魔法少女リリカルなのはStrikerS ~STAR HAWK:Lone Flight~ 作:マジフジ
負傷した仲間たちへの見舞い品を託し、監視付きの休暇へと出るホーク。誰もいない仮住まいで彼を待っていたのは、ヴィヴィオが残した、小さな約束だった。
スカリエッティ一派による同時襲撃から、一夜が明けた。
朝日は何事もなかったかのように街を照らしていた。薄い雲を透かした光が、崩れた建造物の輪郭を白々と浮かび上がらせている。昨夜まで人々の往来を支えていた道路には破砕された外壁の欠片が散り、割れた窓から垂れ下がる金属枠が、風に揺れるたびに鈍い音を立てた。
公開意見陳述会の会場、時空管理局地上本部の周辺施設、そして――機動六課隊舎。
ほぼ同時に襲撃された各所には、魔導兵器が刻みつけた傷が生々しく残されていた。管理局の秩序を支えてきたはずの施設が、わずか一夜のうちにこれほど容易く破壊される。その事実は、瓦礫の量以上のものを、地上に暮らす人々へ突きつけていた。
機動六課において、ロングアーチのスタッフ全員が救出され、命を繋ぎ止められたことは、数少ない救いの一つだった。
隊舎の損壊は、目を覆いたくなるほど深刻だった。意匠を凝らした外壁は爆風によって広範囲に剥がれ落ち、半壊した格納庫の奥からは、焼けた資材の煙が細く立ち上っている。隊員たちが肩を並べて歩いたロビーでは床材がめくれ上がり、壁面に埋め込まれていた照明設備が、砕けた配線を垂らしたまま沈黙していた。食堂の入り口には崩れた梁が斜めに横たわり、ひっくり返ったテーブルの下から、焦げた食器の破片が覗いている。
昨日まで、ここには人の声があった。
任務を終えた隊員たちの足音があり、食事の匂いがあり、仕事の合間に交わされる何気ない会話があった。今、その面影を探そうとしても、視界に入るのは灰を被ったコンクリートと、熱で黒ずんだ鉄骨ばかり。朝の光さえ、荒れ果てた敷地を冷たく照らすだけだった。
早朝の空気には、焼けた樹脂と金属の臭いがこびりついていた。
生き残った隊員たちは、疲労の色を顔に残しながらも、それぞれの持ち場で復旧作業に取りかかっていた。携帯端末へ被害状況を入力し、センサーを用いて空間に残留する魔力反応を採取する。火災を免れたサーバーからは、復旧班が慎重に残存データを回収していた。崩落の危険が残る区画では、頭上の梁を確かめながら、再利用できる備品を一つずつ外へ運び出している。
交わされる言葉は最低限にとどまり、作業の引き継ぎも、ほとんどが短い合図と視線で済まされていた。
誰かが手を止めれば、その隙間から昨夜の光景が入り込んでくる。そんな沈黙だった。
倒壊したロビーの一角で、ティアナ・ランスターは携帯端末を片手に被害状況を記録していた。
崩れた壁面を確認し、破損した設備の位置を記録する。足元のガラス片を避けながら移動し、損壊の規模を示す数値を入力した。画面には無機質な文字列が規則正しく積み上がっていく。指先は滑らかに動いていたが、端末を支える左手には、知らず知らずのうちに力がこもっていた。
視界の隅に、食堂だった場所が映る。
天井材は崩れ落ち、壁際に設置されていた棚は原形を失っていた。床を覆う瓦礫の中には、見覚えのある食器の縁が埋もれている。あの場所でスバルが大声を上げ、エリオとキャロが顔を見合わせ、誰かが呆れたように笑っていた。そんな光景が、端末の画面を塞ぐように脳裏へ浮かびかける。
ティアナは瞬きを一つ挟み、次の項目を入力した。
指を動かしている間は、数字と記録の向こうに視線を置いていられる。手を止めれば、ここにあったものを一つずつ思い出してしまう。だから入力を続けた。画面に表示された損壊面積の数値が、指先の震えを隠すように増えていく。
少し離れた場所では、高町なのはとシグナムが倒壊した棚の下から無事な備品を運び出していた。ロングアーチでは、軽傷で作業に参加できるスタッフが復旧班に加わり、半壊したサーバーラックから残存データを引き出している。
頬に煤をつけた隊員が、破損した機材を抱えて通り過ぎた。その背中には眠気を誤魔化すような硬さがあり、備品を受け取る隊員の手にも、指先を震わせないための余計な力が入っていた。
誰も十分には眠れていない。それでも、泥と煤に汚れた手は動き続ける。
