夜も更け、古民家の中はすっかり静まり返っていた。
開けた窓の向こうから、虫の声だけが絶え間なく聞こえている。
昼間はあれほど騒がしかった。
畑では鳴き声が飛び交い、作業小屋へ戻ればロトムが喋り続ける。チラーミィやヒメグマが何かを始めれば、ピカチュウまで巻き込まれる。
それが今は、遠い出来事のようだった。
静かな夜のせいで、テレビから漏れる音が異様に響く。日廻は畳の上に座り、手の中で石を転がしていた。冷たく、滑らかな感触。用途不明の石が、まだ現実として定着しない。
「見返りは求めてお前を助けたわけじゃない……と一度は返そうとしたけど。アブソルのようにゼットが俺を選んで渡してきたんだよな、この石ころ」
独り言は、自分で自分に言い聞かせるような響きを持つ。
ゼットの怜悧の瞳から伝わる何かを決断したような眼差しが、この石ころに不動の価値をあることを示すようだった。
「ロトムは何か知っているようだったが……結局教えてくれなかったし」
ロトムを信じている。ただ、この不透明さだけは少しばかり気懸かりだった。日廻は石を置き、部屋の隅に置かれた古いテレビのリモコンを手に取った。ぼたっとスイッチが入り、静まり返った部屋に光と音が流れ込む。
『――各地で確認されている巨大な陥没地周辺では、未確認生物の目撃件数が急増しています』
日廻の手が止まる。画面には夜間撮影らしい映像が流れていた。
道路脇を駆け抜ける、小さな紫色の生き物。
撮影者が驚いた声を上げた直後、映像が大きく揺れる。
次。
駅のホームらしき場所、大型の鳥が数羽、照明器具の上へ止まっている。
追い払おうと近づいた駅員へ驚き、一斉に飛び立つ。
そのうち一羽が案内板へ衝突し、映像が途切れた。
「……これはコラッタ。こっちはムックル」
次の映像では、黒と尻尾の先端に赤い刃が特徴的な蛇のような生き物と、白い体に電紋のような赤い印の黒い爪を持つ獣が取っ組み合っている。
『撮影者によりますと、二体は数分間にわたって争い、それぞれ山中へ姿を消したということです。周囲では倒木や道路設備の破損も確認されています』
直ぐに名前が浮かばなかった日廻はノートを開いて、彼らの名前を呟く。
「ハブネークと、ザングース。だったかこれは」
『これまでに重傷者も確認されており、各自治体では住民に対し、正体不明の生物を見かけても不用意に近づかないよう呼びかけています』
ニュースキャスターが冷静な口調で状況を説明する。「未確認生物」、「未知の動物」という言葉が繰り返される。人々は彼らを「ポケモン」という一つの大きな分類の存在だと知らない。知る術すら与えられていない。
「たった数日前だぞ、どうしてこっちに来て争っているんだ」
少なくとも、日廻の知っている穴の中には確かな自然があった。
『政府内では現在、警察や自治体による対応を継続する一方、被害の拡大に備えた追加措置についても検討が進められています』
画面は切り替わり、スタジオに戻る。専門家らしき顔ぶれが並び、対処法を議論している。警察や自治体だけで対応すべきだという意見。危険性を考慮すれば自衛隊の出動も辞さないという意見。意見は割れている。
対応主体、避難、捕獲、研究、安全確保。まだ何も定まっていない。
日廻は、恐怖から暴走したコジョンドの姿を思い出した。悪意はなかった。だが、その一撃が持つ力は、人間のそれを遥かに凌駕している。
「犬や猫とは比べ物にならない力と技があるんだ。コジョンドみたいに暴れたら、大変なことになる」
知識のない人間が、力のない人間が、無策で彼らに触れたらどうなるか。日廻は考えたかったが、想像の先には絶望的な情景が広がるばかりだった。
兄の死後、山で隠遁者のように暮らしていた自分。世界を救う英雄でもなければ、何かの専門家でもない。ただの、何の取り柄もない農家だった。それが、いつの間にか、これほど多くの未知を抱え込んでいた。
「もし運命なんてものがあるのなら、俺に何をさせたい、何をすればいい? ただの世捨て人農家だったんだぞ、俺は」
テレビの画面がまた切り替わり、別の穴から現れたポケモンが映し出される。人々がパニックに陥り、逃げ惑う。
日廻は目を閉じた。静寂の中で、テレビから流れる騒がしい音だけが現実を押し付けてくる。穴、ポケモン、被害、人類の混乱。そして、自分の手にある謎の石。すべては繋がっているような気がしてならなかったが、答えはどこにも見当たらない。
