目にも力が戻っている。だが包帯は残り、深い傷が治ったわけではない。
「朝飯だ。もう昼に近いけどな」
盆を置こうとして、日廻は動きを止めた。
ポケモンたちがアブソルの周囲へ集まっている。
ピカチュウが小さく切ったカボチャを、アブソルの前へ置く。
マリルは傷ついた前足へ頬を寄せた。
ヒメグマは背中へ抱きつこうとして、低く唸られて固まる。それでも離れず、すぐ隣へ座った。
チラーミィも反対側へ腰を下ろし、尻尾で白い毛についた埃を払っている。
アブソルは鬱陶しそうに目を細めていた。
「嫌なら離れればいいだろ」
赤い瞳が日廻を睨む。
「……はいはい」
アブソルは、日廻が穴の向こうへ入る以前から、自分も傷つきながら全員を導いていた。
言葉にしなくても、彼らには分かっていたのだろう。
『アブソル、人気ロト』
アブソルの視線がロトムへ向く。
『ロト……』
「自分で何とかしろ」
食事を配ると、ポケモンたちは一匹ずつ口をつけた。
ヒメグマはカボチャを好み、マリルは水分の多い雑炊を食べる。ニャスパーは周囲が食べ始めるまで動かず、チュリネは葉物を長く観察してから口へ運んだ。
チラーミィがヒメグマのカボチャへ手を伸ばし、ピカチュウに叩かれた以外、大きな問題はなかった。
『傷は昨日より良くなってるロト。でも、深い傷は動けば開くロト』
「分かった」
日廻は空になった皿を重ねた。
「今日は休め。特にアブソルとコジョンドは、無理するな、俺は畑を見てくる」
畑を指し、自分を指す。続いて毛布を示し、寝る動作をしてみせる。
日廻は伝えたが、彼らは聞き入れないようだった。アブソルは静かに定位置なった部屋の入口付近に伏せて、コジョンドも部屋の隅から見守るだけだったが、他の七匹はついてきた。
チラーミィ。
ピカチュウ。
マリル。
ヒメグマ。
ニャスパー。
チュリネ。
最後にゼットまでついてきている。
「休めと言っただろ」
『チラッ』
チラーミィは畑を指し、自分の胸へ前足を当てた。
「手伝う気か」
いくつもの鳴き声が重なる。
意味を完全には理解できない。それでも、役に立ちたいと訴えているように見えた。
小屋の前では、アブソルが明らかに呆れた目で日廻を見ている。
――軽率だ。そう言われている気がした。
「分かっている。何も言うな」
日廻は畑へ視線を戻す。
「少しだけだぞ」
『チラッ!』
チラーミィとヒメグマが、何をするか聞く前に走り出した。
「待て。まだ説明してない」
◇◆◇
最初に任せたのは水やりだった。
マリルへ最も小さなじょうろを渡す。
それでも体に対して大きく、畝へ着くまでに中の水を半分近くこぼした。
「無理なら俺がやる」
『リルッ』
マリルは首を横に振る。
次の瞬間、じょうろを置き、畑へ向かって息を吸い込んだ。
口元へ水が集まり始める。
「待て、マリル!」
嫌な予感がして日廻が声を出げ、慌ててマリルが体の向きを変えた。
放たれた水の筋が畑の外へ飛び、土へ深い穴を開ける。
「口から出した水を、食べ物になるものに直接かけるな!」
『リル……』
『みずでっぽうロト!』
「技の名前は聞いてない。成分も衛生状態も分からない水を、野菜へかけられるか」
『みずでっぽうの水は、飲んだ水を吐いてるわけじゃないロト!』
「また不思議なポケモンの力か?。調べて安全だと分かるまで、作物には使わせない。あとでロトムに日本の水とマリルの排出した水の成分の差を調べてもらおう。問題がなければ、使い方を考える」
しょんぼりと耳を伏せたマリルの前に座り、謝罪の言葉を口にする。
「怒ってるわけじゃない。すまない、俺がお前に合うタスクを考え付かなかった」
反対側では、ヒメグマが青いトマトを引っ張っていた。
「放せ!」
そこへチュリネが近づく。
葉と茎を確かめ、ヒメグマの手を押し戻す。続けて、別の場所にある赤い実を指した。
「収穫時期が分かるのか」
『植物の状態を感じ取ってるみたいロト』
日廻が畑を移動すると、ニャスパーが足元へついてくる。
右へ行けば右へ。
左へ戻れば左へ。
「危ない。踏むぞ」
『ニャ……』
ニャスパーは止まり、指示を待つように日廻を見上げた。
少し離れた場所では、ピカチュウが全員を止めようと走り回っている。
だが農作業を理解しているわけではない。
ヒメグマを止め、チラーミィを追い、マリルの前へ両腕を広げる。最後にはヒメグマとぶつかり、二匹そろって籠へ倒れ込んだ。
「一回、全員止まれ!」
畑の動きが止まる。
マリルはジョウロに水が止まるのを待っていた。
ヒメグマは籠を頭からかぶっている。
チラーミィはトマトを背中へ隠していた。
作業小屋の前では、アブソルが冷静な目でこちらを見ている。
「分かっている。見るな」
『失敗ロト?』
「失敗だな」
『記録するロト』
「……そうだな」
日廻はピカチュウ達の前にしゃがみ込んだ。
「悪かった」
ポケモンたちの視線が集まる。