瓦礫の向こうで何かが崩れる音がするたび、いくつもの顔が反射的にそちらを向いた。確認が済めば、また各々の作業へ戻っていく。止まった時間を動かす方法を、今はほかに誰も知らなかった。
その一方、煤煙の臭いがいっそう濃く漂う格納庫跡では、ホークが瓦礫を掘り返していた。
昨日、ブルー・メテオを駆って空を縦横無尽に駆け抜けた男の姿は、そこにはなかった。見慣れた機動六課の制服に着替え、手袋をはめた両手でコンクリート片を持ち上げている。重い破片を脇へどけ、露出した鉄骨の隙間を覗き込み、指先に触れた細かな瓦礫を払い落とす。見つからなければ、次の場所へ移る。
探しているのは、ブルー・メテオに関する重要な記録媒体だった。機体の整備記録や飛行データの原本。それらが失われれば、機体そのものが残っていたとしても、取り戻せないものがある。
それだけではない。
作業の合間に使っていた工具も、読みかけの本も、使い込んだマグカップも、ここにはまだ残っているはずだった。昨日まで当たり前に手を伸ばせば届いたもの。それらを探すため、ホークはひたすら瓦礫を退けていた。
誰かが近くを通りかかっても、顔を上げようとはしない。声を掛けられれば返事をするのかもしれないが、今のところ、誰も彼を作業から引き離そうとはしなかった。
その背中を、ティアナは少し離れた場所から見つめていた。
端末を握る指が、ふと止まる。
昨夜から、ホークの姿には一つの不自然な点があった。ロングアーチのスタッフが収容されている病院へ、彼は一度も足を運んでいない。
隊長陣はそれぞれ、折を見て彼に声を掛けていた。顔だけでも見てきたらどうか、同行しようか、と。しかし、返ってくる言葉はいつも同じだった。
『今行ったら、あいつらに八つ当たりして迷惑掛ける』
『だから行かねぇ』
短い言葉で話を切り上げ、その先へ進ませようとしない。あれ以上踏み込めば、こちらへ向ける視線まで閉ざしてしまうだろう。そんな硬さが、彼の声にはあった。
ティアナは小さく息を吐いた。
(……嘘つき)
あの男が、傷ついた仲間へ当たり散らす姿など想像できなかった。口が悪く、態度も粗雑で、上官相手でさえ平気で皮肉を飛ばす。それでも、自分の苛立ちを誰かの傷口へ押しつけるような真似だけは、決してしない男だった。
ならば、なぜ病院へ行かないのか。答えは、彼の背中が示していた。
そこへ踏み込ませる言葉を、ティアナは持ち合わせていなかった。無理に連れ出すこともできる。けれど、今のホークに必要なのは、誰かに腕を引かれることではないのだろう。そう思い、ティアナは端末へ視線を戻した。
その時だった。
『ホーク。至急、こちらの現場まで来てくれる?』
高町なのはの声が、念話を通じて意識の奥へ届いた。
瓦礫を持ち上げていたホークの手が止まる。指先に食い込んでいたコンクリート片を静かに手放し、彼はゆっくりと顔を上げた。
「……俺にか」
『うん』
返答は短かった。いつものなのはなら添えていたはずの事情説明も、軽い調子の言葉もない。
わずかな間を置き、なのはは続けた。
『……確認してほしい物があるの』
その一言が届いた途端、ホークの指が手袋の上から掌を押さえた。
胸の底に、冷たいものが沈んでいく。何を見せられるのか、なのはが何を言おうとしているのか、まだ知らない。知らないまま、身体のどこかが先に答えを拒み始めていた。
「……分かった」
ホークはそれ以上尋ねず、崩れた廊下へ向かう。なのはたちが待っていたのは、損壊したロビーの一角。
床にはブルーシートが広げられ、採取された魔力残滓の記録、破損した基盤、黒く焦げた書類など、識別用のタグとともに並べられている。隊員たちは慎重に証拠を整理していたが、その周囲だけは妙に人の気配が薄かった。
高町なのは、シグナム、そしてティアナ。三人はシートの端に立ち、そこから少し離れた場所に置かれた二つの物体を見つめていた。
ホークが近づいても、誰もすぐには口を開かなかった。
「……何だ」
問いかける声が、思った以上に低く響いた。
なのはは視線を上げかけ、途中で止めた。下唇を噛んだ歯の跡が、わずかに白く浮かんでいる。言葉を探すように喉が動いたものの、結局、彼女は何も答えず、目の前のシートへ視線を落とした。
その先にあったのは、小さなぬいぐるみと、VRゴーグル。
