魔法少女リリカルなのはStrikerS ~STAR HAWK:Lone Flight~ 作:マジフジ
そして、長い眠りから目を覚ました愛機――ブルー・メテオがついに再び空へ。新たな居場所を得ようとする少女と、相棒の帰還を待ち続けた男。それぞれの時間が、静かに動き始める。
朝は静かに始まった。
目を覚ますたび、身体の奥に鈍い重さが残っている。激痛ではない。だが、数日前まで凄惨な戦場にいたという硬質な事実だけが、皮膚の内側にじわりと沈殿していた。
視界に広がる無機質な白い天井、一定の間隔で時を刻む医療機器の電子音、鼻腔を突く特有の消毒液の匂い。目を閉じても、そこが病院の凍りついた一室だと嫌でも理解できた。
ゆっくりと上体を起こし、プロの習性として己のコンディションを冷徹にチェックしていく。指先、腕、肩。骨に異常はない。脱臼した箇所も嵌まり、呼吸の拍動も安定している。爆風による熱傷や打撲痕は生々しく肌に残っているが、戦闘不能には程遠い。数日もあれば完全に元へ戻るだろう。
「……問題なし、か」
ホークはベッドから床へ、冷えた足を下ろした。退院許可の電子承認はすでに下りている。手続きを終えれば、いつでもこの檻を出て動ける。扉の向こう、廊下を行き交うスタッフのせわしない足音を聞きながら、彼は不穏な余韻を残す新たな一日を、無表情に受け入れた。
――同時刻、同じ病院の別フロア。
朝陽が容赦なく差し込む窓辺に、保護されたばかりのヴィヴィオがぽつんと佇んでいた。空をあてどなく流れる白雲を見つめる瞳は、しかし、どこか落ち着かない。何かを待ち、同時に取り返しのつかない何かを恐れるように、その小さな手は胸元の衣服をきつく握りしめていた。
「ヴィヴィオちゃん、お熱測りましょうね」
看護師の穏やかな声音に、少女の華奢な肩がびくりと小さく震える。張り詰めた過剰なまでの警戒心。だが誰もそれを責めず、「もう大丈夫」という無害で、どこか空々しい言葉を繰り返すだけだった。
その時、半開きになった病室の扉の向こうを、青い制服を纏った管理局員が横切った。ヴィヴィオの身体が、本能的な恐怖によって反射的に強張る。人影はこちらを見ず、ただ冷淡に通り過ぎていく。少女は息を止めたまま、その背中が廊下の角へ見えなくなるまで、凝固したように視線を外し忘れていた。
数時間後。ホークはすでに機動六課・執務フロアの自席に腰を据えていた。
傷を覆う包帯は最小限に留められ、実務への支障はない。ロスした数日を物理的に取り戻すように、彼の指先は吸い付くように高速でキーボードを叩き続けていた。分析装置のコンソールを叩き、地下での詳細な戦闘ログを確認していく。
データ、機動ログ、敵性反応の数値。すべては整然とソートされているが、その無機質な文字列の並びには、どれも決定的に足りていない歪な違和感があった。
「……妙だな」
ぽつりと、乾いた言葉がこぼれる。まるで事件の核となる最も重要なピースが、何者かの手によって意図的に隠されているような、不気味な空白。そのとき、コンソールに優先割り込みの通信が入った。
『ホーク、退院したんだって? 無茶はダメだよ』
スピーカーから響いたのは、なのはの声だった。
「問題ない。すでに通常業務に戻っている」
『ならよかった。……あとで少し、話せる?』
「了解」
短いカットアウト。それ以上の不要な雑談はない。それこそが、この張り詰めた部隊における、あまりに合理的な日常だった。
午前の業務は、機械の歯車のように淡々と消化されていく。報告書の電子的処理、散らばる情報の整理、簡易戦術ブリーフィング。スターズとライトニングが交互に前線と執務室を動き、ロングアーチからの戦況情報が淀みなく流れ込んでくる。戦闘直後の切迫した緊張は、いまだ空気の底に澱のように残っている。それでも、機動六課という組織は止まらない。
次の過酷な任務へ。そのための静かな日常が、再び回り始めていた。
その中で、ホークは一度だけタイピングする手を止めた。視線の先にあるのは、共有端末のメインモニターに不気味に表示された最新の解析データだ。
