魔法少女リリカルなのはStrikerS ~STAR HAWK:Lone Flight~ 作:マジフジ
守れなかった仲間たちへの悔恨を抱え、墓前で言葉を探すホーク。帰宅した彼を待っていたのは、ティアナから届いた仲間の言葉と、養父の遺品の中から見つかった一通の封筒だった。
宛名は、ただ一言――『ホークへ』。封を開けることのできない手紙を前に、彼は何を思うのか。
過去と向き合い始めた青年は、再び仲間たちの待つ戦場へと戻っていく。
機動六課襲撃から、二日。
与えられた休暇の初日の朝、ホーク・ネヴィルは、久しく人の気配を失っていた自宅のベッドで静かに目を覚ました。
窓の隙間から差し込む朝日が、埃の舞う室内を淡く照らし出している。機動六課へ加わって初めての休暇にこの家へ戻った時から、室内は何一つ変わっていなかった。
玄関先には靴が脱ぎ捨てられ、壁際には工具箱が無造作に立て掛けられていた。幾度も使い込まれて色褪せたソファの向こう、部屋の片隅には古びた写真立てが静かに飾られている。
その写真の向こうの笑顔へ目を向けたホークは、何も言わなかった。ただ、胸を焦がすような沈黙だけが部屋を満たしていく。
写真立ては、彼が家を出た日のまま、棚の端に置かれていた。額縁の表面には薄く埃が積もっているのに、ガラスの内側に収められた二人の顔は変わらない。スティーブンの肩に腕を回され、まだ頬に幼さを残した自分が、カメラの向こうを睨むように見つめている。笑顔を作るのが苦手だった少年に、養父は何度も「写真くらいは愛想よくしろ」と小言を言った。あの頃は鬱陶しく聞き流していた声が、今は記憶の底で妙にはっきり響く。ホークは写真立てへ手を伸ばしかけ、指先が触れる前に腕を下ろした。埃を払うのは、帰ってからでもいい。そんな言い訳を胸の内で作り、彼は洗面所へ向かった。
ゆっくりと洗面所で顔を洗い、冷たい水で意識を研ぎ澄ますと、一度ベッドサイドへ戻り、引き出しの奥から黒いネクタイを取り出した。
いつもなら、堅苦しいと敬遠して締めないものだ。だが、今日ばかりはそうはいかなかった。鏡の前に立ち、襟元を正して慎重に結び目を作っていく。スティーブンが生前、だらしない着こなしを許さなかった男だったからだ。指先を少しだけ震わせながら、ネクタイの結び目を首元へと丁寧に押し上げる。
最後に無言のまま黒いジャケットへと袖を通し、全身の身だしなみを厳かに整える。それから机の引き出しを開き、あらかじめ用意しておいた小さな紙袋を取り出した。中には昨夜、遅くまでかけて自分の手で丁寧に包んだ、白い花束が収まっている。その清らかな色彩を確かめるように一度だけ視線を落とすと、ホークは静かに玄関の扉を開いた。
外の静まり返った通りには、一台の管理局車両が停車していた。車体に寄り掛かっていた局員が、ホークの姿を認めると小さく姿勢を正し、軽く会釈をする。
「ネヴィル隊員、お待ちしていました」
「ああ」
短く、低く返事をすると、ホークは助手席ではなく、後部座席のドアを開けて乗り込んだ。
運転席には管理局員が一人、助手席にももう一人が乗っていた。休暇という名目ではあるものの、依然として仮釈放中の身である彼に、完全な単独行動は許可されていない。常に監視の目が付き纏い、拘束は続いていた。それでも、今日この日に限っては、誰一人として彼の行き先を無粋に尋ねる者はいなかった。
事前に提出された外出届の目的地欄には、ただ一か所、その場所だけが記されていたからだ。
――スティーブン・グレイ墓苑。
静かにエンジンが始動し、車両が滑るように走り出す。車窓の向こうへ流れていく、どこか遠い世界のような見慣れた街並みを眺めながら、ホークは膝の上に置いた花束へ、そっと片手を添えた。
今日だけは、組織に縛られた一人の局員でも、戦うためだけの魔導師でもない。ただ一人、育ててくれた男へ報告に向かう。それだけだった。
