研究所の裏手へ出ると、草を踏む音がいくつも重なって聞こえた。
先を行く博士の肩越しに、茶色い大きな身体が見えた。がっしりした頭から太い角が伸び、その向こうにも、さらに向こうにも、似た姿がいる。一頭が顔を上げると、近くの数頭もつられたようにこちらを向いた。
日廻は、扉を出たところで足を止めた。窓から見ていたときには、こんなにいるとは思わなかった。草を食む口元も、地面を踏み直す蹄も、自分のそばを通るには十分すぎる大きさをしている。
「あばれうしポケモンのケンタロスじゃ。ここには三十匹おるのう」
ロトムの訳に出てきた数を聞いて、日廻は思わず博士へ顔を向けた。
「三十匹!? もう群れじゃないですか。これは、複数のトレーナーが捕まえたんですか?」
「いや、一人で全部捕まえたんじゃよ。ケンタロス本来の群れでの生態を観察できるから、助かっておる」
一人で、というロトムの訳を聞いて、日廻は口を開けたまま群れを見送った。
『……日廻、大丈夫ロト? 今にも顎が外れそうロト』
「いやぁ……うわぁ……日本じゃ、こんな光景は見られないんじゃないか」
問題集の図鑑の頁で、絵だけなら何度も見たことがある。けれど、紙の上の一頭と、こうして何頭も連なって駆けていく群れとでは、まるで別のものだった。ばらばらに走っているようでいて、先頭の一頭が向きを変えれば、後ろの者たちも次々と同じ弧を描いて従っていく。
ケンタロスの群れが去ったあとの草地を、小さな青緑のポケモンがとことこと横切ってきた。背中に大きな球根のようなものを背負ったそれは、博士の足元まで来ると、背から細い蔓を伸ばして、挨拶でもするように軽く振ってみせる。
『ダネダネ』
フシギダネ、と博士が呼んだ名前だけは、日廻にも聞き取れた。そのすぐ後ろでは、二匹の小さなポケモンが一つの木の実を取り合って、押し合いを始めている。フシギダネはくるりと振り返ると、蔓を二本伸ばして二匹のあいだへ差し入れ、そっと左右へ引き離した。それから木の実を拾い上げて二つに割り、一つずつ、それぞれの前へ置いてやる。
「ここの子らのまとめ役でな。揉め事が起きると、ああして真っ先に飛んでいくんじゃ」
博士が目を細めてそう言い、ロトムが訳し終えるか終えないかのうちに、頭上から羽音が降ってきた。青く硬い殻に立派な一本角を生やした虫のようなポケモンが、フシギダネの背中めがけてまっしぐらに飛んできて、その上へどすんと取りつく。
『ヘラッ!』
口元を球根の先へ押し当てようとしたところで、フシギダネの蔓がひゅんと唸った。叩き落とされたポケモンは草の上を二回ほど転がってから起き上がり、懲りもせずに、また羽を広げている。
博士はその姿へ何か声をかけてから、日廻にも短く説明を添えた。
『ヘラクロスロト。フシギダネの背中の蜜が大好きで、いつもああやって狙ってるんだって、博士が言ってるロト』
『ダネッ!』
「一見すると、ケンタロスたちより弱そうに見えるんですが……こんな広い場所のまとめ役ってことは、強いんですか?」
ロトムが問いを伝えると、博士は群れの去った方へ一度目をやった。
「強くはあるが、さすがにケンタロスたちを一度に相手にするほどではないのう。じゃが、多くのポケモンの間に立って、話し合いで解決することができるんじゃ」
「コミュニケーション能力と、カリスマ性があるってことですか。……うちのピカチュウみたいだな」
フシギダネは鼻を鳴らすと、改めて蔓を構え直した。まとめ役というのも、どうやら楽ではないらしい。
柵沿いを歩いていくと、坂の下の町へ続く道が見えるあたりに、一匹だけ離れて座り込んでいるポケモンがいた。淡い緑の長い首をして、頭に大きな葉を一枚載せたそれは、日廻たちの足音に気づくと、弾かれたように首を持ち上げる。輝いた目が日廻を見て、博士を見て、日廻の傍らのアブソルを見て――そこで、すっと光を落とした。長い首がゆっくりと下がっていき、そのポケモンは、また町へ続く道の方へ顔を戻してしまった。
ロトムは画面をそちらへ向けかけて、何も言わずに、そっと下ろした。
「あのポケモンは、誰かを待っているんですか」
