魔法少女リリカルなのはStrikerS ~STAR HAWK:Lone Flight~ 作:マジフジ
そんな二人に、なのはから臨時の模擬戦が告げられる。過去を知る者同士だからこそ譲れない一戦が、ついに幕を開ける。
朝の機動六課は、今日も変わらず規則正しく動き始めていた。
夜明けとともに始まる各部隊の自主訓練。ロングアーチでは一日の任務予定が分刻みで整理され、格納庫では整備員たちが忙しなく機材の最終確認を行っている。
そんな張り詰めた朝の空気の中、訓練場へ集まっていたのは、スターズ分隊、ライトニング分隊、そして隊長陣と副隊長陣だった。
だが、いつもの朝とは、一つだけ明確に違う点がある。
整列したフォワード四人の前には隊長陣と副隊長陣、シャーリー、そしてホーク。その隣にはマリエル・アテンザ、そして――ギンガ・ナカジマの姿があった。
「陸士一〇八部隊のギンガ・ナカジマ陸曹が、今日からしばらく六課に出向になります」
なのはが穏やかな声で、全員に彼女を紹介する。
「陸士一〇八部隊、ギンガ・ナカジマ陸曹です。よろしくお願いします」
スバル、ティアナ、エリオ、キャロへ向けて、美しく統制された動作で敬礼しながらギンガが言った。新人四人もまた、それに応じて改めて背筋を正す。ギンガは一人一人へ丁寧に視線を向け、優しく小さく会釈した。
「……まさか、お前が来るとはな」
腕を組み、薄く目を閉じたホークが、ぽつりとギンガのすぐ隣でこぼした。
ギンガもその声に気づき、ホークへと向き合う。数秒の間、二人の間に沈黙が落ちた。士官学校時代の反発、その後の逃亡生活、何度も最前線で交差した戦場、追う者と追われる者。二人の共有する過酷な記憶が一瞬だけ胸をよぎるが、それもすぐに消え去った。
「私もそう思ったわ」
ギンガは静かに答えた。その表情はどこか穏やかなものだった。
以前の二人なら、ここで一触即発の睨み合いになっていただろう。どちらかがトゲのある言葉で挑発し、どちらかが冷徹に言い返していたはずだ。だが、今は違う。すでに二人は一度、共闘を経ている。互いに命を預け、命を救われた。ただそれだけの事実が、かつての敵対関係とはまるで違う、確かな信頼の距離をそこに作っていた。
なのはとフェイトはそんな二人を見比べ、小さく安堵したように息を吐く。まだすべての問題が解決したわけではない。だが、この二人ならもう大丈夫だという、そんな確信が胸のどこかにあった。
ギンガとマリエルの紹介が一段落した後、各部隊の午前訓練へと移行した。
ティアナは突撃型魔導士への対処法をヴィータから叩き込まれ、ライトニング部隊の二人はフェイトの下で高度な空中機動の指導を受ける。ギンガとスバルの間では、妹の成長を確かめるための軽い模擬戦闘の準備が始まりつつあった。
その熱を帯びていく空気の中で、一人だけ完全にその流れを無視した男が、あっさりと踵を返した。
「じゃ、俺は行く」
「え?」
スバルが不思議そうに振り返る。ホークは親指だけで、はるか奥にある格納庫の方角を指し示した。
「飛行データの更新日だ。朝から空を飛んでくる」
言い終えるより早く、彼は迷いのない足取りで歩き始める。だが、途中で一度だけ足を止め、肩越しに不器用な視線を振り返らせた。
「朝練、頑張れよ」
軽く右手をひらひらと振りながら、ホークは言い残す。
それだけを置いて歩き去っていく彼の背中を見送りながら、ギンガは小さく息を吐き出した。
「……相変わらずね」
ぽつりと漏れたその一言に、なのはとフェイトが顔を見合わせ、楽しそうに小さく笑う。
「そこは、本当に何一つ変わってないかな」
フェイトの苦笑に、周囲の隊員たちもつられて笑みを浮かべた。
その頃には、ホークはすでにマリエル、シャーリーと合流し、格納庫へと向かう通路を歩いていた。