ぬいぐるみは、炎に炙られて黒く変色していた。丸みを帯びていたはずの輪郭は崩れ、片方の耳は焼け落ちている。縫い目の裂けた腹部から、煤に汚れた綿がのぞいていた。
その隣に転がっているVRゴーグルも、元の姿をとどめていない。透明だったレンズは熱で白く濁り、プラスチックのフレームは歪んで内側へ折れ曲がっていた。露出した基板には、溶けた部品が黒い塊となってこびりついている。
ホークの足が止まった。
視線は、まずぬいぐるみに向いた。それから、VRゴーグルへ移る。もう一度ぬいぐるみを見て、そこに焼け残った布の色を確かめるように、目を細めた。
喉が上下する。息を吸おうとして、胸の途中で止まった。
それは、シャーリーが試作し、何度も改良を重ねていた体験用ゴーグルだった。ブルー・メテオに記録された飛行データを再生し、操縦席から眺める景色を疑似体験できるように設計したものだ。
初めてそれを使ったヴィヴィオは、目を輝かせていた。
『また飛びたい!』
『ホークと一緒にお空いく!』
声を弾ませながら、何度もゴーグルを装着し、映像が終わるたびにもう一度とせがんできた機会は多い。ブルー・メテオが雲を切り裂く場面では、幼い両手が膝の上でぎゅっと握られ、機体が旋回するたびに小さな身体が画面の動きに合わせて傾いていた。
その隣には、ヴィヴィオが大切そうに抱えていたぬいぐるみがあった。
眠る時も、遊ぶ時も、手の届く場所から離そうとしなかったもの。小さな腕で胸元に抱き寄せ、誰かに声を掛けられると、まるで紹介するように差し出していた。
今、その二つが、採取された破片と同じようにシートの上へ置かれている。
識別タグの番号が、煤けた布の傍らで白く光っていた。
ホークは、ようやく一歩を踏み出した。足首に巻きついた見えない鎖を引きずるように、ゆっくりと距離を詰めていく。二歩目を踏み出すまでに、不自然なほど長い間があった。
なのはは動かなかった。シグナムも、ティアナも、道を譲るようにわずかに身体を引いただけで、声を掛けようとはしなかった。
ホークが膝を折り、ぬいぐるみへ指先を伸ばした。触れる直前で一度手が止まる。黒く焼けた布地を傷つけないように、指の腹をそっと添えた。
かすかな接触に耐えられなかったのか、表面を覆う炭化した繊維が崩れ、灰となってシートへ落ちた。
焼け落ちた耳の付け根には、かつて縫い合わせていた糸が短く残っていた。裂けた腹部からは、泥を吸った綿がはみ出し、黒い粉がその周囲を汚している。
彼は指を離し、手袋の表面についた灰を見つめた。親指を少し動かすだけで、黒い粒子が布地の目に入り込んでいく。
視線が、隣のゴーグルへ移った。
シャーリーが、寝る間も惜しんで調整していた試作品。ブルー・メテオの飛行記録をもとに、視野角や映像の遅延まで細かく調整した装置だった。機材の調整に立ち会った時、彼女は自分の成果を説明しながら、何度も細部を確かめていた。ホークが指摘した不具合を一つずつ修正し、納得のいく映像になるまで試験を繰り返していた。
その景色を、ヴィヴィオは何度も見返した。
『もう一回!』
『ホーク、もう一回見せて!』
画面が暗転しても、ゴーグルを外したヴィヴィオの顔には笑みが残っている。小さな手が彼の袖を引き、次の再生をせがむ。彼がわざと返事を遅らせると、待ちきれないように爪先を揺らしていた。
ホークは、両手でゴーグルを持ち上げた。乾いた煤が制服の胸元へ落ちる。彼はそれを払おうともせず、ひび割れたレンズを正面から見つめた。
目元は煤で汚れ、口元には力が入っていた。目の前にあるものを見ているはずなのに、瞳はその輪郭を捉えきれず、ほんのわずかに焦点を揺らしている。
やがて、ゴーグルを支えていた左手が動かなくなった。
右手は、ゆっくりと握り締められていく。革手袋の表面が張り詰め、指の付け根に深い皺が刻まれた。掌へ押し込まれた指先が、肉に食い込むほどの力を加えている。手首から肘へ筋が浮き、制服の袖がわずかに引きつった。
それでも、ホークは顔を上げなかった。肩が、小さく震え始める。
抑え込んだ腕の筋肉が細かく痙攣し、喉の奥から漏れかけた息が、歯の隙間で潰れていった。拳を緩めることも、ゴーグルを置くこともできず、彼はただ、割れたレンズの中に映る自分の顔を見つめ続けた。
「……ホーク」
なのはが、その名を呼んだ。
返事はない。