「……あぁ、くそ。いったいこの混乱の源は何なんだ」
その呟きは、誰にも届かない。日廻はただ、暗い部屋の中で、凍てつくような石の感触だけを確かめるのだった。
◇◆◇
翌朝。
母屋の土間には、普段の農作業とは少し違う荷物が並んでいた。
水筒。昼食。救急用品。軍手。懐中電灯。予備の電池。ロープ。研いだ鉈。
それから、向こうで拾ったものを分けて入れる採集袋。
日廻は一つずつ手に取り、確かめながらリュックへ収めていく。
畑へ出るだけなら、こんな準備は要らない。
けれど、それ以外は普段の朝と大して変わらなかった。
その行き先が、たまたま異世界へ繋がる穴だというだけだ。
『忘れ物ないロト?遠足前の準備は大事ロト!』
「お前は教師か」
『先生ロト!』
「昨日のタイプ講座だけだろ」
ロトムの画面に不満そうな顔が浮かぶ。
日廻はそれを流し、最後に腰へ巻くベルトを手に取った。
黒い帯に、球体を固定するための留め具が並んでいる。機能は単純だ。落とさず固定でき、必要なら片手で外せる。
今そこへ取り付けるのは、一つだけ。
昨日完成した、この世界で唯一の試作モンスターボールだった。
「こんなに留め具いるか?」
『増えるかもしれないロト!拡張性は大事ロト!』
「備えってやつだな、はいはい」
ベルトを締め、ボールを固定する。
軽く引いても、外れない。
もう一度確かめてから、日廻は手を離した。
「……まあ、使えるならなんでもいいか」
リュックを背負う。
肩紐を締め、玄関を振り返った。
土間の奥から爪の音と共にアブソルが姿を現した。
包帯は外れている。
傷口は塞がり、歩く分には問題ない。
薬を用意したとはいえ、ポケモンという異世界の生物の生命力と回復力には改めて驚かされる。
アブソルの赤い瞳が、腰のモンスターボールへ向いた。
そこから、日廻へ。
ただ、それだけ。
「……もう、聞くのも野暮ってやつだよな」
口にしかけて、止める。
聞くだけ無駄なのではない。
もう答えが出ている。
自分が危ないと思うことと、アブソルが行くと決めることは別だった。
だから、アブソルと視線を合わせ、思いが通じることを願いながら告げる。
「ありがとう。アブソル、頼りにしている」
アブソルの瞳が、僅かに細くなる。
それ以上は何もない。
日廻も、それ以上求めなかった。
『チラ!?』
今度は足元から声が上がる。
チラーミィが、忘れるなと言いたげにズボンを叩いていた。
「忘れてない。お前がいないと穴の中で迷子になるからな」
『チラ!』
「むしろ、お前がいないと始まらない」
『チラ!』
得意げに胸を張り、大きな尻尾まで高く持ち上げる。
『いよいよトレーナーらしくなってきたロト! 先生は鼻が高いロト!』
「………昨日怒鳴り合った話を蒸し返すなら置いていくぞ」
『選択の自由はどこいったロト!?』
「はぁ、まあ……お前もいないと困ることがあるし、好きにしろ」
『ヤなカンジー! でもついていくロト!』
日廻はリュックを背負い、外へ出た。
早朝の空気には、まだ少しだけ夜の冷たさが残っている。だが空は晴れていて、昼前には暑くなるだろう。
だから、留守番を任せるポケモンたちの作業も軽くしてある。
畑の手前には、ピカチュウ、マリル、チュリネ、ニャスパー、ヒメグマが集まっていた。
「ゼットは?」
『ピカ、ピカチュ』
ピカチュウが作業部屋の方を指す。続けて、両前足を頬の横へ添えるような仕草をした。
「……まだ寝てるのか」
『ピカ』
「ならいい。無理に起こさなくていい」
昨日、あの石を渡してきたことが関係しているのか。それとも単に眠いだけなのか。日廻には分からない。
どちらにせよ、起こしてまで連れていく理由はなかった。
「起きてきたら、今日は留守番だって伝えてくれ」
『ピカ!』
「今日は昨日と同じ範囲だけだ」
日廻は畝の端を指し、反対側まで歩いて範囲を示す。
「ここから、ここまで。暑くなったら終わり。無理なら小屋へ戻れ」
『ピカ!』
ピカチュウが元気よく鳴く。
「お前が全体を見ててくれ」
『ピカ!』
昨日も、他のポケモンが勝手なことをしそうになるたび、何度か間に入っていた。
任せるなら、まとめ役はピカチュウでいい。