「俺がおまえたちに何ができるかを知らなかった。最初からやり直そう」
ロトムからの情報と先ほどのポケモンたちの動きから判断して理想の構造を組み立てる。
「マリル。ホースを使って近くの野菜に水を上げてくれ、ただ奥まで行くな躓くかもしれない」
日廻は蛇口にシャワーホースを繋げて、いつも畑で上げているくらいの水圧に調整してマリルに渡す。しかし足の短さを考慮して、あくまで前だけを限定するように指示をする。
『リルッ』
「チュリネは、水や収穫が必要な場所を教えてくれ」
チュリネは畝の間を歩き、葉や土の状態を確かめ始めた。
「ヒメグマは、チュリネが選んだものだけを採って、この籠へ入れる。勝手に食うなよ」
『グマッ』
元気よく返事をした直後、ヒメグマの視線が赤いトマトへ向く。
「見てるからな」
ヒメグマは何もしていないような顔で、籠を持ち直した。
「ニャスパー。軽い道具なら、あそこまで運べるか」
ニャスパーの額へ淡い光が浮かぶ。
空の籠がゆっくり地面を離れ、日廻が示した場所へ運ばれていった。
「重いものは持つな。それだけで十分だ」
ニャスパーの耳が、わずかに上がった。
「チラーミィは、採った野菜の泥を落としてくれ。布を使え。尻尾は禁止だ」
『チラァ……』
「不満そうな顔をするな」
「ピカチュウは、誰かが違うことを始めたら俺を呼んでくれ」
『ピカ!』
「ロトムは、全員が何をしたか、どこで失敗したかを記録」
『重要な仕事ロト!』
「最初からそう言ってる」
役割を変えても、すぐにすべてが上手くいったわけではなかった。
それでも、先ほどまでとは違う。
チュリネが乾いた苗を示す。
マリルがシャワーホースで水を入れる。
日廻が必要な量だけを苗へ与え、空になった容器をニャスパーが運ぶ。
熟した野菜をチュリネが選び、ヒメグマが籠へ入れる。
チラーミィが泥を落とし、何か問題が起こればピカチュウが声を上げた。
誰か一匹ですべてを行う必要はなかった。
できない部分を、別の誰かが引き受ければいい。
気づけば、日廻一人で作業するときよりも早く、畑仕事が進んでいた。
アブソルとコジョンドは休養。
ゼットは、畑の端から作業を静かに眺めていた。
畑仕事を終えたあと、日廻は二つのプランターを用意した。
キズぐすりを作った際に残しておいた、オレンのみの種。
『畑へ直接植えないロト?』
「育つかどうか分からないものを、いきなり広げるわけにはいかない」
一つには日本の土。
もう一つには、日本の土へ穴の向こうから持ち帰った土を少量だけ混ぜる。
『向こうの土を多く入れた方が育つかもしれないロト』
「その土に何がいるか分からない」
『何ロト?』
「菌や虫、微生物。別の植物の種が混ざっている可能性もある」
日廻は種へ薄く土をかぶせた。
「日本の虫や鳥がオレンのみを食べた場合の影響も分からない。種が外へ広がって、在来の植物を押しのけるかもしれない」
『危険ロト?』
「危険かどうか分からない。だから、管理できる場所で試す」
説明するたび、畑の端にいるゼットの体が小さく上下した。
一度ではない。
何度も頷いているように見える。
「……おまえは妙に話が分かるな」
ゼットが動きを止める。
「植物の話に興味があるのか」
返事はない。
胸の赤い六角形だけが、日差しを受けて静かに光っていた。
すべての作業が終わっても、日はまだ高かった。
籠は一つ横倒し。
畝の間には、マリルがこぼした水で小さな水溜まりができている。
ヒメグマは収穫物のそばを離れず、チラーミィは使った布を妙な形に積み上げていた。
整然としているとは言い難い。
それでも、一人で作業していた頃より早く終わった。
昨日まで日廻だけが歩いていた畑には、さまざまな足跡が残っている。
そして、何かを訴えるような幾つもの視線。
「……明日からも手伝う気か?」
一瞬の間。
複数の鳴き声が一斉に返った。
『チラッ!』
『ピカ!』
『リルッ!』
『グマッ!』
『ニャ』
『チュリ!』
意味を一つずつ訳すことはできない。
それでも答えだけは分かった。
視界の端、アブソルが諦めたように顔を伏せたのが見えた。
『アブソルは監督担当ロト!』
「見ていただけだぞ」
『日廻の失敗を見張ってたロト!』
「否定できないのが辛いな」
アブソルの尻尾の先が、一度だけ小さく動いた。
日廻は畑へ残る足跡を見渡した。
いつまで一緒にいるのかも分からない。
それでも今日、少しだけ彼らのことを知った。
できないことまで無理にさせる必要はない。
何ができるかを見つけ、できる形で頼めばいい。
それは人間でも、ポケモンでも変わらない。
「戻るぞ。働いたなら、飯も食わせないとな」
その言葉を合図に、ポケモンたちが動き出す。
数日前まで一人分しかなかった畑の足跡へ、いくつもの小さな足跡が重なっていった。
こうやっていると転生という設定がどれほど万人に分かりやすいものか分かる。