ようこそ不死鳥の舞う教室へ   作:Gemini&指示出す人間

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第十九話「不死鳥と新たな眷属」

 高度育成高等学校を包む湿り気を含んだ梅雨の空気が、生徒たちの日常を少しずつ鬱屈とさせていた。しかし、山村美紀の胸の中を占めていたのは、天候の不快感などではなく、死線にも似た強烈な緊張と、背筋を氷のように冷やす巨大な「不安」だった。

 

(ど、どうしよう……どうしよう……っ)

 

 放課後。誰もいなくなった夕暮れの廊下を、美紀は自身の足音すら消すような慎重な足取りで歩いていた。

 手に握りしめた小さなメモ用紙。そこには、リアヴェルから直接渡された、彼の学生寮の部屋番号が整った筆跡で書かれていた。

 

『今日の放課後、私の部屋へ来るといい。夕食を一緒にどうかな? 大切な話があるんだ』

 

 昼休み、他人の目を盗むようにして耳元で囁かれたその言葉。彼のような絶対的な存在から食事に誘われた。本来であれば、彼に心酔し、存在のすべてを彼に依存し始めている美紀にとって、それは天にも昇るような歓喜の瞬間であるはずだった。

 だが、自己肯定感が極限まで低い彼女の歪んだ思考回路は、その甘美な招待を、最悪の方向へとねじ曲げて脳内で再生し続けていたのだ。

 

(大切な、話……? なん、だろう……。私、何か、取り返しのつかない失敗をしてしまったのかな……?)

 

 足が震える。

 心臓が早鐘を打ち、喉の奥がカラカラに乾いていく。

 

(やっぱり……やっぱり、私なんかじゃ駄目だったんだ。不士鳥くんは『必要だ』って言ってくれたけれど、あれはただの気まぐれで、やっぱり私みたいな透明で価値のない人間なんて、役に立たなかったんだ……)

 

 思考が、暗い水底へと際限なく落ちていく。

 中間試験では全科目100点を取った。彼に褒められたくて、彼の影として役に立ちたくて、必死に勉強した。……でも、試験の結果だけで彼の役に立ったと言えるのだろうか? 自分は相変わらずクラスで地味で、声も小さくて、何の取り柄もない。坂柳のような圧倒的な華も知性もない。

 

(もしかして……最初から、全部……?)

 

 ゾッと、全身の毛穴が逆立つような寒気が彼女を襲った。

 

(最初から……私を騙すための、壮大な仕掛けだったのかな……? 『見つけてくれた』のも、『必要だ』って言ってくれたのも、私みたいな哀れで愚かな人間を期待させておいて、最後に見捨てて絶望させるための……そういう、悪趣味な遊びだったのかな……?)

 

 一度芽生えた疑惑と恐怖は、彼女の脳内をあっという間に侵食した。

 もし部屋に入った瞬間、リアヴェルが冷たい目で自分を見下ろし、「君みたいな勘違い女、本気で私が相手にすると思っていたのかい?」と嘲笑ってきたら?有栖や他のクラスメイトが集まっていて、自分の愚かな期待を指さして笑いものにされたら?見捨てられる。追放される。また、あの誰にも認識されない、孤独で冷たい透明な暗闇へと突き落とされる。

 

(嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だッ! そんなの、耐えられない……! 死んだ方がマシだ……ッ!)

 

 泣き出しそうになるのを、唇を強く噛み締めて必死に耐える。

 逃げ出したかった。今すぐ走り去って、寮の自室の布団の中に引きこもり、誰の目にも触れない場所で消えてしまいたかった。

 しかし——彼女に「拒否」という選択肢は許されていなかった。

 山村美紀にとって、リアヴェルはすでに「唯一絶対の存在」であり、今の彼女のすべてなのだ。彼に命じられれば火の中に飛び込むことすら厭わないほどの彼女が、彼の呼び出しを突っぱねることなど、心臓を自ら止めるよりも不可能な芸当だった。

 人生で最高潮の緊張と、脳を焼き切るような葛藤を抱えたまま、彼女はついに男子寮のリアヴェルの部屋の前に辿り着いた。そして震える指先でインターホンを押す。

 ピンポーン、という澄んだ音が響き、次の瞬間、カチャリとドアのロックが解除された。

 

「入るといい、美紀。待っていたよ」

 

 中から聞こえたのは、相変わらず甘く、どこまでも優しいあの声だった。

 美紀は生唾を飲み込み、意を決して重い扉を押し開け、一歩中へと足を踏み入れた。

 

「失礼、し……っ」

 

——その瞬間。世界が、歪んだ。

 

「……え?」

 

 美紀の口から、驚愕の声が漏れる。

 目の前に広がるはずだった学生寮のワンルームは存在しなかった。足元に突如として展開されたのは、真紅と黄金の眩い光を放つ幾何学的な模様——魔法陣。三半規管がぐにゃりと歪む強烈な浮遊感。空間そのものが切り取られ、別の次元へと強制的に跳躍する感覚。

 

「ひやあぁぁぁぁっ!?」

 

 光が収まったとき、美紀は腰を抜かして床にへたり込んでいた。

 そこは、天井に巨大なクリスタルシャンデリアが煌めき、足元には毛足の長い豪華なペルシャ絨毯が敷き詰められた、見たこともないほど豪奢なラウンジだった。

 

「驚かせてしまったね。大丈夫、落ち着いて」

 

 背後から響くリアヴェルの声。彼が優雅に指を鳴らすと、ラウンジの奥のソファに腰掛けていた銀髪の少女が、上品に紅茶のカップをソーサーに戻した。

 