「……見ただけで分かるかのう。あれはベイリーフじゃ。彼女のトレーナーは、まだ帰ってきておらん」
訳を聞いても、日廻はベイリーフから目を離せなかった。
「連絡も、ですか?」
「……そうじゃな」
博士の返事が訳されるまで、いつもより少し間があった。ベイリーフは柵の向こうへ目を向けたまま、大きな葉を一度だけ揺らした。
「……ダークマターネクロズマに、関係していることですか」
ロトムが訳し終えると、博士は日廻へ顔を向けた。
「お主が責任を感じることではないぞ」
「俺がどうやってこっちの世界に来ているのか、知っているでしょう? ネクロズマも被害者だったから仕方がない、それだけで済ませられる程度じゃない傷を、この世界は負っている。あいつの面倒を見ると決めた俺が責任を感じないまま、こっちの世界に足を踏み入れたわけじゃないですよ。正直、試験どころか罵詈雑言を浴びせられるくらいの覚悟はしてました」
ロトムは、今度は言葉を区切りながら、日廻の話を博士へ伝えていった。最後の言葉まで届くのを待つ間、日廻は家を出る前のミュウの声を思い出していた。
もしかしたら、この考えを読んでいたから、慰めてあげるだなんて、普段なら言わないことを言ってきたのかもしれない。
「ヒメグリくん。お主は、善い人じゃのう」
「……それだけですか」
訳を聞いてこぼれた言葉を、ロトムもそのまま伝えた。博士は日廻を見たまま、少しのあいだ黙っていた。
「残酷な言い方になるが、ワシがお主を責めたところで、失われたものが戻るわけではないからのう。それに、あれにはこちらの人間の不始末も絡んでおる」
日廻は返す言葉を探したが、すぐには出てこなかった。博士の視線が、道を見つめるベイリーフへ戻っていく。その横顔を見ているうちに、日廻も握っていた手をゆっくりとほどいた。
「こちらの人間が起こした災いに、お主たちの世界まで巻き込んでしまった。記録の最後に現れたアルセウスは、その始末をつけようとしたのかもしれんのう」
「……凄い観察眼と推理力ですね。俺だけじゃなくて、アルセウスとも話していたかと思いました」
口にしてから、日廻は少しだけ唇を引き結んだ。
相手がポケモンの博士だからだろうか。さっきから、ポケモンの暮らしや性質について尋ねるたびに、博士は日廻の話を聞き、それから自分の知っていることを返してくれる。あのとき見たものを話しても、まずは聞いてもらえる気がして、言葉が思っていたより先まで出ていた。
ロトムの訳を聞いた博士が、わずかに目を細めた。
「……ということは、ファイルZには映っておらん、お主だけが知っている続きがあるのじゃな?」
「いくら思い返しても、意味の分からない存在でしたけど……善い神様だったと思いますよ。人類全体やポケモン全体を、分け隔てなく愛していた、というわけではなさそうでしたけど。人と共に世界を見てきた時間が、彼に、やるべきことをやり切る覚悟を持たせたんだと思います」
ロトムが言葉を選んで訳していく間、博士は一度も口を挟まなかった。日廻も、急かされないまま、あのとき受け取ったものを思い返していた。うまく言えたとは思わない。それでも、神様と呼ぶほかないあの存在に、人と過ごしてきた時間があったことは、今も心に残っている。
「……そうか。アルセウスと共に歩んだ人がいたとは、驚きじゃのう」
博士はそう言ってから、柵の向こうの空へ目を上げた。
「ところで、この宇宙が繋がったのも、アルセウスの力なのか?」
「そこが謎なんですよね。俺と話したアルセウスは、世界同士を安易に接続するべきではないと、断言したんですけど。どうしてこうなったのか……」
「ふむ……お主が会ったアルセウスとは、また別の意志が働いたのかもしれんのう」
ロトムの訳が終わっても、日廻はすぐには言葉を返せなかった。
「ま、まさかぁ……」
博士は何も言わず、こちらを見ていた。その目が、今の返事をもう一度確かめているようで、日廻は視線の置き場に困った。
そこは無言で見ないでください、オーキド博士。
ごめんなさい。多分います。アルセウスが最初にしようとしたことを、止めた存在が。