マリエルの視線は、自然と格納庫の最奥に位置する専用ハンガーへと向けられる。幾重もの重厚な安全シャッターによって厳重に防衛された特区。そこには、時空管理局の技術者たちの間で、都市伝説のように噂だけが独り歩きしていた規格外の一機が、静かにその翼を休めていた。
機動六課管理下で運用されている唯一無二の戦闘機――『ブルー・メテオ』。
かつては違法改造機体として管理局の防空網を幾度となく翻弄し、『蒼い流星』の異名で畏怖された伝説の機体。マリエルも事前に整備記録にはすべて目を通し、その狂気的とも言える設計思想は頭に叩き込んできた。だが、実物をその目で目にするのは、今日が人生で初めてだった。
技術者としての知的好奇心と胸の高鳴りを、どうしても抑えきれない。
専用ハンガーの照明を受けて、鈍く深い光沢を放つ蒼い多面体装甲。風を鋭利に切り裂くために限界まで絞り込まれた流線形の機首。そして、幾何学的な可変前進翼。
ミッドチルダの一般的な飛行デバイスとは、根本の文脈からしてまるで異なる設計思想。
それは、ただ大気圏内を飛ぶための道具などではなかった。大気と重力、そのすべてを自らの力で支配するために作られた、鋼鉄の翼そのものだった。
「……これが」マリエルの声が、感嘆とともに思わず漏れた。
「写真で見ているのとは、全然違いますよね」
横からかけられた声に、シャーリーが小さく笑いながら応じる。
マリエルは黙ったまま深く頷いた。ただそこに存在するだけで、周囲の空間を圧倒する質量。照明に浮かび上がるその姿は、大気圏の最上層で鋭く翼を休める猛禽そのものだった。
「準備はできている」
ホークは迷いのない動作でキャノピーを開け、コクピットへと滑り込んだ。
整備員がマスターロックを解除すると、重低音の駆動音が格納庫の床を微かに震わせる。反重力式の慣性制御ユニットが即座に同期し、機体がゆっくりと浮上した。静かな、しかし寸分のブレもない挙動。その浮上だけで、機体の驚異的な軽量さと完成度の高さが嫌というほど伝わってくる。
「相変わらず、完璧なホバリングね……」シャリオが感心したように呟いた。
発進用電磁レールへと滑るように移動したブルー・メテオの前方で、管制用の許可灯が鮮やかな青へと切り替わる。
『本局管制より、ブルー・メテオ、発進許可』
「了解」短い受領。
次の刹那、爆音という名の轟声が格納庫を激しく揺るがした。蒼い機体は一筋の光子と化して射出口を駆け抜け、朝焼けの空へと一気に飛翔していった。
一方、機動六課の屋外訓練場。なのはが開始の合図を出そうとした、まさにその時だった。
「あれは……」誰よりも先に、フェイトが鋭く空を見上げる。
続いてなのは、ヴィータ、そして新人四人も一斉に視線を天へと向けた。
はるか高高度。大気の防壁を切り裂くように、蒼い一筋の流星痕が、朝空を一直線に駆け抜けていく。
「来たわね」ギンガが小さく笑う。
ブルー・メテオは垂直に近い角度で高度を稼ぐと、頂点でエネルギーの慣性をねじ伏せるように機首を返した。速度を一切落とさず、失速の兆候すら見せない。蒼い機体は空中でき綺麗な弧を描き、大きく一回転してみせる。
「すごっ!」スバルが思わず大声を上げた。
だが、彼のフライトはそれだけでは終わらない。
宙返りの重力反転から流れるように超音速旋回へと移行し、その勢いのまま左右へ鋭いロール。一回転、二回転、三回転。限界精度の連続バレルロールが繰り出される。これほどの超高速回転を維持しているにもかかわらず、その機動のグリッドは微塵も乱れない。ただ、幾重にも重なる青い飛行機雲だけが、朝空のキャンバスに美しく描かれていく。
「……あの頃より、ずっと上手くなってる」ギンガは眩しそうに目を細めた。
指名手配犯として彼を追い回していた逃亡生活時代、何度もその空を飛ぶ姿は見てきた。だが、今は違う。誰かから必死に逃げるためのフライトでもなければ、撃墜されることを恐れる飛行でもない。ただ純粋に、相棒とともに飛ぶことを楽しんでいる。空そのものが彼の遊び場になったような、圧倒的に自由な飛び方だった。
