「――ぶん! 子分、起きるんだゾ」
自分を呼ぶ、声が聞こえる。
カーテンの隙間から差し込む朝日に、ゆっくりと瞼を開けた。
視界に映るのは、もはや一年近くの付き合いになる自分の相棒である魔獣こと――グリム。
シャルロッテは枕元に置いてあった眼鏡をかけた。
「まったく、子分のくせに、親分より遅く起きるなんて気合いが足りてねーんだゾ」
「ごめんなさい」
シャルロッテはおもむろに起き上がると、珍しく早起きをして誇らしげにする相棒に苦笑してみせた。
「おはよう、グリム。今日は早いのですね」
懐かしい夢を見ていた気がする。
ユルゲンシュミットの――故郷の夢だ。
グリムとの付き合いが一年になるとするならば、ここに来てからもう一年が経つということになる。
そう考えると、ずいぶんと長い間ここで過ごしているものだ、と思う。あまりにいろいろなことがありすぎて、あっという間の一年間だったけれども。
「朝の支度をしましょうか。朝食はツナサンドでいいかしら?」
「さっすが子分! すぐ食べるんだゾ」
「もう、あなたも手伝うんですよ」
*
エーレンフェストの領主候補生、シャルロッテ・トータ・エーレンフェストが何の因果かツイステッドワンダーランドに召喚されたのは、貴族院五年生の進級式があるその日のことだった。
より正確に述べるのならば、進級式を終えて親睦会に赴き、義姉ローゼマイン――アウブ・アレキサンドリアに挨拶に行く直前だった。
しかしそのとき突如現れた黒い馬車に攫われ――おそらく攫われたのだろう――気を失い、気が付けばナイトレイブンカレッジにいたのである。
――早い話で、あれからもう一年が経つ、というわけだ。
「お! よー、シャルロッテ。珍しくギリギリじゃん」
「おはよう、シャルロッテ」
「おはようございます。エース、デュース」
いつも通り一年A組の教室に入れば、ここに来てからすぐの付き合いであるエースとデュースが手を振ってくる。
近くに座れと手招きされたのでそうすると、「今日の魔法史小テスト、勉強してきた?」と尋ねられる。
「当たり前です。トレイン先生がテストをすると仰っていたではないですか」
「げーっ。まあお前ならそう言うと思ってたけどさ。デュースは?」
「僕は、その。昨日はすっかり寝落ちしてしまって……」
いつも通りのやり取りに、シャルロッテは苦笑を零す。
「そういうエースはどうなんだ」
「オレ? オレは見たい配信があったからさー」
「なんだ。お前も勉強してないんじゃないか。グリムなんか聞くに及ばずだし」
「なんだとー!」
たしかに、この世界の娯楽の豊かさといえば、ユルゲンシュミットとは比べ物にならない。コミックにテレビ、スマホ、ゲーム機――そして本。
義姉ローゼマインの発明した植物紙、それが使われた本が当然のように図書館いっぱいに収まっていると知った日は、激烈な――フェアドレンナの祝福を受けたと言ってもいいほどの衝撃を受けた。そしてこちらの歴史書を読み、こちらの世界で印刷を生み出したものが偉人とされているのを知ったときも。
きっと義姉も、ユルゲンシュミットの歴史に偉人として刻まれるのだろう、と思うと誇らしくなったものだ。
「シャルロッテは見た?」
「見ておりませんわ。予習をしていましたもの」
「うわー。真面目だなお前、ほんとに」
「エースが不真面目すぎるのでしょう!」
まあ、気持ちはわからないでもない。
初めはまったく慣れなかった電子機器に、この一年で随分適応した、と思う。オルドナンツよりも余程早く声を伝えることができ、手紙を渡すことができ、簡単に調べ物ができる道具。叔父フェルディナンドでも魔術で再現はできないだろうと思わせる精密なこのからくりは、なんと、魔術の力を一切使っていないというのだから驚きだ。
要は、文明がはるかに進んでいるのだ。歴史書を読むに、数百年から――下手したら千年ほど。
魔術を用いずとも、魔力を持たずとも、平民が便利に暮らせてしまう。ここは、そんな世の中。
けれども、家族を思わぬ日はない。
ここは、慣れてしまえば楽しい。娯楽と知識に満ちている。
便利な家電がたくさんあり、側仕えがいなくともそれなりに生活ができる。
服もそうだ。クルーウェル先生が、露出を嫌うシャルロッテのために調整してくれた制服も、品があるのに一人で着られる。食事も美味しい。義姉の料理人の作った食事を思い出す。
初めは身分問わず魔力を持つ者がいる、学校では身分など関係なく学ぶ、などには戸惑ったが――ここの自分はなんの後ろ盾もなく、貴族と証明もできない平民なのだと割り切ることにすれば、次第に慣れていけた。
この学園の生徒はことごとくが性悪で、ひねくれている。下品で怠惰で柄が悪い者も多い(この学園には王子も貴族も通うが、そうであっても柄が悪いのだ)。ユルゲンシュミットではシャルロッテが一生かかわることのなかった人種がたくさんいる。
だが、成人年齢が十八から二十というこの世界では、最年少の幼い少女(シャルロッテは十四歳だ)にはわりと親切だ。
そして皆、非常に優秀だ。特に上級生は。シャルロッテの知らないことをたくさん知っている。