けれど、そんなことまで言ってしまえば、二人揃って深淵を覗き込むどころか、そのまま落ちて、二度と浮き上がれなくなるような気がした。だから、もうこの話は終わってほしい。
その願いが顔に出ていたのか、博士はやがて、ふっと息をついた。
「……まあ、ここまでにしておこうかのう。研究者としては興味が尽きんが、知るにも引き際というものがある」
「……そういうことも、あるんですね」
ロトムが伝えると、博士は顎へ手をやって頷いた。
「ポケモンの研究でもあるぞ。ミミッキュやヌケニン、それからデスカーンの……」
聞き慣れない名前についてロトムが説明を添え、その画面の端に、検索結果らしい小さな画像が並び始めた。
「やめてください! ロトム、お前も無言でそのポケモンの画像を出そうとするな!」
ロトムが渋々と画像を消していくあいだ、博士は悪かったとでも言うように手を振りながら、肩を揺らして笑っていた。日廻は咳払いを一つして気を取り直すと、空いた画面に、今度は家の写真を出してもらった。家の皆のことを、ポケモンの博士に直接聞ける折など、そうはない。敷地を巡りながら、ロトムに間に立ってもらって、庭の隅のたらいや作業小屋の前の乾いた地面、皆の普段の過ごし方を伝えていくと、博士は一枚ごとに顔を寄せては、いくつも問いを返してきた。
マリルのたらいの写真を見た博士は、ほかの皆も水に入るのかを確かめてから、浅瀬で遊べる場所と泳げる深みとを、段をつけてつないだ池を勧めた。進化して身体が大きくなっても使えるよう、初めから余裕を見ておくといい、とも言われた。フライゴンの砂場は、転がって汚れを落とすだけでなく、翼や尾まで動かせる広さを考え、深さは本人の使い方を見ながら整えていけばいいらしい。いつも強い力を抑えているニャスパーなら、広い場所で大きな岩を浮かせてみるのも一つの手で、ピカチュウにも、畑仕事とは別に、溜めた電気を十分に放せる機会を作ってやりたいところだそうだ。ほかにも、山や林で遊ぶ時間や、ヒメグマとアブソルの爪や刃の手入れに使えそうな丸太、コジョンドが畝を気にせず踏み込める地面まで話は及んだが、チュリネには、今の畑の土と水をきれいに保つのが何よりだという。どれも目安で、最後はそれぞれの普段の様子を見て決めればいい、と博士は何度も言い添えた。
日廻は立ち止まるたびにノートを開き、勉強の書きつけの後ろへ、聞いたことを書き足していった。ベイリーフの姿も、さっき自分が口にしたことの重さも、それで消えたわけではない。それでも、帰ってから何に手をつけようかと考えているあいだは、短くなった鉛筆の先が迷わずに動いた。ノートを閉じる頃には、敷地を一回りした博士の足は建物のほうへ向いていて、日廻はアブソルと並んで、その後を追った。
◇◆◇
部屋へ戻ると、博士の机の上にできあがったばかりの資格証が置かれていた。手渡されたそれには、向こうの字で日廻の名前が刷られていて、その綴りは、さっき自分で書いたものと同じ形をしている。日廻はその名前を、何度か目でなぞった。
博士は奥の棚から箱を一つと、袋をいくつか持ってきて、資格証の横に並べた。箱の中には、赤と白に塗り分けられたボールがいくつか収まっていて、袋の表には、ポケモンの絵とフーズという字が刷られている。
「このモンスターボール達は、お主の名前で登録してある。ポケモンフーズは家の子らに試してみるとよい。それと、これがさっきの話の続きじゃ」
最後に添えられた紙の束を受け取ってから、日廻は箱の中のボールを一つ手に取った。掌に乗せたそれは、思っていたより軽かった。表面の滑らかさも、真ん中のボタンが指の腹にわずかに引っかかる感触も、手のほうが覚えている。あの一週間、これを握って走ったことがあった。そう思い出したのは、頭よりも先に、指のほうだった。
足元で、アブソルが短く鳴いた。顔を向けると、赤い目がまっすぐに日廻の手元を見上げている。重ねて促すように鳴かれて、日廻はボールを持ったまま、少しだけ膝を折った。