次の瞬間、硬く握り込まれた拳の下から、赤い滴が一つ落ちた。
血はブルーシートの上で小さく弾け、白い繊維へゆっくりと染み込んだ。掌に食い込んだ爪が皮膚を裂き、革手袋の隙間から流れ出したものだった。
それでも拳は開かない。
「――っ、ホーク、もうやめなさい……!」
先に動いたのはティアナだった。
端末を置き、彼の右側へ回り込む。両手で前腕を掴むと、指が制服越しに沈み込んだ。腕は鉄棒のように硬く、骨の位置を確かめるほど力を込めても、握り締められた拳にはほとんど変化がなかった。
「そんなことしたって、ヴィヴィオは……、何も戻らないわよ!」
言葉の途中で、ティアナの声がかすれた。
ホークの右手から、また血が滲み出す。手袋の縁を濡らした赤が手首を伝い、シートの端へ落ちていった。
「そこまでにしろ、ネヴィル」
シグナムが背後へ回った。
彼女はホークの手首を押さえ、握り込まれた拳の合わせ目へ両手を添えた。骨や関節を傷めぬように力の向きを調整しながら、閉じた指を一本ずつ引き離していく。ホークの腕はなおも強張っていたが、シグナムは手を緩めなかった。
「己を傷つけて済む問題ではない。これ以上、血を流すことは私が許さん」
ティアナの手が前腕を押さえ、シグナムの指が拳を開かせる。
しばらくして、親指の力が抜けた。
続いて人差し指が離れ、固まっていた残りの指も、関節を震わせながらゆっくりと開いていく。掌には深い爪痕が刻まれ、裂けた皮膚の間から血が滲んでいた。
深く息を吸い込む。
胸が大きく膨らんだものの、吐き出す息は喉の途中で引っかかった。もう一度、今度はゆっくりと吸い込む。肺へ入った空気が焼けたように胸の奥を擦り、吐息がかすかな音を立てて抜けていく。
呼吸を整えようとしても、指先は小刻みに震えたままだった。
「……クソったれ」
乾いた唇から、低い声が零れた。それきり、口を閉ざす。
握り締めていた拳の代わりに、彼は膝の上で開いた掌を強く押さえた。手袋に染み込んだ血が、指の動きに合わせて鈍い光を放っている。
「……悪ぃな、ヴィヴィオ……。約束、守れなかった」
声は、足元のシートへ落ちるほど低かった。
なのはの肩がわずかに動き、息を吸う音が聞こえた。ティアナは唇を結んだまま、ホークの腕を掴んでいた手を胸元へ引き寄せる。シグナムは視線を伏せ、血の付着した手袋から静かに手を離した。
誰も、返す言葉を見つけられなかった。
ブルーシートの上には、焼け焦げたぬいぐるみと、壊れたVRゴーグルが並んでいる。その間に落ちた血が、朝の光を受けながら少しずつ暗い色へ変わっていった。
ホークは俯いたまま、しばらく動かなかった。
重い沈黙の中で、現場検証は続いていた。
遠くから隊員たちの足音が聞こえ、機材を運ぶ台車の車輪が床の亀裂を越えるたび、小さな振動が伝わってくる。ここだけが世界から切り離されたわけではない。ほかの場所では救助の記録がまとめられ、復旧の段取りが組まれ、動ける者たちは次の作業へ向かっている。
灰になりかけたぬいぐるみを、壊れ物を扱うように両手で持ち上げる。布地の崩れそうな部分を避け、残った輪郭を崩さぬように、ブルーシートの上へそっと戻した。
「……悪い」
誰に向けた言葉なのか、なのはたちには分からなかった。
ホークは血の滲んだ掌を見下ろし、制服の袖口で無造作に拭った。赤い筋が布地に残る。もう一度拭おうとはせず、彼は濡れた袖を下ろした。
「取り乱した」
淡々とした声だった。
先ほどまで腕を震わせていた男と、同じ人物が口にしたとは思えないほど、声の抑揚が戻っている。だが、掌を握り直そうとした指は途中で止まり、彼は手を開いたまま膝の横へ垂らした。
ホークは顔を上げ、ティアナを見た。
「ティアナ」
「……何?」
「悪い。少し付き合え」
ティアナは彼の手元へ一度視線を落とし、それから顔を見た。声を掛けたい言葉がいくつも浮かびかけたものの、彼の目がすでに別の場所を向いているのに気づき、口を閉じる。
「……分かった」
シグナムも無言で頷き、二人の後に続いた。
三人が向かったのは、半壊したホークの私室だった。
壁の一部は崩落し、天井には大きな穴が開いている。むき出しの梁を通して差し込む朝日は、床に積もった灰と細かな木片を容赦なく照らしていた。倒れた棚の引き出しは床を滑った末に割れ、中身の一部が、崩れた壁の向こうへ押し流されている。
