ようこそ不死鳥の舞う教室へ 作:Gemini&指示出す人間
時計の針を少しばかり巻き戻そう。
それは五月の初め頃。各クラスに一学期中間試験の範囲変更が突然告げられ、多くの新入生たちが混乱と焦燥の渦に突き落とされた翌日の出来事である。
不士鳥リアヴェルの眷属として『悪魔』に転生した坂柳有栖は、その卓越した頭脳と新たに得た魔法の力を駆使し、すでに学校のあらゆる機密をハッキングしていた。
上級生を対象にした「記憶操作」の実験。その過程で自我を奪い、お人形に変えた数名の生徒たちから、有栖はこの学校における中間試験の絶対的な攻略法——すなわち『過去問の使い回し』という事実を容易く聞き出していた。
もっとも、学校側の不自然なカリキュラムや教師の言動の端々から、彼女の脳内ではすでに「過去問の存在」という答えには辿り着いていた。
お人形たちからの聴取は、あくまで念のための裏取り作業に過ぎない。
しかし、有栖の思考は「Aクラスだけが過去問を手に入れて満点を取る」という生温い防衛策では終わらなかった。
この実力至上主義の箱庭において、他クラスの有象無象がいずれ過去問の存在に気づくのは時間の問題である。ならば、彼らがその事実に気づき、行動を起こす直前のタイミングで、すべての希望を根こそぎ刈り取ってしまえばいい。
「ふふっ。人間は、間違った地図を信じて歩き続けるときが一番滑稽ですからね」
誰もいない廊下を歩きながら、有栖は一人、冷酷な笑みをこぼした。
彼女がこれから実行しようとしているのは、学校のルールを逆手に取った、悪魔の女王にふさわしい悪辣極まりない策略だった。
その日の午前中の授業時間。
有栖は1年Aクラスの教室にはいなかった。彼女は担任である真嶋にポイントを支払い、正当な『公欠権利』を買い取っていたのだ。
1年生の全生徒が教室で授業を受けているこの時間帯、廊下を自由に動き回れるのは有栖ただ一人である。彼女が向かったのは上級生のフロアだった。
有栖の手元の端末には、莫大なプライベートポイントが記録されている。
彼女は度々、上級生たちが開催している「賭博」——ポーカーやブラックジャックが行われている溜まり場や、賭け事の成立する部活動へと単身で乗り込んでいた。
結果は言うまでもない。天才的な確率計算と心理掌握、そして悪魔の力までもを手にした有栖にとって、人間相手のイカサマも真剣勝負も児戯にも等しい。彼女は容赦なく対戦相手のポイントを根こそぎむしり取り、莫大なポイントという資金を自力で調達していたのだ。
コンコン、と。
有栖は2年Aクラスの教室の扉をノックし、静かに扉を開けた。
「……ん? 1年生、か?今は授業中だが、何用だ?」
教壇に立っていた教師が怪訝な顔で有栖を見る。
教室にいる2年生たちも、突然の珍客にざわめいた。
有栖は全く臆することなく、背筋を伸ばして教室の中へと足を踏み入れた。
「突然の訪問をお許しください。私は1年Aクラスの坂柳有栖と申します。……先生、このクラスの授業時間を『5分間』だけ、私に売っていただけないでしょうか」
「時間を売る、だと?」
「ええ。学校のルールにおいて、ポイントで買えないものはないと伺っています。この場をお借りするための対価として、相応のポイントをお支払いします」
有栖が端末を操作すると、教師の端末に着金のアラートが鳴った。
額面を見た教師は僅かに目を見開き、そして息を吐いて教壇を譲った。
これもまた、実力至上主義の学校ならではの狂った光景である。
有栖は教壇に立つと、ずらりと並ぶ先輩たちを見渡し、丁寧な口調で語りかけた。
「先輩方、お勉強中にお邪魔をして申し訳ありません。本日は皆さんに、ささやかな取引を持ちかけに参りました」
彼女は懐から、一つのUSBメモリを取り出し、教卓の上に置いた。
「単刀直入に申し上げます。今後、私たち1年生の中で、Aクラス以外の生徒——すなわちB、C、Dクラスの誰かが、先輩方に『中間試験の過去問を譲ってほしい』と接触してくるはずです。その際、本物ではなく、このUSBに入っている『偽物の過去問』を彼らに渡していただきたいのです」
「……は?」
「偽物の過去問……? お前、何を言っているんだ?」
2年生たちが困惑の声を上げる。