「朝練っていうより……」なのはが苦笑する。
「趣味だね、あれは」フェイトも思わず優しい笑みを浮かべた。
「チッ、飛んでる時だけは本当に別人だな、あの野郎」ヴィータが呆れたように肩を竦める。
はるか上空。ブルー・メテオは最後に大きく翼を翻すと、そのまま雲の向こうへと姿を消した。 再び、静けさが訓練場へと戻ってくる。なのはが一歩前へ歩み出た。
「それじゃあ、今日は予定通り訓練を始めようか」
隊長陣の号令とともに、それぞれのメニューが動き出す。新人たちは汗を流し、隊長陣はその動きを鋭く見守る。その間も、時折雲の切れ間から、あの蒼い軌跡だけが牙のように姿を覗かせていた。
空を裂くように奔るブルー・メテオ。一瞬だけ見えたかと思えば、次の瞬間には雲の向こうへと消え去る。だが、もう誰もそれを見上げ続けることはない。機動六課という特殊部隊においては、あの気紛れな青い軌跡さえも、日常の一部になりつつあった。
午前中の訓練が一段落つく頃には、朝の日差しも少しずつ強さを増していた。
荒い呼吸を整え、冷えた水分を補給していく新人たち。ギンガもタオルで額の汗を拭きながら、スバルと楽しそうに言葉を交わしている。なのはは全体の状況を端末で確認し、ヴィータはティアナへ短く鋭い助言を送る。フェイトもまた、エリオとキャロへ細かな魔力循環の修正点を伝えていた。
その時だった。
遠くの空から、重厚なジェット駆動音がゆっくりと近付いてくる。
誰よりも先に、フェイトが鋭く天を仰ぎ見た。蒼い機体が高度を滑らかに落としながら、機動六課の専用格納庫へと滑り込んでいく。爆音は数秒で完全に停止し、辺りには再び静寂が戻った。
それから数分後。訓練場へと続く通路から、一人の男が歩いてきた。首元のボタンを少し緩めた、いつもの着崩した制服姿のホークだった。
「お疲れさん、空から見てたぜ。やるな、お前ら。見違えたぞ」
そのぶっきらぼうな一言だけで、過酷なメニューに疲れ切っていたスバルが、少しだけ嬉しそうに笑う。
「見てたなら助けてよー!」
「甘えんな。隊長様たちに直接鍛えられる機会なんざ、そう何度もねえんだよ」
肩を竦めながら返すホークの口調は、どこまでも軽かった。だが、その言葉の端々には、前線経験者なりの重い実感が滲んでいた。
その態度に、ギンガも小さく頷く。士官学校時代、誰よりも過酷な実技を好み、実力のある相手との戦闘訓練だけは誰よりも楽しんでいた男。限界まで己を追い込むその本質は、結局のところ何一つ変わっていなかった。
「反省点は、各自ちゃんとまとめておけよ。後でレポート提出だからな」
訓練を終えたヴィータが、新人たちへ容赦なく次の課題を告げる。
「反省レポートか。相変わらず厳しいな……チビ隊長も」
その呟きを聞き逃さなかったヴィータの拳が、すれ違いざま、ホークの頭へと容赦なく振り下ろされた。
「誰がチビだ、このバカ鷹ぁっ!!」
「ってぇ!」
鈍い衝撃音とともに、ホークが頭を押さえて顔をしかめる。
「減らず口だけは、昔から一ミリも進歩しねぇな、お前は!」
「朝から元気で何よりだ」
「ほざけ! 口が悪い時点で、十分反省対象だ!」
もう一発振り上げられた小さな拳を、ホークは半歩だけ身を引いて軽がるとかわしてみせる。
その一連のやり取りに、ティアナが思わず吹き出した。スバルに至っては腹を抱えて笑い転げ、ギンガも肩を小刻みに震わせていた。
「また始まった……」
「六課のいつもの日常ね」
ティアナは笑いをごまかすように、呆れたふうを装って小さく肩を竦めた。なのはとフェイトも互いに顔を見合わせ、楽しそうに笑みを交わしていた。
その時だった。
「なのはママー!」
訓練場の入口から、愛らしい小さな声が響き渡る。保護されたヴィヴィオだった。その後ろからは、守護獣のザフィーラが静かに付き添っている。
ヴィヴィオは元気いっぱいに小さな手を振ると、一目散になのはの元へと駆け出した。
