魔法少女リリカルなのはStrikerS ~STAR HAWK:Lone Flight~ 作:マジフジ
互いの戦い方を知り尽くした者同士だからこそ、攻防は一瞬の隙も許さない激しいものとなっていく。そして、長く続いた二人の因縁は、この一戦を境に新たな形へと動き始める。
翌朝の機動六課は、ひどく静かだった。
雲一つない青空の下、いつもと変わらない朝のルーティンが流れていく。格納庫では整備員たちが無言で機材の最終確認を進め、ロングアーチのメインモニターには今日の任務予定が淡々と更新されていく。
誰も声を荒げておらず、誰も焦りの色を見せてはいない。それなのに、基地を包む空気だけが、わずかに重く存在を主張していた。
理由は明白だった。今日の午後、訓練場で一つの模擬戦が組まれている。
ギンガ・ナカジマと、ホーク・ネヴィル。二人だけの戦い。しかし、それを「ただの模擬戦」と呼ぶ者は、今の六課にはもう誰一人としていなかった。
士官学校時代から続く因縁。追う者と、逃げる者。戦場でも、日常でも、決して噛み合うことのなかった二人の距離が、今日ようやく同じ土俵の上で交錯しようとしている。
勝敗を決するためではなく、どちらの正義が勝るかを証明するためでもない。ただ――今の自分がどこまで届くのかを、その拳で確かめるための時間。その真実を知る者は、ごく僅かだった。
新人フォワードの四人は、ただの「恒例の模擬戦」としか聞かされていない。なのはたち隊長陣も、それ以上の背景を語ることはしなかった。
その頃、訓練棟へと続く無機質な通路を、ギンガは一人で歩いていた。足音は一定。呼吸にも乱れはない。
だが、胸の奥だけが、妙に静まり返っていた。凪いだ海のように静かすぎて、逆に落ち着かないほどに。
士官学校時代は、顔を合わせればすぐに言い争いになる相手だった。訓練の時だけは奇妙に呼吸が噛み合うのに、終わればまたすぐに衝突する。近いようで決定的に遠く、遠いはずなのに前線では誰よりも背中を預けられる、そんな歪な関係。
男が管理局を離れて指名手配犯となってからは、何度もその背を追い、何度も取り逃がした。法を裏切った彼を許せないと思い、その真意を理解できないと苦悩もした。
それでも、一つだけ変わらなかった事実がある。あの男は、逃走の最中であっても、一度としてこちらに銃口を向けなかった。逃げ延びるためには容赦なく戦うクセに、こちらを打倒するためには決して引き金を引かない。その矛盾が、ずっと彼女の心の違和感として残り続けていた。
――そして今、二人は同じ制服を纏い、同じ場所に立とうとしている。
ギンガは小さく息を吐いた。勝ちたいという闘志は当然ある。だがそれ以上に、あの男が孤独に積み重ねてきた歳月の重みを、自分の拳で直に確かめたかった。
その時だった。
「珍しく、難しい顔をしてるな」
前方から、聞き馴染んだ声が降ってきた。
視線を上げると、廊下の窓辺にもたれかかるようにして、ホークが立っていた。制服の襟元は相変わらず少しだけ緩められているが、昨日までと比べれば随分と規律に従っている。
「ちゃんと制服を着ているのね」
ギンガが少し意外そうに呟くと、ホークは一瞬だけきょとんとした表情を浮かべ、すぐに諦めたように肩を竦めた。
「朝っぱらから、怖い執務官様に締め上げられそうになったからな」
その一言だけで昨日のクロノとのやり取りが脳裏に浮かび、ギンガは思わず小さく吹き出した。
「笑うなよ」
「少しだけ」
それ以上、言葉は続かなかった。