「ようこそおいで下さいました、山村さん。お待ちしておりましたよ」

 

 坂柳有栖である。

 彼女は優雅に立ち上がり、穏やかな笑みを美紀へ向けた。

 

「さ、坂柳、さん……!? え? ここ、どこ……? 私、どうして……っ!?」

 

 パニックに陥り、呼吸を荒くする美紀。リアヴェルは彼女の傍らに寄り添うと、その華奢な肩に優しく手を置き、彼女の目を覗き込んだ。

 

「大丈夫だ、美紀。君を害するつもりも、嘲笑うつもりもない。ここは人間界における私の私邸だ。……君に、この世界の『真実』を教えるために連れてきた」

「せ、世界の……真、実……?」

 

 そこからの小一時間、山村美紀のちっぽけな世界観は、完全に粉々に打ち砕かれ、再構築されることとなった。

 リアヴェルと有栖の口から語られる、神、天使、堕天使、そして『悪魔』の存在。不士鳥財閥の真の姿。リアヴェルの本当の家名である『フェニックス』。そして何より——リアヴェルが背中から噴き出させた、恐ろしくも美しき、太陽を想わす『炎の翼』。

 

「そんな……魔法……悪魔……っ!?」

 

 目の前で展開される常識外れの超常現象に、美紀は言葉を失っていた。

 しかし、坂柳が自身も悪魔の『女王』として転生し、生まれつきの心疾患を完璧に治癒させたという事実を聞かされた時、美紀の瞳には全く別の光が宿り始めた。

 

(……私は、騙されていたんじゃない。捨てられたんじゃない……。不士鳥くんは、私を本当に……こんな凄い場所にまで連れてきてくれたんだ……っ!)

 

 胸の奥で膨らむ、狂おしいほどの歓喜。自分を笑いものにするための罠などではなかった。彼は本当に、自分を特別な存在として認め、彼の『世界』へと招き入れてくれたのだ。

 炎の翼を収めたリアヴェルが、美紀の目の前にゆっくりと腰を下ろした。

 彼の手に、真紅の魔法陣を通じて、一基の漆黒のチェスの駒が出現する。

 馬の頭を模した、重厚な輝きを放つ『騎士(ナイト)』のイビルピース。

 

「美紀。君をここへ呼んだ理由は一つ。君に『選択』をさせるためだ」

 

 リアヴェルの碧眼が、魔性の光を帯びて美紀を射抜く。

 

「君はこのまま、人間のまま生きていくこともできる。誰にも気づかれず、存在感を消したまま、平凡で矮小な人間としての寿命を全うする道だ。それも君の人生だ、私は止めない」

 

 リアヴェルは駒を提示しながら、甘く、抗いがたい悪魔の選択肢を突きつけた。

 

「だが——もし君が望むなら。私のこの『ナイト』の駒を受け入れ、悪魔として新生するといい」

「私、が……あ、悪魔に……?」

「そうだ。君のその神業とも言える『気配遮断』の才能を、悪魔の力で何倍にも引き上げ、私のために振るうのだ。人間の寿命や限界を捨て、私の『影の刃(ナイト)』として、永遠に近い時を私の傍らで生きていく道だ」

 

 リアヴェルの言葉が、美紀の全身を駆け巡る。

 人間のまま、誰にも認識されない暗闇の中で生きるか。

 それとも、悪魔となり、彼のためだけの「特別な影」として、永遠に彼に寄り添い続けるか。

 答えるまでもない問いだった。

 自分に存在意義を与えてくれた人。孤独な世界から引き上げてくれた神。今の山村美紀にとって、リアヴェルのいない人生など、死んでいることと同義だったのだから。

 

「ふ、不士鳥くん……っ!」

 

 美紀は床に両膝をつき、リアヴェルに向かって激しく頭を下げた。彼女の目から、今度は溢れんばかりの歓喜の涙が零れ落ちる。

 

「私を……私を、あなたの悪魔にしてくださいッ! 私を、あなたのためだけの影にしてくださいッ! 永遠に、生涯を、私のすべてをあなたに捧げますッ……!」

 

 迷いのない、狂信的なまでの誓い。

 リアヴェルは満足げに目を細め、不敵な笑みを深めた。

 

「素晴らしい返答だ、私の可愛いアサシン」

 

 リアヴェルがナイトの駒を彼女の胸元へと差し込むと、真紅の光が美紀の全身を包み込んだ。

 身体を突き抜ける膨大な魔力。細胞が組み替わり、人間の脆弱な肉体が、強靭で俊敏な悪魔の肉体へと昇華されていく。彼女が持つ「気配を消す」という才能は、悪魔としての魔法が加わることでより完全な『不可視』の領域へと近づいていく。

 光が収まり、山村美紀はゆっくりと立ち上がった。

 その瞳には、かつての怯えや迷いは一切なく、絶対的な主への揺るぎない忠誠に満ち溢れていた。

 

「ふふふ。山村さん。いえ、美紀さん。ようこそ悪魔の世界へ」

 

 有栖が手を叩いて祝福する。

 山村は有栖に向かって深く一礼し、そして主であるリアヴェルの前に恭しく片膝をついた。

 

「えっと、不士……り、リ、リアヴェル、様。……山村美紀は、あなたの命ずるままに、生きることを誓います」

 

 不死鳥の悪魔のもとに、女王に続く第二の眷属——最強の暗殺者が誕生した瞬間だった。

 人間界の小さな箱庭を喰らい尽くす悪魔の陣営は、着実に、そして完璧にその牙を研ぎ澄ませていくのだった。

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