次にマリルを見る。
「水は運ぶだけ。また畝を吹き飛ばすなよ」
『リル!?』
「責めているつもりはない、昨日のようにホースで水やりしてくれ」
『リル』
今度は小さく鳴いた。
チュリネには、収穫してよい野菜を見てもらう。ニャスパーには軽い籠だけを任せる。
「ヒメグマは、チュリネが選んだものだけだぞ」
『グマ!』
「途中で食うなよ」
『グマ……』
一拍。
「その間は何だ」
お目付け役のピカチュウに見つめられ、ヒメグマはそっと目を逸らした
日廻はため息を吐いたが、口元までは険しくならなかった。
全部自分でやれば、その方が早い。それは分かっている。
説明する手間もないし、失敗の後始末も減る。
それでも、昨日任せた仕事のいくつかは、もう細かく説明しなくても伝わっていた。
なら、任せた以上は任せる。
何かあれば、そのときまた直せばいい。
『……コジョ』
低い声が聞こえた。
作業小屋の戸口に、コジョンドが立っていた。
「コジョンド?」
長い腕から伸びた体毛を身体の横へ垂らし、こちらを見ている。
肩の傷も塞がり、歩く姿勢に大きな崩れはない。
それでも、探索へ連れていく予定はなく、誘ってもいない。
日廻たちを一度見て、それから荷物をアブソルからチラーミィ、ロトムへと移す。
そして日廻に戻り、コジョンドはゆっくり歩いてきた。
途中で止まらず、そのまま、日廻の隣へ立つ。
「……来たいのか」
『コジョ』
「怪我はもう平気なのか」
視線は逸れない。
以前とは違う。
少なくとも、日廻にはそう見えた。
あのときのコジョンドは、目の前のものを見ているようで見ていなかった。疲れ、怯え、何かから逃げるように腕を振るっていた。
今は、自分からここへ来た。
もちろん、危険がないわけではない。
一度、理性の枷が外れて暴走したことがある。
向こうで何かが起これば、また同じ状態になる可能性もある。
止める理由はいくらでも考えられた。
日廻は隣のアブソルへ視線を移す。
アブソルもコジョンドを見ていた。
だが、唸らない。前へ出て、進路を塞ぐこともしない。
それを見て、日廻はようやく、自分が身構えていたことに気づいた。
肩から力を抜く、たったそれだけのことで、自分でも妙におかしくなった。
数日前まで、知らない生き物の判断を、自分の判断材料にするなど考えもしなかった。
「無理だと思ったら戻るぞ。傷が開いたら、そこで終わりだ」
『コジョ』
「……そうか」
それ以上は言わなかった。こうして、コジョンドの同行も決まった。
『今回の主目的は、ボールの材料集めでいいロト?』
ロトムが確認項目に頷きながら付け足す。
「そうだ。ただ、それだけじゃない」
『ロト?』
「穴の中を、もう少し見たい」
ロトムの端末が僅かに傾いた。
日廻は昨夜のテレビを思い出す。
こちら側へ流れ出し、名前すら知られないまま騒ぎを起こしているポケモンたち。
「食い物も水もある場所から、なんであいつらがこっちへ溢れてきてるのか分からない。ただの縄張り争いで追い出された、ならまだ納得できるが」
一度、言葉を切った。
「それだけじゃない気がしてな」
ロトムはすぐには答えなかった。
普段なら、知っていることでも知らないことでも何かしら返してくる。
「材料を集めながら、少し見て回る。それでいい」
『……分かったロト』
返事は、いつもより僅かに遅かった。
日廻はポケットの上から、布に包んだ石を確かめる。
ゼットから預かった、正体も用途も分からない謎の石。
今日、これについて答えが出るとも思っていない。
探索に向かうのは、日廻、ロトム、アブソル、チラーミィ、コジョンド。
畑へ残るのは、ピカチュウ、マリル、チュリネ、ニャスパー、ヒメグマ。
ゼットは、まだ母屋で眠っているらしい。
「ピカチュウ。頼んだぞ」
『ピカ!』
歩き始めると、ふと振り返る。
畑を頼んだポケモン達が声を上げながら各々のやり方で手を振ったり、体を動かしている。
まるで、いってらっしゃい、と言っているようだった。
胸の奥に溜まっていた不安が、少しだけほどけていく。
その光景に微笑みを返した、瞬間だった。
鋭い痛みが胸を走る。
日廻は誰にも悟られないよう、そっと唇を噛んだ。
少しして、作業部屋の縁の下から、小さな影が這い出した。
『……ゼド』
