ようこそ不死鳥の舞う教室へ 作:Gemini&指示出す人間
高度育成高等学校に入学して初めての大きな試練となる一学期中間試験。その足音が間近に迫る五月の下旬。各クラスの生徒たちが焦燥感に駆られ、放課後の図書室やカフェテリアで必死にノートを広げる中、不士鳥リアヴェルは次なる眷属の籠絡に勤しんでいた──。
山村美紀という少女の人生は、常に分厚いすりガラスの向こう側にあった。
幼い頃から、彼女は極端に自己主張が苦手だった。声は小さく、存在感はなく、本能的に周囲の風景に溶け込むような「気配の遮断」を無意識に行っている。教室にいても欠席扱いされ、グループ分けではいつも余り、誰の記憶にも残らない。クラスメイトはおろか教師でさえも彼女を見失うことが多い。それが当たり前だった。いつしか彼女は、誰かに見つけてもらうことを諦め、透明な影として生きることに安らぎすら覚えるようになっていた。孤独は寂しかったが、認識されて傷つくよりはマシだったからだ。
この高度育成高等学校に入学してからも、その日陰の生活は変わらないはずだった。
だが、ここ最近、彼女の静寂に満ちた灰色の世界に、強烈な光が差し込み始めたのだ。
『こんなところにいたのか。探したよ、山村』
図書室の誰も来ない書架の奥。人気のない渡り廊下の隅。放課後の誰もいない中庭の木陰。彼女がどれだけ息を殺し、風景と同化して隠れようとも、不士鳥リアヴェルという金髪碧眼の規格外の少年だけは、まるでそこに咲く花を見つけるように、極めて正確に、そして当たり前のように彼女を見つけ出した。
毎日のように、彼女がひとりでいるタイミングを見計らって、彼は声をかけてきた。『今日は何を読んでいるんだ?』『外の風が気持ちいいな。隣、座ってもいいだろうか』甘く、どこまでも優雅な声。最初は酷く怯えた。からかわれているのだと思った。あるいは、何か裏があって利用されるのではないかと疑った。彼のような太陽のように眩しく、Aクラスの絶対的支配者として君臨する存在が、自分のような透明な人間に構う理由など一つもないはずだからだ。
しかし、リアヴェルは決して踏み込みすぎることはなく、ただ彼女の存在を「そこに在るもの」として認識し、穏やかな時間を共有してくれた。
(どうして……私なんかに、毎日……)
期待してはいけない。これは何かの間違いで、いつかまた自分は見えなくなり、忘れ去られるのだ。そんな長年の諦念が彼女の心にブレーキをかけようとする。だが、その葛藤を嘲笑うかのように、毎日与えられる彼からの温かな視線と声は、美紀の分厚い心の氷を確実に、そして甘く溶かし始めていた。
そして、五月下旬の放課後。
「——また、こんなところに隠れていたのか。美紀」
放課後の旧校舎。普段は誰も寄り付かない薄暗い階段の踊り場で、膝を抱えてひっそりと息を潜めていた山村美紀は、その甘く響く声にビクッと肩を震わせた。
「ふ、不士鳥、くん……」
彼女が顔を上げると、そこには窓から差し込む夕陽を背に受け、後光が差しているかのような錯覚さえ覚えさせる美男子が立っていた。
今日もまた、見つけてくれた。
その事実に、彼女の胸の奥で抗いがたい甘い痺れが走る。
「そんなに縮こまる必要はない。君のその静けさは、私にとってとても心地よいものだ」
リアヴェルは長い脚を優雅に運び、踊り場の床に座り込む彼女の隣へと腰を下ろした。
彼から漂う高級な香水の香りと、目眩がするほどの圧倒的な雄のオーラ。美紀は顔を真っ赤に染め、たまらず視線を泳がせた。
彼に惹かれていく自分を、もう誤魔化しきれない。だが、それでも長年染み付いた呪いが彼女の口を突いて出る。
「で、でも……私、不士鳥くんの隣にいるような、そんな価値のある人間じゃ……」
「まだそんなことを言っているのか。君は自分の才能を過小評価しすぎている」