二人は並んで歩き始めたが、互いに歩幅を合わせようとは一切しない。廊下に響くのは、非対称な二人分の足音だけだった。ホークが半歩ほど前を行き、ギンガは一定の距離を保ったまま、その背中を静かに追う。
歩調は合わない。どちらも相手に歩み寄ろうとはしない。それでも、不思議と二人の間の距離だけは、一ミリも変わることはなかった。
士官学校の頃なら、この沈黙に耐えかねて互いに皮肉を飛ばし合い、最後には口論になっていただろう。だが、今は違った。言葉を交わさずとも、隣に並んでいることが、ごく自然に感じられる。
やがて、訓練場へと続く重厚なゲートが見えてきた。
防音扉の向こうから、朝の自主訓練を終えたフォワード四人の威勢のいい掛け声が風に乗って響いてくる。なのはたち隊長陣もすでに定位置で開始を待っており、シャーリーは計測端末へ鋭い視線を落とし、マリエルは計測機器の最終チェックを終えたところだった。
「ギン姉! ホーク!」
二人を最初に視界に捉えたスバルが、大きく手を振る。ホークはそれに応えるように片手を軽く掲げ、ギンガは小さく顎を引いた。交わされたのはそれだけだったが、それで十分だった。
なのはは歩み寄る二人を見比べ、小さく、優しく息を吐く。互いに気負いはなく、その肩からは完全に余計な力が抜けている。静かに闘志を研ぎ澄ませているその佇まいを見ただけで、今日の模擬戦にどれほど深い意味があるのかが痛いほどに伝わってきた。
「二人とも、準備はいい?」
なのはの穏やかな問い掛けに、ギンガは曇りのない瞳で真っ直ぐに応じる。
「はい」
「いつでも」ホークも首の骨を軽く鳴らしながら、短く応えた。
「今回の模擬戦は、完全な実戦形式で行います」
フェイトが二人の前へと歩み出た。声音そのものはいつもと変わらず穏やかだったが、その宣言一言で、訓練場の空気が一瞬にして閉まる。
「勝敗はどちらかの戦闘不能、もしくは完全な武装解除を確認した時点で決します。私となのはが危険と判断した場合は、即座に介入して強制終了とします」
必要な確認はそれだけだった。一切の虚飾を排した簡潔なルール提示だからこそ、見守る新人四人の表情も自然と硬く引き締まっていく。
「ホークが地上で本気を出すところ……初めて見るかも……」
ティアナが圧倒されるように小さく呟けば、スバルもまた戦場から視線を逸らさぬまま拳を握りしめた。
「ギン姉も、最初から全力だ……」
エリオとキャロに、もう言葉はなかった。訓練場を支配する異常なまでの静寂が、これが日常のトレイニングの延長などではないことを雄弁に物語っていた。
ホークは腰のホルスターへと静かに手を添えた。上部には連射型、下部には単発型――二丁のブラスターが、音もなくホルダーに固定される。続いて、前腕部のリフレクター装置のスイッチを入れ、駆動確認。血生臭い逃亡生活の中で磨き上げ、生き延びてきた不敵な戦闘スタイル。それを歪めるつもりは、今日も、これからも一切なかった。
対するギンガもまた、静かに『ブリッツキャリバー』を起動する。リボルバーナックルがガチリと強固に展開され、その拳へ、彼女の意志の強さを示すかのような淡い魔力光が宿った。
二人の視線が、空間の真ん中で真っ直ぐに交錯する。
そこには軽薄な笑みも、安っぽい挑発も存在しない。ただ互いに、超えるべき全力を、目の前の相手だけを見据えていた。
訓練場の空気が、一瞬で張り詰めた。
先手必勝を期したホークが鋭く踏み込み、左のチョップを放つ。ギンガが迷わずそれを腕で弾いた、まさにその瞬間だった。ホークは軸足を支点に滑らかに身体を反転させ、流れるような連動で右の裏拳――いや、鋭利な刃めいたチョップを繰り出す。