アブソルは片方の前脚を持ち上げると、その掌を、日廻の手の中のボールのボタンへ、そっと押し当てた。かちりと小さな音がしてボールが開き、赤い光がアブソルの身体を包み込む。白い姿が光の中へほどけるように消えて、閉じたボールが一つ、日廻の掌の上に残っていた。ボールは一度だけ小さく揺れて、それきり静かになった。
「普段、ワシらはそのモンスターボールでポケモンを捕まえとる。じゃが、そのほとんどは、こちらの都合によるものじゃ」
「……そうなんですか?」
「元気なポケモンは、簡単に入らん。だから、バトルで弱らせてからゲットすることが多い。人とポケモンが友情を結ぶのは、たいてい捕まえた後からなんじゃよ」
日廻は、しばらく掌の上から目を離せなかった。
やがてボタンを押すと、開いたボールから赤い光がこぼれ出て、床の上で、再び白い姿をかたちづくった。アブソルは何事もなかったように身体を一振りすると、いつものように日廻の脚の横へ座り直す。ロトムは何も言わずに画面の目を細めていて、博士も穏やかに頷いただけだった。
空になったボールを箱へ戻してから、日廻は机の上を見渡した。ボールの箱と、フーズの袋と、博士が書いてくれたらしい紙の束が並んでいる。試験を受けさせてもらい、家のことまで一つずつ相談に乗ってもらった上に、これだけのものを持たされるのは、さすがに据わりが悪かった。
「ここまでしてもらうのは、さすがに悪いです。試験も、家のことも、見てもらったのに自分は何も返せていません」
「気にせんでええ。まずは使ってみなさい。フーズも、皆が気に入るかどうか、帰ってから確かめてみるとよい」
訳を聞いても、申し訳なさはすぐには消えなかった。皆の飯は、これからも大鍋で作るつもりでいる。それでも、口に合うものが一つ増えるなら、悪い話ではない。日廻が改めて頭を下げると、博士は笑って手を振り、ふと表情を改めた。
「これは、今渡したものとは関わりのない話なんじゃが。ひとつ、頼みごとがある。無理を言うつもりはないので、聞くだけ聞いてもらえるかのう」
さっきまで、池や砂場の話をしていたときとは違う、言葉を一つずつ選ぶような口ぶりだった。
「お主のミュウに、研究へ協力してもらえんかと思っておる。可能なら直接会って、触れて、データを得る機会が欲しいんじゃ。もちろん、本人が構わんと言ってくれれば、の話じゃが」
ロトムの訳を聞いて、日廻は思わず聞き返した。
「ミュウを、ですか」
それから、訳の中に混じっていた言い方に引っかかって、言葉を足す。
「その前に……そもそも、あいつはまだ、自分の手持ちじゃないんです。一緒に住んでるだけで」
「あれだけ一緒にいたのにか?」
「あの一週間で用意できたモンスターボールは二つでそれはアブソルとコジョンド、あとは壊れたみたいですけどもう一個ありました」
「本人が、そこにいたいと思って暮らしておるんじゃな」
「そうだと思います。食べたいものがあれば言ってきますし、寝る場所も自分で決めてるので」
日廻が答えているうちに、博士の手が少しずつ前へ出てきた。
「お主は、ミュウがどんなポケモンか、どのくらい知っておる?」
日廻はロトムを見た。ロトムもこちらを見返している。
「賢いのは、よく知ってます。自分の言葉も分かりますし、鋭いところもあって……ただ、生態とか、そういう話なら、あまり」
「ミュウは、あらゆるポケモンの遺伝子を持つとされておる。ポケモンを研究する者なら、誰もが一度は会ってみたいと憧れる相手なんじゃ。しかし、ミュウを手持ちにしたと確かめられたトレーナーは、ワシの知る限り、一人もおらん。それが、ファイルZの映像では、人と同じ部屋で、ごく当たり前のように暮らしておった。ワシがあれを初めて見たとき、どれほど――」
『博士、ちょっと待ってロト! 早すぎるロト!』
訳が追いつかなくなったロトムが悲鳴を上げても、博士はかまわず身を乗り出してくる。日廻は思わず椅子の背にもたれ、ロトムも画面の目をぐるぐる回しながら、日廻の肩のあたりまで後ずさってきた。
どうにか訳し終えたロトムの言葉を、日廻は頭の中で転がした。家の座布団で丸くなり、気に入らないことがあれば人の頭をはたいて、ベルトを巻いた日廻を見て腹を抱えて笑い転げていたあいつが、この世界では、研究者が一生に一度会えるかどうかという相手なのだという。