それでも、部屋の隅だけは奇跡的に形を保っていた。
壁際には、頑丈な紙袋がいくつも並べられていた。周囲の瓦礫を避けるように間隔を空け、倒れないよう底を揃えてある。袋の口からは、果物の包みや飲料の容器が覗いていた。
ティアナは足を止めた。
「……これ、何?」
「ああ」
ホークは近くの袋を一つ持ち上げた。紙の表面には煤がついていたが、取っ手は破れておらず、中身も潰れていない。
「昨日、ここがやられた後に用意した。現場検証が始まる前にな」
「え……?」
「見舞い用だ」
短い説明のあと、ホークは袋を傾け、口を少し開いた。
中には果物や飲み物のほか、小さな菓子、最新の雑誌、暇潰し用のゲームソフト、それに筆記具まで入っていた。白い病室で過ごす時間が少しでも短く感じられるように、品物は一つずつ選ばれている。
袋の表面には、それぞれの名前が書かれていた。
スバル、エリオ、キャロ。
その先にも名前が続いている。ロングアーチのスタッフ一人ひとりに宛てたものだった。筆跡はいつものホークの荒っぽい文字で、名前の一部は袋の皺に沿って歪んでいたものの、書き損じはない。
「……全部、あんたが?」
「ほかに誰がいる」
ホークは袋の口を閉じ、紙の端を折り込んだ。
「検証が始まる前なら、ここがまだ残ってると思ってな。必要なものだけ先にまとめた」
それから、口の端をわずかに持ち上げる。
「結果オーライだ」
笑みの形だけが、そこに残った。
ティアナは手元の袋を見つめたまま、言葉を出せずにいた。
あの夜、隊舎が襲撃され、仲間たちが負傷した。その最中にホークは空を飛び、敵を迎撃し、目の前の脅威を一つずつ排除していた。その合間に、病室で過ごすことになる仲間たちのため、これだけの品物を準備していたのだ。
必要な物を買い集めただけなら、ここまで細かく気を配る必要はない。
ホークは袋の一つを持ち上げ、ティアナへ差し出した。
「悪いけど、頼む」
「……ホーク」
「俺は行かねぇ」
言い切った彼の指が、紙袋の取っ手を一度握り直す。
「今の俺が行っても、空気悪くするだけだ」
「違う」
ティアナは、袋を受け取る前に彼の顔を見た。
「あんたは、そんなもっともらしい理由で行かない人じゃないわ」
ホークの目が、わずかに動く。
「怖いのよ。みんなの顔を見るのが」
「……」
「みんなの傷跡を見て、ヴィヴィオのいない現実を突きつけられるのが――怖いのよ。だから行かない」
言葉が途切れたあとも、ティアナは目を逸らさなかった。
ホークはしばらく彼女を見返していた。やがて視線を横へ流し、崩れた壁の隙間から差し込む光を眺める。頬に煤が薄くついている。右手の袖口には、拭いきれなかった血の色が残っていた。
「……さすが、お前だ」
小さな息が鼻から抜け、口元に苦い笑みが浮かんだ。
否定の言葉は出てこなかった。彼は肩をわずかに竦めたものの、その動きは途中で止まり、指先が紙袋の縁をなぞった。
ティアナは差し出された袋を受け取り、胸元へ引き寄せた。
「でも、あんたが今、そうやって独りで踏ん張りたいなら、私はそれを尊重するわ」
「……助かる」
「伝言は?」
ホークはすぐには答えなかった。
瓦礫の向こうで、金属片が落ちる音がした。彼はそちらへ目を向けてから、再びティアナへ視線を戻す。
「スバルには――」
ほんの少し、口元が動いた。
「――焦んなって、そう伝えといてくれ」
「分かった」
「エリオとキャロには、退院したらまた色々と手伝ってやる、と」
ティアナは一つずつ頷きながら、預かった袋を両腕で抱え直した。
「ロングアーチのみんなには?」
問いかけに、ホークの視線が下がった。
紙袋の表面に並ぶ名前を、彼は一つずつ目で追った。最後の名前に辿り着くまでに、わずかな間が空く。
「借りは返す。それだけだ」
それ以上の言葉はなかった。
ティアナは袋の底を支え直し、彼が口にした伝言を胸へ刻み込むように、ゆっくりと頷いた。
少し離れた場所から二人のやり取りを見守っていたシグナムが、静かに口を開いた。
「……ネヴィル」
「何だ」
「少し、休め。これは命令ではない」
ホークの目が、シグナムへ向いた。
彼女はいつものように腕を組むことも、厳しい表情で相手の返事を待つこともしなかった。ただ、床に落ちた瓦礫を避けながら一歩近づき、その手元へ視線を落とす。