戦闘機人と分類された未知の対象群。それは単なる肉体強化でもなければ、既知の魔力理論によるものでもない。全く別の、未知の系統――だが、単なる偶発的な異常個体ではない。その裏には、明確に体系化され、洗練された軍事技術の冷酷な匂いが立ち込めていた。
「……観測優先、か」と、ぽつりと小さくぼやくようにこぼす。
結論を出すのはまだ早い。今はただ、偏見を排してログを淡々と蓄積する段階だ。画面を閉じかけたその時、静寂を破るように、システムから短い通知音が鳴り響いた。
『部屋まで来てくれるかな?』
差出人は高町なのは。先ほどの通信の続きだろう。
「……呼び出しか」
ホークは椅子から立ち上がった。新たな任務か、あるいは先日の戦闘に関する追加報告か。どちらにせよ、なのはが回りくどい真似をするタイプではない。報告書を抱えて走る隊員たちや、ロングアーチからの通信を捌くオペレーターの喧騒を縫うようにして、ホークは廊下へ歩を進める。
その視線は周囲を捉えつつも、焦点は頭の中のデータに合わされていた。個体差ではない。偶発にしては出来過ぎている。状況証拠は限りなく黒だが、確証にはまだ遠い。だが、警戒する価値は十分にある。
思考を巡らせながら廊下の角を曲がり、なのはの部屋の前に立つ。軽くノックを二回響かせた。
「入るぞ」そう言いながら、返事を待たずに扉を開ける。
室内にいたのは高町なのは、フェイト・T・ハラオウン、八神はやて。そしてスバルたちフォワード陣の全員。その中心に、小さな影がひとつ――ヴィヴィオだった。
ホークの視線が、一瞬だけ止まる。
少女はなのはの背後に隠れるように立ち、こちらをじっと見つめていた。昨日ほどのパニックはないが、警戒の色は依然として濃い。ただ――視線だけは、もう逸らさなかった。
「呼び出してごめんね」なのはが柔らかく微笑む。
「ヴィヴィオのこと、少しだけ話しておきたくて」
「了解だ」
ホークの低い声にヴィヴィオの肩が一瞬だけ揺れたが、今回は泣き出さなかった。室内に満ちているのは、戦場の張り詰めた空気ではない。周囲の大人たちが意図的に作り出している、優しく、けれど壊れやすい緊張感だった。
ヴィヴィオは一歩だけ後ろへ下がり、なのはの服の裾を小さな手でぎゅっと握りしめている。怯えて逃げ出すことはしない。しかし、ホークとの距離を詰めるつもりも一切ない。ただ、「自分たちを命懸けで守ってボロボロになった男」の正体を確かめようとするかのように、まっすぐにホークを射抜いていた。
ホークはすぐに言葉を発しなかった。数秒の間、ただ冷徹に少女を観察する。それは戦場での敵性評価でも、訓練での査定でもない、不器用な彼なりの、日常生活における情報処理だった。
「……昨日よりは、マシか」ぽつりと、落とすような呟きだった。
ヴィヴィオの肩が微かに跳ね上がる。スバルが小さく息を呑み、ティアナが視線でそれを制した。エリオとキャロの間にも一瞬の緊張が走る。だがホークは意に介さない。ただ眼前の事実をそのまま言語化しただけだ。
「うん。少しだけね」なのはが苦笑交じりに応じる。
「なら問題ない。進展している」ホークの淡々とした声が落ちる。
しかし、不思議と冷たさはなかった。評価ではなく、ただの確認。ヴィヴィオはその会話をじっと聞いていた。言葉の意味は分からずとも、この男が自分を脅かす存在ではないことを、少女は本能的に理解し始めていた。
沈黙が落ちる。その間を埋めるように、八神はやてが軽く手を叩いた。
「ほな、説明いこか。ヴィヴィオのこと、みんなでちゃんと共有しときたいんや」
はやての一言で、室内の空気が「仕事」のそれへと一気に切り替わる。ホークが小さく頷いて視線を外すと、少女の瞳が一瞬だけその背を追った。恐怖ではなく、測りかねるような距離感。近づいていいのか、離れるべきなのか。まだ、幼い彼女には判断がつかないのだ。
なのはとフェイトが、ヴィヴィオの現状と保護にいたる経緯を淡々と、しかし優しく語り終える。フォワード陣が静かに情報を咀嚼する中、フェイトがヴィヴィオの頭にそっと手を置き、本題を告げた。
「しばらくの間――この子の面倒を、私たち六課で見ていくことになると思う」