ギンガは半歩だけ上体を流してこれを回避した。だが、ホークの回転はそこでは終わらない。生み出された遠心力を乗せたまま、肉体がさらにもう一回転。その刹那、彼の左手が閃き、握られていた深紅のブラスターが容赦なく火を噴いた。
繰り出される苛烈な連射。回転しながら放たれる紅い光弾が、凶悪な円の軌道を描いてギンガへと襲い掛かる。
「っ!」
咄嗟に展開した『トライシールド』が数発を辛うじて受け止める。だが、ホークが回るたびに射線の角度が刻一刻と変化し、防御が追いつかない。防ぎ切れなかった弾丸が肩をかすめ、脇腹を叩き、太腿を浅く撃ち抜いていく。訓練用設定ゆえに激痛こそないものの、被弾の衝撃は確実にギンガの肉体を削っていく。一発受けるたびに、腕が鉛のように重くなる。足が鈍る。呼吸が、わずかに乱れ始めた。
「回るたびに……角度が変わってる……!」
あまりに変則的な軌道に、見守るティアナたちが息を呑む声が聞こえた。
ホークは攻撃の手を緩めない。コマのように回転し、ブラスターの連射によって赤い閃光の檻を作り上げ、ギンガの退路を冷徹に潰していく。
射線を潜り抜けるたび、被弾の数は跳ね上がる。それでも、ギンガの足は止まらなかった。一歩、さらに一歩と紅い閃光を強引にかい潜り、真正面からその懐へと踏み込んでいく。
間合いが極限まで詰まったことを察知し、ホークの軸足がガチリと地面を噛んだ。限界まで蓄えられた遠心力が、一瞬でその右脚へと爆発的に乗る。空気を切り裂くような鋭いハイキックが、ギンガの頭部めがけて放たれた。
だが――それこそが、ギンガの待っていた瞬間だった。
「そこ……!」
ギンガの両手が、迫る足首をがっしりと掴み取る。
一瞬、訓練場の時間が停止したかのような錯覚。次の瞬間、ホークの身体が強烈な重力を伴って大きく宙へと振り回された。
「え……っ!?」
スバルが驚愕の声を上げる。ホーク自身が放った遠心力をそのまま逆利用するように、ギンガはその身体を豪快に投げ飛ばしたのだ。
天地がひっくり返る衝撃の中、宙へと放り出されたホークは空中での受身を試みる。だがその刹那、遠心力に耐え切れなくなった彼の右手から、ブラスターが手放された。
「落とした……!」キャロが叫ぶ。
その銃身が地面に転がるよりも早く、ギンガの鋭い蹴りがブラスターを正確に弾き飛ばした。一直線に放たれたそれは制御区域を滑り、そのまま回収不能区域の暗闇へと消えていく。
その瞬間、訓練場に冷ややかな沈黙が落ちた。 ホークが床に片手をつき、ゆっくりと顔を上げる。
そこには先ほどまでの軽口もなく、飄々とした笑みもない。ただ、獲物を呪い殺すかのような鋭い眼光だけが、ギンガを真っ直ぐに射抜いていた。
「……野郎」地を這うような、押し殺したホークの低い声。
その豹変ぶりに、新人四人の背筋へとぞくりと冷たい戦慄が走った。いつも笑っていた男の、それが隠されていた本性だった。固まったまま動けないエリオたちの横で、キャロだけが「……本気です」と小さく震える声で呟いた。
「ようやく狩られる側の恐怖を思い出したか」
前線で修羅場を潜り抜けてきたシグナムが、愉しげに目を細める。
「ギンガの奴、やるじゃねえか」ヴィータも腕を組み、不敵に口元を歪めた。
その傍らで、フェイトだけが静かに戦況を見つめ、ただ一言、未来を予言するように呟いた。
「……崩した」
ホークがゆっくりと一歩を踏み出す。
主兵装であるブラスターは失った。それでも、その足取りに一切の迷いはない。