「戦士としての忠告だ」
ホークは手袋の破れた箇所を親指で押さえ、しばらく黙っていた。やがて、鼻から細く息を吐き出す。
「休むさ。少しだけな……」
返事はいつもの調子に近かった。だが、そのあとに続くはずの皮肉も冗談もなく、彼は顔を背けたまま口を閉じた。
そこへ、新たな念話が割り込んできた。
『ホーク・ネヴィル』
時空管理局の若き提督、クロノ・ハラオウンの声だった。
『休暇申請についての許可が下りた』
ホークは視線を落としたまま応じる。
「……了解」
『ただし、条件付きだ』
「二十四時間監視、だろ」
『その通りだ』
クロノの声は事務的だった。規定を読み上げるような抑揚のなさが、決定の変更を認めないことを示している。
『滞在先は、以前届け出のあった空き家とする。監視員はこちらで配置する。それと――』
通信の向こうで、短い間が空いた。
『ブルー・メテオは、引き続き機動六課の管理とする。今後、部隊の再編に伴って移送が必要となれば、その措置を行う。……異論はあるか』
「ない」
『……そうか。なら、休め。命令だ』
通信はそこで切れた。
ホークは念話を終えたあとも、しばらくその場に立っていた。やがて、崩れた私室へ視線を戻す。
壁際には、使い込んだ工具が散らばっていた。柄に巻いた滑り止めのテープが剥がれ、金属部分には灰と細かな傷がついている。長い時間をかけて手に馴染ませた道具ばかりだった。
ホークはその場にしゃがみ込み、工具を一本ずつ拾い始めた。
布で表面の煤を拭い、破損の有無を確かめてから箱へ収める。写真立ては割れたガラスに触れないよう両手で拾い、破片を取り除いて、残った写真を別の紙に包んだ。
予備の制服は、汚れた箇所を外側にして畳んだ。読みかけの本は、折れたページをそっと戻し、破れた表紙を押さえて箱の隅へ置く。マグカップは取っ手の根元にひびが走っていたが、欠けた部分は見当たらなかった。ホークはそれを一度確かめ、布で包んでから、ほかの荷物とは分けて収めた。
手つきに迷いはなかった。
物を拾い、状態を確かめ、運べるものを箱へ移す。破損したものは脇へ避け、必要なものだけを残していく。そうしている間だけは、考えずに済んだ。
それでも、箱へ収めるたびに、床に残る私物は少なくなっていった。
彼の生活を形作っていたものが、少しずつ段ボールの中へ移されていく。壁際に置いていた道具も、机の上で開きっぱなしになっていた本も、日常の隙間に放り出していた小物も、最後にはすべて箱の中で動かなくなった。
残された室内には、空になった棚と、崩れた壁だけが広がっている。
ホークは最後の箱へ道具を収めると、ガムテープを引き出した。粘着面が指先に張りつき、引き剥がす音が静かな室内に響く。箱の合わせ目を丁寧に塞ぎ、端が浮かないように手のひらで押さえた。
昨日まで、確かにここで暮らしていた。目を閉じなくても手の届く場所に道具があり、椅子に腰掛ければ机があり、疲れて戻れば身体を横たえる寝床があった。そんな当たり前の配置は消え、家具の残骸と剥き出しの土砂が、それぞれ元の位置を示すように散らばっている。
「……こんなもんか」
ホークは箱の蓋を押さえ、留めたテープの端を確かめた。
ティアナは見舞い品の詰まった紙袋を抱えたまま、彼の背中を見つめていた。瓦礫に囲まれた場所に、段ボール箱を前にして立つ青年。その姿は、これから新しい住処へ移る人間のものと何ら変わらない。けれど、彼の足元には、もう帰ることのできない部屋が広がっている。
「全部、ひとりで運ぶの?」
「ああ」
「……手伝うわよ」
「いや」ホークは首を横に振った。「これは、俺がやる」
言葉に余地はなかった。声を荒らげたわけでも、睨みつけたわけでもない。ただ、自分の荷物へ手を伸ばそうとしたティアナの動きを見て、静かに拒んだ。
ティアナは指先を止め、しばらく彼を見つめたあと、手を引いた。
「……分かった」
それ以上、踏み込むことはしなかった。
シグナムがホークのそばへ歩み寄る。
「ネヴィル」
「何だ」
「必要なら、いつでも連絡しろ。……我々はここにいる」
ホークは彼女の顔を見上げた。
いつものように軽口を返すことも、皮肉を交えて話を切り上げることもしなかった。数秒の間を置き、短く頷く。
「……ああ」
それだけで、会話は終わった。