スバルが目を丸くし、ティアナがわずかに息を呑む。エリオとキャロが顔を見合わせた。誰もが言葉を詰まらせる中、ホークだけは即座に、反応のディレイを最小限にして応じた。
「了解した」
余計な感情も、詮索もない。ただ事実として受領する、極短の一言。その声を聞いた瞬間、ヴィヴィオの小さな肩から、ほんの少しだけ余計な力が抜けた。それに気づいたのは、なのはとフェイトの二人だけだった。
「よし、ほな改めて詳細の整理に移るで」
はやての冴えた声が、さらにもう一段階、全員の姿勢を正させる。スバルは真剣な表情を宿し、ティアナは視線を鋭く整え、エリオとキャロも静かに頷いた。
ホークもまた、思考のベクトルを机上の資料へと落とす。ヴィヴィオを中心とした私的な空気は完全に後景へと退き、そこには戦術部隊としての「会議」だけが残された。任務としての保護。そのためのロジックと実務が、淡々と処理されていく。
――そして、すべての議題が一段落した、その瞬間だった。
「よし、ここまでにしよか」
はやてが軽く手を打ち、長かったミーティングに区切りをつけた。同時に、張り詰めていた緊張の糸がわずかに緩む。報告内容の整理、共有事項の確認は一通り終わった。あとは現場側の領域だ。
「午前の分はここまでやな。あとは各自、引き続き対応頼むで」
はやての言葉とともに、椅子が軋む音が重なった。スバルが小さく息を吐き、ティアナが手際よく資料を揃える。エリオとキャロも立ち上がり、なのはの背後にいるヴィヴィオへ優しく視線を投げかけた。その退室の流れの中で、ホークは一度だけ視線を上げる。
「昼はどうする」
誰にというわけでもない、いつも通りの淡々とした問い。だが、その一言が、部屋に残っていた仕事の空気を綺麗に払拭した。
「あ、じゃあ一緒に食堂行きますか?」
スバルが即座に反応する。こういう話題への食いつきは抜群に早い。
「……別に、構わないわよ」
ティアナはやや間を置いて答えたが、その声に拒否の色は微塵もない。エリオとキャロも嬉しそうに小さく頷いた。ホークはそれを見届けると、短く鼻を鳴らした。
「了解だ。ならそのまま行く。たまにはいいだろ」
本局の食堂は、すでに昼の混雑のピークを迎えていた。管理局員たちが各々のトレイを持ち、活気ある喧騒がフロアを埋めていく。その中で、ホークたちは比較的空いた窓際の一角へと滑り込んだ。席についた瞬間、スバルが勢いよくメニューを広げて目を輝かせる。ティアナはその横で呆れたようにため息をひとつ。エリオとキャロは少し控えめに、周囲の様子を窺いながらトレイを置いた。ホークはいつも通りの無表情で椅子に腰を下ろす。
「……昼もどうにも落ち着かんな」
戦場とは違うベクトルのにぎやかさに、小さく呟いたその声は喧騒に消えた。だが、その瞬間だった。
「おーい、お前ら揃ってメシか。混ぜろよ」
軽い調子の声とともに、トレイを片手にしたヴァイスが遠慮なく割り込んできた。
「ヴァイスさん!」スバルとエリオがほぼ同時に声を弾ませる。
「おうおう、戦場じゃねえんだ、昼メシくらい気楽にいけよ」
ヴァイスはそう言いながら、ホークの隣の空席へ勝手に腰を下ろした。そして、注文した定食に箸をつけながら、何気ない調子で爆弾を投下した。
「つーかさ、お前らも、もうこいつのこと呼び捨てでいいぞ」
カツン、とティアナのフォークが皿に当たる音がした。スバルが箸を持ったまま固まり、エリオとキャロも動きを止めて視線だけを泳がせる。いくら同じ部隊とはいえ、常に一歩先を行く凄腕のホークに対し、新兵の彼らはどこか気後れしていた。当然のフリーズだった。
「え……それは、流石に……」
スバルが戸惑うように、隣のホークの顔色を窺う。当のホークは、特に表情を変えないまま淡々とパスタを口に運んでいた。
「気にするな。こいつ、オレのことも最初から呼び捨てだしな」ヴァイスが愉快そうに笑いながらホークの肩を小突く。
「違いない」ホークは視線すら上げずに即答した。
「そもそも、敬語という回りくどいのが苦手なのでな」
「ほれ、本人がこう言ってるんだ。お前らも遠慮すんなって」