対するギンガも、すでに肩で息をしていた。蓄積した疲労と被弾の衝撃は確実に肉体を蝕んでいる。腕は重く、視界がかすむ。それでも、その瞳だけは決して敵から逸らさなかった。
訓練場に、奇妙な静寂が落ちる。先ほどまで絶え間なく響いていた銃声はもうない。それでも誰一人として、この戦いが楽になったとは思わなかった。
ホークが静かに右腕を持ち上げる。
腕部へ装着された紫色のリフレクター発生装置が、低く唸るような駆動音を響かせた。
「……来る」誰が呟いたのかは分からない。
その一言だけが、静まり返った訓練場へ溶けていった。
ホークはゆっくりと右腕を持ち上げた。
腕部に装着されたデバイスが低く駆動音を響かせ、その先に正六角形の紫色の障壁――リフレクターが静かに展開される。最大の武器であったブラスターを失ったというのに、男の表情に焦りの色は微塵もない。むしろ、余計な武装を削ぎ落とされ、本来の、最も得意とする戦域へと立ち戻ったかのような不気味な静けさが漂っていた。
ホークの右足が、わずかに後ろへと引かれる。
次の瞬間、正六角形の障壁が弾丸のごとく蹴り出された。リフレクターは地表すれすれを滑るように、一直線にギンガへと肉薄する。
そこには魔力反応がない。飛翔魔法でも、射撃魔法でもない。ただ質量を持った障壁が、純粋な物理速度だけで迫る。
ギンガは鋭く身体を捻ってこれを回避した。紫色の六角形が肩先を掠め、背後へと抜けていく。――避けた、そう確信した刹那だった。
ホークの右膝が静かに沈み込み、蓄えられた駆動エネルギーが一気に解放される。爆発的な踏み込み。推進魔法などの補助は一切ない。純粋な身体能力だけで生み出された、網膜を置き去りにするほどの超加速。
視界が強烈に揺らぐ。ホークの振り抜いた右脚が周囲の空気を爆縮させ、その衝撃波が一直線に奔る。
ギンガは両腕を交差させて直撃を防いだ。だが、受け止めた瞬間に強烈な衝撃に押し流され、踏み止まることすら許されない。
体勢を完全に崩された、まさにその背後から――先ほど通り過ぎたはずのリフレクターが、手元へ戻る軌道のままギンガの背中へと突き刺さった。
鈍い衝撃が全身の骨を軋ませる。ギンガの身体は派手に吹き飛び、訓練場の床を無様に転がった。
「ギン姉……!」悲痛なスバルの叫びが響く。
しかし、その傍らで「まだ」となのはが静かに首を振った。
ホークは追撃を行わなかった。その必要がなかったからだ。跳ね返るように手元へ戻ってきたリフレクターを、彼は寸分の狂いもなく右足で受け止め、流れるように再び蹴り返す。紫色の六角形が、再び低空を滑り始めた。
ギンガは必死に避ける。だが、逃げた先を狙い澄ましたかのように『ホークシュート』の衝撃波が叩き込まれ、防御を強いられる。当然、体勢が崩れる。そこへ、弧を描いて戻ってきたリフレクターがまた容赦なく蹴り飛ばされる。
リフレクターが標的を動かし、ホークシュートがその体勢を崩す。そして戻ってきたリフレクターが、次の逃げ道を完璧に塞ぐ。
攻撃と攻撃の間に、隙すら存在しない。すべてが円環を描いて繋がる、終わりのない残酷な循環。法の手を逃れ、血生臭い逃亡生活の中で磨き上げられてきた、ホークだけの絶対的な戦闘リズムだった。
「これ……終わらない……」ティアナが絶望に声を震わせるが、シグナムは戦場から目を逸らさぬまま、静かに首を振った。
「違う。あれは小手先の技ではない。ネヴィルの戦闘スタイル、そのものだ」