「おはよーございます!」
途中でシャリオとマリエルを見つけると、ヴィヴィオは一度だけトットと足を止め、ぺこりと丁寧に頭を下げる。
「おはよう、ヴィヴィオ」
「おはようございます」
二人が笑顔で返すと、ヴィヴィオは嬉しそうに頷き、再び走り出した。
「なのはマ――」
だが、小さな足が、芝生の段差へと不意に引っ掛かった。
「あっ」
少女の身体が、そのまま前方へと派手に倒れ込む。一瞬だけ、訓練場全体の空気が静まり返った。
「う……」
大きな瞳に、みるみるうちに涙が浮かんでいく。
「うぇぇぇん……っ」
次の瞬間、切ない泣き声が辺りに響き渡った。フェイトが反射的に、救いの手を差し伸べようと一歩踏み出す。
だが。
「フェイトちゃん」
なのはがそっと静かに腕を伸ばし、その前進を制止した。フェイトは思わず足を止める。
ヴィヴィオは涙をボロボロと溢れさせながらも、小さな手のひらで泥まみれの地面を押し、自分の力で立ち上がろうともがいていた。何度も踏ん張る。それでも、痛みのせいで涙は止まらない。
その健気な姿を見つめていたフェイトは、小さくため息を吐くと、
「……やっぱり無理」
そうぽつりと呟いて、なのはの制止を振り切って駆け出していた。
「ヴィヴィオ、痛かったね。もう大丈夫だよ」
フェイトは愛おしそうに少女の身体を優しく抱き上げる。
「……うん」
フェイトの温かい肩へと顔を埋めると、ヴィヴィオは心底安心したように、声を上げて泣き続けた。
「フェイトママは甘すぎだよ」なのははその様子を見て、小さく笑う。
「なのはママは厳しすぎです」と、フェイトが返す。少し離れた場所で、その光景を眺めていたホークが肩を竦めた。
「……どっちも甘いが……執務官様は飛び抜けて甘いな……」
ホークがそう言い終えた瞬間、頬に痛みが走る。気付けばフェイトが素早く頬をつねっていた。
「いつも言ってるよね? ちゃんと着なさいって」
さらに指先へ少しだけ力が込められる。
「痛て……話、ズレてねぇか」
「ズレてない」
即答しながら、フェイトは器用にヴィヴィオを抱きかかえたまま、ホークの開いた襟元を整え、ネクタイを一気に引き上げた。
「離せ、周りが見てるだろ。恥ずかしい」
「なら最初からちゃんとして」
その微笑ましいやり取りに、スバルたちからどっと笑い声が上がる。ギンガも思わず肩を小刻みに震わせた。
「昔から世話を焼かせるんだから……」
フェイトが誰へともなく漏らしたその一言に、なのはは優しく微笑んで静かに頷いた。ホークは少しだけ居心地悪そうにふいと鼻を鳴らしたが、それ以上の拒絶はしなかった。だからこそ、その場にはどこか家族のような、穏やかな空気が流れていた。
昼時の機動六課食堂は、午前中の張り詰めた訓練とは打って変わって、穏やかでどこか緩んだ空気に包まれていた。汗と緊張に満ちていた屋外訓練場とは違い、ここでは誰もが一度呼吸を整え直し、午後の任務に備えるための静かな休息を取っている。
その喧騒の中でも、ナカジマ姉妹が陣取るテーブルは妙な存在感を放っていた。
ギンガとスバルが並んで座れば、それだけで周囲の局員たちの視線が自然と集まっていく。それは部隊の主軸としての注目というよりも、単純に二人の「食事量」に対する驚きに近いものだった。
山のように積まれたトレーの上には、訓練後とはいえ規格外の量の食事が整然と並び、スバルはそれを凄まじい勢いのままに消化し、ギンガはそれを当然の義務のように淡々と処理していく。
その圧倒的な光景を一瞥し、通りかかったホークがわざとらしく肩を竦めた。
「……おいおい、ナカジマ家ってのは胃袋の容量まで連携してんのか」
ホークのその一言に、スバルが勢いよく顔を上げる。
「なにそれ!? ちゃんと身体を動かしたらお腹が空くんだってば!」