車内の空調は一定の温度を保っていたが、ホークの指先は花束の包み紙を何度も撫でていた。少し力を入れれば、薄い紙にはすぐ皺が寄る。昨夜は花の向きを何度も直し、包み直すたびに結び目が気に入らず、結局、窓の外が白み始めるまで手を動かしていた。任務の準備なら、必要な装備を揃えて確認すれば済む。誰かへ花を贈るために、どの色を選び、どこまで整えるべきなのか。そんなことを真面目に考えたのは、これが初めてに近かった。車窓を流れる街並みは見慣れているのに、今朝はどの建物も薄い膜越しに遠ざかっていくように映った。
やがて車は、小高い丘の中腹に広がる墓苑の前で静かに停止した。
ドアが開く。ホークは膝の上の花束を抱えたまま車を降りると、見送る局員たちへ小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「お迎えは予定どおりでよろしいですね」
「ああ」
管理局員はそれ以上何も言わず、ただ静かに彼の背中を見守る。
墓苑の入口で立ち止まったホークは、深呼吸とともに一度だけ空を見上げた。そこには、雲ひとつない、どこまでも突き抜けるような青空が広がっていた。
「ここから先は、お一人でどうぞ。我々はこちらで待機します」
管理局も、この時間だけは彼の背後に余計な監視の目を張り付かせようとはしなかった。もちろん、墓苑全体の広域警備は継続されている。だが、一人の息子が亡き養父と対面する時間まで奪うほど、彼らは無粋ではなかった。
局員の一人はそう告げたあと、ホークが歩き出すまで視線を向けていた。任務中なら、その視線を監視と受け取り、皮肉の一つも返していたかもしれない。今は振り返って確かめる気にもなれなかった。ここで見張られている事実が消えたわけではない。許可された範囲を外れれば、すぐに呼び止められるだろう。それでも、数十歩先からは、自分の足音だけを聞いて歩ける。与えられたのは自由ではなく、限られた時間だった。その境界を理解したうえで、ホークは紙袋を抱え直した。
ホークは小さく頷いた。
「悪い」
それだけを言い残し、紙袋を両手で抱え直したまま、青々と広がる芝生の遊歩道をゆっくりと歩き始めた。靴底が柔らかな芝を踏みしめる音だけが、静寂の中に優しく響いていく。
やがて、目的の場所が見えてきた。周囲の風景に溶け込むように、小さな墓石が佇んでいる。磨かれた黒い石肌には、余計な装飾も言葉も一切刻まれてはいない。この墓苑は高く積み上げられた墓石ではなく、地面へと静かに埋め込まれたプレート型のものが大半を占めていた。色鮮やかな花壇や若木が丁寧に手入れされており、墓地というよりはむしろ、陽だまりの公園に似た穏やかな空気が流れている。
墓石に刻まれているのは、名前と生年、没年だけだった。階級も勲章も功績を称える言葉もなく、そこには一人の男が生きたという事実だけが静かに残されていた。ホークは墓前まで歩み寄り、しばらくの間、微動だにせず刻まれた文字をじっと見つめ続けた。
「……来た」返事はない。
そんなことは分かっている。それでも、せき止められていた感情の欠片のように、自然と言葉が唇から漏れ出していた。
両手の白い花束を取り出し、静かに花立てへと供える。次に、近くの給水所で小さなバケツに水を汲んでくると、墓石の頭からゆっくりと注ぎかけた。透明な水が黒い石肌を伝い、差し込む朝日を反射して小さく眩しく輝いた。
ジャケットのポケットから、一枚の布を取り出した。何度も洗い込まれ、使い古された柔らかな布だった。
ホークは黙ったまま、その布で墓石を磨き始める。
鋭い角も滑らかな縁も、深く刻まれた文字の凹凸も、壊れ物を扱うように丁寧に磨いていった。それは汚れを落とすというより、そこに眠る男の記憶を自らの指先で確かめるような作業だった。
やがて水気をきれいに拭き終えると、今度は墓の周囲へと視線を巡らせた。風で集まった落ち葉を一つひとつ拾い、生えかけた雑草を根元から静かに引き抜いた。芝の乱れを手で均し、風に煽られて倒れかけていた他家の供花を真っ直ぐな位置へと戻した。
誰に教えられたわけでもない。昔から、ここを訪れるたびにそうしてきた。
すべての掃除が終わる頃には、墓前は朝に到着した時よりも、少しだけ清らかで美しい佇まいを取り戻していた。