「……うちでは、わりと我儘なお嬢様なんですけど」
「その我儘が分かるほど、一緒に暮らしておるんじゃろう!」
机を叩きかねない勢いでそう言ってから、博士は我に返ったように咳払いをして、椅子に座り直した。
日廻は、膝の上で手を組んだ。博士の熱意が本物だということは、言葉が分からなくても十分に伝わってくる。けれど、だからといって、自分がここで頷いていい話ではなかった。
「あの、聞いてみます。一旦、本人に」
日廻は途切れたところへ、ようやく声を入れた。
「ただ、こっちの都合を分からずに頷くような相手じゃないので。自分が勝手に、いいとは言えません」
「もちろんじゃ。すまんのう、つい話しすぎた。まずは、聞いてもらえるだけでありがたい」
そのとき、研究所の表のほうで、扉の開く音がした。
「おじいちゃん、いる?」
窓の外では、柵のそばのベイリーフが、その音にまた首を持ち上げたのが見えた。廊下を近づいてくる足音とともに部屋の入口へ顔を出したのは、日廻よりいくつか年下に見える、茶色の髪を立てた少年だった。片手でバックの紐を掴んでまま、部屋に客がいるのに気づくと足を止め、日廻とロトム、それから日廻の足元のアブソルへと、素早く目を走らせる。
「ごめん、お客さんだったんだ。……それより、あいつのことで、何か新しい情報は入ってない?」
「いや、まだじゃ。何か分かれば、お前にもすぐに知らせると言ったじゃろう」
男は短く息を吐き、頷いた。握っていた手を開いてから、ようやく日廻へ視線を向ける。
博士は日廻へ男を紹介した。孫のシゲルで、彼もポケモンの研究をしているという。日廻は立ち上がり、向こうの言葉で、短い挨拶と名前を伝えた。
「はじめまして。ヒメグリ、です」
「シゲルです。研究所へは、お仕事で?」
知っている音を拾おうとしたが、後半が追いつかなかった。日廻がロトムへ目を向けると、機体が二人の間へ移動する。
『ここへ来た用事を聞いてるロト』
「資格の試験を受けに来ました。さっき合格して、オーキド博士のご厚意で、見学させてもらっていたところです」
ロトムが訳し終えても、すぐには返事がなかった。
「三級の試験を、今日ですか?」
「はい。ついさっき、です」
それくらいなら、どうにか自分の口で返せた。日廻が椅子を戻そうとすると、アブソルが立ち上がって場所を空ける。白い首元の毛が揺れ、その下から石が覗いた。
「アブソルナイト……。アブソルとは、前から一緒に?」
訳を待って、日廻は頷いた。
「一緒に暮らしてます。ほかにも、家で待ってる連中がいるので」
「そうですか。てっきり、もっと前に資格を取っている方かと思いました」
言い方は丁寧だった。けれど、その目は日廻の顔へ戻ったあとも、しばらく動かなかった。答えるたびにロトムを見る日廻を、確かめているようにも見える。
博士がそこで、シゲルへ声をかけた。
「ヒメグリくんは、別の世界から来たお客さんでのう。そちらで育ったから、こちらの資格も言葉も、熱心に勉強しておるところなんじゃ」
シゲルの視線が博士へ向いた。聞き返しかけた口が一度閉じ、今度はロトムへ、そして日廻へ戻ってくる。日廻は訳を聞き終えてから、自分でも言葉を足した。
「文字は、少し読めるようになったんですけど。話す方は、まだロトムがいないと、なかなか」
ロトムが伝えると、シゲルはゆっくり頷いた。先ほどまで少し詰めていた問い方が、そこで変わった。
「それで、通訳を。……分かりました。ポケモンバトルは、したことがありますか?」
日廻はロトムの訳を聞き、あの一週間の戦いを思い返した。トレーナー同士で腕を競った経験は、まだ一度もない。
「お恥ずかしながら、トレーナー同士ではありません。野生のポケモンを相手に戦ったことはあります」
答えが伝わると、シゲルの視線が、もう一度アブソルの首元の石へ落ちた。顔を上げたとき、その口元はわずかに緩んでいた。
「ヒメグリさん、ボクとポケモンバトルをしてみませんか」