ギンガはスバルの抗議に対しては特に口を挟まず、黙々とスプーンを動かしていた。しかし、ホークの声にわずかに眉だけが動く。それは呆れというよりも、士官学校時代から続くいつものやり取りとして、自然に受け流す仕草に近いものだった。
ホークはスバルの皿とギンガの山盛りの白飯を順に見比べ、軽く鼻を鳴らした。
「燃費が悪すぎるだろ。フードファイターかよ、お前らは」
その隣で、年少組のエリオも同じように食事をしていたが、ホークの冷徹な視線が向いた瞬間だけ、無意識に背筋をわずかに正した。
それを見て、ホークの口調が一瞬だけ柔らかく変わる。
「エリオはいい。育ち盛りだ、しっかり食っておけ」
その明らかな態度の差に、向かいの席のティアナが小さく目を細めた。
「ホークって、そういうところだけ妙に甘いよね」
「そりゃそうだろ」
即答だった。
「成長期のガキから飯を削るなんて、ただの拷問だ」
そのぶっきらぼうな言葉にエリオが少しだけ気恥ずかしそうに視線を逸らし、キャロがくすりと楽しそうに笑う。そのやり取りを見ながら、スバルが不満げに頬を膨らませた。
「ギン姉だって、私と同じくらいいっぱい食べるのに!」
「私はいいの」ギンガからの即答だった。
「筋肉量の維持と、基礎代謝の問題」
「えぇーっ!」
スバルの情けない悲鳴に、食堂の空気が一瞬だけ柔らかく緩んだ。笑い声は決して大きくはないが、確かにそこには戦場ではない、穏やかな時間が存在していた。
少し離れた隊長席では、なのはとフェイト、ヴィータ、シグナムが同じ光景を共有していた。
ヴィータはホークのいるテーブルの方を睨みつけ、フンと鼻を鳴らす。
「相変わらず好き勝手言いやがってな、あのバカ鷹は」
「でも、みんなのことをちゃんと見てくれているよ」
なのはの優しい言葉に、ヴィータは少しだけ黙り込み、それ以上は何も言わなかった。
その一方でホークは、再び己のスプーンを動かしながら、視線だけをギンガの手元にある書類へと向けていた。そこには午前中の訓練記録と、本局への簡易報告書が束になって置かれている。ギンガはそれを流れるような自然な動作で手に取り、軽く目を通した後、迷いなくペンを取り出した。
そして何の躊躇もなく、数カ所の項目へと静かに線を引いていく。
「ここ、表現が曖昧。ここは実測値とズレてる。あとここ、無駄が多い」
淡々とした指摘だった。だがその手際は、完全に実務官レベルの精度を持っていた。
ホークはそれを見て、わずかに目を細めつつ肩を竦める。
「おい、それ俺の報告書なんだけどな」
「だから修正しているの」
間髪入れずにギンガが即答した。その瞬間、フェイトが隣から覗き込み、小さく頷いた。
「ギンガの方が正しいと思うよ」
「おい」
ホークが短く抗議するが、フェイトはまったく動じない。
「ほら、ここも実際の挙動と違う」
「……お前ら、グルか?」
そのやり取りを見ていたキャロとエリオが、少し固まったように目を見開く。
「え……ホークさんが押されてる……?」エリオがぽつりと呟いた。
「あの二人の前じゃ、さすがに分が悪いね」ティアナが肩を竦めながら、その光景を眺める。
「ギン姉とフェイトさん、最強タッグじゃん」
スバルも同じように笑っていた。ホークはそれを聞きながら、わざとらしく大きく息を吐いた。
「お前ら、もう少し優しくしろよな……」
だがその声には、本気の不満はなかった。むしろどこか楽しんでいるような響きすら混じっている。その空気のまま昼食は終わりへと向かい、食堂の喧騒も徐々に落ち着きを取り戻していった。
昼食を終えた隊員たちは、それぞれ午後の持ち場へと戻っていく。
ロングアーチでは、午前中の訓練データが次々と端末へ集約され、各分隊の報告書作成が始まっていた。シャーリーは計測データを整理し、マリエルは整備班へ引き継ぐ資料をまとめる。その少し離れた席では、ホークが面倒そうな表情で端末へ向かっていた。
「……ったく。飛ぶより書く方が疲れるな」