リアヴェルは彼女の自虐の言葉を遮るように、その繊細な顎にそっと指先を添え、自分の方へと向かせた。逃げ場のない至近距離。美紀の揺れる瞳が、リアヴェルの魔性を帯びた碧眼に完全に捕らえられる。
「クラスの連中が君を認識できないのは、君が劣っているからではない。彼らの目が節穴であり、君の『気配を消す』という高度な技術に脳の処理が追いついていないだけだ。……私は君のその技術を、誰よりも高く評価している。君は私が作り上げる盤面において、なくてはならない存在だ」
「私なんかが、必要……なんですか?」
「そうだ。君は今のままでいい。無理に大声を出す必要も、愛想笑いを浮かべる必要もない。ただ、私の影として、私のためだけにその才能を振るってくれればそれでいい。君の存在意義は、この私がすべて肯定し、保証してやろう」
圧倒的な肯定。
これまで誰にも見つけてもらえず、自分は世界に必要のない透明な存在なのだと諦めかけていた少女にとって、リアヴェルの言葉は甘すぎる劇薬だった。
自分に自信がない彼女が最も欲していた「存在の証明」。それを、美しく、力を持つ絶対強者が与えてくれるのだ。
自分に向けられていた言葉は嘘ではなかった。この人は、私の孤独を、私の諦めを、すべて見透かした上で、それでも必要だと言ってくれる。
葛藤の末に張り詰めていた心の糸が、プツリと切れた。
「不士鳥、くん……っ」
美紀の目から、ポロリと大粒の涙が零れ落ちた。
リアヴェルは優しく微笑み、長い指で彼女の涙を拭うと、そのまま彼女の細い肩を引き寄せた。
「泣くことはない。君は特別な存在だ、美紀。私の言葉だけを信じ、私にすべてを委ねればいい」
「はい……私、不士鳥くんのために……あなたの、そばに……ずっと」
美紀はリアヴェルの胸に顔を埋め、その温もりと匂いに酔いしれるように目を閉じた。
戸惑いはすでに消え失せている。彼女の心を満たしているのは、リアヴェルに対する狂信的なまでの心酔と、彼なしでは生きていけないという恐ろしいほどの「依存」だった。
リアヴェルは彼女の背中を優しく撫でながら、悪魔の笑みを深く刻む。天才的な頭脳を持つ有栖とはまた違う、完全なる従属の精神。次の眷属として、彼女の心はほぼ仕上がっていた──。
そして、中間試験の前日。
1年Aクラスのホームルームが始まる前の教室には、独特の緊張感が張り詰めていた。
試験前の数週間、Aクラスの統治を任されている坂柳有栖からクラスメイトへ出されていた指示は「各自で試験勉強を進めること」という極めてシンプルなものだった。
優秀なAクラスの生徒たちはその指示に従い、各々が完璧な準備を整えてきた自負がある。
しかし、有栖が静かに教卓の前に立った瞬間、教室の空気は一変した。
「皆さん、おはようございます。明日からいよいよ中間試験が始まりますね」
有栖は杖をつくことなく、背筋を伸ばし、凛とした声でクラス全員に語りかけた。
彼女の口調は丁寧で落ち着いているが、そこには一切の反論を許さない絶対的な冷徹さが孕んでいる。
「これまで、皆さんには各自の裁量で試験勉強を進めるよう指示を出していました。優秀なAクラスの皆さんですから、基礎的な学力はすでに十分に仕上がっていることでしょう。……ですが、万全を期すために、私から皆さんへ『ささやかなプレゼント』を用意しました」
有栖が目配せをすると、クラスメイトの橋本正義が大量のプリントの束を抱えて立ち上がり、最前列から順に後ろへと配り始めた。
プリントを受け取った生徒たちの目が、次々と驚愕に見開かれていく。
「こ、これは……」
「ええ。皆さんの手元にお配りしたのは、過去数年分の高度育成高等学校の一学期中間試験の『過去問』と、その完璧な解答です」
有栖の言葉に、教室がざわめいた。