有栖の用意した偽物の過去問は、極めて巧妙に作られていた。
出題傾向を微妙にずらし、元の数字を一つだけ書き換え、暗記すればするほどに本来の内容から遠ざかっていくという、悪意の結晶のような代物である。
これを信じて丸暗記した生徒は、本番の試験で確実に赤点を叩き出すことになる。
「もちろん、ただ働きをお願いするつもりはありません」
有栖は微笑みを崩さず、言葉を続けた。
「この依頼を引き受けてくださる対価として、今この場で、クラスに『10万ポイント』を寄付いたします」
10万ポイント。その具体的な数字が出た瞬間、2年生たちの空気が揺らいだ。
教室の四隅には監視カメラが作動している。だからこそ、有栖はこの要求を「正当な取引」という建前でコーティングする必要があった。
しかし、いくらポイントがもらえるとはいえ上級生からすれば高々10万ポイント。個人であればともかく、クラス単位で見ればささやかなポイントのために、後輩を破滅させかねない悪辣な罠へ加担することに対して良心の呵責や警戒心を抱く生徒も当然いる。
(——ええ、普通なら断るでしょうね。ですが、今の私の前ではその『普通』は通用しませんよ)
有栖の銀色の瞳が、微かに魔性の光を帯びた。
彼女の体内から、不可視の魔力が波紋のように教室全体へと広がっていく。悪魔の『暗示』。人間の脆弱な脳波に直接干渉し、認識を強制的に書き換える魔法である。
「……私の話を断る理由はありません。そうですよね?」
有栖の声は、先ほどまでの丁寧な響きの中に、抗いがたい呪縛の力を孕んでいた。
「これもまた、学校が定めるクラス対抗戦の戦略の一つです。後輩たちに甘い顔をして本物を渡すよりも、罠を仕掛けてこの学校の厳しさを教えてあげるほうが、彼らのためでもあります。何より、皆さんのクラスはノーリスクで10万ポイントを得られる。これほど楽な取引もないでしょう」
「……」
「……あ、ああ。確かに、そうだな」
「戦略の一つ……そうか、何もルール違反じゃない。俺たちに損はないし、むしろタダ同然でポイントが手に入るんだから、断る理由がない」
暗示にかかった生徒たちの瞳から、疑念や罪悪感が綺麗に消え去った。彼らの脳内では、有栖の異常な要求が「極めて真っ当で合理的な提案」として完全に処理されてしまったのだ。
「ご理解いただけて嬉しく思います。では、契約成立ですね。USBを置いておきますので、後輩たちが釣れた際には、どうぞよろしくお願いいたします」
有栖は深く一礼し、送金手続きを済ませると、悠然と2年Aクラスの教室を後にした。
かかった時間は、ちょうど5分。監視カメラの記録には、下級生が上級生へポイントを対価に情報の受け渡しを依頼したという、ルール上何の問題もない映像だけが残された。
その後も、有栖の悪逆非道な行軍は止まらなかった。
2年Bクラス、Cクラス、Dクラス。さらには3年生の全クラスへ。
彼女は教師たちへ数万ポイントずつを支払い、各クラスの授業時間をわずかにずらしながら5分間買い取り、すべての教室で全く同じ手順を繰り返した。
圧倒的な資金力。
監視カメラを欺くための論理武装。
そして、一切の違和感を持たせない悪魔の『暗示』。
有栖がすべてのクラスを回り終え、誰もいない静かな廊下を歩いているとき、彼女の口元には極上の芸術作品を完成させたような、深く残酷な笑みが刻まれていた。
「これで、完了です」
完全なる無法。
B、C、Dクラスの生徒たちが、焦りに駆られて上級生へ過去問を求めに走ったとき、彼らが手にできるのは、すべて有栖が作成した『毒入りの林檎』だけとなった。彼らは勝利を確信しながらその毒を煽り、本番の試験で自ら破滅の淵へと身を投じることになるのだ。
「リアヴェルくんと私の覇道に、無駄な障害は不要ですから」
有栖は窓の外、青い空を見上げながら、主であるリアヴェルの顔を思い浮かべた。
彼が望むなら、自分はどこまでも残酷になれる。この学校のルールなど、彼女の知略と魔法の前では、ただの踏み台に過ぎないのだ。
かくして、他クラスの生徒たちが全くあずかり知らぬところで、一学期中間試験の勝敗は、悪魔の女王の悪辣なる無法によって、すでに決定づけられていたのである。