ぼやきながらキーボードを叩く速度だけは妙に速い。逃亡生活では必要のなかった仕事であり、管理局へ戻ってからも最後まで苦手意識だけは消えなかった。
数分後、静かに一枚の書類が横から抜き取られる。視線だけ向けると、そこにはギンガが立っていた。
「提出前に確認する」
「またか」
短く返したものの、止める気はない。ギンガは椅子へ腰掛けると、一行ずつ丁寧に読み進めていく。ページをめくる音だけが静かな室内へ響いた。
「ここ」ギンガがそういいながら、赤ペンを止める。
「飛行高度の記載が抜けてる」
「そこは飛行ログを見れば――」
「見る側の手間を増やさない」
ホークの反論が一言で切られる。
「ここも着地点が曖昧」
さらに次のページをめくり、容赦なく指摘を重ねた。
「……大体分かるだろ」
苦虫を噛み潰したような表情をしつつ、ホークが愚痴をこぼす。
「大体じゃ駄目」
迷いのない、冷徹な指摘だった。そのやり取りを見ていたフェイトも自然と歩み寄り、書類へ視線を落とした。
「うん……私もギンガと同じかな」
「あんたまでもか」
「ここも修正した方が読みやすいよ」
フェイトが第三者の目線で優しく、だが的確に指示を出す。
ギンガとフェイトの二人による精密な波状攻撃。ホークはただ黙るしかなかった。反論をいくら用意したとしても、戦術的に勝負にもならない。
「ホークさんが……完全に押し込まれてる」
エリオが小声でキャロへ耳打ちする。
「なんだか珍しいですね」
同意するようにキャロも返答した。
「普段あれだけ口が回る人なのに……」
二人の隣ではティアナも苦笑していた。
「ギン姉とフェイトさん相手じゃ、誰だって勝ち目ないね……」
スバルまで楽しそうに笑う。
「分かった、分かった。修正しますよっと」
ホークは深いため息を吐きながら、両手を上げた。それだけ言うと端末へ向き直り、再び不本意なデスクワークへと向き合う。ギンガは満足そうに頷き、フェイトも小さく笑った。
「最初からそうすればいいのに」
「うるせ」ホークは悪びれる様子もなく、キーボードを叩く音で不満を表現した。
その返事に、周囲から小さな笑いが漏れる。午後の機動六課は、穏やかな時間のまま流れていった。
午後の実務が一段落すると、ホークは誰にも気付かれないように端末を閉じ、小さく息を吐き出した。
飛行任務も戦闘訓練も嫌いではない、むしろ性格的に考えれば好む領域だ。しかし、報告書の作成や事務処理だけは、どうしても最後まで慣れることがなかった。ようやく修正を終えた電子書類を本局へ提出すると、彼の足は自然と人気のない休憩室へと向かっていた。
誰もいない休憩室は、耳が痛くなるほど静かだった。
窓から差し込む西日が室内を柔らかく照らし、ソファだけがゆったりとした時間を演出している。
「……五分だけだ」
誰へ言うでもなく呟くと、ホークはそのままソファへ身体を預けた。
ネクタイを緩め、窮屈な第一ボタンを外し、上着も脱いで背もたれへ掛ける。腕を額へ乗せて大きく息を吐き出せば、張り詰めていた四肢から少しずつ力が抜けていった。まさか私生活でまで、ギンガの監視の目を掻い潜る羽目になるとは――そんなくだらない思考を巡らせながら、ゆっくりと瞳を閉じる。
「やっぱり、ここだったわね」
静かなギンガの声が、休憩室の空間へ響いた。
ホークは額の腕を退かすことなく、声のした方へ視線だけを投げかける。入口には、予想通りと言わんばかりの冷徹な表情を浮かべたギンガが立っていた。
「……勘弁してくれ。五分、いや三分でいいから休ませろ」
「休むのは別に構わないわよ」
そう言って足音もなく近付いてきたギンガは、ホークの乱れきった制服を見るなり、心底呆れたように小さくため息を漏らした。
「でも、その締まりのない格好は絶対に駄目」
「またそれかよ」
返事をするより早く、ギンガの細い手がホークの襟元へ伸びる。
外された第一ボタンを躊躇なく留め、曲がったネクタイを真っ直ぐに整え、少しだけ捲れていた襟も丁寧に直していく。その手際は完璧にシステム化されたかのように慣れたもので、一切の迷いがなかった。