ヴァイスが器用に指を鳴らしてフォワード陣を促す。スバルが一度ティアナを見た。ティアナはわずかに眉根を寄せ、前髪を気まずそうにかきあげた後、諦めたように息を吐いた。一、二歳しか年齢が変わらないのだ、いつまでも他人行儀なのも不自然だと彼女も思っていた。
「……まぁ、確かにその方が連携のラグが減ってやりやすいかもね」
真面目なティアナらしい言い訳を挟みながら、恐る恐るホークを見つめる。
「じゃあ……ホーク、でいいの?」ホークはフォークを動かしたまま、短く応じた。
「問題ない。むしろその方が助かる」
エリオとキャロも、そのやり取りにホッとしたように小さく微笑んだ。その瞬間、スバルの顔がぱっと明るくなる。
「じゃあ……ホークさん改めて……いや、ホーク!」
一度「さん」を言いかけて言い直す。その響きに、テーブルの上に少しだけ気恥ずかしくも新鮮な間が空いた。だが、ホークは何事もなかったように、いつものひねくれたトーンで返す。
「それでいい」
「ほらな、言っただろ」
ヴァイスが満足そうに胸を張る。スバルはまだ少し照れくさそうに頭を掻いていたが、ティアナは持ち前の気の強さですぐに順応してみせた。
「じゃあ、ホーク」
確かめるように、少し強い口調で呼んでみる。
「あ?」
即座に、いつも通りの不機嫌そうな返事が返ってきた。
「……っ、いや、別に用はないけど」
あまりにも自然に、対等な同世代の距離感で返されたせいで、逆にティアナが調子を狂わされて言葉に詰まる。そのわかりやすい動揺を見て、スバルが耐えきれずに吹き出した。
「あはは! ティア、今の絶対変な感じになってたでしょ!」
「うるさいわね! 新しいコールサインの馴染みをテストしただけよ!」
怒るティアナと笑うスバル。それを見守るエリオとキャロ。その騒がしい日常の光景を、ホークは相変わらず無表情のまま、しかし先ほどよりも少しだけ、パスタを咀嚼する速度を落として受け入れていた。
食堂の喧騒は相変わらずだ。任務の合間の休息。誰もが束の間の平穏を過ごしている。だからこそ、ホークはふと思った。
「スバル」
「ん?」
「ティアナ」
二人が同時に顔を上げる。ホークは少しだけ考えた後、静かに続けた。
「俺はお前らに命を預ける」
テーブルの空気が一瞬だけ凍りついた。スバルが目を丸くし、ティアナも思わず言葉を失う。エリオとキャロも同じだった。ヴァイスに至っては、何を言っているんだこいつ、という顔でホークを凝視している。
ホークは構わず続けた。
「撃墜された時に分かった」
視線は窓の外、遠い空へと向けられていた。彼なりの照れ隠しでもある。
「一人じゃ限界がある」
それはホークが自己分析の果てに導き出した、冷徹な反省と認識でもあった。
「だから、次は任せる」
それだけ言うと、ホークは再び食事へ戻った。あまりにも淡々としていた。まるで明日の天気でも語るような口調だった。
だが、その場にいた全員には分かった。それがホークなりの、最大限の信頼表現なのだと。この男が、不器用なくらい感情表現が下手くそなことも含めて。
スバルは数秒ほど固まった後――
「うん」とだけ、地声のトーンで答えた。「次は絶対、助ける」
その返事に、ホークは小さく頷いた。それ以上は何も言わない。しかし、それで十分だった。
昼食を終えた頃には、六課の慌ただしさも再びいつもの形へと戻っていた。短い休息は終わりだ。隊員たちはそれぞれの持ち場へと散り、食堂の喧騒も少しずつ薄れていく。
「じゃあ、午後も頑張ろっか」スバルが立ち上がりながら、大きく伸びをする。
「その前に、その眠そうな顔を何とかしなさい」
「してないって!」
即座に飛んでくるティアナのツッコミ。いつもの二人の、いつものやり取りだった。
ホークはそんな二人を横目にトレイを返却口へ運ぶ。その途中で、ふと気づいた。さっきまで感じていた食堂特有の騒がしさが、少しだけ心地よかったことに。理由は分からない。ただ、以前なら気にも留めなかったはずの光景が、今日は妙に印象に残っていた。
「ホーク?」
呼ばれて振り返る。
「午後の業務だけど――エリオとキャロはヴィヴィオの相手。私とスバル、それからあんたで事務処理よ」
ティアナの報告に、ホークは簡潔に返した。
「了解した」