指の腹には湿った石の冷たさが残り、爪の間には芝を抜いた時の土が入り込んでいた。ホークは手を払わず、その汚れをしばらく見つめた。スティーブンは工具を使ったあと、必ず刃先や取っ手を拭いてから片付けた。次に使う時に困らないように、というのが口癖だった。誰も見ていない場所でも手を抜くな、と何度も言われたものだ。墓の掃除にまでその教えが染みついているのかと思うと、ホークは喉の奥で小さく息をついた。こうして石を磨き、周囲を整えても、刻まれた年号は変わらない。手を動かしている間だけ、何かをしていると思える。その時間が終わった今、ようやく言葉にしなければならないことが残っていた。
ホークは、その場に静かに腰を下ろした。片膝を立て、その上に腕を置き、じっと墓石を見上げる。
「……守れなかった」それは、風に消えてしまいそうなほど静かな、独り言のような声だった。
「……全部奪われちまった」
ヴィヴィオとギンガ、焼け落ちた隊舎、傷だらけになった仲間たちの姿が、俯いた頭の中へ呪縛のように浮かんでは消えていく。守るための力があると過信していた。その結果が、この無力な結末だった。
「親父なら……また説教だ」短く漏らしたその一言に、自嘲とも苦笑ともつかない息が混じる。
返事はない。あるはずもない。
それでも、昔は無茶をするたび、一人で飛び出すたびに、決まって拳骨が飛んできた。
『全部一人で背負うな』
今さらになって、その言葉だけが胸の奥で静かに響いていた。
「……悪い」
ぽつりと溢れ出たその謝罪が、一体何に向けられたものなのか、今のホーク本人にも境界線は分からなかった。
遺したブルー・メテオを勝手に継いだことか、十五歳という若さで書き置きも残さず、地位や人間関係をすべて捨てて飛び出したことか。それとも、二年が経った今も親父の仇を討てずにいる自分自身への詫びなのか。
長い、長い沈黙だけが二人の間に流れていた。
冷たい風が青い芝生を大きく揺らし、周囲の木々が寂しげにざわめいた。
やがて、ホークはゆっくりと立ち上がった。ジャケットに付いた芝の破片を軽く払い、黒い墓石へともう一度だけ、名残惜しそうに視線を向ける。
「……またここに来られるかどうかも分からねえけどな……」
それだけを告げた。男同士の別れに、これ以上の湿っぽい言葉は必要なかった。
踵を返し、元来た道を一歩ずつ歩き始める。
しかし、数歩ほど進んだところで、ホークの足が不意に止まった。
少しだけ空を見上げて深く息を吐く。自分の思いつきに呆れたような笑みを浮かべ、ようやく「……親父」と誰もいない空間へ静かに声を落とした。「ちょっと、寄り道してくるわ」
ホークは振り返らず、眩しい朝日の向こうを見据えた。
「クイントさんと、ゼストさん……あのお二人のところにも、ちょっと顔を出してくる」
一拍置き、どこか懐かしむように言葉を紡いだ。
「……みんな、あんたの、大切な仲間だったんだろ」
そう呟き終えると、今度こそホークは迷いなく歩みを再開した。
朝日に黄金色に照らされた芝生の中を、ホークは一人、背中に確かな温度を宿しながら静かに歩み去った。
その日、ホークは墓苑のさらに奥へと足を運び、二つの墓の前でも同じように静かに白い花を手向けた。
クイントの墓の前では、ホークは花を供えたあと、すぐには手を合わせなかった。スティーブンから聞かされた話の中で、彼女はいつも、迷いを引きずるより先に身体を動かす人として語られていた。ギンガとスバルを保護した時も、危険を承知で手を差し伸べたのだと聞いている。今、二人の娘がそれぞれ別の場所で傷を負い、ギンガは敵の手に落ちている。自分が彼女に何を報告できるのかを考えると、花を持つ手の位置が定まらなかった。
ゼストの墓の前では、もう少し長く立ち止まった。スティーブンが背中を預けた戦友であり、ホーク自身にとっても、養父の過去を知るうえで無関係ではいられない男だった。彼らが同じ戦場で何を失い、何を守ろうとしたのか、ホークが知っているのは断片にすぎない。語られなかった部分を勝手に埋めることはできなかった。だからこそ、花を供え、墓石の周りを整え、頭を下げる。今の自分にできるのは、それだけだった。