「……お前まで執務官様の真似を始めるのか」
「真似?」
「毎日のように同じ話を喰らってるんだよ」
「なら、最初から直せばいいだけでしょう」
あまりにも素早い回答、かつこれ以上ないほどの正論だった。ホークはいくつかの反論を用意しかけたものの、結局のところ何一つ言い返せず、小さく肩を落とした。そんな様子を見ていたギンガは、毒気を抜かれたように小さく笑う。
「フェイトさんの苦労が、少し分かった気がするわ」
「そんな歴史の教科書に出てくる苦労人みたいに言うな」
「十分すぎるほど苦労していると思うわよ」
即答だった。
ホークは天井を見上げながら、諦めたように大きく息を吐いた。
「昔から、お前は世話焼きばかりだ」
「放っておくと、際限なく駄目になる人を知っているからよ」
士官学校時代もそうだった。
実技訓練を終えれば制服は泥まみれのまま乱れ、提出物の書類はいつも期限ぎりぎり。三度の食事をとる時間よりも自分自身の自主飛行訓練を優先し、寝る時間すら惜しんで夜空へ飛び続ける。
その無茶の度に誰かが注意し、結局最後は周囲が面倒を見る。昔も今も、その悪癖だけは何一つ変わっていなかった。
その時、休憩室のスピーカーから、静寂を破る館内放送が流れた。
『ホーク・ネヴィル隊員、ギンガ・ナカジマ陸曹。至急、第一訓練場までお願いします』
二人は同時に顔を上げた。
「なんだ、教官様たちからのお呼び出しか」
「呼ばれたみたいね」
束の間の休息は、これで終わりだった。
ホークはゆっくりと身体を起こし、背もたれから引き抜いた上着へと袖を通す。その様子を厳しく見届けると、ギンガは最後に一度だけ、彼のネクタイのミリ単位の曲がりを完璧に整え、満足そうに小さく頷いた。
「よし、今度は大丈夫よ」
「そこまで入念に確認するか、普通」
「普通よ」
迷いのない返事だった。
一歩遅れて第一訓練場へ到着すると、そこにはなのはたち隊長陣だけでなく、フォワード四人の姿もあった。
「二人とも、来たね」
なのはは微笑みながら、並び立つ二人を見渡した。
「明日の午後、臨時の模擬戦をお願いしたいの」
その一言で、場に弛緩していた空気がカチリと引き締まる。
「ギンガの現在の詳細な戦闘データも取りたいし、ホークも飛行だけじゃなく、地上戦における精密な感覚を再確認しておきたいからね」
フェイトも静かに頷き、視線を重ねる。
「私も賛成。二人にとっても、ちょうどいい実戦の機会だと思うよ」
ホークは隣に立つギンガへと冷徹な視線を向けた。ギンガもまた、真っ直ぐにホークの瞳を見返していた。
「……ようやく決着をつけられるね」
ギンガの穏やかな声だった。だが、その瞳の奥だけは、静かで鋭い闘志を宿している。
ホークは口元だけで不敵に笑った。
「燃えるね。教官様から来た願ってもないチャンスだ。勿論、断る理由がねえな」
「今度は、途中で空へ逃げ出さないでよ?」
「逃げたんじゃねえ。空間を最大活用した合理的な戦術だと言え」
「言い訳」
短い言葉の応酬に、周囲で見守っていたフォワード陣から自然と笑いが漏れる。なのはとフェイトも顔を見合わせ、愛おしそうに小さく微笑んだ。
かつては運命の悪戯によって決して交わることのなかった二人が、今は同じ場所で笑い合い、同じ舞台で正々堂々と拳を交えようとしている。それは勝敗という単純な結果以上に、計り知れない価値のある変化だった。
互いに歩幅を合わせるような殊勝な真似はしない。それでも、二人の影は自然と重なり、並んで訓練場の中央へと向かって歩いていく。
決着の時は、すぐそこまで迫っていた。
ギンガ・ナカジマとホーク・ネヴィル――交差する過去を越え、互いの現在地を証明するための模擬戦。その一戦こそが、自分たちの新しい一歩になるのだという確かな予感だけが、二人の胸の奥で静かに、熱く息づいていた。