隊舎の外へ出ると、冷え切った空気の中に管理局の車両が停車していた。灰色の車体には煤一つついておらず、前面の識別灯が朝日を受けて小さく反射している。
車両の脇には、銃を携えた武装局員が二名。その少し後方では、張り詰めた面持ちの私服姿の執務官補佐官が携帯端末を操作していた。
ホークが荷物を抱えたまま近づくと、補佐官が顔を上げる。
「ホーク・ネヴィル隊員ですね」
「ああ」
「本日より、休暇期間中の監視を担当します」
「好きにしろ」
「滞在先までは我々が同行します」
「了解」
必要な確認だけが、途切れなく交わされた。
局員の一人が車両の後部扉を開け、荷物の積載スペースを確かめる。補佐官は端末の画面とホークの顔を交互に確認し、規定の項目にチェックを入れた。
事務的な動作に滞りはない。
だからこそ、その手続きが彼を休ませるためだけのものではないことも明白だった。二十四時間の監視と、ブルー・メテオの管理継続。自由な外出も、機体への接触も、以前と同じようにはいかない。
ホークは確認書類に目を落とすことなく、局員の指示に従って荷物を積み込んだ。
その背中を、ティアナは隊舎の入り口から見送っていた。
ホークが車両へ乗り込む直前、一度だけ顔をこちらへ向けたように見えた。だが、それもほんの一瞬。すぐに視線を外し、彼は後部座席へ身体を滑り込ませた。
扉が閉まる。
エンジンが始動し、タイヤがゆっくりと回り始めた。車両は瓦礫の散らばる道路を抜け、崩れた隊舎の向こうへ走り去っていく。
その姿が見えなくなるまで、ティアナは動かなかった。
「……行っちゃったわね」
呟きは、誰に向けるでもなく零れた。
両腕の中で、紙袋の取っ手が指に食い込んでいる。
果物や飲み物、雑誌。どれも、病室で過ごす仲間たちの手元に届けるための品だ。袋の中身は見舞いのために選ばれたものにすぎない。それなのに、腕へかかる重みが、数字で示せる荷物の重さだけとは思えなかった。
袋の表面に並ぶ名前を、ティアナは一つずつ指でなぞった。
紙が、かすかに鳴った。
昼過ぎ、管理局の車両は街外れの保全区域へ到着した。
街の喧騒から離れた一角に、古い木造住宅がひっそりと建っている。庭には手入れをされなくなった雑草が伸び、縁側の板は日に焼けて白茶けていた。雨樋には落ち葉が詰まり、軒先の木材には長い年月を経てできた黒ずみが残っている。
かつて誰かが暮らしていた家なのだろう。けれど、今は窓の内側に人影一つなく、風が吹き込んでも戸が鳴るだけだった。
玄関には、管理局の保全管理を示す赤い封印が貼られていた。
監視員が携帯端末をかざすと、認証音が鳴り、電子的な解除処理が進む。ほどなくして、封印の表示が切り替わった。
「確認終了」
監視員は玄関脇へ退き、開いた戸の先を示した。
「これより、使用を許可します」
「……ああ」
ホークは段ボールを抱え直し、薄暗い屋内へ足を踏み入れた。
監視員たちは玄関の外で待機していた。
二十四時間監視という条件はついているものの、家の中にまで踏み込んでくることはない。開いた戸の向こうに局員の影が見え、外へ視線を向ければ、いつでもこちらを確認できる位置に立っているのが分かった。
ホークは一度だけ玄関を振り返り、視線を室内へ戻した。
ここには、誰もいない。
昨日までの隊舎にあった足音も、誰かが呼ぶ声も、食堂から流れてくる匂いもない。古い畳と木材の臭いに包まれた空間には、彼が持ち込んだ段ボール箱だけが並んでいる。
ホークは箱の一つに腰を下ろし、荷物の隙間から写真を取り出した。
写真の表面には細かな擦り傷がついていた。縁は少し曲がり、端の部分に煤の跡が残っている。それでも、写っている人物の顔は判別できた。
「……すまねえ」
声が、畳へ落ちた。
「ギンガ……」
返事はない。
写真の中のギンガは、まっすぐにこちらを見つめていた。カメラを意識して背筋を伸ばした姿勢と、わずかに緩んだ口元。その表情を確かめるように、ホークは写真を持つ指の位置を変えた。
あんなに嬉しそうに、また一緒に戦えると言って笑ってくれた。
あの時、ギンガは迷いなく彼の前に立っていた。再び同じ場所で戦えることを疑いもせず、以前と変わらない調子で言葉を交わしてくれた。
ホークは写真の端を親指で押さえた。
指先に力が入りかける。紙が曲がる寸前で手を緩め、彼は写真を膝の上へ置いた。呼吸のたびに胸が浅く上下し、息を吐くと、薄暗い部屋にかすかな音が残った。