交わす言葉は多くなかった。短く手を合わせ、冷たい水を替え、墓石の周囲を静かに整えてから、深く頭を下げる。
亡き者へ向ける言葉は、生きている者へ語るものとはまるで違う。多くを並べ立てて言い訳をする必要はなかった。彼らの中に息づく想いへ、届くべきものだけが届けば、それで十分だった。
昼前になる頃、墓苑の出口まで戻ってきたホークを、ロータリーで待機していた管理局車両が静かに迎えた。運転席の局員は、何も尋ねようとはしなかった。どこへ行き、誰の墓に会ってきたのか。公的な報告書には冷徹に記録されるとしても、この場でわざわざ口にするほど野暮な男たちではなかった。
「お疲れさまでした」
「ああ」
短いやり取りだけを交わし、ホークは再び後部座席の定位置へ腰を下ろした。
重いエンジン音を響かせ、車は静かに墓苑を後にした。窓の外では、小高い丘の上に広がる穏やかな芝生が少しずつ、少しずつ遠ざかっていった。
スティーブンや戦友たちの黒い墓石も、あとに残してきた白い花束も、やがて木立の向こうへ隠れて見えなくなった。ホークは一度だけ静かに目を閉じた。車内には、単調なロードノイズだけが虚しく流れていた。
自宅へと戻ってきた頃には、正午を少し回っていた。
送り届けてくれた管理局車両が走り去るのを見送ると、ホークは錆びついた鍵を開け、静かな玄関の扉を押し開けた。誰もいない部屋には、今朝出立した時と何一つ変わらない濃密な静寂が横たわっていた。
玄関を閉めると、外の風音が途切れ、家の中に溜まっていた古い空気が戻ってきた。朝に出た時は写真立てや工具箱を見ないようにしていたが、今はそれらが視界の端へ自然に入り込んでくる。墓前で何を言ったところで、ここに残された物が消えるわけではない。黒いジャケットの肩には、墓苑の芝から移った細かな草片がまだ付着していた。ホークはそれを摘み取って床へ落とし、指先でネクタイの結び目を確かめた。きっちり整えた襟元が、急に首を締めつけているように感じられた。
一歩中へ入り、張り詰めていた黒いジャケットを脱ぎ捨てる。だらしのない着こなしを嫌った養父に倣い、律儀に結んだままだったネクタイをようやく緩めようとした、その時だった。
静寂を破り、携帯端末が短い電子音を響かせ、通信の着信を告げた。ホークは動きを止め、手元の液晶画面へと視線を落とす。
『ティアナ・ランスター』
発信者の欄に表示されたその名前を見て、ホークは小さく、複雑な息を吐き出した。
「……ティアナか」
緩めかけたネクタイの結び目に手を当てたまま、ホークは静かに通信を開いた。
『もしもし、ホーク?』
画面の向こうから、ティアナの聞き慣れた声が響く。
「ああ」
『休暇中に悪いわね。でも、先に伝えておきたいことがあったから』
「構わねえよ。何かあったか」
ホークの返事を聞くと、ティアナは一度だけ画面の向こうで頷き、事務的な口調で報告を始めた。
『まず、ブルー・メテオだけど、アースラへ移送されたわ。本局の整備班と技術部が共同で管理することになったから、しばらくは向こうの格納庫で厳重に保管される手はずよ』
「……そうか」
かつて養父が鍛え上げ、自らが駆った愛機の行方を、ホークはただ静かに受け止める。機体の状態を想像する癖は、報告を聞いた瞬間にも働いた。損傷した外装はどこまで交換されるのか。制御系に異常はないのか。技術班が手を入れるとしても、設計思想まで勝手に変えられることはないだろうか。問いはいくつも浮かんだが、どれも今すぐ答えを求めることではなかった。ブルー・メテオは今、自分の手の届かない場所にある。そう決まった以上、管理を任された者たちを信じるほかない。養父が遺した機体を取り戻すことだけが、これからの自分の役目ではないのだから。
『それから、機動六課の本部機能も一時的にアースラへ移すことになったわ。あの半壊した隊舎の復旧にはまだ相当な時間がかかるし、当面はあの大気圏外航行艦が私たちの拠点になる』
「了解」
不謹慎かもしれないが、敵の追撃や情報漏洩を考えれば、艦内への集約は最善の選択肢だった。ホークが短く応じると、ティアナは少し声音を和らげて言葉を続けた。