訓練場の中央、ギンガは激しく肩を上下させていた。被弾の衝撃で両腕は鉛のように重く、脚も思うように追従しない。それでも、その瞳だけは寸時もホークから離れなかった。敵の拳を見つめ、蹴りを見つめても、答えには行き着かない。そうではない、見るべき場所はそこじゃないのだ。
リフレクターの配置、引き戻されるポジション、右足が放つ蹴りと、次の一歩を刻む踏み込み。その一連のシークエンスのすべてが、一つの巨大な濁流のようにつながっている。
だからこそ、分かった。
ホークという男は、頭で考えてから動いているのではない。その五体が、戦いのすべてを記憶しているのだ。
ただ生き延び、逃げ続けるためだけに繰り返されてきた絶え間なき反復。戻れば受け、受ければ蹴り、蹴れば即座に次へと踏み込む。ただそれだけの冷徹な回路が、彼の神経系に焼き付いている。だからこそ速く、だからこそ止まらない。
ならば――狙うべきは、その回路の結合部だ。
「……見えた」ギンガの唇から、かすかな呟きが漏れた。
ホークの猛攻によどみはない。再びリフレクターが蹴り飛ばされ、紫色の障壁が一直線に迫る。ギンガはそれを紙一重の境遇でかわした。直後、ホークが地を蹴り、放たれた『ホークシュート』の衝撃波がギンガの腕を激しくかすめていく。
だが、それでもギンガの足は止まらなかった。彼はホーク自身を見据えてはいない。その視線は、ただ一点、リフレクターの軌道だけを追っていた。
戻ってくる。いつもの、定位置へ。ホークが迎え撃つように右足を差し出した。肉体が記憶した通りに受け、そのまま連動して蹴り出す完璧な条件反射のサイクル。
だからこそ――リフレクターを受け止めたその一瞬だけ、彼の意識はすでに「次の蹴り」へと先走る。
生じた、わずか一拍の空白。その瞬間、ギンガが爆発的な踏み込みを見せた。狙うはホークの肉体でも、死角から迫る右足でもない。標的はただ一つ、リフレクターそのものだった。
「なっ!?」ホークの瞳が、初めて驚愕に揺れる。
足元でリフレクターを受け止めた、まさにその刹那。ギンガの両手が、紫色の六角形をがっしりと掴み取っていた。ホークは反射的にそれを蹴り出そうとしたが、あまりに遅い。
ギンガは全身のバネを使い、強引に身体を捻った。ホークの蹴り出そうとするベクトルとは真逆の方角へ、全質量を乗せて引き抜く。
ずるりと、ホークの足元からリフレクターが滑り抜けた。その瞬間、永遠に続くと思われた戦闘サイクルが、完全に停止する。
「しまっ――」彼が声を漏らした時には、すでに手遅れだった。
ギンガは奪い取った勢いのまま、身体を鮮やかに一回転させる。遠心力を限界まで乗せた腕が凄まじい風切り音を立てて振り抜かれ、紫色の六角形は一直線に訓練場の外縁へと吹き飛んだ。制御区域へと転がり込んだそれは、そのまま奈落のような回収不能区域へと没していく。
訓練場から、一切の音が消失した。
ホークは右足を虚空に下ろしたまま、石像のように硬直している。蹴るはずだった、戻ってくるはずだった。数えることの出来ないほどの反復で培った絶対の調和が、その一瞬だけで無残に破綻していた。
「……また崩した」フェイトの静かな呟きだけが、静寂に包まれた訓練場へと冷たく落ちる。
ブラスターを奪われ、今またリフレクターさえも失った。ホークがこれまで積み上げてきた戦闘スタイルは今、ギンガの拳によって、一片残らず解体されようとしていた。
ホークは微動だにしなかった。
制御区域の彼方へ消え去ったリフレクターを、今さら見追うこともしない。ただ静かに熱い息を吐き出し、ゆっくりと両腕を下ろした。
