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穴へ入ってから、もう一時間ほど経っていた。
「なあ、アオ」
「何」
「ここ、本当に穴の中か?」
「今さら?」
少し後ろを歩くアオから、呆れたような声が返ってきた。
ハルは苦笑しながら頭上を見上げる。
空――と呼んでいいのか分からないものが、そこには広がっていた。
青くない、黒とも違う。
紺や紫の深い色が幾重にも重なり、そのところどころに、淡い白や虹色の光が滲んでいる。光は雲のように形を変えているのに、流れているようには見えない。
太陽はない。
雲も、星もない。
なのに、森の中は物を見るのに困らない程度には明るかった。
《空ずっと変じゃね?》
《今さら気づいたのか》
《太陽どこ》
《これ夜空でもないよな》
《なんで明るいんだよ》
手元の配信用端末へ目を落とし、ハルは流れるコメントを追う。
「……そういや、何で明るいんだ?」
「知らん。考えて分かるなら俺ら今ごろ研究者やってる」
「確かにな」
《諦めるの早い》
《研究者に怒られろ》
《というか帰れ》
「開始一時間ずっと帰れって言ってる奴いるな」
「そいつが一番まとも」
「俺らが一番まともじゃないみたいに言うなよ」
「穴に入って生配信してる時点で反論ある?」
「装備はしてる」
「論点そこじゃない」
アオが持つカメラの向きが少し下がる。
二人の足元には見慣れない草が生い茂っていた。
葉の縁だけが青白く光るもの。
拳ほどの大きさの実をぶら下げた低木。
触れると内側へ丸まる、妙に肉厚な草。
どれも初めて見る植物ばかりだったが、生きていることだけは分かる。
風が吹けば揺れる。
枝が擦れ合う。
虫の羽音のようなものが、時折耳元を横切る。
少し離れた茂みの向こうを、小型犬にも鼠にも似ていない生き物が駆け抜けていった。
《今なんかいた》
《右右右》
《かわいい》
《いや足速すぎ》
《ニュースで出てる奴と同じ系統か?》
《北海道の穴でもまた変な鳥出たらしいぞ》
《海外でも穴増えてるって》
《昨日の電気出す黄色い奴こわかった》
「世界中、変なの増えすぎなんだよな」
ハルはそう言いながら、前方の枝を避けた。
数日前までなら、こんな話を真顔ですれば都市伝説扱いだっただろう。
巨大な穴、その向こうに続く、地球とは思えない場所。
穴から現れる、見たことのない生物。
火を吐くもの。
電気を放つもの。
空を飛ぶもの。
人へ怪我をさせた個体もいれば、見た目の愛らしさからネットで妙な人気を集めている個体もいる。
呼び方すら統一されていない。
未確認生物。
異世界生物。
怪物。
新種。
穴から出てきた奴。
その程度だ。
「通信は?」
「まだ生きてる。ちょっと弱いけど」
「中継器様々だな」
入口から一定距離ごとに設置してきた簡易通信中継器のおかげで、配信は辛うじて続いている。
回線が完全に途切れれば撤退。
装備を失えば撤退。
どちらかが怪我をしても撤退。
戻る時間も決めてある。
何も考えずにここへ来たわけではない。
それでも、未知の向こう側を、自分たちの目で見たいと思ってしまった。
「あ」
ハルが足を止める。
「アオ、ちょっと待って」
「何?」
「前」
木々の向こう。自然の中には不釣り合いな、真っ直ぐな線が見えた。
灰色の細長い柱。
「寄れる?」
「今やる」
カメラがズームする。
柱の上部。
何か灯具のようなものが付いていた。
《街灯?》
《人工物じゃね》
《え》
《道ある?》
《マジ?》
「行こう」
「走るなよ」
「分かってるって」
口ではそう答えたが、自然と足は速くなった。
草を掻き分ける。
傾斜を上る。
木々の密度が少しずつ薄くなる。
そして、森が開けた。
「…………は?」
ハルは立ち尽くした。
その先に、
舗装された道路、街灯、看板。
住宅に店。
さらに奥には、複数階の大きな施設。
遠くには塔のような建造物まで見える。
日本の街並みとは違う。
建物の形も、道路の作りも、使われている色も、どこかずれている。
けれど、文明だ。
誰かが作り、誰かが使うための街。
「アオ」
「撮ってる」
「これ……街だよな」
「見れば分かる」
「いや、そうだけど!」
思わず笑いが漏れた。
怖いからではない。
抑えきれなかった。
「やばいって、これ!」