『それと……エリオ、それにスバルも今日無事に退院したわ。全員、ひとまず動けるくらいには回復したから心配しないで』
その一言を聞いた瞬間、ホークの頑なだった肩から、張り詰めていた力がふっと抜けた。
「……そうか」
『まだ無理はさせないけどね。順次アースラへ合流する予定よ』
「……よかった」飾らないその一言には、安堵が滲んでいた。
ティアナもその変化に気づいたのだろう、画面の向こうで小さく表情を緩める。だが、すぐにフォワードリーダーとしての厳格な瞳に戻り、ホークを見据えた。
『それで、今度はあんたの話よ』
「……あ?」
『ちゃんと休みなさい。なのは隊長たちの命令じゃないわ。これは私からの、ただの忠告』
思わず、ホークの唇から小さな苦笑が漏れる。
「分かってるよ。大人しくする」
少しだけ間を置いて、ホークは視線を下に向け、緩めかけたネクタイの結び目にそっと手を触れた。
「……色々、迷惑をかけたな。ティアナ」
それは、今まで決して口にすることのなかった静かな謝罪だった。
「もう、俺は大丈夫だ」だが、その言葉に、画面の向こうのティアナの眉がぴくりと跳ね上がった。
『……迷惑?』
一瞬だけ心底呆れたように大きな息を吐き出すと、ティアナはいつもの、少し気の強い口調で容赦なく言い返してきた。
『バカ言ってんじゃないわよ』
その凛とした響きが、ホークの耳を打つ。
『仲間がボロボロになって、傷だらけで帰ってきたら心配する。それがあなたにとって、そんなに迷惑なことなわけ?』
ホークは何も言い返せず、画面を見つめるしかなかった。
『あんたが一人で全部抱え込もうとして、勝手に苦しんでるのなんて、六課の全員がもうとっくに分かってるのよ。だから、今くらいは周りを頼りなさい』
ホークは画面の端を親指で押さえた。反論ならすぐにいくつも浮かぶ。自分が招いた危険があったことも、独断で動いたせいで仲間の判断を難しくしたことも、忘れたわけではない。心配をかけた事実をなかったことにするつもりもなかった。だが、ティアナが言っているのは責任を免れろということではない。責任を負うことと、誰の手も借りずに罰を受け続けることは違う。その区別を、彼は長い間、自分に許してこなかった。画面の向こうでティアナが黙って返事を待っている。ホークは唇を動かしかけ、出てきた言葉を一度飲み込んだ。言い訳を並べるより、今は彼女の言葉を受け取る方が難しかった。
ティアナの言葉は、まるで彼の頑なな心をこじ開けるようにまっすぐだった。
『私だって、スバルだって、なのはさんも、フェイトさんも、はやて部隊長も……誰もあんたを責めたりなんかしてない。だから、一人で勝手に背負い込まないこと。いい?』
そのひたむきな言葉を全身に浴びて、ホークは静かに目を閉じ、今度は自嘲ではなく、小さく、本当に穏やかに笑った。
「……耳が痛ぇな」
『痛いならちゃんと聞きなさい』
「はいはい」
かつて訓練場で軽口を叩き合っていた頃の、どこか懐かしい空気が二人の間に戻ってきたようだった。ティアナは肩の力を抜いて小さく息を吐く。
『それじゃ、またアースラで連絡するわ』
「ああ」
『しっかり休みなさい、ホーク』
「了解」
ぷつり、と通信が切れる。
画面が消え、再び静まり返った部屋に、いつもの静寂が戻ってきた。
だが、その空気は今朝目覚めた時のものとは、不思議なくらいに違っていた。冷たく埃っぽいだけの部屋に、確かに仲間の体温が残されている。
液晶の消えた端末をそっと机へ置くと、首元をきつく締めつけていた黒いネクタイをゆっくりと緩める。
一息つき、ふと顔を上げると、視線が自然とあの写真立てへ向いた。古びた木製のフレームの向こうで、生前のスティーブンが不器用な笑みを浮かべている。
「……また説教されたな」
ティアナとの軽口を思い出しながら、ホークは苦く笑った。当然、写真の男からの返事はない。