腰の単発型ブラスターへ手を伸ばしかけ――だが、その指先は虚空でぴたりと停止した。
――完全に、読まれている。
ブラスターも、リフレクターも、自分の引き出しにある戦術のすべてが、もうこの戦場では意味を成さない。その冷徹な現実を前にして、ホークは自嘲気味に小さく笑った。
「……参ったな」
誰に聞かせるでもない独白。
長い逃亡生活、死線を潜り抜ける中で泥臭く構築してきた自らの戦闘サイクル。それが今、この場所で完全に終わりを迎えたのだ。
ならば。残された選択肢は、もう一つしかなかった。ホークはゆっくりと、確かな質量を込めて拳を握り締める。
「――まだ、終わりじゃない」
刹那、彼は爆発的に地面を蹴り飛ばした。
一直線。迷いなく、ただ前だけを見据えて踏み込む。そこにはもうフェイントも、残された武装も、狡猾な駆け引きすらも存在しない。ただ純粋な一撃として、その拳だけが真っ直ぐに伸びていく。
ギンガもまた、同時に地を這うような踏み込みを見せた。
互いの拳が正面から激突し、鈍い肉声が訓練場に響き渡る。ホークは衝撃を殺さぬまま、すぐさま左の肘打ちへと繋げた。だがギンガは前腕を滑らせるようにしてこれをいとも容易く受け流す。右ストレートは虚を突かれ、膝蹴りは完璧なタイミングで遮断され、放った左フックは空を切る。
動けば動くほど、執拗なまでに先回りをされた。まるで数手先の本能の動きまで、すべて透視されているかのような絶望感。
「遅い……!」ギンガの鋭い声と共に、猛烈な踏み込みが爆ぜる。
左右より放たれる一定間隔のあるストレート。無駄のない苛烈なコンビネーションが、ホークの堅牢なガードを容赦なく叩き割っていく。受けるだけで精一杯だった。どれほどガードを固めようと、一発ごとに腕の骨が沈み、防御の姿勢そのものが強引に押し込まれていく。
「……っ!」
強烈な一撃が、ホークの腹部へと深くめり込んだ。
肺の空気が強制的に掠め取られ、息が止まる。それでも、ホークは根性で右ストレートを打ち返した。だがギンガは首をわずかに傾けるだけでその軌道を外し、返しの左を彼の肩へ、右を胸板へ、さらに膝蹴りを脇腹へと正確に突き刺していく。
文字通りの防戦一方。完全な蹂躙だった。
「押されてる……」ティアナが圧倒されて息を呑む。
「違う。もう、勝負は決している」その横でシグナムは静かに、しかし冷徹に告げた。
誰よりも、ホーク自身がそれを一番よく理解していた。
逃げる戦いなら、誰にも負けない。相手を追わせ、翻弄する戦いなら天下無双だ。だが――こうして真正面から泥臭く殴り合うというのなら、自分は逆立ちしたってギンガ・ナカジマという傑物に敵うはずがないのだ。
それでも――この長い因縁の最後くらいは、絶対に逃げたくなかった。
「……来い!」地を這うようなホークの咆哮。
ギンガはただ、深く頷いた。
互いにすべてを懸けた最後の一歩を踏み出す。放たれた右拳は同時に空気を切り裂き、互いの頬を正面から深く撃ち抜いた。重苦しい衝撃音が訓練場の静寂を引き裂く。
二人の身体が同時によろめいた。ホークの膝が耐え切れずに折れる。片膝が床を叩き、続いて両膝が崩れ、そのまま前方へと力なく倒れ伏した。
一方のギンガもまた、数歩たたらを踏んで激しく揺らいだ。肩を荒く上下させ、途切れるような呼吸を吐き出しながらも――彼女はゆっくりと、自らの足で大地を立ち上がった。
訓練場に、完全な静寂が満ちていく。ホークは床に顔を伏せたまま、漏れ出るように小さく笑った。
「……俺の、負けだ」その声は、ひどく静かだった。