低く鳴き、誰もいなくなった山道を見る。
畑に残ったピカチュウが気づいて振り返ったときには、影はもう動き出していた。
草の間を抜け、石垣の陰を伝い。
日廻たちが消えた山道へ、その小さな身体も入っていった。
◇◆◇
穴の向こうへ足を踏み入れた瞬間、日廻は無意識に一度だけ立ち止まった。
これで三度目だ。高い木々も、鮮やかすぎる葉も、見たことのない花も、洞窟の先にあるとは思えないほど広い空間も、一度は見ている。
それでも、普通になったわけではなかった。
現代日本の森ではない、そう理解したうえで、毎回その事実を確認するような感覚だけが残っている。
どこに光源があるのか、今も分からない。木々の隙間を抜けた明るさが地面へ落ち、少し先では沢の水面を白く揺らしている。
異常な場所のはずなのに、見た目だけなら随分と豊かだった。
『チラ!』
先頭を歩いていたチラーミィが振り返る。
「右か?」
『チラ!』
「頼む」
『チラッ』
大きな尻尾が得意げに持ち上がった。
チラーミィが先を進み、その少し後ろをアブソルが歩く。日廻の反対側にはコジョンドがいて、ロトムは頭上を行ったり来たりしている。
一人で初めてここへ入ったときとは、随分違う。
だからといって、何でも任せて気を抜けるわけではない。日廻は足元と周囲を確認しながら歩いた。
茂みが揺れ、反射的に視線を向けると、小さなポケモンが顔を出して、こちらを見た。それ以上近づく様子もなく、草の奥へ消えていった。
「この辺は、大人しいポケモンが多いな」
『比較的ロト! でも縄張りへ入れば怒るポケモンもいるロト!』
「そこは普通の動物と変わらないか」
『ポケモンだからって全部特別じゃないロト!』
「十分特別だろ」
少なくとも火や電気を出す時点で、日廻にとっては普通ではない。
それでも、野生に生きる生物として、縄張りを守る、食べる、眠る。怪我をする。
そういう部分まで違うわけではない。
最初にポケモンを見た頃よりは、その辺りの感覚も掴めるようになっていた。
しばらく進んだところで、ロトムが急に高度を下げた。
『あったロト!これがぼんぐりのみロト!』
ロトムの案内を受けて日廻がそれを見上げる。
木の枝に、丸みのある実がいくつもついている。
「これが、ぼんぐりのみか」
『そうロト!』
前に名前だけ聞いたときは、もっと栗やドングリに近いものを想像していた。実際には、日廻の知る植物とは微妙に違う。
木の下には、いくつか自然に落ちた実もあった。
日廻はしゃがみ、傷んでいないものを一つ手に取る。
「何個いる」
『余裕を持って十個くらい取るロト!』
ふと、頭の中で作業部屋にいるポケモン達の顔を思い出して、手が止まる。
「……まあ、それぐらいならいるか」
ロトムの画面が勢いよくこちらを向いた。
『日廻、何か体に悪いものでも食べたロト?いつもなら多い!ここで暮らしている連中の食べ物かもしれないだろって怒るロト』
「お前が俺をどう見ているのかよく分かるな……モンスターボールを使うかどうかは別として。必要なものであることは分かっている、複雑だけどな」
手に取ったぼんぐりのみの状態を確認して良いものだけを袋へ入れる。
『……もしかして、ボク達の分のことを考えているロト?』
「…………少しな」
『学習したロト!これが―――ツンデレ!』
「うるさい!」
腰のモンスターボールへ一度だけ目を落とす。
アブソルが選んだ一つ、今はそれしかない。
他のポケモンが同じものを欲しがるとは限らないし、使う必要が出るとも限らない。
それでも、怪我をしたポケモンを運ぶとき、危険な場所から離すとき、ある程度あれば助かる場面はある。ただそれだけと考える。
ぼんぐりの実を集め終わり、移動した沢沿いでは、ロトムがたまいしをすぐに見つけた。
予定していた必要数を袋へ分ける。
素材集めそのものは、拍子抜けするほど順調だった。
その分、歩きながら周囲を見る余裕が生まれる。
ポケモンたちが、少なくともこの一帯では普通に暮らしているように見える。
さっきも小さなポケモンが茂みから出てきた。
沢の近くにも別の影があった。
目に見える限りでは、ここは、生物が生きられない土地には見えない。
むしろ、日廻が住んでいる山より、食料になるものは多そうだった。
「……やっぱり、おかしいな」