その横には、長年使い込まれて油の染みついた工具箱や、色褪せた作業用の帽子、角の擦り切れた整備マニュアルが置かれていた。読みかけのページには、細かな書き込みも残っている。押し入れの奥にはいくつもの段ボール箱が積まれたままで、目の前のすべてが二年前のあの日に引き裂かれたまま、時間を止めていた。
「……そろそろ、片付けるか」
誰へ言うでもなく呟く。その声には、もう以前のような迷いはなかった。
独りで復讐に狂っていた頃とは違う。もう、過去から目を背けて逃げる理由など、今の彼にはどこにもなかった。
養父がこの家に遺していったものと、一度くらい正面から向き合ってもいい――六課の仲間たちが、そう思わせてくれたのだ。
押し入れの戸を静かに開いた。何年も手をつけていなかった段ボールへ手を掛けると、隙間から埃が舞い上がった。一番上の箱を引き寄せ、経年劣化で茶色く変色したガムテープをゆっくりと剥がした。箱の中には、スティーブンが愛用していた管理局の制服や、使い古された整備用グローブ、手によく馴染んだ無骨な工具が収められていた。どれも幼い頃から見覚えがあるものばかりだった。
制服の襟には、洗濯を重ねても落ちなかった細い折り目が残っていた。グローブの指先は擦り切れ、掌には油が染み込んで黒ずんでいる。工具の柄には、長年握られてできた浅い窪みがあり、ホークの手にも不思議なほどよく馴染んだ。使い手がいなくなってから二年が過ぎても、物は持ち主の癖を残している。彼はレンチを手の中で一度回し、重心を確かめるように握った。幼い頃、工具を勝手に持ち出して叱られたことがある。スティーブンは怒鳴るより先に、どこを持てば安全か、力をどう掛ければ部品を傷めないかを教えた。最後に必ず、借りた物は元の場所へ戻せと言った。その声を思い出したホークは、レンチを箱の中の仕切りへ、きちんと収め直した。
ホークは一つひとつの品を確かめるように手に取り、必要な物、これからも保管する物、役目を終えて処分する物へと静かに分別し始めた。作業は淡々と進んだが、それは止まっていた時間を少しずつ動かす儀式のようでもあった。
そんな仕分けの最中だった。
箱の一番奥、重い工具の隙間に、他とは少し雰囲気の違うものが紛れ込んでいるのが見えた。
箱の底にあったのは、厚手の茶封筒だった。まだ一度も封が切られておらず、手をつけられないまま眠っていたらしい。怪訝に思って裏返すと、スティーブンの無骨で達筆な字で、ただ一言だけ宛名が記されていた。
――『ホークへ』。その文字が視界に飛び込んできた瞬間、ホークの手がぴたりと止まった。
「……なんだこれ?」
引き寄せられるように、何気なくそれを手に取った。指先に伝わる厚みからは、単なる手紙ではなく、別の書類か記録媒体が含まれている可能性も感じられた。親父が自分に遺した最後の言葉かもしれない。
だが――
「……いや」
ホークは小さく首を横へ振ると、かすかに震えそうになった指先に力を込めた。
今日はそこまで踏み込むつもりはなかった。まだ心の準備ができていないというよりは、今はまず、六課のフォワードとしてやるべきことを見据えていたからだ。
封筒を名残惜しそうに見つめたあと、ホークはそれを箱の一番奥、元の位置へと静かに戻した。
紙の表面には、保管中に擦れたらしい薄い跡があったが、宛名は少しも崩れていない。封を切るための糊も、まだ端まできれいに残っている。スティーブンは、これをいつ書いたのだろう。自分が家を出る前なのか、それとも別の事情で渡せずにいたのか。封筒の厚みからは何も判断できない。想像だけが勝手に先へ進み、胸の内にいくつもの答えのない問いを作っていく。ホークは封筒から手を離し、掌を膝へ押しつけた。今開けば、そこに何が書かれていても、今日一日をその言葉に支配されてしまう。墓前でようやく言葉にしたことも、ティアナから受け取った言葉も、まだ自分の中で形になりきっていなかった。
段ボールの蓋を閉じ、ガムテープを軽く留め直した。
「……続きは、また今度だ」
箱をそのまま押し入れの奥へと戻し、静かに戸を閉めた。
いつの間にか、窓の外からは茜色の夕日が差し込み始め、埃の舞う部屋をオレンジ色に染め上げていく。
相変わらず部屋には誰もいない。