そこには見苦しい悔しさも、安っぽい強がりも一切ない。ただ、己の限界という事実を真っ直ぐに受け入れた、男の引き際の声。
ギンガは何も語らなかった。ただ静かに拳を下ろし、目の前に横たわる男を、万感の思いを込めて見つめ返す。
二人の間に横たわっていた、あまりに長い因縁に。今、確かな一つの区切りが打たれた。
「そこまで」静寂を破ったのは、フェイトの穏やかな、けれど芯のある声だった。
模擬戦終了。その明確な宣言と同時に、訓練場を限界まで満たしていた緊張感が、ゆっくりと霧散していく。
「ギン姉!」
誰よりも早く叫び、弾かれたように駆け寄ったのはスバルだった。その後ろからエリオとキャロが心配そうに続き、ティアナは呆れたように小さく息を吐き出す。
「まったく、二人ともやり過ぎよ……」
口調こそ手厳しいが、その横顔には隠しきれない安堵が滲んでいた。なのはは全てを見届けたように静かに微笑み、フェイトは仰向けに倒れたままのホークの傍らへと歩み寄る。
「立てる?」
「……なんとか、な」
頭上から差し出された手を見つめ、ホークは少しだけ気恥ずかしそうに苦笑した。
「悪い、今日は大人しく借りとくわ」
そう言って、素直にその手を取る。しかし、引き起こされた拍子にひどい目眩が襲ったのか、彼の身体が大きく右へとふらついた。
「無理をしないで」
不意に横から伸びてきた無骨な腕が、ホークの不格好な身体をがっしりと受け止める。
ホークは少しだけ目を丸くした。視線を向ければ、不機嫌そうに顔を背けたギンガが、彼の脇を力強く支えていた。
「なんだよ」
「なんだよ、じゃないわ」
呆れたように吐き捨てながらも、その声音には先ほどまでの鋭さはなく、どこか柔らかな温度が混ざっている。
「歩ける?」
「ギリギリだな」
「そう」
それだけの、極端に短いやり取り。
士官学校の頃の二人なら、こんな状況であっても「誰がお前なんかにつかまるか」「触るな、余計に痛む」と意地を張り合い、最後には口論になって終わっていただろう。
けれど、今日の二人は違った。
ギンガはそれ以上何も言わずに己の肩を貸し、ホークもまた、無言のままその温もりを受け入れた。ただ、それだけだった。少し前を歩く二人の後ろ姿を見て、なのはが小さく、慈しむように微笑む。
「本当によかった」
それが、隣で歩くフェイトへ向けたものか、それとも不揃いな足音を響かせる二人へ向けたものなのかは、誰にも分からない。
訓練場を大きく吹き抜けた風が、二人の汗ばんだ姿を静かに揺らしていった。
追う者と、逃げる者。互いの本心を理解できず、法と混沌の狭間で何度も、何度もすれ違い続けた二人。この戦いを経て、二人の関係が劇的に、劇画のように変わったわけではない。
明日になれば、また些細なことでくだらない皮肉を飛ばし合うのだろう。歩幅だって、きっとこれからも合わないままだ。
それでも。こうして肩を並べ、隣を歩くことだけは、もう不自然なことではなかった。
同じ管理局の制服を身に纏い、同じ地平の景色を見つめながら。二人はゆっくりと、自分たちの帰るべき、機動六課の仲間たちが待つ日常へと戻っていく。
その背中を愛おしそうに見送りながら、フェイトは小さく息をついた。
「これで、本当に終わったね」
なのはは遠ざかる二人の背を見つめたまま、静かに、深く頷いた。
「うん」
あまりに長く続いた歪な因縁は、今度こそ終わった。
ここから始まるのは、獲物を追う者と法から逃げる者ではない。同じ部隊で、同じ目的のために肩を並べて戦う。一人の、大切な隊員同士としての日々だった。