当然だ。この学校は徹底した秘密主義を貫いており、過去問が公式に配布されることなどあり得ない。それらを独自に入手しようにも、上級生とのコネクションが必須となる。
「坂柳……お前はこれを、どうやって手に入れたんだ?」
葛城康平が険しい表情で問いかける。
有栖はふっと口角を上げ、涼しい顔で答えた。
「私の独自の『情報網』を利用したまでです。2年生、および3年生の先輩方と少しばかり交流を深めましてね。彼らから快く提供していただきました」
もちろん、それはただの交渉ではない。有栖が悪魔の魔法である「記憶操作」と「精神支配」を用いて、上級生たちを自我のない『お人形』に変え、強引に手にしたものだ。しかし、魔法の存在を知らないクラスメイトたちからすれば、彼女の背後にある不士鳥の力か、あるいは彼女自身の恐るべき交渉術の賜物としか見えない。
「分析した結果、この学校の中間試験の傾向は過去数年間、全く同じ内容が使い回されていることが判明しています。つまり、皆さんの手元にあるそのプリントの内容を暗記するだけで、満点を取ることは極めて容易です」
生徒たちの顔に安堵と歓喜が広がりかけた。
これならば、他クラスに後れを取ることは絶対にない。
しかし、有栖の次の言葉が、そのぬるい空気を一刀両断にした。
「喜ぶのはまだ早いですよ。これだけの準備期間があり、さらに試験前日という絶好のタイミングで、勝利への最短ルートを提示しました。……これらを踏まえた上で、皆さんには一つの条件を課します」
有栖は冷ややかに目を細め、教室内を見渡した。
「明日の中間試験。Aクラスの生徒は、全科目において『最低でも95点以上』を獲得してください。もしも、これだけの条件が揃っていながら95点を下回るような無能がいた場合——」
彼女の声が、教室の温度を数度下げる。
「——その方は、Aクラスにおける自身の存在価値がないと自己証明したことになります。不士鳥リアヴェルくんの庇護下から外れるだけでなく、今後三年間、Aクラスの『最底辺』として、他の生徒のための雑用やポイントの搾取対象として生きていく覚悟をしてください」
静まり返る教室。
ゴクリ、と誰かが唾を飲み込む音が響いた。
「な、95点以上……!? いくら過去問があるとはいえ、ケアレスミス一つで下回る可能性もあるんだぞ!」
「ええ、その通りです。ですから、ケアレスミスすらも許さない『完璧な自己管理能力と実行力』を求めているのです。ここは実力至上主義の学校。与えられた盤面で完璧な結果を出せない駒は、必要ありません」
有栖の無慈悲な通告。
試験前日に過去問を渡したのは、優しさなどではない。彼らに「絶対に逃げられない言い訳不可能な状況」を作り出し、精神的な重圧の中でどれだけ正確に命令を遂行できるかを測る、悪魔の女王による残酷なテストだったのだ。
教卓に立つ有栖を眺めていたリアヴェルが心のなかで拍手を送った。
(素晴らしい。アメとムチの使い分け、退路を断っての精神的な支配。有栖、君のクラス運営は実に悪魔的だ)
「何か質問はありますか? なければ、今日は死に物狂いでその過去問を脳に叩き込んでください。皆さんの『実力』を信じていますよ」
有栖の言葉に反論できる者は、もはやAクラスには一人もいなかった。
葛城も、戸塚も、他の生徒たちも、全員が青ざめた顔で手元の過去問を握り締めている。
そして、教室の隅。山村美紀だけは、配られた過去問を見つめながら、リアヴェルに褒められた自らの才能を証明するため、決して彼を失望させまいと、密かに暗い炎をその瞳に宿していた。
不死鳥の悪魔と悪魔の女王が支配するAクラス。
彼らにとっての中間試験は、もはや学校側との勝負ではなく、自らの手駒たちを篩ににかけるための、血を吐くような忠誠心の確認作業でしかなかった。