《街!?》
《は???》
《文明あるじゃん》
《異世界人いる?》
《世界初だろこれ》
《歴史変わるぞ》
《ニュース会社見てる?》
《これガチならとんでもない》
コメント欄が一気に速くなる。
文字が重なり、ほとんど読めない。
同時視聴者数も跳ね上がっていた。
「俺ら、とんでもないところ来たんじゃない?」
「たぶんな」
「たぶんじゃないだろ!」
ハルは笑いながら街へ向かった。
道路の脇には、読めない文字が書かれた標識が立っている。
「文字あるぞ」
「読める?」
「無理」
「俺も」
《解読班はよ》
《無茶言うな》
《現地人探せ》
《ファーストコンタクトくる?》
「そうだな。誰かいるかも」
そこまで言って、ハルは足を止めた。
「……ん?」
「どうした?」
何かがおかしい。そう感じた。
だが、すぐには何なのか分からなかった。
森と街の境目と足元を見る。
背後では緑色の草が風に揺れている。
なのにそのすぐ先、道路の脇へ生えている草は、灰色だった。
「アオ。足元映して」
「これ?」
カメラが下を向く。
境目は完全な直線ではない。
だが、確かに分かれ目があった。
こちら側の草は緑、数十センチ先。
街側へ伸びた葉は灰色。
風が吹いているはずなのに、少しも動かない。
《草、石じゃね?》
《後ろ揺れてるのに前動いてない》
《これ境目ある?》
《街路樹も色おかしい》
ハルは顔を上げた。
道路沿いに並ぶ街路樹らしきもの。
全部、灰色だった。
幹だけではない。
枝も。
葉も。
葉先まで。
だが不自然なのは、葉の形だった。
風に押されたように傾いたまま、途中で止まっているように見える。
「……石?」
街へ一歩入る。
もう一歩、そこで気づいた。
風がない。
森の木々は揺れている。
葉が音を立てている。
だが、自分が立っている場所では何も動かない。
街路樹も、花壇も、路肩の雑草も。
全部。
「アオ」
「うん」
「ここ、風なくない?」
「……ないな」
先ほどまで飛び交っていたコメントが、少しだけ遅くなった。
《なんか嫌だな》
《森だけ生きてる》
《街側全部灰色じゃん》
《花も石だぞ》
コメントに言われ、確認するために花壇へ近づく。
花は確かに咲いていた。
いや、咲いた形で止まっていた。
花弁も茎も葉も、全部が石の色をしている。
ハルは触れなかった。
「街だけ……?」
「もう少し見る?」
「……うん」
二人は進んだ。
街は壊れていなかった。
むしろ整っている。
店の棚には商品が並んでいる。
飲食店らしき場所では、テーブルの上に食器が残っている。
開いたままの扉、道路脇に落ちた鞄。
倒れた乗り物、生活の途中。
そんな言葉が、一番近かった。
「人、いないな」
アオが言う。
「店にも?」
「いない」
「昼間だから……いや、さすがに変か」
さらに進む。
静かだった。
最初は風がないからだと思った。
でも、鳥の声もない。
虫の音もない。
足音以外、何も聞こえない。
森にいたときは、何かが鳴いていたのに。
街へ入った途端、生命の音が全部なくなった。
《右》
《ハル右》
《店の前》
《人いる》
「え?」
コメントに反応して振り向く。
いた。
人影。
店の前。
一人、立っている。
「人いるじゃん!」
思わず声が明るくなる。
「すみませーん!」
進みながら手を振る。
反応がない。
「Hello!」
「また英語?」
「何語か分からないだろ!」
五メートル。
三メートル。
近づいて、ハルの声が止まった。
「……え」
灰色だった。
服も、髪も。
顔も、肌も。
全部、人間の形をした、石。
いや、石像。
そう考えた方がまだ理解できる。
それなのに、表情が生々しすぎた。
何かを見上げている。
片腕が上がっている。
服の皺までそのまま残っていた。
《像?》
《待って》
《触るな》
《これ作り物?》
《戻れ》
ハルはコメントを見なかった。
ゆっくりと確認するために手を伸ばす。
肩へ触れ、その冷たさと硬さを指先から感じた。
試しに指先で押しても、何も変わらない。
「……これ、人……だよな」
アオから返事はなかった。
カメラが僅かに揺れた。
ハルは顔を上げる。
道路の反対側にも灰色の何か。
一人。
その向こうにも。
もう一人。
「……待っ、待って……」
街灯だと思っていた。
看板だと思っていた。