だが、ティアナは少しだけ眉をひそめた。
「その返事、本当に理解してる?」
「している」
「絶対してないわね」
ティアナの即答に、横にいたスバルが吹き出す。
「ティア、もう分かってるじゃん」
「分かりたくないわよ」
そう言いながらも、ティアナの表情はどこか柔らかかった。
ホークはこれから始まるタスクを思い、小さく肩を竦める。自分がそれを苦手としていることは、誰よりも理解していた。要するに――エリオとキャロの分まで、自分たちがデスクワークを肩代わりするということだ。
自席に着席し、共有端末を起動する。次の瞬間、画面いっぱいに表示された未処理データの山を見て、ホークは無言になった。まだ始まったばかりだというのに、前線へ逃げ出したくなるほどの分量だった。
「多い……」
ぽつりと呟きながら、件数を確認していく。自分が戦線離脱していた間に溜まった分は勿論、ロングアーチからの照合作業。そして――エリオとキャロが未着手のまま残していった業務。昼食後からヴィヴィオの世話を担当している年少組二人の、未処理報告書のファイル群だった。
ホークは小さく溜息を吐きながら、それらを自身の作業領域へと追加した。
誰の耳にも届かないほど小さな声だった。
午後の業務が一段落した頃だった。共有端末のメインモニターへ、新しい通知が滑るように表示される。
『ブルー・メテオ最終調整完了』
その画面を見つめた瞬間、ホークの指先が完全に停止した。数十秒の間、彼はその文字列を凝視し続ける。
「やっと終わったか……待たせたな相棒」
小さく、だが熱を孕んだ声で呟き、ホークは静かに立ち上がった。その急な動きを察知し、スバルが顔を上げる。
「ホーク?」
「格納庫へ行く」
「え?」
「試験飛行だ」
極短の一言だけを残し、彼は執務室を後にした。胸の奥で加速していく高鳴りを、ホーク自身が一番自覚していた。この瞬間を誰よりも待ち望んでいたのは、他でもない彼だった。
本局の格納庫。
整備員たちが最終確認を終えたばかりの新型機が、重厚な沈黙の中でその全貌を晒していた。
それは、大型輸送機とも純粋な戦闘機とも異なる、あまりに先鋭的なシルエットだった。機首からキャノピーにかけては、風を鋭く切り裂くために多面体のクリスタルを思わせる硬質な装甲で構成されている。そして、その機体の左右に独立して配されたのは、蒼い魔力光を覗かせる大出力の推進バインダー。そこから前方へとナイフのように突き出された、幾何学的な前進翼――。洗練された幾何学の美しさと、猛獣のような凶暴さを一つの質量へと融解させたかのような、独自の設計思想。機動六課専用航空機――ブルー・メテオ。
「早速使うんだな」モニタールームでシグナムが小さく笑う。
「ホークらしいっスね。あいつの本質は、やっぱり生粋のパイロットだってことですよ」
隣でヴァイスも深く頷いていた。そこにはエリオとキャロに連れられたヴィヴィオの姿もあった。巨大モニターに映し出された未知なる蒼い質量を、年少組の二人は釘付けになって見つめている。ヴィヴィオもまた、瞬きすら忘れたように画面を凝視していた。
「主翼展開」
ブルー・メテオのコックピットに滑り込んだホークが、短くコマンド入力を完了させる。主翼の付け根に位置する一対の魔力慣性制御ユニットが、高周波の駆動音とともに発熱を始めた。折りたたまれていた鋭利な可変前進翼が、左右対称の美しい角度へとゆっくりと展開していく。完全にロックされた瞬間、ガチリ、という強固な固定音がパイロットの背中を介して機体全体へ伝わった。続いて、急加速時の衝撃を中和する反重力式の慣性中和デバイスが完全に同期を始める。
『システムオールグリーン』
『本局管制より発進許可。ブルー・メテオ、離陸どうぞ』
「来る……!」
スバルが思わずモニターへと身を乗り出す。格納庫の闇の中で静止していた蒼い機体が、タービン音を轟かせて出力を跳ね上げていく。
瞬間、機体後部のツイン・ノズルから爆発的な青白いプラズマの炎が噴き出された。空間の重力ごとねじ伏せるような圧倒的な推進力。ブルー・メテオは滑走路を猛烈な速度で駆け抜ける。そして――空へ飛翔した。