それでも、今朝目覚めた時のような凍てつく孤独はなかった。
ホークは静かにソファへと腰を下ろし、ぼんやりと窓の外を眺めた。西の空は茜色に深く染まり始め、見慣れた街並みの輪郭を柔らかく包み込んでいく。あれほど息苦しく、自分を縛り付けていたはずの無人の家が、今は不思議なほど穏やかに感じられた。
墓前で交わした無言の対話も、ティアナから不器用につむがれた確かな信頼の言葉も、押し入れの奥で見つけた未開封の封筒も、そのまま胸に残っていた。一日という短い時間の中で、自分を構成していた何かが、少しだけ確実に変わったような気がした。
「……親父」誰もいない部屋へ、小さく呟く。
「まだ、終わっちゃいねぇよ」
視線を、机の上に置かれた携帯端末へと向けた。ティアナから知らされた六課の現状が、頭の中で明瞭に整理されていく。
ブルー・メテオはアースラへ移送され、エリオたちも無事に退院した。機動六課は、あの壊滅的な打撃から這い上がり、すでに再び動き始めている。なら、自分だけがいつまでもここで立ち止まっているわけにはいかなかった。
ジェイル・スカリエッティやナンバーズ、まだ牙を隠したまま姿を見せない敵たちもいる。敵は牙を研ぎ澄まし、必ずまた自分たちの前に現れる。その時は――。
ホークはゆっくりと、己の拳を強く握り締めた。以前までの彼なら、その拳はただ一人、憎き仇の首だけを見据えていただろう。黒い復讐の炎だけを燃料にして、すべてを壊し、すべてを焼き尽くすためだけに。
だが、今の胸中に灯る火は、それとはまったく違う色をしていた。
「捕まえる」ホークは低く静かな声に、揺るがない決意を込めた。
「今度こそ、全員残らず、全部だ」
スカリエッティを殺すためではない。もう二度と、大切な誰かに同じような地獄を味わわせないために、傷だらけでも愛おしい機動六課の仲間たちを守り抜く。そのために、自分はもう一度あの過酷な戦場へ這い戻る。
窓からふわりと吹き込んだ夕風が、机の上に置かれた写真立てを小さく揺らした。まるで額縁の向こうの男が、「それでいい」と不器用な笑みを浮かべて頷いたかのように。
ホークは静かに立ち上がった。部屋の灯りを落とし、窓の鍵を確かめてから玄関へ向かった。
休暇は、まだ数日残されていた。
だが、その間も彼は必要以上に外へ出ることはしなかった。痛んだ身体を休め、荒れていた家の掃除を進め、養父が遺していった膨大な遺品を少しずつ整理しながら、来るべき決戦の日に備えて牙を研ぎ、静かに時間を過ごしていく。
朝は窓を開け、部屋にこもった空気を入れ替えた。床を掃き、棚の埃を拭き、使わなくなった食器を洗う。身体に残った傷が動くたびに引きつれたが、無理に訓練を再開することは避けた。管理局の監視が続く以上、外へ出るには手続きが要る。自由に飛び回ることのできない時間を、以前のホークなら苛立ちだけで埋めていただろう。今は、その制限の内側で片付けられることを探した。作業を終えた箱には中身と保管場所を書き、処分する品は分けてまとめる。養父の物をすべて残すことが、養父を忘れない証拠になるわけではない。使い続ける物と、役目を終えた物を見極めることも、遺された側がしなければならない仕事だった。
あの茶封筒だけは、最後まで開かなかった。
これは今、開けるべきものではない。もっと先、すべての戦いに決着をつけ、自分が本当に過去と向き合うべき時が訪れたら、その時に胸を張って開けばいい。
そして、束の間の静かな休暇が、終わりを告げる。
再び自宅の前にやってきた管理局の迎えの車に乗り込み、ホークは管理局本局を経由して大気圏外航行艦アースラへ戻った。
鋼鉄に囲まれた新たな本部で彼を待っているのは、傷だらけになりながらも決して折れずに立ち上がった仲間たちと、まだ牙を剥き続ける終わりの見えない戦いだった。
この時のホークは、まだ知る由もなかった。遠くない未来、ジェイル・スカリエッティとの因縁に最後の決着をつける激戦の日、自分がバリアジャケットではなく黒い喪服をまとって戦場に立つことになるなど。
それは、亡き養父へと捧げる最後の報告となる、長き一日の始まりに過ぎなかった。