しかし――寂しくもなる。
不安にもなる。
これから、自分はどうなってしまうのだろうと。
「どうした、シャルロッテ? 顔色が悪くないか」
「心配してくださってありがとう存じます、デュース。……少し、夢見が」
「ほーん? あれじゃね? シュラートラウムの祝福がなかった的な」
「やめろエース、祝福に眠りをかけるといろいろ思い出すだろ」
「ふふ、ええ、なかった的な感じですわ。
……、いえ……」
逆に、故郷の夢を見たということは、夢の神から祝福を与えられたのかもしれない。
――この世界は、ユルゲンシュミットとはひどく遠いところにあるようだ、とはマレウス・ドラコニアの言だ。
マレウスの『祝福』に包まれ、たくさんの夢を巡って大冒険をして。
けれどもシャルロッテは、『幸せな夢』を見なかった。
シャルロッテには、マレウスでも干渉できない魂の領域があるという。
それがユルゲンシュミットとの縁、神々の加護によるものあれば、納得がいく。
『うっすらとだが、感じる。お前を通して、遥か遠いどこかと繋がる偉大なる存在を』
『それが……ユルゲンシュミットの神々なのですか? わたくしは、その縁を通じて、元の世界に戻れるのでしょうか』
『それは僕にはわからない。だが、お前の存在が、この世界の生き物と性質が違うのは確かだ。
前にも言ったが、お前には強い魔力がある。だが流れが滞っているから、ほとんど使えない。せき止める何かがあるわけでもないのに、止まっているに近い。だが、完全に止まっているわけでもない……』
『魔力が……それは、わたくしが高みに……魔石に変わりかけているというわけではないのですか』
『魔力が石に変わるというのとは違う。そうだな、川は見たことがあるか』
『ええ、儀式で、領地を回った時に数度』
『そうか。お前は高位の貴族の令嬢だったな。……そう、その川が、なんの理由もないにもかかわらず、流れがひどく遅くなっている。それが今のお前の状態に近い』
『川が……流れが止まって……?』
『イメージするならばという話だ。お前の場合、何も理由が無いわけではなさそうだ。
喩えが難しいが、そうだな……、
糸だ。
お前に複雑に巻き付く糸が、お前の流れを止めている。僕にはそう感じられる』
――女神の糸だ。
シャルロッテは直感した。
時の女神ドレッファングーアの糸が、わたくしに絡みついている。
『シャルロッテ。お前、この一年で背は伸びたか』
『……いいえ』
『髪や爪は』
『……伸びて、いないと思います』
『やはりそうか。つまり、お前の肉体の時の流れ自体が滞っているのだろう。生きていくために必要な代謝以外は、遅れている。
この世界にいる限り、お前は――』
年をほとんど取らないだろう――。
「――シャルロッテ?」
「……いえ、なんでもありませんわ。
ほら、そろそろトレイン先生がいらっしゃいますよ」
「うーわ……」
「最後の足掻きに詰め込むか……」
学友たちが、のろのろと教科書を開き出す。
それを見ながら、シャルロッテは無言で自分の手のひらを見下ろした。
シュタープと唱えても、この手には何も出てはこない。
微量ながらも使える魔力があるということで与えられたマジカルペンで使えるのは、本当に簡単な祝福や、癒やしだけ。
神々との距離が遠くなってしまっているいま、シャルロッテの魔力はあまり意味をなさない。あの世界に帰れなかったとして、魔法士として働くのは難しいだろう。
何より自分は、歳を取らないらしい。
そうなれば、どこで生きていけばいいのだろう。
帰りたい。
だが、友と別れ難い、とは思う。
貴族にとっての友とは利用し合う関係を指す。常に親を意識し、身分を意識し、相手から利になる情報を得るための関係。貴族社会において、気兼ねない関係というのは貴重で、稀だ。
ナイトレイブンカレッジにおいての人間関係も多少その色はあるものの――ユルゲンシュミットよりは少なくとも対等で、身分関係ない、真の意味での『友』ができた。
しかし。
(お姉様……)
義姉の、そして、兄の目の前で消えてしまった。
シャルロッテは、義姉からもらった「姉妹の証」のペンダントを握りしめる。
きっと心配しているだろう。特にあの義姉ローゼマインのことだ、ひどく感情を乱しているに違いない。
(けれども、わたくしは、帰れたとしても)
アウブになれないどころか、領主候補生に留まれるかどうかも怪しいのではないか。
もはや、あれから一年が経つ。
貴族院での留年など、とんでもない瑕疵だ。いくら攫われたという事情があったにせよ、成人年齢が遅れて婚姻もままらないようになってしまっては――。
(この世界で学んだ知識を、持ち帰りたく思っても。
わたくしにそれを活用する機会が、果たしてどれだけあるでしょう?)
気が重くなる一方だ。
前の席から回ってきたテスト用紙を受け取り、シャルロッテはマジカルペンを握る。
インクにつける必要すらないこのペンひとつとっても、この世界の技術の結晶だ。
「はじめ!」
――駄目だ、集中しなくては。
シャルロッテは雑念を振り払い、目の前のテスト用紙に向き合う。