轟音を置き去りにし、蒼い前進翼が一気に大気へと踊り出る。夕日に照らされたその特異なシルエットは、まるで空の裂け目を走る一筋の流星のようだった。
「すごい……」
誰かの呟きが漏れる。スバルか、キャロか、あるいはエリオか。ティアナは息を呑んだまま画面を見上げていた。訓練校で数々の最新鋭機を見てきた彼女だからこそ、目の前の機体の異質さが理解できた。既存のどの魔導航空機とも性質が違う。
あれは、まるで魔導師そのものが鋼鉄の翼を得たかのような、規格外の怪物だ。ヴィヴィオだけはただ、その光景に圧倒されるように画面を見つめ続けていた。
「……きれい」
誰の耳にも届かないほど小さな声だった。けれど、その瞳だけは確かに、夕闇の彼方へと消えていくブルー・メテオの蒼い残光を追い続けていた。
保護されて以来初めて、ヴィヴィオが自分から何かに純粋な興味を向けた瞬間。その微かな変化に気づいたのは、背後に立つシグナムとヴァイスの二人だけだった。
「こちらホーク。フライト面、挙動テストともに問題ない」
一通りの急加速、急停止、そして限界精度の宙返り動作を確認したホークから、クリアな通信が入る。
『機関部異常なし。推力系統正常。――ブルー・メテオ、これより実戦投入可能だ』
スピーカーから流れる、いつも通り冷徹なホークの声。だが、ヴィヴィオはその言葉の意味を聞いてはいなかった。小さな瞳はただ、流星のように空を切り裂いていく蒼い機体だけを捉えている。そこにはかつての恐怖も不安もない。ただ、凍りついていた少女の心を外の世界へと繋ぎ止めるには、夜天を拓く一筋の光だけで十分だった。
「……のってみたい」
ぽつりと、やはり誰の耳にも届かないほど小さな声だった。けれどその紡がれた言葉を、隣にいたキャロだけは見逃さなかった。
「えっ?」
キャロが驚いて見つめると、ヴィヴィオは慌てて両手で自分の口を押さえる。だが、どうしてもモニターから視線を離そうとはしない。その健気な様子を、シグナムが愛おしそうに目を細めて見つめていた。
「どうやら、あの偏屈な相棒も気に入られたらしいな」
「パイロット冥利に尽きるだろうよ。あの頑固者め」
ヴァイスが肩をすくめて笑う。蒼い機体は夕空の彼方へ消えていく。その消えない軌跡をなぞるように、ヴィヴィオの瞳もまた、夕闇のグラデーションを見つめ続けていた。
上空数千フィート。ブルー・メテオは未だに、燃えるような夕空を爆走していた。
操縦桿から掌に伝わるダイレクトな感触。スロットルを押し込んだ瞬間に、機体全体が咆哮を上げて即座に返してくる質量反応。網膜を矢のように流れていく赤銅色の雲の塊。どれも、久しく忘れていた本物の感覚だった。
地上任務が増え、機動六課へアサインされ、戦闘機人との泥沼の夜戦に身を投じるようになってからも、魔導師としての飛翔はいくらでも行ってきた。だが、それは自らの身一つで重力に抗う飛行だ。今こうしてコックピットの機密空間に収まり、鋼鉄の機体と神経をリンクさせて大気を切り裂く感覚とは、根本からベクトルの異なる歓喜だった。
「……やはり、これだな」
思わず、乾いた唇から本音が漏れた。誰に聞かせるわけでもない、祈りにも似た独り言。
ブルー・メテオが意思を持つかのように、軽やかに機首を傾けた。夕日を反射した蒼い装甲が、空の中で瞬だけ鋭く明滅する。本当に久しぶりに、自分は相棒と共に空を飛んでいる。ただその事実だけで、ホークの凍りついた内面を満たすには十分だった。
一方、モニタールームの前では、ヴィヴィオがまだ微動だにせず画面の中の空を見上げていた。蒼い流星の残光――この場の誰よりも真剣な、何かに取り憑かれたかのような瞳。
「……のってみたい」
今度は、先ほどよりも少しだけ、確かな芯を持った声だった。少女の小さな呟きは、朱色に染まる広大な格納庫の静寂へと、吸い込まれるように溶けていった。
空の彼方、極点に達したブルー・メテオが、翼端から光の尾を引いて大きく旋回する。
「帰るか」ホークが冷徹に操縦桿を引き絞った。
蒼い前進翼は夕陽を背に受け、機動六課へ向けて帰還の進路を取る。その行く手に待つ、新たな激戦の予兆を――この時の彼は、まだ知る由もなかった。