『何ロト?』
「ここから出ていく理由だ」
ロトムの動きが、僅かに遅くなる。
「食い物はある。水もある。危険なポケモンがいないとは言わないが、それだけなら、世界中の穴から外へ出てくる理由にはならないだろ」
昨夜の映像が浮かぶ。穴から離れた場所にまで現れていたポケモンたち。
落ち葉を踏み、沢から少し離れる。
木漏れ日に似た光が、足元を流れていく。
そこで、一つの記憶が繋がった。
「なぁ、ロトム」
『……突然なにロト』
「お前が最初にウチに来た時を思い出した」
日廻は歩みながら、あの時何を叫んでいたのかを思い出していた。
「お前は、人間がいることに驚いてた」
『ロト……』
「生き物が普通に生きてることにも。電気があることにも。文明があることにも」
ホームセンターへ連れていったとき、ロトムは妙なくらい何度も周囲を見回していた。
商品棚を見て、照明を見て、行き交う人間を見て。
まるで、失った物を見つけて驚いたように。
「前に聞いたときは、詳しいことは知らないと言ったな」
『そうロト』
「それを嘘だとは思ってない」
日廻は歩きながら続ける。
詳しく知らない、それ自体は本当だろう。
あのときのロトムの言葉を疑っているわけではない。
知らない。恐らく、それは本当なのだろう。
だが―――
ロトムが止まった。
日廻も足を止める。
アブソルとコジョンドも、少し先でこちらを振り返った。
普段なら何かしら動いているロトムの画面が、今は静かだった。
ただ一言、口から出た。
「
ロトムは答えない。
長い。そう感じるくらいの沈黙だった。
問い方を間違えたかもしれない。
知りたいことではある。
でも、知りたいからといって、今ここで聞き出していい話とは限らない。
「……いや、すまない。辛いことなら――」
『
言葉が落ちた。
日廻は眉を寄せる。
「光……?」
『みんなロト』
それ以上の説明はない。
日廻は、反射的に周囲を見る。
光はある。どこから差しているのか。
仕組みは何一つ分からない。それでも、確かに降っている。
アブソルの白い毛を、コジョンドの身体を、チラーミィの尻尾を。
木々の葉を照らし、沢の水面を白く光らせ、森に生命の光が降り注いでいる。
ただ普通にある、あって当たり前のもの。
なのにロトムは、光を奪われたと言った。
「……どういう意味だ。ポケモンの技か何かか?」
『……』
返事はない。
もう一度聞くか。
日廻が迷った、そのとき。
『チラッ?』
先に、チラーミィの声がした。
少し先で立ち止まり、耳を立てていた。
何かを探すように、顔を左右へ巡らせる。やがて、その視線が森の奥で止まった。
『……チラ!』
突然、走り出した。
「おい、待て!」
茂みへ飛び込んでいくチラーミィの後を、日廻たちも後を慌てて追う。
枝を避け、木の根を跨ぎながら、下り気味の斜面を進む。
湿った土に足を取られないよう進む。
チラーミィの灰色の尻尾が、木々の間を先へ先へと抜けていく。
数十メートルほど走ったところで、急に視界が開けた。そして――日廻は足を止めた。
「……何だ、これ」
そこまで、ずっと自然しかなかった。
目の前にも、ただ開けた場所に何度も見てきた岩と木があるだけ。
その中に、一つだけ、人の手で作られたとしか思えないものが落ちていた。
黒い箱。
一人では簡単に抱えられそうにない大きさ。
角張った外装には土が付着し、端には薄い汚れが残っていた。完全には朽ちていない。
周囲の自然から、そこだけ切り離されたようだった。
正面には、大きな文字がある。
「
日廻は目を細める。
その意匠は、見る角度によって
企業名か、組織名か、製品記号か、判断する材料がない。
「こっち側で、明らかな人工物を見たのは初めてだな」
日廻は箱へ近づき、表面を確かめようと手を伸ばす。
『触らないで!』
手が止まった。
日廻は、そのまま指を引いた。
何を喋るときにも付いていた、いつもの語尾がない。
それが、なかったのは初めてではない。前も、ロトムの感情が大きく揺れたときだった。
「……お前のか」
短い沈黙。
『……設計に関わったロト』
日廻は、もう一度箱を見る。
なら、ロトムはこれを知っている。
偶然見覚えがある程度ではない。
「捨てたのか?」
また間があった。
『……ボクが捨てたロト』
なぜ自分で捨てた?