次に、視線が段ボールの脇へ落ちる。
そこには、瓦礫の中から拾い上げた小さな紙片があった。
ホークは身を屈め、それを両手で持ち上げた。紙の端には細かな皺が寄り、幼い文字の線はところどころ歪んでいる。それでも、一字一字を追うことに時間はかからなかった。
『ホーク またおそらいこうね』
ヴィヴィオの書いた文字だった。
紙面には、爆風の熱に焼かれた跡がない。文字の一部には筆圧の強い痕が残り、最後のね、という字は少しだけ大きく傾いていた。
ホークの指が、紙の端で止まった。
すぐにはなぞらず、彼は文字を見つめたまま息を吸った。胸の奥まで空気が入る前に喉が狭まり、吐き出す息が短く切れる。
何度か呼吸を繰り返したあと、ようやく指先が動いた。
幼い文字を、壊れ物に触れるようにそっと撫でる。紙がわずかにしなり、指の腹に乾いた感触が伝わった。
「悪い」
同じ言葉を繰り返そうとしても、喉が閉じたまま動かなかった。
ホークは紙片を胸元へ引き寄せた。指先が震え、紙の端が微かに鳴る。顔を背けても、目を閉じても、そこに書かれた文字だけは消えてくれなかった。
唇が開く。息を吸おうとした瞬間、喉の奥で何かが引っかかった。
「……っ、……あ……」
肩が大きく跳ねた。
もう一度息を吸い込む。胸がせり上がり、空気が気管を擦る。吐き出した息は途中で崩れ、掠れた音となって畳へ落ちた。指先から力が抜けかけ、ホークは紙片を落とさないよう慌てて両手で包み込む。
「くそ……っ!」
吐き出した声が、薄暗い部屋の壁にぶつかった。
ホークはその場へ身体を折り、額を冷たい畳へ押しつけた。紙片を握る指先だけは開けず、額を畳に触れさせたまま、何度も息を吸おうとする。肺へ入る空気は細く、喉の奥で引きつるような音が途切れ途切れに続いていた。
「なんで……なんでだよ……!」
声が震え、最後の音が掠れた。
答えるものは何もない。
外では監視員が持ち場を守り、携帯端末に記録を入力している。遠くを走る車両の音も、庭の草を揺らす風の音も、この家の中まではかすかにしか届かなかった。
「守れなかった……!」
額を押しつけた畳が、吐息の熱を受けてわずかに湿った。
声を押し殺そうとしても、胸が勝手に震えた。息を吸い込むたびに喉が詰まり、肩が波打つ。こらえようと歯を食いしばれば、顎の筋肉が強張り、閉じた唇の隙間から不規則な呼吸が漏れた。
それでも、手の中の紙片だけは離さなかった。
誰も見ていない。
機動六課の隊員として、任務を遂行する戦士として、ブルー・メテオを操るエースパイロットとして、彼が人前で保ち続けてきた姿は、ここにはない。
監視の目は玄関の外にある。規定に従って報告を続ける局員たちは、部屋の奥で何が起きているのか知らない。薄暗い室内には、崩れた呼吸と、畳へ落ちる嗚咽だけが残されていた。
ホークは額を床につけたまま、何度も息を吸った。
そのたびに喉が震え、肩が小さく跳ねる。拭う手もなく、声を整える余裕もない。歯を食いしばって押し戻してきたものが、呼吸とともに次々と溢れ出していく。
朝からずっと、彼は誰の前でも立ち止まらなかった。
瓦礫を退け、証拠を確かめ、仲間への見舞い品を託し、自分の荷物をまとめた。必要なことを一つずつ済ませ、返すべき言葉を返し、監視員の指示に従って、この空き家まで辿り着いた。
そのすべてを終えた今、もう手を動かし続ける理由はなかった。
「……っ、ヴィヴィオ……」
声が途切れた。
ホークは紙片を額の下へ挟み込まないよう、両手で包んだまま顔を横へ向けた。目元からこぼれた涙が畳へ落ち、乾いた繊維の色を濃くしていく。
喉の奥で、また嗚咽が引っかかった。
彼は拳を握らなかった。床を殴ることも、手近な物を投げつけることもしない。ただ小さな紙片を胸に抱き寄せ、身体を丸めたまま、声を抑えられずに泣き続けた。
外の世界では、昼の光が庭を照らしていた。
伸び放題の草が風に揺れ、閉じられた窓の向こうには、古い部屋の静けさが広がっている。
その暗がりの中で、ホーク・ネヴィルはようやく、誰にも見せずにいた顔を畳へ伏せた。
ブルー・メテオの操縦士でも、機動六課の戦士でもない。
守ると口にした約束を果たせなかったまま、幼い文字を握り締め、呼吸を乱しながら涙を流す、一人の青年として。