ただの街の景色だと思っていた灰色の輪郭。
違った。
人だ。
買い物袋を持っている。
店の中で立っている。
走っている途中の姿勢で固まっている。
子供を庇うように身体を屈めた人もいる。
空を見上げた人も。
誰かへ手を伸ばした人も。
「シロ」
「……うん」
「これ、一人じゃない」
《後ろにも》
《公園》
《左の店》
《嘘だろ》
公園を見た。
人がいる。
子供も、大人も。
ベンチに座った老人。
その足元には、小さな灰色の生き物がいた。
「これ……」
ハルは近づく。
人間ではない。
四本足、丸い胴体、耳らしきもの。
ニュースで見た未知生物と、どこか似た雰囲気がある。
それも、石だった。
《これ穴から出てきてる生き物じゃない?》
《似てる》
《人の横にいる》
《飼ってた?》
少し先、子供と向き合ったまま固まっている小型の生物。
店の奥には、人間と並んで何かを運んでいたらしい個体。
道路には翼を広げたまま石になった鳥型の生物。
人間の足元にも。
隣にも。
すぐそば、離れていない。
「……一緒に暮らしてた?」
ハルが呟く。
《人間と共存してた?》
《じゃあ今こっちに出てきてる奴らって》
《この世界の生き物なのか》
《全部石になってる》
ハルは、端末を見る。
同時視聴者数は増えていた。
なのに、コメントはさっきより遅い。
顔を上げる。
全てが、灰色。
全てが同じ色。
「……この辺だけか?」
シロがカメラを遠くへ向けた。
街の中心方向。
少し高い場所へ続く階段がある。
「上、行く?」
「……行こう」
《もう戻れ》
《十分だろ》
《危ない》
《帰れ》
ハルは、返事をしなかった。
二人で階段へ向かう。
途中にも石になった人がいた。
最初はいちいち足を止めていた。
もう一人ずつ立ち止まらなかった。
立ち止まれなかった。
階段を上る途中で、ハルは何気なく街の向こうを見た。
足が止まりかける。
「……アオ」
「何」
「あれ」
指を向けられ遠景を見つめる。
おかしい、本来なら街の先には何かが続くはずだった。
郊外や山。
若しくは森か海か。
何でもいい。
地平線というものがあるはずだ。
ない。
遠くの建物、道路、街の端。
それらがある地点から先で、黒紫色の空間へ溶け込むように途切れている。
霞んでいるのではない。
暗くて見えないのでもない。
その先に何かがあるように見えない。
《街の向こう何?》
《地平線なくない?》
《あれ空?》
《壁みたい》
《何これ》
ハルは、答えられなかった。
太陽のない空。
滲む虹色の光の空。
街の向こうにも、それと同じものが広がっている。
上だけではない。
街と、その周辺だけが。
何か大きなものの中へ閉じ込められているように。
「……行こう」
乾いた声でそれしか言えなかった。
階段を上る。シロの返事はなかった。
ただ、足音は付いてきた。
最後の段。
高台へ出る。
街全体が見えた。
「…………」
灰色。
灰色。
灰色。
街のあらゆる場所に、止まった生命がある。
数えるなんて、最初から無理だった。
広場にも、道路にも、建物の窓の向こうにも。
人と。その隣にいた生き物と。植物と。
全部が、石のまま、動かない。
そして、その街の向こう。
世界が続いているようには、見えなかった。
その先というものが、どこにも見当たらない。
《…………》
一つだけコメントが流れた。
長く残る。
《これ街全部?》
次。
《街の向こう何?》
また間が空く。
《あれ空なの?》
同時視聴者数は、ずっと増えていた。
なのに、誰も書かない。
数え切れない人間が、この映像を見ている。
それでも画面の文字は、すぐには流れていかない。
《帰れ》
しばらくして。
《もう十分だ》
それきりだった。
ハルは端末を見ていなかった
配信中であることさえ、頭から抜けていた。
隣でアオも何も言わない。
カメラだけが世界を映している。
石になった街と、その街で暮らしていた人々。
人間のそばにいた、名前も知らない生き物。
それらを囲むように広がる、どこにも続いていない空間。
まるで、何もかが、生命の流れを喰らったように。
ハルは誰に言うでもなく、呟いた。
「……なんだよ、これ」
シロは答えなかった。
カメラだけが、石になった街と、その向こうにある何もない空間を。
次回更新は早くても日曜時に出来たらいいな。