先ほどの「光」と関係があるのか。
聞けばいくつかは答えるかもしれない。
だが、日廻が知りたいことと、ロトムが話したいことが、同じとは限らないと昨日散々思い知らされたばかりだった。
「どうする?」
ロトムが僅かに浮き沈みする。
「持って帰るか」
黒い箱を見る。
「ここに置いていくか」
一度、アブソルとコジョンドへ目を向ける。
「壊したいなら、それでもいい。俺じゃ無理でも、手伝える奴はいる」
少なくとも、日廻一人で殴るよりは余程現実的だろう。
『……少し、待ってほしいロト』
「分かった」
それだけ言うと、ロトムの周囲を青白い電気が走り、端末から橙色の身体が抜け出した。
本来の姿となったロトムはすぐには箱へ入らなかった。
一度、黒い外装の前まで近づく。
Rの意匠、継ぎ目。
その周囲をゆっくり回る。
何を確認しているのか分からない。
やがて、ロトムの身体が、僅かに止まった。
ほんの一瞬、青白い光に包まれ、黒い箱の中へ沈むように消えていった。
日廻は、中身を失った端末を片手で受け止めた。
一分、二分、ロトムが黒い箱に入って変化はない。
呼んでみるか。返事がなければ箱を開けるか。端末側から何か操作できないか試すか。
いくつか手段は浮かんだが動かなかった。
ロトムは、待ってほしいと言った。
もし今すぐ声を掛けるのなら、それはロトムが困っているからなのか。
それとも、中で何をしているか分からない状態に、自分が耐えられないだけなのか。
日廻には区別がつかなかった。
『チラ』
「……何だ」
チラーミィが、座って待っている日廻の横へ来ていた。
その視線は、リュックへ。
日廻に戻って、またリュックへ。
「腹減ったのか」
『チラ!』
「そうか」
日廻は時計を見る。
ちょうどいい時間ではある。
周囲を確認する。木々が開けていて、視界も通る。
少なくとも、何かがあればすぐに動ける場所だった。
「……飯にするか」
ため息交じりにリュックを下ろす。
途端、アブソルとコジョンドがこちらを見た。
二匹とも動かない。
「……なんだよ」
返事はない。
ただ、その視線が今、この状況で食うのか、そう言っているような気はした。
「腹は誰だって減るだろ。お前たちの分もあるぞ」
朝に作っておいたサンドイッチを取り出す。
軽くバターを塗ったパンに、畑で採れた野菜とハムを挟んだだけの普通のものだ。
だが、包みを開いた瞬間から、チラーミィは目を輝かせて尻尾を立てていた。
「コジョンドが一緒に来てくれるとは思っていなかったが、多めに作ってはいるぞ」
『チラァ!』
「静かに食……おい」
チラーミィにサンドイッチを渡すと、日廻が組んでいた足の間へ入り込み、そこに座って齧り始める。
脚の間で、大きな尻尾がゆらゆらと揺れる。どこか不思議な匂いと、服越しにも分かる柔らかな身体の感触に、日廻は困ったように眉を下げた。
「……チラーミィ、どいてくれないか?地面の上で食べることが嫌なら、ハンカチとか用意しているからその上で食べてくれ」
困りきった日廻の懇願にも、チラーミィは答えない。強制的に抱えて移動させることも考えたが悪い気がして、申し訳なさそうにアブソル達の方を見て、サンドイッチを入れているバスケットを開いた。
「……取りに来てくれ、動けん」
『『…………』』
言葉はなくとも、『お前、ちょっと甘やかしすぎではないか?』と訴える二匹の視線が痛い。申し訳なさに、日廻は肩身が狭くなる。
「いや……まぁ……以後、気を付けます」
二匹にため息を吐かれたあと、アブソル達はこちらへサンドイッチを取りに来る。
すまないと小さな声で謝罪を口にしたが、気にしていないとでも言うように、アブソルもコジョンドもそれぞれ食事を始める。
その視線の先には、黒い箱があった。
「……待っているからなロトム」
この輪にいない、もう一人の仲間が消えていった黒い箱は、沈黙したままだった。
まだ快調ではないけど、時間がかかっても、進めていきたい。
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